題名は、壞了士兵的 参軍囘憶記
私なりに満文式に綴って見ましたので、私なり和訳すれば 「駄目兵隊の從軍囘想記」とでもなりますか とに角内容の 貧弱さを題名で何とか偽装しやうかとした苦肉の策であります。
文中 誤字 当て字 脱字等 又句読点無き為 読みづらい事と思いますが 御辛抱の上 御判読ねがいます 印刷謄写のボケも多々ありますが ボケ老人の手仕事につき 御容赦願います
人は夫々に家庭や四囲の環境等の如何に依って 曾て経て来た 青春時代に多少の差こそあれ 其の時代が正に人生を謳歌し得た 素晴らしい時代では無かったらうか 僅かの人の例外はあるに しても 家庭維持の責任が無かった 長い社会生活の無経験に 依る自由奔放さ 將来に対する怖さ不識等々 其処には 大いなる夢を抱き 限り無い希望に燃えた 若い躍動に満ち満ちた 血潮が滾ってゐたに相違無い
曾ては遠く日清日露の両役に 戦勝した旭日隆昌の時代に生きた青年は 「乃公出でずんば蒼生を如何せん」との壮士風的気概に燃えたであろう 大正から昭和の初期に掛けては所謂 大正デモクラシー時代に 生きた青年は欧米の自由主義思想の到来に刺戟され 旧弊思想 打破に青春を打ち込んだであらう
昭和に到り 満州事変以降 殊に2.26事件(昭和11年2月26日 皇道派青年將校のクーデター事件) 引き続く昭和12年7月7日発生の支那事変等の硝煙の臭いに 麻痺された時代に少年期 青年期を迎え且送った私達の世代は 戦争一辺倒に傾いた国防色一色の軍国思想に青春の血が躍動した 時代であった 何とも勇ましくもあり 盲者蛇に怖じずの時代であった
今にしてあの時代を或る者は暗黒の時代であったと謂う 或る者は 民主主義時代到来えの模索の時代であったと謂う 又或る者は 亜細亜に在った欧米等の強国の植民地解放と独立に手を差し伸べた 後世 世界史に燦然として残る時代であったとも謂う
人に依って 夫々の観方 考え方である 甲を善として乙を悪として(その反対もあり) 其れ等の論を批判する事も 又結構な事と思う だが私は其の硝煙の臭いを嗅ぎ乍ら若かった青春時代を経て来た 其の時代の為政者の政治の在り方を此処に於いて論じやうとは思は無い その青春時代が私にとっては 今の世(元禄時代以上の太平の世であり 享楽の度を超えた世)よりも より以上に素晴らしい時代であった 衣食足らざるも そこには厳然とした礼節思想が堅持されてゐた 總てに節度が有った 拝金主義は存在しなかった 協同性に欠ける 者は世間が之を許さなかった マイホーム型(悪い意味に於いての) の個人主義思想は勿論なかった
私は可成り早い時期から 其の青春時代の体験の一部を記録したい希望はあったが 復員後は生活に追はれ 心を落ち付けて記録を纏める余裕は無かった 昭和57年12月8日は虚しく歳月ばかりを重ねて来て仕舞ったが 人並みに還暦を迎えた日であった 私は母に私の生まれた時刻を 尋ねて見たが 80才を越えた老母の記憶はうすれてゐた 無理からぬ事である 多分夕食後の頃であったと云う事であった 還暦を迎えた日の母の云った時刻頃を見計らって 此の原稿を書き出した 書いては破り 書いては破りの連続で何とか素稿らしいものの 出来上がったのは2ヶ年を経た後の事であった
内容は御判読 頂ければ御理解される如く青春時代を過ごした軍隊生活の總てである 今の世代の若い人達には到底想像すらも及ばぬ事であらう 厳しい軍律に規制された女人禁制の男だけの相当以上に荒っぽい 社会である それが軍隊或いは兵営と云う処であった 其処では 道理も理窟も絶対に罷り通る様な 生易しい処では無かった 無理偏に殴打蹴と書く兵隊の園であった 其処では個人プレーは 絶対に許されなかった 飽く迄も集団協同の連帯性ある責任行動の 教育の場であった その様な環境に在って辛苦を倶にした 特に同年兵(入隊した年月日の同一の戦友)は誰よりも最も信頼の 出来る遠慮無用の誼が萌芽した それは現在に到るも連綿として 続いている
いざ記録を書き出しては見たが 其処には茫々40年に垂々とする 不帰の過去の事である 併せて脳細胞減少に據る老化現象の為 記憶薄れと記憶の全く蘇がえら無い事が数多くあった タイムトンネルを抜け出る事は至難であった 其の為に恩ある数々の 元上官の氏名を忘却してしまったことである 途中で幾度か筆を 折らうと思った 其の度に戦友 佐藤 昌徳(初年兵時の同内務班の劣等兵仲間 現在札幌市白石区在住)君 高橋 恒助(石頭憲兵派遣隊当時の上級戦友、旧姓 福田 現在 秋田県 平鹿郡 増田町 在住)君 清水 ハツノ(石頭憲兵派遣隊 班長 故 清水 勇氏 未亡人 現在 栃木県安蘇郡田沼町在住)氏 等々に励まされ そして書き上げたのが拙い此の記録である
記して感謝の意を表する次第であります
記録は正確なるを以て その本来の主旨に在りとして その心算を以て 記したが 余りにも遠い過去の出来事であり 多少の誤記は必ずあると思う 又は 日常会話に不充分乍らも或る程度まで懸命に勉強した満語であったが 終戦を境として今日に到るまで用いる機会に恵まれずにゐる内に その殆どを忘却して仕舞った それでも40才位までは覚えてゐたにも拘らず 老化の進んだ現在全く勉強しなかったと同様である事を何よりも悔いる
從って此の記事中に何ヶ所かの満語を記したが 当然誤りがある事と 存じます
以上の2点特に諒とされん事を希う
この文中に登場した人物中 氏名を秘匿し単にY.Kの如くに イニシアルを用いたのは実名を明かす事により当人の名誉に 差し支わるとの配慮であって 他意は無い
私は昭和18年初夏 本籍地門別村(現門別町)に於いて実施された 徴兵検査の結果 甲種合格であった 同年初冬 村役場村長室で 他の合格者と倶に 門別村長 菊池 貞(故人)氏より現役兵證書を 1人宛毎に伝達された(此の證書には 昭和19年3月10日午前9時 北部第五部隊に入営す可し の旨が記入されてゐた丈で 特に 在満要員の記入はされてゐなかった 札幌聯隊区司令部書紀の 記入漏れであったのか その辺の事情は不明であったが 後日入営した際に 他の聯隊区出身者の證書には明確に在満要員の 旨が押印されてあった)
村役場兵事係(後備役陸軍曹長 故人近野左衛門氏)は 「北部第五部隊と云えば 元の騎兵第7聯隊だ 併し今は騎兵は廃科になり 新たに捜索兵科が誕生してゐるから戦車に乗る様になるかも知れん」 と言った 当時私は機械と言えば自家で使用してゐた 3.5馬力の ヤンマー石油発動機より他に機械らしい物に接したことは無かった 果たして戦車兵が勤まるか否か大変不安であった
昭和19年3月に這入ると入営を祝って 村の青年団 短歌同好会 ハーモニカバンド 防空監視哨 小学校職員 部落会 悪友 親戚等の面々が送別会を殆ど連日の様に 或る日には2ヶ所から 招待され掛け持ちした事もある位に催して呉れた
その中でも一番 楽しくもあり愉快であったのは 門別女子青年団の面々が 門別小学校 裁縫室で催して給れた送別会であった 「男女7才にして席を同じうせず」の時代に大義名分が立派に成り立って 堂々と多勢の未婚のウラ若い美女群に囲まれ ほんのり女臭いの漂う宴 物資不足の折にも拘らず 彼女等の精魂を傾けた数々の手料理の 膳に就き 酌を受けるとあっては 正に入営兵冥利に尽きるもの これに過ぐるものはあるまい
娑婆でこれ等の人達に会えるのも これが最期と心得て 鰊漬け 干鱈 熊肉 鹿肉等を肴に ドブロクを鯨飲 且 痛飲 女性軍の舞踊 手踊 合唱 独唱等の 披露まであり宴は深更にまで及んだ 今以て印象に残るのは 「祇園小唄」の音楽に合わせての舞踊である 舞人が誰であったか 忘却したが 心に残る
いよいよ入営を明日に控えた 昭和19年3月9日朝 日高門別駅頭で 村長さんを始め多勢の村人 家族 親戚等に見送られて旭川へと出発した
親父は1年志願兵出身の後備役陸軍獣医中尉であった 戦没英霊の 村葬参列や 出征入営 凱旋兵等の歓送迎等の際には在郷軍人として 軍服着用で臨んでゐたが 私の入営の時には野良着姿で見送って呉れた 頑固一徹 普段でさえも滅多なことに笑顔など家族の者に見せた事のない 父の眼に涙が光ってゐた 鬼の眼にも涙であった
母は「多勢の他人様の前で涙を流すことがあれば お前は泣くであらう」 と言って国道への出口の処までしか見送って呉れなかった 私はそれで良かったと思った 母の涙を見たら私は必ず泣いたであらう
途中の駅で入営兵が続々乗り込んで来た 皆 明日は 旭川の夫々の 部隊に入営するものばかりだ その日の午後 列車は無事旭川駅に 到着した 同村からの入営兵は私を含めて6名であった 付添の村役場 兵事係に引率され旅館(場所、旅館名とも忘却)に投宿した
娑婆最期の夜である 入浴して夕食後 兵事係に案内されて旭川の遊郭街に赴いた 現世の想い出に英気を養えと申し渡され「突撃一番」なるゴム製品まで 支給された 遊ぶ金は用意して来たと言って金壱封(宿に帰ってから 調べたて見たら金10円也であった 大金であった 当時は郵便ハガキ 1枚が3銭であった)宛 渡された 見れば村長名で餞別では無く 「志」の一字が記されてあった 正に酸いも辛いも識り尽くした粋な計らい であった(当時21才の若僧であった私に粋な計らいである等の解釈力を 持ち合わせてはゐなかったが その事を理解出来る様になるまでには 年月を要した)
元気と勇気ある4名の者は兵事係を先頭に登楼した あとの2名(私の名誉?の為に特に断っておくが この2名の中の1名は 私である) 英気か鋭気かは判らぬが 養うことも無く童貞を守り 街頭の屋台で薯臭い焼酎を飲み乍ら オデンを摘んで宿に帰って寝た ウトウトして どの位経た頃であらうか ドヤドヤと音を立て乍ら勇気? のあった勇士等が帰ってきた 兵事係は床に就いてゐた私達2名を起こし 「全員入浴せよ 明日入営したら徴兵検査と同様に全裸で身体検査を 受けるのだから 特に男の大事な処は入念に手入れする様」命じた 勇気の無かった私達2名も娑婆最期の入浴と決めて再度入浴した
遂に入営の日が来た 兵事係に引率された私は 北部第5部隊の営門を 早目に這入り所定の位置に待機した (同村出身の後の5名は北部第3 部隊(歩兵科部隊)に入営の為 日高管内新冠村(現 新冠町)役場 兵事係(非常に元気の良い人であった 予備役陸軍伍長)の引率で 新冠村出身の入営兵と一緒に入営部隊に向かった)
定刻になり呼名点呼で1人宛 現役兵證書を提出し 入営の手続きを終了した 其処で兵事係にお礼を申し述べて別れた 入営当日は身体検査の上 新品の被服類の支給があった位で あとは特に記憶に残る様な行事は 無かった様に思う 身体検査の結果 即日帰郷を命ぜられた者 (姓の1字に横 或いは藤が付いてゐた様に記憶するが定かで無い)が1名ゐた 彼は悪い事でもした様に申訳無さそうにして営門を去った 私達は来年こそ 頑張って復た来いよと言って励ましたり慰めたりして見送った
私達は1ツ星の階級章を付けた軍服を着て是れで帝国陸軍軍人になった と言う実感は未だ湧かなかった 満州の部隊は乗馬部隊である事を この日聞かされておったので 当然騎兵刀を渡されるものとばかり 思い込んでゐた 既に長靴を支給されてゐたので これで軍刀を腰に 吊ったら さぞ 今流に言うなれば カッコイー イカス軍人姿になる であらうと想像しては悦に入っておった所が支給された兵器は 新品であったが 99式歩兵銃に帯剣も又99式のものであった以前は 騎兵及び輜重兵(特務兵を除く)は 二等兵と雖も刀を帯びたものである
旭川にゐた僅かの間は徒手教練 執銃教練の初歩的な練兵丈であった 満州の部隊からは既に満州第4392部隊要員宰領官として 武須少佐 以下の諸管が派遣されて待機してゐた 私達の中隊担当官としては 庄司曹長 清水 久保 の両軍曹の3氏であった
兵隊になったとは言え 新米の未だホヤホヤ 地方気分は全然抜けておらず 同年兵の相手を 君付けで呼び 己を僕と称しては度々 庄司曹長以下の下士官に 注意されたが 仲々軍隊式呼び方(呼び棄て)に馴染めなかった 無理も無い 軍隊に来るまでは全く 不見不識の者達ばかりであった 此の事は満州の部隊に到着して本格的に殴る蹴る 叩く等の シゴキ が厳しくなるまで直らなかった
北部第5部隊に滞在間は部隊の員数外 的存在で客分扱いの様なものであった 此の間毎日接している 庄司隊長以下の下士官達は良い人達であった この事は満州の部隊に 着いた以後も同様であった 私は軍隊とは案外楽な処であるかも知れぬと 早合点した 軍隊では殴る蹴る叩くは日常茶飯事であることを入営以前に 村の在郷軍人から聞かされてゐたので相当の覚悟はしてゐたのであるが 大分甘く視てゐた嫌いがあった 渡満後 満州第4392部隊 (捜索第171聯隊)第3中隊第1内務班(班長M軍曹 班付先任Y兵長(下士勤)) の激しい地獄の責め苦にも劣らぬシゴキが満を持して我々を オイデオイデをして一日千秋の思いで待ち構えて居る等と言う事は 全く想像し得ぬ処であった
いよいよ明日は渡満出発を申し渡された 3月14日 ハガキに限って 郵便物を差し出す事を許可された 私は母に宛てて書いた 結局は「元気で軍務に励んでおります 身体に御自愛下さい」式の 決まり文句の域を出ることは許されなかった 防諜上 余計な事を 記すことを厳禁されてゐた それでも母に便りを記した丈の事であったが 嬉しかった 葉書は庄司曹長に據って検閲された
入営に当たり最も心配した事は頑固一徹の親父のこと 母が相も変らず 苦労してゐるのでは無いかと言うことであった 明日は渡満出発と言う事で 午後はその準備で過ごした 不安と期待混合して緊張した為か深更に 及ぶも寝就かれなかった 私ばかりでは無かった様だ 併しそれでも 夜は静かに更けて行った
3月15日渡満の朝が明けた 昨夜の寝不足は全く意識に無かった 全員が起床ラッパの鳴る前に眼を覚ましてゐた 起床ラッパと同時に 跳ね起きた 此の日は早目に昼食を終り寝具の返納 舎内の清拭 整頓 終へて軍装検査があった 舎内の清拭 整頓と言っても渡満 要員の私達の宿舎は 雨天乗馬演習舎の馬糞臭い土間に寝台を 並べてあった丈の代用兵舎であったので 簡単 短時間に終った
正午前宰領官 武須少佐 抜刀指揮の下に 5日間世話になった 北部第5部隊の未だ相当量の雪の残る営庭を後にして 別れを告げた 衛兵所の直ぐ近くに 北部第5部隊長以下の幹部將校の見送りを受け 武須少佐の「頭右」の号令に依り敬礼を送った 僅か5日間の 仮の宿とは言え世話になった部隊であって見れば別れには 一抹の 感傷があった 営門を出て軍用道路を挟んで左手に広い練兵場が在り 又右手には北部第1部隊(第7師団司令部) 同2、3、4の各部隊 (歩兵科部隊)が続く その道路を駅に向かって行進した 左手の練兵場には我々と同様に3月10日各部隊に入営した者達が 此の日一緒に渡満する為に整列してゐた 我々の騎兵科と異なり 歩兵科部隊は遥かに多数であった 私達の騎兵科は3ヶ中隊 合わせて約180名の少数である 私達は旭川駅に到る途中 北海道 護国神社境内に整列し 先輩英霊に敬虔なる「捧げ銃」の敬礼を贈った
遅速の差はあるにしても何れは此の社に眠ることになるのだと思った 言い知れぬ感慨が一瞬身を過ぎり身の締まる思いがした 沿道に並んだ 多数の旭川市民の歓送を受け乍ら 旭橋を経て旭川駅に着いた 貨物専用引き込み線に応急仮設された プラットフォームに相当数の 車両が待機してゐた 私達の中隊はその中の1輛を配当され乗り込んだ 出発を前に予め達しされてゐた指示に從って軍装を解き網棚に整頓した 他部隊の者達も続々と乗車してゐた 此の列車が函館に着くまでは 鎧戸を含めて車窓を開ける事を厳禁された
16時を過ぎた頃に 発車を告げる汽笛が鳴り響き列車は静かに動き出した 軍用列車は 定期ダイヤの間隙を進行される為に 1駅で定時列車の運転を避ける為 相当の時間停車することが度々あった 車中でも「君」呼び「僕」呼び をしては屡々下士官連中から注意を受けた 別命あるまでは デッキに 行くな 車窓は開けるな等々命ぜられてはゐたが この様では車外の 様子は皆目不明である 矢張り気になるものであった
悪知恵は 自然に働くものである 列車厠に眼を付けた 此処だけは内鍵を掛ければ 完全に他からの掣肘外である 外の様子を知る為には絶好の場所である 別に便意を催さずとも厠に這入っては鎧戸を少しばかり上げては外の 様子を偵察した 列車の走行中や停車中に此所は何処と知らせる 同年兵の情報は全部がこの厠情報であった 引率の下士官連中も その事は充分承知してゐた様であったが 別に注意はされなかった
岩見沢駅に停車中一ツの賭けが行なわれた 別に金品を賭けたもの では無かった 「この列車は 函館線経由か 室蘭線経由か」 と言う事で 誠に他愛のないものであった 皆夫々の希望する線名の 方に賭けた 私は入営前 度々処用の為に 苫小牧に来た 苫小牧の見納めになるかも知れぬ征旅とあらば駅のプラットフォーム 丈でも良いから此の眼で確かめて置こうと言う事の外に 此処から 手紙を出す目的もあった
旭川を発つ前日葉書を出すことは許されたが 封書を出すことは許可ならなかった 私は旭川で便箋に書くことは 他人眼があるので控えてゐたが 手帖の数片を切り取って その両面 に細かい文字で母に宛てて密かに封書を用意して置いた どこで 投函するかが難題であった 私は室蘭線経由であれば必ず苫小牧駅で 停車すると確信してゐた
やがて列車は発車した 何れの線を経由するか 皆の関心はその事に収集した 厠情報を得やうとして多勢の 者が頻りに厠通いを行った 果たして私の賭は当たった 心中快哉を叫んだ それでも苫小牧に停車するまでは心は落ち付かなかった だが私の希望する様に列車は苫小牧駅に停車して呉れた 深夜であった
私は此処で手紙を出す事に非常の決心をした 命令を破り万一 その事が発覚した場合 抗命者の責を負わねばならぬことは充分意識した 平然と厠に赴いたが既に先客入室中と見えて戸は開かない 先客には 申訳無かったが 戸をノックしたら「オーッ」と言って直ぐ出て呉れた
駅員に投函を頼んだ 加藤芳男(芦別市本町)君が先客であった 「黙ってゐて給れ」と小声で言った 私は暗黙の諒解を眼で合図した 入れ代わりに私は厠に這入った 早速鎧戸とガラス窓を半分位開けた 丁度 其処に給水中の駅員がゐた 私は上衣の胸の物入れから 二ツ折りにした封書を取り出して必至の思いで 其の駅員さんに 投函を頼んだら案内 心易く引き受けて呉れた
私は旭川で支給された 誉(軍用煙草)1ヶを差し出し礼に受け取って欲しいと言った 駅員は「要らない」と言った 「頼みます」と合掌の仕草をしたら 「兵隊さんからもらうなんて済まないなー」と恐縮してゐた 私は早々に ガラス戸 鎧戸を閉めて厠から自席に戻った 良心に咎めるものがあった 幸な事に下士官連中が熟睡してゐてくれた事であった
心のモヤモヤが 急に晴れた(私はシベリヤから復員帰宅した其の夜 苫小牧から 母え宛てた手紙の件を尋ねたら大切に保存してゐて呉れた そして投函して 呉れた駅員さんからは 私が元気で出征して行った旨のハガキが寄せられ 其のハガキも一緒にして大切に保存してゐて呉れた 母はその駅員さんに お礼状を出して置いて呉れた事も知った 私は復員後健康の囘復した頃に 其の駅員さんに直接会ってお礼を述べやうとして苫小牧に出た折に 駅を訪れ駅長さんに其の訳を話して あの時の駅員さんの消息を訊ねたが あれ以来 相当の歳月を経て居るし 転勤もあり 現在は苫小牧駅に 在籍してゐないが 管理局の人事担当者に照合すれば 判る筈である 日日は掛かるが それで良ければ手配します との事であったので 照合方を依頼した 後日 囘答しますとの確約を頂いた 数日して 駅長さんから 大要次の様な便りを届けられた
「昭和19年5月応召し 南方海上に於いて名誉の戦死」をした事と 「御遺族は青森に居住」との旨であった
私は早速御遺族様に宛てて 其の旨を綴り当時のお礼と亡き駅員さんの 御冥福を祈る御悔状を贈った 私とは僅か2ヶ月程の違いの征旅で 後から戦地に赴いた者が然も洋上に於いての戦死とは! 親切にして 頂いた方だけに誠にお気の毒な事であった)
苫小牧出発後 仙台近くまでの事が津軽海峡を渡った事を含めて 私の記憶に蘇生しないのである 列車が仙台に着いたのは早朝黎明の 時刻であった様に思う 私は此の駅で私達を乗せた此の軍用列車が 東北本線経由であることを祈った 東北線経由であれば宇都宮駅に 必ず停車すると思ってゐたし 若しも停車する事無く通過して仕舞っても 良いと思ってゐた
宇都宮は私の生まれ育った地である 懐かしい 想い出の数々が包蔵された街である 征旅に発った者が生還を望む 事などは 叶えられぬ当時であって見れば 冥途の土産に是が非でも 宇都宮駅だけでも一眼見ておきたかった そして宇都宮の北方 那須野ヶ原に在る矢板の丘も今生の見納めにしておきたかった 私の小学生の折の恩師 黒崎虎男先生(小学校長退職 現在 宇都宮市操町にて80才で御健在)に躑躅の季節の日曜日に 2才年上の姉と共に躑躅の花見に連れて戴いた楽しく 懐かしい 思い出の地 矢板なのである
だが列車は非情にも常磐線を囘った 列車は水戸駅に停車した 此処は小学校6年生の初夏に 恩師 黒崎虎男先生に引率されて修学旅行に来た地である 偕楽園見学 阿字ヶ浦 大洗等での浜遊び 夜は大洗ホテル宿泊等の 楽しく懐かしい想い出に 死出の旅になるかも知れぬ征旅に しばし感傷的な気持ちになった 黒崎先生や常に餓鬼大將の座を 競い合った豊田仁一(現 宇都宮市本町にて 割烹 武蔵野 経営 戦時海軍征軍中 高松宮殿下専属 烹炊長勤務)君等の事が想い出された
此の付近から下関付近に到る間の事が全然記憶に蘇生しない 唯記憶に残るのは どこの駅であったか深夜にも拘らず 茶菓の 接待をして給れた親切な国防婦人会のあった事 加藤芳男(芦別市)君が 車中演芸会に於いて上衣を丸めて抱き乍ら一寸エッチは仕草をして 唄を歌った事に同年兵とは言い乍ら仲々なる度胸の持主だなーと 関心した事 丈である
私達は下関で下車し 其処の港から関釜連絡船に乗って釜山に 上陸するものとばかり思ってゐた 列車は下関の街中を走ってゐる のであるが仲々スピードを落さ無い オカシイなと思ってゐる内に 白昼であるにも拘らず 車内灯を點じに来た 下車準備の命令も無い その内に急に辺りが暗くなり数分後に急に窓外の景色が見えて来た 何の事は無い 関門海底トンネルを通過したのであった
九州の何れの港から乗船するのか皆の関心は集中した 博多 佐世保 長崎 鹿児島等々に意見は分かれた 庄司曹長以下の 下士官に尋ねて見たが分からぬと言う 私は佐世保であると主張した 理由は軍港であるし 輸送船護衛上最も便利である 從って佐世保以外は考えられない だが列車の終着駅は博多であった 私達を青森駅から運んで給れた列車を下車した 車掌さんと 列車に惜別の情が湧いた 車掌さんからは私達に「武運長久を祈ります」 と言って励まして給れた
乗船が終わり 軍装を解き 船室で寛いで ゐると この船室担当の船員がやって来て乗船中注意すべき事を達した 概略次の様に記憶する
以上の指示の後 早速救命胴衣着装の指導があった 此の指導中 船員は軍艦の護衛があるが朝鮮海峡對馬海峡等に敵潜水艦潜航ある やも知れず 又敵航空機攻撃の公算大なり 万一の際は船長以下船員の 指示に必ず從って頂き度い事等を指示された 私達は船員の話に 異常なばかりの緊張を覚えた その一方で死ぬ時は俺1人では無い 道連れもあると無理にも思うことにした その様に思い込むことに 依って少しでも気持ちを落ち着け様とした 今流に言うなれば 「赤信号皆んなで渡れば怖く無い」式の恐怖からの逃避希求的感情 なのであらうか? 夜間航海は行なは無い との事でその夜は 私達の乗船は 博多港内に投錨 私達は船内で1夜を明かすことになった 私達の命はもう全てを天に任す外に無かった だが時間の立つに 伴なって船中泊の我々は 敵潜 敵機の恐怖心は薄らぎ 庄司曹長の命令に依って 演芸会を賑やかに行なった
翌朝 夜は完全に明けたが空は曇天 風は強く 海は鉛色 波のうねりは 大きかった 船底からの機関の響が高くなった様である やがて出港を 告げるドラが鳴り渡った 此の船は今まで何囘も乗った事のある 青函連絡船に比べて小さい様に感じられた 船名は昌慶丸だった様に 記憶する
出港と同時に担当の船員が船室に来た 「船に酔は無い 自信の有る方は手を挙げる」様に言った 数人の者が挙手した 私も其の中の1人であった 「今 挙手した者には 交代で敵潜 敵機等の監視に立哨してもらいます 波を被るので立哨中は 外被着用の上頭巾着装 救命胴衣着用 軍手着装 甲板の鉄柱に 抱き着く事 さも無いと波に体を浚われ 海中に転落の憂のある事」 を注意された 折角忘れかけてゐた不安と緊張が再び襲い掛かった 果たして敵潜 敵機等の発見が可能であらうか 万一の際どの様に すべきか困惑した
交代で船室に戻った者は頭から波を被ったと見えて 外被はひどくズブ濡れになってゐた 何番目かに私の上番になった 庄司曹長に申告を行ない船員に誘導されて立哨位置に行き前番者の 申し送りを受けて立哨開始である シッカリと甲板の鉄柱に抱き付いた 波は遠慮無く甲板を洗った 巨大な波の襲来には船が大きな波の谷間に 引き込まれる様な恐怖と錯覚を度々覚えた 巨大な波に船は 翻弄されてゐる様であった 巨大な波は船腹を叩き付ける様にしては 甲板を洗い その度に体は海に浚い込まれる様であった 敵潜 敵機の恐怖よりも 巨波の恐怖の方が大であった 気が付いて見ると靴長靴の中に海水が流れ入り 一杯になってゐたが 靴を脱ぐ余裕等 全く無い 仕方無しに 交互に膝を曲げては 斜めにして海水を排出した 3月の玄界灘である 未だ未だ海水は 冷たく 濡れた軍手の為 手は凍える様であった 早く交代の来る 事を望んだ
船が巨大な波に押し上げられる度に進航方向の左手に 大きな島が見えた 船員が巡囘に来た 船員は訊ねもしないのに 左に見えるのが壱岐の島で 向こうに遠く霞んで見えるのが対馬である と教えて呉れた ヤット交代の者が上番して来た 待ってました とばかりに申し送りを済ませて船室に戻った 上衣はまあまあとして 略帽 軍袴 袴下 長靴 等何れも ズブ濡れであった 庄司曹長に「立哨中異常無し」を報告したら「御苦労 濡れた被服類 を脱ぎ スチームの上に干す様」言って慰労して呉れた
私は入営前に遠くは日露戦争 満州事変 支那事変 大東亜戦争等に 從軍した村の古老や在郷軍人等から玄界灘の波の激しさを何囘か 聞かされたものであったが 話半分と言う事もあるので 大分割り引いて 解釈していたが 此の航海で私の認識が大きく誤ってゐる事を恥じ入る 程に訂正しなければならなかった
広辞苑(岩波書店)には 「福岡県の北西方の海 東は響灘 西は対馬海峡に連なり 冬季風波の激しさで名高く 云々」と 記されており また「鳥も通はぬ玄界灘」と唄の文句にもある通りの 正に風波の激しさを此の航海に於て体験したのであった
先程 私と交代したばかりの者が船室に戻って来た どうしたのかと 思って尋ねて見たら「立哨中止」と船員が云うので戻ったとの事であった 立哨者の海中転落を憂いての措置であった 船が大きく揺れる度に 私達の体は船室の畳の上を縦に横に大きく滑った物が倒れる音もした 庄司曹長からは 小銃を傷付けぬ様 再三申し渡された 横波が船腹を叩く度に 船が割れ裂けんばかりに 異様な軋む音を 発した 船酔いで小間物を吐く者 吐盥を取り寄せるのが間に合わずに 通路に吐く者等が続出してゐた 連鎖反応であらう 酔は無い自信の あった私も遂にやって仕舞った 既に吐く物の無くなってゐた胃袋では あったが 空上げが続いた 全く苦しかった 敵潜 敵機来襲の 恐怖どころでは無くなった
どの位 此の様な状態が続いたであらうか 疲労の為か 暫くウトウト した様であった 不図気が付いて見ると気の精か船の揺れは峠を越した 様に感ぜられた 船特有の機関の音もハッキリと聞こえて来る様になった 此の頃になって「あと2時間位で釜山だ」と庄司曹長が言った 皆んなはホットした 気持ちの精か 船の揺れも先程までよりは 大分 オトナシクなって来た様であった
此の頃から ボツボツ起き上がる 戦友も増えて来た 誰がするとも無く吐く物の後片付けが始まってゐる 決して気持ちの良いものではない 仕方が無い 先刻まで 己の 胃袋に納めてゐたものでは無いか 其の始末の終る頃には 気持ちに 余裕が出て来たのか 「泣く子もダマル 関東軍の兵隊も台無しだなー」 等の冗談も出る程になった
船員がやって来た「本船は1時間程で 釜山に入港の予定です もう敵の攻撃を受ける心配はありません 船酔いで苦しむ人はあっても 死ぬ人はおりません あの揺れの激しい 最中に1度も顔をださなかったのはその為でした 甲板に出て新鮮な 空気を吸って来たら どうですか 直ぐに気分が良くなりますよ」 と言って立ち去った 庄司曹長の命令で 殆の者が甲板に出て 潮の香りのする空気を思い切り吸った 朝鮮半島が遥かに巨大な 姿で見える 釜山と覚しき街が見える 対馬は既に船尾の方に遥かに 眺める位置まで遠ざかってゐた 朝鮮半島南岸一帯は 大小無数の 島々の浮かぶ多島海域であるが それ等を眺めた記憶は失せた
庄司曹長の命に據って上陸準備の為に船室に戻った 上陸準備の 軍装を整えた後 船酔いの酷さも忘れ 一しきり雑談を交わした 船は港内に入り 静かに岸壁に停舶した いよいよ下船だ 曹長の 指揮に依って下船 広い波止場の指定された場所に整列 停車場 司令部員の下士官の案内によって 釜山駅の仮設プラットフォームに 着いた 私達を乗せる列車は既にホームに待機してゐた 既に辺りは夕刻になってゐた
朝鮮も日本領土とは承知してゐても 矢張り異国を感じさせるものがあった 駅の案内板には 日本文字と 一緒に独特の特徴がある音票文字 即ちハングルが併記されてあった 又現地人の鮮語に依る会話や服装等を見聞きしても矢張り異国を覚えた
朝鮮鉄道は国際標準規格の軌道間隔(1.435m)で日本内地の 狭軌(1.067m)よりは広軌の為に車内は幅が広くゆったりとしてゐたが 座席は板張りの3等車(1,2等車は布張り)であった 食生活の慣習の相違であらう 車内は強い大蒜臭を感じた 船で支給された昼食弁当は船酔いの為 食べなかったので釜山駅で 渡された夕食の弁当はキレイに片付けた
釜山駅では長時間滞留した 様に思うが 船内の疲れに據るのか何時寝込んだのか分からなかったが ぐっすり寝た様である 気付いた時には列車は走行中であった 戦友の 殆の者は熟睡してゐる様であった 列車が未だ釜山駅に停車中に 此の列車は果たして京城からどのコースを走って満洲入国するのかに 関心は集中した 此の時になっても未だ満洲の何処に行くのかさえも 引率下士官連中からは下達されてゐなかった 何人かの戦友が 庄司曹長に質問したが防諜上の配慮であらうか 明示を避けてゐた
当時朝鮮半島を縦断し 京城経由で満洲国に入国する鉄道コースは 2本あった 1本は半島西側(黄海寄り)を行き鮮領 新義州を経て 鴨緑江を渡って満領安東に到るもの あと1本は半島東側に寄って 日本海側に添い北上 朝鮮北部の南陽経由 豆満江(図們江)を渡り 満領 図們に到るもの 一般的には以上の2コーズであった
私は西側のコースを走って入満するコースに望みを掛けた そして 私達の駐屯する地が斉斉哈爾であることを願った
理由は満洲事変(昭和6年〜7年)後半期に私の生まれ育った宇都宮に 司令部を置く第14師団は 斉斉哈爾を中心に討匪戦に從軍した 北関東の健男児として勇戦したのであった 当時小学校3年生であった 私達全校生徒は先生に引率されては連日の様に沿道に並んでは 師団の出征を 日の丸の小旗を打ち振り軍歌を歌っては歓送した ものであった その分丈 イヤな勉強時間からの解放される楽しみもあった 次いで 翌昭和7年 葉桜の候も過ぎた頃 満洲事変に從軍した 師団は戦捷の錦を飾って 房だけの残る戦功の聯隊旗(軍旗)を先頭に 堂々の凱旋をした 既に小学校4年生になってゐた私達は 又も 先生に引率されては毎日の様に日の丸の小旗を打ち振っては熱狂して 凱旋兵を歓迎したものであった
当時 宇都宮市 近郷農村等は 凱旋師団歓迎 凱旋慶祝一色に 塗り変えられた やがて小学校には凱旋し 除隊した先輩同窓生が 在郷軍人の軍服に勲章 記章等を佩用して 来校し講堂で 数々の 從軍武勇談を語って呉れた 私達は時間の経つのも忘れて 手に汗を握り乍ら 其の話を夢中で聴いたものであった そしてその後で 下野新聞社(栃木県一円の地方紙)從軍カメラマン撮影の從軍映写会が 催された 子供乍らも異常な興奮を覚え熱心に映画を観た思い出が あった 第14師団激戦の地に駐屯を強く希望した所以であった
列車は 京城を出発した 東西何れのコースを走るかに皆の関心は 集中した 稍々経た頃に 車内にドヨメキの声が挙った 何と列車は 東側のコースを走ってゐた 出身の村からは 孫呉 密山 虎頭等の 満ソ国境地帯に駐屯する部隊に在隊中の先輩連中が何名かゐる事を 思い出した 其の辺りの部隊かも知れんと1人合點した
いよいよ目的の駐屯地に着く前日の午後 庄司曹長より次の事項が 下達された 即ち私達の駐屯地その他に関する事であった
上記下達後 駐屯地琿春の地図上の位置を口頭を以て説明された (略図其の1参照)
旭川出発以来終始和やかな車内は俄に緊張した空気になった 列車は北鮮部南陽から満領図們に着き 此処で車中泊した 翌朝 南陽に戻り 其処から北鮮部訓戎を経由して豆満江を渡り 目的地 琿春へ向かった
私達は図們を出発して直ぐに下車の準備を命ぜられ 軍装を整え下車を待つばかりになった 琿春とは どの様な街なのか あれこれ想像を巡らせ乍ら車窓から外の景色を眺めた 景色を眺め 道行く人達を眺めては 異国であると感じた 訓戎を出てから国境線 (鮮満国境) 豆満江(図們江)の鉄橋を通過したのであるが 想像をしてゐたよりは川幅が狭く 流量も差程では無かった様に記憶する 徒渉も可能では無いかと思はれた 程無くして向こうに見える街が 琿春であると説明されたが想像してゐた街並 家の造り 道を行く 人達であった そして鄙びた感じのする風景であった
終に列車は琿春の郊外の人家の少ない淋しい処に在る軍専用の 貨物駅に到着した 遠く離れた処に煉瓦造りの建物の一群が 立ち並んでゐた 琿春駐屯の各部隊の兵営であった 陸軍病院と 覚しき一郭も見え 大きな煙突が見えた 白衣を着た從軍看護婦さん達が チラチラ見えた 下車して整列の上 隊伍を組んで 武須少佐 指揮 の下に私達の到着を待つ 満洲第4392部隊へ行進した
私達を待つ部隊は案外近い処に在り 直ぐ隣は道1本を挟んで 陸軍病院であった 部隊の営門を「歩調とれ」の体勢で勇んで行進し 部隊本部前庭に到着 武須少佐は総員180名の無事到着を部隊長に 申告した 申告後 今度は庄司曹長指揮の下に第3中隊舎前に到着 第3中隊初年兵60名の無事到着を申告した 中隊長からは 無事到着 の歓迎の言葉を達せられ 次いで中隊付各幹部を紹介された 次いで呼名点呼に據って6ヶの内務班に分けられた 私の配当されたのは 第1内務班であった 第1内務班に配当された同年兵は 次の通りであった (戦友会名簿の順に依る)
能田 一男 | (故人 札幌) | 佐藤 昌徳 | (札幌) | |
田原 敏雄 | (函館) | 秦 正夫 | (千歳) | |
沢田 健次郎 | (音更町) | 松村 千代松 | (小樽) | |
南波 彰 | (北竜町) | 横木 蒋吉 | (増毛町) | |
千葉 亮 | (故人) |
以上の9名に私を入れて10名であった
私達の第3中隊は重火器中隊 (第1、2中隊は小銃中隊)であった そして 第1〜第2内務班は 連射砲班 第3〜第6内務班は 重機関銃班であった
部隊は 本部の外に3ヶ中隊であり 捜索聯隊ではあったが 軽戦車 自動車 側車等は無く 乗馬を主とする騎兵であった 從って 連射砲(戦車攻撃を主任務) 重機関銃は分解の上 駄載とし 火器 の移動は 駄馬を自分の乗った騎馬と併馬(1人の兵が計2頭の馬を 馭す 連射砲1門を分解すると弾薬駄馬 騎馬を合せて計14頭を 要した(記憶失せの為 正確数は?) 各内務班は1門1銃宛を保有した
入隊当時の中隊長以下の幹部を紹介する
中隊長 | 大尉 | 片山 義隆 | 現役 | 少尉候補者出身 |
付先任將校 | 少尉 | 吉田 明 | 現役 | 少尉候補者出身 |
馬 係 | 准尉 | 卯月 真藤 | 予備役 | 関東軍随一の馬術者 |
内務係 | 曹長 | 石黒 義実 | 現役 | |
給与係(兼被服) | 曹長 | 南波 | 現役 | |
庶務係(兼兵器) | 軍曹 | 高田 國康 | 予備役 | |
馬糧係 | 伍長 | 遠田 佳男 | 予備役 |
以上の他に 内務班長6名(軍曹) 伍長 下士官勤務適任兵長若干名等で あった 現役6 予備役(補充兵を含む)4の割合で 中隊を構成してゐた 様に記憶する
間島省もその中に在った琿春も軍事上から見れば 極めて重要な 鮮満 鮮ソ 満ソ 等の国境の第1線 即ち前線であった 此の地方は満洲国ではあり乍ら その住民の80%は朝鮮人を以て構成され思想的には侮日 反日 排日等の 共産革命思想を有した者達が 絶対的に多数を占めてゐた 此の為に ソ聯 からは武装蝶者の侵入(国境突破は多少の危険は伴うものの比較的容易) 多くの特に住民にして ソ聯に通謀する者多し 又満洲国建国以前から終戦 に到る間 此の地方を含めて国境線(特に満ソ国境)に対する 彼我の主張の 相違(寸尺の地と雖も自国に有利になる様な解釈に立つ)からの国境紛争事件が 多発した 広漠な大草原にも満ソ間の国境はあった 国境線と言っても 特別には其処には 白色の線を引いた標識となるべきものは無かった 何粁かを置いて設けられた標界を点として その点を直線に連結すれば 国境線ではあるが その様な処でさえ 一方的に標界の移動を行なう等の 暴挙が国際法に違反して行なはれた
琿春の南東部の方向に位置する地帯を略図に據って参照され度い 鮮満国境と満ソ国境に挟まれた蛇の舌状に似た細長い満洲国の領土が在る 其の満ソ国境に接するが如き処に張鼓峰(149m)なる小高い山がある この小山の領有を巡って 満洲国(日本)とソ聯コクとの間に見解を異にした 見解を異にするのであれば 其の当時國間の政府外交官庁等の協議に 基いて時間を掛けて話し合えば良いのであるが 事 領土侵犯となれば 是れは現行犯である自国の権益を犯されては黙過は出来無い
韓国独立抗日バルチザン跳梁地帯図
満洲国建国以前までは 安東省 通化 及 奉天省 吉林省等の各1部を含む 地域を東辺道と称し間島省を延吉道と称し 牡丹江省は濱江道の1部地域であった そして以上の鮮満 満ソの各国境に接壞する地帯は 民族自決の意気旺盛な所謂 韓国独立革命軍(日韓併合に反対する抗日バルチザンのゲリラ組織〜共産匪)の 勢力範囲であり 満洲建国後の 日満軍警の治安対策上の大いなる癌的地帯で あり思想対策上 憲兵の最も重点を置いた地域であり彼等との戦は終戦に到るまで 続けられた 敗戦必至 ソ軍侵寇を予期した関東軍は昭和20年7月5日 その主力を以て通化省を死守し その山岳地帯の利を生かしてゲリラ戦を展界し 長期持久戦を決定した
関東軍の主任務たる「満洲国の防衛 及び 在満一般邦人の保護」を断念し 総司令官以下は通化に満洲国皇帝以下政府機関は臨江に ソ軍侵寇後 逸早く後退した 在満邦人殊に開拓団の史上稀に見る逃避行の悲劇は これに依って開始された
昭和13年7月9日 張鼓峰にソ聯兵10名余現はれ 逐次兵力を増強し 陣地構築を開始した 此の現地情報第1報は 関東軍から第2報は 第19師団(朝鮮軍)から朝鮮軍司令官に報告された (琿春県は満洲国領ではあったが 前記した如く 住民の80%が鮮人 であり 且 ソ聯領 南部ウスリー州には 是又多数の鮮人が居住して ゐた為に 帝国臣民(明治43年8月 日韓併合条約調印以来 昭和20年8月終戦に到る間 朝鮮人を帝国臣民として取り扱った) 保護の目的を以て 特に朝鮮軍をして 琿春県の平時防衛の任務を 課してゐたのである 朝鮮軍に於ては隷下の第19師団(司令部 羅南) に命じ 琿春駐屯軍(本部 歩兵2ヶ大隊 歩兵砲1ヶ中隊 山砲1ヶ中隊 外に満洲国の国境警察1ヶ隊を配属)を編成し 主力を琿春に置き 爾余の兵力を以て琿春県に接する満ソ国境の警備の任に当たらせた のであった 此の琿春駐屯隊は勿論 第19師団長の指揮に属させた 新阿山 ーー 上角山の線以南を第19師団所属の歩兵第76聯隊 国境守備隊に 以北を琿春駐屯隊に夫々警備担任させた
前記の我軍の主張する満領に在る張鼓峰に不法にも越境せる ソ聯兵の撃退に関し 大本営 朝鮮軍 対 現地第1線の師団で 意見は 消極 積極 の両論に分かれた様であった
大本営の見解は 当時支那事変の早期解決を最優先事項として 武漢攻略作戦遂行中であり 他地域に於ける無用な兵力使用を 極力控制してゐた
朝鮮軍の見解は 例え国境侵犯であっても 局地戦を以て解決可能の 保證は無く 日ソ間の全面戦争に拡大する事を憂慮し 武力発動は 飽くまでも大命を待って行なうべきであるとした 一方 現地に在り直接国境警備の任にあった師団長の見解は 「国境警備本来の任務達成上 不法侵犯のソ聯軍を攻撃し 駆逐するは 当然也」とした
併し乍ら事の重大性に鑑みて 大本営は朝鮮軍に対し 万一の不測の 事態発生を憂慮して応急の派兵 其の他の措置を命じた 但し事件の 不拡大を期する為 航空機の使用厳禁 使用兵力の限定等の厳命を 附した 第19師団では直ちに 現地対岸地帯に兵力を集中し 1部を 展開した 戦斗と言えば斥候兵の1隊が任務達成上 自衛上 止むを 得ず 小戦斗を行なったのみで 数日を経て ソ聯軍は 国境線上から 撤退し 現地は小康状態になった 大本営の不拡大方針堅持と武力 使用の御裁可無く 現地に集中した師団は 1部の部隊を残し 原駐地に撤収した
今度は ソ聯軍は7月29日に到り 張鼓峰とは近距離に在る 沙草峰に 不法越境し 陣地構築を開始した 現地師団長は前の張鼓峰の際は 原駐地帰還の名を受けて撤収したが 此の度は新たに沙草峰に 越境した ソ聯兵駆逐までに其の命は及ぶものにあらず として独断 攻撃を決心した 以下戦斗の経過 大本営 朝鮮軍 現地師団間の 見解の曲折等はあったが 本書の主旨外であるので 省略する 第19師団の全力を投入した戦斗に及び 悪戦苦斗した この悪戦苦斗の模様を当時第19師団参謀長が朝鮮軍参謀長に宛てた 長文の軍用電報が届いた 其の終りに近い部分を紹介する
「弾薬ハ中央部及関東軍ノ好意ニ依リ漸次輸送セラレアルモ 急速ナル 戦況ノ拡大ト僻地ナル為輸送ニ時間ヲ要ス
作戦地内道路不良 且 後方機関ヲ有セス 敵ノ爆撃ノ為卸下 後第一線ニ到着スルニ 一日半乃至二日ヲ要シ 時々補給上ノ 危機ヲ臨機ノ方法ニ依リ糊塗シアル状況ニアリ
第一線指揮官以下 命ノ侭最後ノ一兵迄専守防禦ノ決意アルノミ 目下ノ状況ニ於テ師団ノ限リアル戦力ハ日ト共ニ 消耗シアリ 敵ニハ多大ノ損害ヲ与ヘアルモ 新手ニ新手ヲ加ヘアルヲ以テ 逐次砲兵ノ増援ヲ得ルモ此ノ侭ニテハ数日中ニ急激ナル戦局ノ 転換ヲ生スル虞アリ 師団カ確実ニ進退ノ自由ヲ有スルハ此処 一ー三日ト判断セラル
状況以上ノ如キヲ以テ 此処 三ー四日中ニ 一般情勢有利ニ 発展スルモ大乗的見地ニ於テ一旦隠忍シ現在迄 敵ニ対シ 日本軍ノ威力ヲ示シタル成果ヲ以テ満足シ 進退ノ自由アル間ニ 事件ヲ解決スル如ク 今ニ於テ速ニ外交交渉ノ措置ヲ講スルヲ 適当トス
以上ノ措置ハ朝鮮軍及中央部ノ如キ発動ニ依ルノ外ナク師団 トシテハ任務上当然死力ヲ尽クシテ占領線ヲ確保スルノ外 ナキニ付 御諒察ノ上 至急適法ヲ講セラレ度 綜合報告旁々 意見具申ス」
正に破断界に達した第1線の悲壮極まる情景が表はれてゐる そして戦った末に甚大なる損害を被って停戦となったのである
此れ以上戦えば惨敗したであらうし まかり間違えば 日ソ全面戦争に 拡大したであらう 此の国境紛争に投入された部隊は次の通りである
停戦命令は8月11日に下達された 死傷者の計は 1,440名であった 死傷者の損耗率は 22.3% だが 特に損耗の多大であったのは 歩兵 75. 76の両聯隊であった
歩兵 75 | 戦斗参加兵員 | 1,379名 | 損耗率 51.3% |
歩兵 76 | 戦斗参加兵員 | 1,094名 | 損耗率 30.6% |
歩兵が戦斗の最主力兵科である事を指摘すれば 第19師団は 罫線能力低下では無く絶滅である
以上が張鼓峰事件の概要である
大本営は停戦後の昭和13年9月30日 大陸命第215号を発令し 琿春県の平時防衛を関東軍に移管した 下記に命令文を記す
記述は大分横道を迂囘した 琿春とは どの様な処であるかの 一端を御理解願い度いと思うからである 話を前に引き戻すことにする
前項に記した如き環境下にあった琿春であった 何時如何なる不測の 時機にソ聯軍の不法侵入を受けるか判らぬ 異常なる緊張下にあった 地帯であった 私達の部隊を含めて 全琿春 全間島の部隊は常に 臨戦態勢下にあった 琿春から指呼の間に在った北チグロコーワヤ (部隊では単に北チグロと呼称してゐた)山頂のソ聯軍陣地から 長距離砲弾を如何なる時 撃ち込まれるか分からぬ危機感は常に我々の 脳裡に焼き付いてゐた
入隊後 日の浅い初年兵は古兵と同一内務班に 起居せられ 内務に於ては加虐に値する躾(殴打蹴の茶飯事) 演習は実戦 に勝るとも変わらぬものを課した 教官の意に沿はぬ演習の結果の代償は 昼食抜きで 演習の続行であった 非常呼集の演習は週に2囘は実行された 深更の熟睡時間帯を選んでは行なはれた
私達は速射砲担当であり 敵戦車 装甲車等の攻撃に依る擱坐 破壞を主任務とした為に 砲の 分解 駄載 卸下 結合等に分秒の短縮を強く要求された 總ての動作には 俊敏を命ぜられモサモサしてる者には 殴打蹴等の制裁が加えられた
部隊到着(午後3時頃)第1日目は正に遠来の客扱いであった 班長(M軍曹)に引率され 中隊兵舎に這入り第1内務班室に落ち着いた 班内は上下2段式の蚕棚状に板張りされてあった{(昭和16年7月発動の 関東軍特別演習(略して 関、特、演と呼称した)で一挙に大増員された 兵員を収容する為に採用された苦肉の策)} 私の寝床(2段式に なってからは廃止)は上段に指定されており 戦友組は 2年兵の 清水1等兵と組まされてあった 内務の要領は總て此の清水さんから直接に 指導され時としては 俗に言はれた「一ツ軍人ハ要領ヲ本分トスヘシ」を 殊の外 懇切に指導して呉れた 私にとっては 大変良い古年兵さんであった
班長は一応の指示 注意を言った後に「初年兵は直ちに 軍装を解き 軍衣袴を脱ぎ 就寝せよ 装具 軍衣袴等は 戦友組の2年兵が全部整頓せよ 夕食事まで 就寝を許可する」旨を達した 私達は本当に其れで良いのか 戸惑った 躊躇してゐると班付先任のY兵長(下士官予備役応召)が 「愚図 愚図するな早くしろ」と怒鳴った
軍隊名物の一ツに挙げられてゐる 有名な 封筒状の藁布団の中に膝を伸ばした侭 静かに ソロソロを体を 滑り込ませる様にして寝たが緊張の余り一睡もする事は出来なかった 夕食時 班長から「初年兵は軍衣袴着用に及ばず 冬外被着用の上 食卓(食事 兵器手入れ 手紙書き 鶯の谷渡り等 多用途に使用)に付けと 達せられた
今以て記憶に鮮明なのは 班長曰く「夕食には初年兵の 入隊を祝って 特に赤飯とオハギが用意された 有難く食べる様」との 事であった 見れば成る程 赤飯(実は高粱の半搗の為 一寸見たところでは 赤飯の様に見えた 実物を見るのも食べるのも此の時が最初)の様であった 飯盒の蓋には小豆の餡が少しばかり盛ってあった あとの副食は何が出たか 記憶に無い 高粱飯は お世辞にも美味しいとは言えなかった(やがて 演習の度が激しくなるに從って 此の飯も美味しく 量も不足に感じて来た) 私達は食べ残した 餡だけは綺麗に残さず食べた 何時になったら オハギが出て来るのか待ってゐたが遂に出なかった 班長曰く「どうだ軍隊の赤飯とオハギの味は美味しかったか?」と尋ねたが 初年兵同士は顔を見合わせて不思議がった 誰も班長に答える者は ゐなかった 更に班長曰く「軍隊では飯と餡が出ればオハギと言う」 成る程と感心したり驚いたりした 要は飯と餡を別々に食べずに飯に 餡を塗り付けて食べる 此れをオハギ也と諒解した
食後休憩となり 煙草を喫っても宜敷いと言はれたが 入隊初日の初年兵の身であれば 喫う事を躊躇した Y兵長が遠慮せずに喫えと言った 同年兵の誰であったか 喫い出したので 他の者も意を強くして喫い出した(能田君 横木君は此の頃 未だ煙草を嗜んでゐなかった)
今度はK兵長が「初年兵さんよ これから 世話になる班長殿や 古兵さんに内地から持って来た煙草を 土産代わりに進呈したらドウナノ」と言った 私達は言はれた通りに 数個の煙草を食卓に並べた 更にK兵長は 「こればかりでは 土産に足り無いぢゃないの ケチらずにもっとオダシヨ」と言った 私達は 今度は その何倍かの煙草を雑嚢から取り出して 食卓に差し出した K兵長は「有り難うネ」と言って 班長の前に押し遣った 班長は何も言はずに 頷いた丈で 下士官室に引き揚げた
私は正直の処 ムッとした 正に強要である 土産の催促は幼児の行為だ それも躾の良い家庭の子ならば その様な事を言はぬものを 私は此の日以来 この兵長を軽蔑視することになった 何と言っても 入隊早々の初年兵の身であって見れば 如何とも致し方の無い事であった 「泣く子と地頭ならぬ 古兵には勝てぬ」軍隊であった この様な土産物の 催促は 1班 2班 だけであって 3班〜6班では無かった
休憩も終り 明朝起床時まで就寝 日夕点呼は就寝の侭で良いとのこと 正に入隊初日は お客様であった だが 此の客分扱いは 翌朝 起床ラッパの鳴り止む前までの短時間の事であった
明けて入隊第2日目の朝を迎えた 世の中が一転も二転もして様変わりした 「昨日の敵は今日の友」ならぬ「昨日の客は今日は奴隷」に一変した 軍隊の立居振る舞 總てに不馴れな私達は 先ず起床後の軍衣袴着用からして 鈍調であった モタモタして居ると既に着用を終ったY兵長の罵言と共に 鉄拳が能田君と佐藤君に飛んだ 私は此の時 幸な事に Y兵長からは 大分離れた場所に居たので 鉄拳の飛来は避けられた
清水一等兵の指導で 毛布を畳むのであるが 簡単な様で 仲々に 難儀なものであった キチンと畳み 毛布 枕 藁布団が横一線に定規を以て揃えた如くにならねば ならないのである 清水2年兵が「下段の者達の様に余り神経質に整頓 しなくても判らぬから これ位で良いのだ」と小声で言った 私は其れに從がはざるを得ない
既に軍隊の裏表を知り尽くした 班付先任のY兵長がその様な手抜きを見抜けぬ訳が無い 上段に昇る 梯子の中程まで昇ったY兵長によって発見されて仕舞った 私はY兵長にイキナリ下段に引き擦り降ろされた 「此の野郎入隊早々の 新兵のクセに要領を使いやがって 生意気な奴だ 今後のみせしめに 可愛いがってやる」と言って 往復ビンタの先は洗礼に浴した
遣り直しを命じた兵長は 私の毛布 枕 藁布団の總てを全部下の床に 叩き付けた 私は其れ等の物を上段に拾い上げ 清水二年兵と畳み掛けた時 班長のM軍曹がやって来た 素早く私達を見た班長は Y兵長と何か 話し合ってゐたが 私達の処に来て「オイ降りろ」と怒鳴った 私は降りて不動の姿勢をとった「此の野郎 フザケルナ」と言って 往復数発の鉄拳をもらった その侭何も言はずに痛みを憶えて立ってゐた 班長の横に居たY兵長が「こら貴様 班長殿に礼を言え」と言った 正直の処 何を言って良いのか 戸惑った 重ねてY兵長が 「中倉二等兵は入隊第2日目にして要領を使って申し訳ありませんでした オテントウ様が西の空から昇り 琿春川の流れがサカサマに流れる事が あっても以後再度 毛布の整頓に手抜きする様なことは致しません お世話になり有り難くありました」と言うんだ解ったら言って見ろ と怒鳴った
私が躊躇してゐる内に週番下士官の日朝点呼を告げる 号声が聞こえた 毛布その他は清水二年兵に依って整頓され 班内の清掃は同年兵や補充兵さん達に依って済まされてゐた 入隊2日目にして鉄拳制裁を受けたる名は部隊がやがて佳木斯に 移駐した後々までも 事ある度に 班長 Y兵長 S上等兵に依って 私的制裁の的となり 彼等のストレス解消の対象物となる破目になった
此の3名に特に共通してゐた事は「一ツ軍人は要領を本分とすべし」 の会得に大いに欠けてゐた事であった 能田 佐藤の両君は 生真面目であった そして 私は後で 班長に3度程 正論(理解出来る様な 班長ではなかった)を述べた事が大きく作用した 班長 古兵等には 殴り易い 叩き易い 新兵であった様であった
何も40年前の事であり時効を過ぎた事等列べ立てる事もなからうが 同班 同年兵の中で 特に劣等兵の名誉ある烙印を押された 戦友 (能田 佐藤の両君に私)3名を代表して敢て記すことにする
1.M軍曹〜第1内務班長兼第1教育班長 新潟出身 師団最古参 軍曹である事を誇りとしてゐた(同年兵の優秀者は 1等級曹長 或いは 准尉任官済との事であった) 筆記力 読力 読解力に甚だしく劣る 常に劣等意識に怖ゆ 些細なる事に興奮し 凶暴性を余す処無く 発揮する 筋骨逞しく身長あり 腕力に富む 統率力に著しく欠く 特に教育班長としての能力 零に等し 暴力を発揮する際は 口を極めて 罵言を発す(良くも次から次へと間断無く出たものである) 部下を殴打 の際に 出血する部下を見て 快心の笑を顔面に臆する事なく表はす様は 閻魔の化身かと疑う程に感じられた
因みに軍隊では特別なミスをしない限り 下士官を志願すると検定に 合格すれば軍曹にまでは任官出来た が曹長に昇任するのには 簡単には選任されなかった 定員の関係もあるが 曹長になれば週番 士官 週番副官 小隊長等の士官職を命ぜられる 武技は勿論であるが 秀れた指揮能力 指導能力 事務能力 人格 識見等の 士官職に通する 要素が要求された これに不合格であれば 如何に曹長を望むとも 却下され 軍曹定年が近付くと 現役再役を希望して 再役願書を 提出しても 「再役願ノ儀ニ及ハス」として受理されなかった 大東亜戦争後半期に到って 曹長の定員枠が緩和はされた様である
2.Y兵長 〜 下士官勤務適任證所持 予備役 東京出身 下級者 特に 初年兵 補充兵 等を殴打することに快感を覚ゆる如し 些細なる事に 良く興奮し易し 怒れる時は蛸入道 同然の容貌となる 神経質にして 班長に胡麻擦る事も 神聖なる軍務遂行と錯覚してゐた 後日 伍長任官 下士官任官の基準に 疑問を抱いた
3.K兵長 〜 予備役 東京出身 応召前は 茶道 華道 舞踊 等の師匠 色白 声は女声よりも更に女声 女形に適す 班長に胡麻を擦る事は Y兵長に異なること無し 下級者 特に初年兵に注意を与える際は 説教 文句と言うよりは 何時果てるとも無い 小言 愚痴が 蜿蜒と続く この様な時は 罵声と共に殴られた方が楽だと感じたものである コンチクショウ ブックジテヤルヨ なる語を良く用いた 但し 殴打 蹴の癖は無かった 見栄っ張りの気味あり
4.S上等兵 〜 新潟出身 18才で現役志願の 2年兵 蹄鉄工兵 (技術 極めて幼稚) 18才で現役志願したに拘らず 甚だしく世間擦れ しあり 2年兵ではあるが初年兵より年齢が若いと云う優越感充満 初年兵 補充兵を殴る際 必ずと云って良い位に 「年下の2年兵に 殴られて口惜しいだらう もっと叩いてやるか どうだ」なる言葉を用いた この男は 成績優秀と言うよりは 蹄鉄工修行兵のレッテル丈で 上等兵 進級者と観察した
軍隊では どの部隊でも共通してゐたのでは無いかと思ふのだが 私達の内務班にも 神様仏様と称される偉い連中が トグロを巻いて 鎮座ましまして居た 但し 初年兵 補充兵 2年兵は 此の尊称?の 対象には絶対になれなかったのである
具体的に解り易く記すと 神様クラスは 下級者のミスを細大漏らさず 丹念に曝け出しては これ見よとばかりに 大袈裟にワメキ散らし 殴打蹴の私的制裁を加え 且 自己の存在を誇示し 優越感を満足させて ゐるタイプの連中である 私は心中で班長は荒神様なる別な 格付けをして軽侮することにした
一方 仏様クラスは 下級者に対して 總て懇切に指導を行なう 人情味 のある常識人であった そして下級者のミスを庇ってくれた 褌 靴下 ハンカチ 等の汚れ物の洗濯等 絶対に下級者に命じる様な 事はしなかった 古兵の中で これに属する部類の人の絶対数の 不足が初年兵 補充兵 等を苦しめたのである
軍隊には各種の当番があったが 私の1番嫌いな 当番は 何と言っても 食事当番であった 先ず週番上等兵に引率されて 炊事場に行く そして 食缶の受領の際に己の 中隊名 班名 己の官等級 氏名 等を申告するのであるが 炊事勤務の神様連中から 声が低い 服装がどうの 態度がどうのと 散々に難癖を付けられ 再三 申告の遣り直しをさせられた上で ようやく食缶受領を 許されるのである 食後 食缶の洗浄に就いて飯粒が 隅の方に残ってゐるとか 洗い方が粗末であるとか まあ良くも 重箱の隅を ほじくる様な事を 殊更に 大袈裟に 暴き立てるものであった
処で 班内に持ち帰った飯を 班全員(30名)の各人の食器に 盛り分ける(軍隊では飯付けと言う) 荒神様は勿論であるが 神様 仏様 3年兵 等の飯付けには 異常なばかりの神経を 使わねばならない 1粒たりと雖も 焦飯を混入する事は 絶対に許されなかった
私達の部隊の炊事場では 蒸気釜でなく 直接 石炭で炊き上げる方式であったので 必ずと言って良い位に 食缶に焦飯が混じってゐた その飯を選別し乍らの飯付けである 補充兵の長谷川省三さんと私が食事当番をした折に Y兵長の 食器に焦飯が混入した時の状景を思い出す 「今日の食事当番起立」とY兵長が怒鳴った 長谷川さんと 私は「ハイ」と答えると同時に起立した Y兵長は「飯付けは誰がした」と怒鳴った 私は「中倉であります」 と答えた Y兵長は「貴様 此の野郎 俺の飯に ヨクモ 焦飯を 入れやがったなー 勲八等の予備役応召の兵長さんをナメやがった なー」と言いざま 食器を私めがけて投げ付けた 私の胸に当たった 飯は 私の軍服に相当量ヘバリ付いたが 近くの同年兵の顔や 服にも飛び散って ヘバリ付いた 「申訳ありませんでした」と 謝ったが その様な事で許す様な Y兵長では無かった M班長が此の場に居なかったのが せめてもの幸であった
清水2年兵が小声で「炊事に行ってもらって来い」と言って飯盒を 出した 私は其の飯盒を持って 炊事場に走った 長谷川さんが 心配をして後から走って来た 炊事場には幸な事に 同班の 補充兵 南さんが勤務兵として居たので 直ぐに 飯盒に飯を入れて 呉れた 南さんは「Y兵長に焦飯を付けたのか」と笑い乍ら聞いた 私達の入隊前でも五月蝿く 先輩の補充兵さん達も 大分苦労を したのであらうと 其の時思った 持ち帰った飯をY兵長の 食器(同年兵が洗っておいて呉れた)に改めて盛って差し出したら 数口食べた丈で止めて仕舞った 班内は シラケた空気になって しまった 私のミスに原因した事であったが 4392部隊生活中の 悪印象の一ツに残ってゐる 私はY兵長の氏素姓を深く疑った
私が練兵休を許可されて 班内休養をしてゐた時 昼近くなってから 長谷川さん(靴工兵修業者)が靴工場から午前の勤務を終わって 帰って来た 他班の補充兵で特技保有の人達も午前の勤務を 終わって帰って来た 週番上等兵が「今日は演習に出た者の 帰りが遅くなる様だから 現在居る者だけで 飯上げに行く」 旨を伝えた 炊事から飯を上げて 私達の班は 長谷川さんと2人で 食事の用意をした
その時の事である 長谷川が「お前フケ飯の 作り方を知ってゐるか」と尋ねた 併し何の事か私には 分からなかったので「何のことでありますか」と聞き返した 「お前未だ知らんかったのか 今日は俺が教えてやる」と云って 実地指導が始まった 先ず班長の食器に半分程 飯を付け その上に自分の頭のフケをガリガリ掻き落し 更に其の上に 再び飯を盛り足して 食器の縁を布巾で拭き取り 「これで出来上りだ」と云った 私は 唯 唖然として 長谷川さんの 仕草を見てゐるばかりであった 長谷川さんは 今度は Y兵長の 食器に同じことを繰り返した 私は 驚くばかりであった 「その様な事をして 若しもバレたら どうするのですか」と訊ねたら 「これ以上 フケを掛けたら バレるかも知れんが 此の位では 絶対に バレない 今度 お前もやって見ろよ」と言った 私は 不安で致し方無かったが 班長のMもY兵長も何も云はずに 全部食べて仕舞った
午後の演習で皆 外に出た後で 長谷川さんは 「今までに何囘も同じ様にして 喰はせてやった あんな事でもして お返えししてやらねば 叩かれり 殴られたりした 憂さ晴らしが出来んでは無いか 本当にお前もやって お返えしをしてやれ」と云った だが 私はその様な 蛮勇を振るい 起こす勇気に欠けた それにしても「フケ飯」とは良く名付けた ものだと感心する次第であった
前々項 及び 前項で 度々 長谷川さんの名が出たので 此の人の事を 記し度いと思う 長谷川さんを含めて補充兵達は 未教育 補充兵 (今度応召するまでに1度も軍隊で教育を受けた事の無い補充兵の 意味である)であった 年令は概して30才を過ぎてゐた 私達初年兵より約8ヶ月も前に召集になった 北海道出身の人であった 私達初年兵が琿春の部隊に入隊して幾らも日が立ってゐない頃の事 であった 朝の厩舎作業で 長谷川さんがどの様なミスをしたのか 分からなかったが 班長のMが 長谷川さんを殴る叩く蹴る 転んだ処を 更に蹴る 長谷川さんが起ち上ったら 再び 殴る 叩く 蹴り上げるを 繰り返し 散々に罵言を浴びせかけた 長谷川さんの口中が切れたのか 口から血が出 鼻血も流れ出た M班長は その出血を見て 快心の笑み を浮かべた 正に悪鬼であり 閻魔であった 長谷川さんにどの様な ミスがあったにせよ 狂人の如き班長を憎んだ この俺がMよりも 上級者であったらと思い 他人事とは言い乍ら 口惜しかった 大いなる義憤を感じた 軍隊とは云え 余りの事では無いか
私は後日憲兵に転科した その事は後述する 憲兵に転科して 石頭憲兵派遣隊に勤務中の事であった 毎日分隊から受領して来る 命令 囘報 情報 手配 その他 等の書類の中に 戦訓資料と云う 書類があった 全満洲の軍隊の事故も此の中に含まれてゐた
その事故の中に 昭和20年3月中旬頃 満洲第4392部隊(私が憲兵 転科前の部隊)が佳木斯から海城に移駐の際 軍馬輸送貨車に 馬取扱いの為 乗務してゐた長谷川さんは 列車が奉天駅に停車中 馬の水汲みに行っての帰りに 列車に接触されて 惜しくも殉職された との報を読んだ 誠にお気の毒な事であった 御遺骨は 能田一男君が 中隊命令に據って 戦後シベリヤ抑留の際 捧持して入ソしたが ソ聯収容所長の命令で ソ聯軍に於て保管する 事になり 泣く泣く引き渡した旨を 戦後の第1囘戦友会の折に 涙を浮かべ乍ら 能田君が皆に報告した 能田君は 復員後 八方に 手を尽くして御遺族を探しあてたが 不明であるとして 非常に残念 がってゐた (その彼は 昭和49年末病没された)
私は敢えて此の事を記すことに據って M班長の暴虐性を亡き 長谷川さんに代って 告発し 長谷川省三さんの霊 安かれ と 改めて御冥福を 謹んで お祈り申し上げ度い
私達が旭川の部隊で支給された 兵器 被服類 等の一切は 全部新品ばかりであった 琿春に到着して何日目頃であったらうか 定かでは無いが 先ず神様連中が自分に支給されてゐる古い 被服類を私達新兵の着てゐる新品と交換して呉れと言い出した 新兵が新品で古兵 それも神様と自認してゐる連中が クタビレた 服では 神様の沽券にかかるとでも思ったのであらう これは聯隊 命令でも 中隊命令でも無く 所謂 私的命令である 私にはK兵長が 交換を強要した その他の神様連中も 同年兵に強要した様である 応じた様である 私はK兵長の強要を拒絶した その場はそれで済んだ その日の夕食後 私は下士官室に来る様に 班長から呼び出しがあった 其処で M班長から 昼間K兵長からの 要求を拒絶した事に対する理由を訊ねられた 以下はMと私の 遣り取りである
班長 | 〜 | 馬鹿モン 交換してやれ |
私 | 〜 | 旭川の部隊で支給を受けた際 庄司曹長殿から |
天皇陛下よりお預かりしてゐる大切な物だ 謹んで着用する様 命ぜられました |
||
班長 | 〜 | 俺は貴様等の班長だ 俺の言う事を聞け |
私 | 〜 | 中隊命令を頂きたくあります |
此の時 傍に居た 第2内務班長のK軍曹から声があった 「M軍曹殿 こんな奴 可愛いがってやった方がいいですよ」 これで決まった 班長から往復ビンタの連発をもらった 結局は 私の負けであった 此れ以上の抵抗は諦めた 新品の被服類は 強奪に似た方法によって K兵長の古品と交換させられた 要は品物の新古 程度の良し悪しは どうでも良かった 支給されて ある員数に過不足 無ければ それを以て 甲の上としたのである 員数検査の主眼も 此処にあった様に思う 私は暫くしてから この事を 高田軍曹に話をした事がある 「それは正論であって 兵の身には通用せぬ事だ」と諭して呉れた 私は 入隊して 間も無い頃に 不図した事から 此の高田軍曹を話の解る 兄貴と 思う様になってゐた
在る時 他の物と一緒に褌も洗濯して 物干場に干して置いた 夕方 演習後 皆と一緒に 干物を取り込む為に 物干場に行った どうした訳か 私の褌だけが見当たらない 風に飛ばされた訳でも 無いのにと思い 同年兵の物に紛れたのかも知れぬと思って 訊ねて見たが 紛れ込んではゐなかった
軍隊では兵器以外の自分の 持ち物には註記と云って 中隊名 班名 氏名 を必ず記してある 他人の物と間違はない為と 持ち物に責任を持たせる為である 私達の部隊では 褌の所有は2本と規定されてゐた 余分に持つ 事も 不足する事も許されないのである
それにしても姿を隠した 褌が見付からないと 現在使用中の褌を洗濯した際に 代わりが 無くなるので 困るのだ 物品の紛失は 班長に報告することに定め られてゐる どうせ鉄拳の落ちに決まってゐる 班長への報告を 躊躇した
止むを得ず 残る1本の褌の洗濯後 干し上るまでは タオルを以て代用した 然し タオルには温かみはあったが 紐が無いので 袴下で ズリ落ち無い様に調節すのに大分苦労した 併し 「窮すれば通ず」で結構 要領良く 使用出来る様になった 余り立派では無い一物を保護したり 顔を拭いたり 誠に重宝にして 便利此の上も無い布であった 軍隊なればこその窮余の策であった その為か 何時でも緊褌一番の意気が挙らず 軍務に精励する気の 起こらなっかったのは 此の故であったのかも知れない
軍隊内務令 第179を記す
「物品ヲ遺失 紛失 又ハ 破損シタルトキハ直チニ 内務班長 若クハ 週番下士官ニ届出ツヘシ 之ヲ拾得シタルトキ 亦同シ」
私達の映えある入隊を てぐすねひいて待ち構えてゐたのは 荒神様や神様の面々ばかりでは無かった 入隊して暫くした頃 気のせいか体のあちこちが掻ゆくなった 同年兵に尋ねて見たら 皆も同じであった 戦友組の清水2年兵が下着類や毛布等に ライオン歯磨き粉を振り播いてゐるのを見た 何故だらうと思って訪ねて見たら「お前もう虱が付いたらう この様にすれば少しは 虱除けに効果がある」との事であった (私は験して見たが全く効果無かった)
私は虱なる語と文字を 知ってゐたが 実物を見るのも 身体で経験するのも最初であった 清水2年兵は「満洲クンダリの貧乏籤まで引いた挙げ句に 虱にまで可愛がられるとは 思っても見なかった だがなー 虱も生きものだ 少し位血を吸はせてもやれよ 戦死した時は 虱の加護で地獄まで行くことは 勘弁してもらえる かも知れん」と冗談を言って笑った
此の虱なる代物は 親を潰し ても潰しても 決して子孫の絶える様なものではなかった 正に「万世一系の虱祖を践める虱様」であった 当時私達は 若い青年であったので 血は彼等にとって栄養豊富な格好の飼で あったのであらう 栄養の行き届いた奴は丸々コロコロする位に 肥えており光沢もあった 最も原始的な駆除方法は 両親指の 爪の間に挟んで押し潰すのであるが ブツブツと音がして 潰れた 大きいのは 仁丹粒位あった
親虱の休憩場所は 縫目の 折返えしの中であった 産卵場所もその附近であった 一番困ったのは 直立不動の姿勢で「気を付け」をしてゐる時に 首の囘り 腋下 急所 附近で 彼等が吸血をする時であった 手で掻く訳にも行かず 歯を食い縛って「忍」の一字の修行に 之れ励むのみであった 終戦後シベリヤ抑留中に虱の為に 発疹チブスにかかり 一時死の世界を彷徨する事になった 恐ろしい生き物であった
私の気付馬は 名を「春勇」と号し 栗毛であった 文字通り 名前だけは 立派な馬であった 併し軍馬とは名ばかりで 員数を 揃える為に 騎兵隊に籍を置いた様な 哀れな馬であった 軍隊の員数揃えと言えば 私と環境は似た様なものであった 同病相憐む仲であった
「春勇」にしては 甚だ迷惑な気付兵で あったと思うが 私にして見ても 又 迷惑な軍馬であった 満洲の日本人開拓団から徴発された馬であった 仔馬が 正常に分娩され 正常な発育を経たとしても 古来「栗毛に蹄無し」 と称され 例え馬格が優れてゐたとしても馬に直接関係する 職業人(有畜経営農家 獣医師 その他)は概して 栗毛を好まなかった
多少の例外はあるにしても 又 飼養管理に多少の差はあったにしても 最大の欠点は 概して蹄の脆弱性のあることであった その脆弱性は 摩耗し易い事 裂蹄になり易い事 從って 蟻道尖症 (俗に砂上りと称した)に掛り易い事 等々であった 摩耗を防止する事は 装蹄によって カバー出来る 但し 裂蹄だけは 装蹄によって必ずしも予防することは 難儀である 栗毛の裂蹄は 蹄油の塗布を以て予防を図る事は一般的に至難であった
憐れにも「春勇」は傷因は何であったか判らぬが 左前、後部 蹄冠部に外傷性の大きな痕跡が夫々あった 初年兵入隊時から 此の裂蹄には苦労した 裂蹄部から最初から蹄が裂けて来るのは 如何とも致し方なかった 班長からは「気付者」の管理不充分を 理由として度々殴られた 安定した歩様を保つ為に 充分な機能を 発揮する 大切な一部である 蹄に関する限り 不幸にも「春勇」は 欠陥馬であった
軍馬は「活兵器」也として 軍隊に於ては定義し 火砲 銃器 刀剣と同等であり 生身の兵よりは 遥かに上位に ランクされてゐた にも拘らず「春勇」を軍馬として格付けし 事もあらうに 騎兵隊に在籍させて置いた事に大いに 義憤と疑問を抱いた 削蹄 装蹄 馬体検査の際 其の度毎に これ等を直接 監督指導の 任にあった獣医師 將校の責任なのか 其の事を上級司令部に 報告を怠った連隊長の責任にあったのが 遺憾乍ら その責任の 那辺に存したのかは 兵の身にあった 私には不明であった
「春勇」は 私達初年兵の第1検閲が終はり 帰国と共に4392部隊が 佳木斯に移駐する直前 軍役不耐馬としての烙印の下に 琿春近在の 日本人開拓団に払い下げられた 此処に到るまでの間 唯の一度も 休業 入厩 入廠等の措置をされなかった 措置をしないのであれば 早期に開拓団に払い下げすれば良かったらうにと思った 別れの日には不憫さが残ったが これで「春勇」も楽になれるなーと 安堵した 引き取りに来た開拓団の人に可愛がって呉れる事を 頼んだ時には 不知不識に 涙が流れ出た
私達の入隊した満洲第4392部隊に私達初年兵の外に 現役2、3年兵は勿論の事 予備役 後備役(少数) 補充兵等の 応召者が 在隊してゐた 予備 後備 補充等の人達は 支那事変 関特演 大東亜戦争の開始に依り その戦域の膨大な 拡張による 師団増設の為 関東軍の兵力 大抽出に伴なう 現役兵の不足を 補充するため「赤紙」と称された 召集令状の送達を受けて 応召した者達であった 謂うなれば 軍の「助っ人」であった 此の「助っ人」の存在であった
予備 後備 補充の人達に 夫々の 共通點は 年令は既に30才を過ぎてゐた事 從って 遠く海山離れた 祖国日本には 妻子 老親 弟妹等を残しての応召であった事 從って 一家の大黒柱であり 一国一城の主であり 一家の扶養義務者 であった 故郷の家族の生計 その他を按ぜぬ日は 一日も 無かったであらう 現役兵や職業軍人の其れに比して非常に 大であった事が充二分に理解出来た そして年令の壁とも云うべき障碍もあった 軍隊では職業軍人を除き 25才を越えた者は老兵の部類に属した 現役 1、2、3年兵に比して 動作は概して 緩慢であった 無理からぬ事であった
在郷中は地域社会の共に中堅的な存在の人達であった 其処には 当然 プライドを有した 彼等同士は 在郷中の諸々の 名誉を考える時 軍隊と言う狭い階級社会の中にあって 星の数と 金筋に依ってのみ人間を評価される場に於ては 謂はば 「同病相憐む可き仲間」であったのである
ところが 彼等の間で大きく相違した点は 予備 後備 に対し 補充兵(未教育補充兵)と言う大きなハンデが存した 予後備応召者は 曾て現役を勤め上げ 再度(中には再三、再四 の者もゐた)の御奉公 誠に御苦労様であったが 解釈の仕様に依っては 一面で軍務に精通 反面で 所謂「一ツ軍人は要領を本分とすべし」を心得た 軍隊の表裏を 識り尽くした スレッカラシ でもあった
一方 補充兵は 全員 未教育応召者であった 從って 私達 初年兵 同様に入隊して初めて 軍隊生活をした訳である 予後備役に対する 補充役の ハンディキャップ は 余りにも 開き過ぎてゐた 在郷中の環境が大概に於て似てゐた 補充兵に対し 予後備兵は 勤務中に於ては 掻い摘んでは 懇切な指導を 勤務外に於ては むしろ同情的に 寛大な対応が あって然る可きであった 一部の例外的人格者が居たが 極少数の者を除き 総じて 予後備の連中は 寛容さに欠如してゐた 罵言は勿論の事 ミスに対する揶揄等を平然と行ない 殴打等の私的制裁は 日常の茶飯事であった
此の予後備にあった者(一部の例外者を除く)達は 「能ある鷹は爪を隠す」どころか 良く口に出してゐた事は 「現役を無事勤め上げて 再度の御奉公であること 現役時代に 支那事変に從軍した事」 此の辺りまでの言辞は 確かに 御苦労様でしたと言える
だが次の言辞で 御苦労様でしたの言葉を帳消しにした 「從軍の功に依って 勲八等 白色桐葉章(旭八 〜私達はこれを白菜ッ葉と蔑称) 或いは 勲八等瑞宝章(瑞八 〜私達はこれも白金平糖と蔑称) 從軍記章 赤十字社員章 等の叙勲 受賞の過剰意識を 閃めかせてゐたことである 軍人として從軍する事は 極当たり前の事ではないか 此処まで来ると落語にも 漫談にも ならない 旭八は戦斗地從軍者 瑞八は警備地從軍者の 兵階級者(犯行者を除く)であれば 從軍した事そのものを 軍功として 戦功の如何に拘らず 自動的 事務的に叙勲され 赤十字社員章の如きは 早い話 金を寄付すれば自動的 事務的に 受章出来る性質のものであって 殊更に大音声を発してまで 他人に誇るものでもあるまい
以上記したまでも和気藹々の裡に団結鞏固は望む可くも無い だが次に記す事も和気藹々の裡に鞏固なる団結を阻害する要素が存した 特殊な部隊や陸軍観官衙を例外として 軍隊は師団単位に 同一地方出身者 を以て編成されるのが 本来の主旨であった
その為にも本籍地主義を 旨として 各地に聯隊区(北海道に例をとれば 南から函館 札幌 旭川 釧路 等の聯隊区を設け そこには現役大佐を司令官として 司令部を 置いた)を設け 軍人の徴兵 召集 観閲点呼の軍事行政事務を執行した 初級將校 以下 准士官 下士官 兵等の夫々が同一地方出身の者を 以て聯隊を そして師団を編成した為に 親近感を抱き 連帯感を 抱くものである 出身地の友人 知人 先輩 後輩 親戚等が同じ師団の 歩 騎 砲 工 輜重等の聯隊に 大隊に 中隊に 小隊に 同班に 隣班に 在隊すると云うこと丈に 例を挙げても 互に同一條件下に在って 協力し 激励し 牽制し 切磋琢磨し合い乍ら 和気藹々の裡に 鞏固 確固な団結が可能な事は理の当然であり 人情の然らしむる 処である これがあればこそ 団結心は 更に一層不動のものとなる
処が私達の中隊(他の中隊も同様であったと思う)は 名実共に 他所者ばかりの寄せ集めであった 中隊幹部以下兵に到るまでの 出身地をその例に挙げる
中隊長 | 〜 | 香川県 | 付選任將校 | 〜 | 熊本県 |
馬係准尉 | 〜 | 東京都 | 内務係曹長 | 〜 | 高知県 |
給与係曹長 | 〜 | 島根県 | 庶務係軍曹 | 〜 | 東京都 |
馬糧係伍長 | 〜 | 群馬県 | 第1内務班長 軍曹 | 〜 | 新潟県 |
予後備兵 | 〜 | 関東地方一円に及ぶ | |||
現役 2、3年兵 | 〜 | 関東地方一円 新潟県 静岡県 | |||
補充兵 初年兵 | 〜 | 北海道一円に及ぶ |
以上の様なもので郷土の名誉の為にもと言う様な意識には大いに 欠けてゐた 特に神様連中が関東地方 特に東京が最多であって 見れば 所謂「都会擦れ」した者の眼から見れば 北海道出身の 補充兵 初年兵は田舎者臭く 鈍重に写った事であらう 事毎に ドサンコ ドサンコ と侮蔑されたものであった 之では団結どころか 互に敵視し合う要員が 不知不識の裡に醸し出され 第一戦の敵前に 於て敵兵に銃先を向ける前に 内なる敵に菊の紋章の付いた銃は 向けられるであらう
昭和14年初夏から初秋に到る間 満洲国の北西部 ノモンハンに於て 後世其の悪名を残すこととなった「ノモンハン事件」で ソ聯軍 外蒙軍の連合軍に 関東軍隷下の第23師団は惨敗した 此の戦斗には 第7師団(旭川)の歩兵26聯隊 及び 歩兵28聯隊の1部 その他の 部隊が 一時 第23師団長の指揮下に編入されて戦斗に参加した
ハルハ河左岸地区の戦斗に 攻撃に参加した 旭川師団の1部は左岸 攻撃を断念した 23師団の後退に当たり 当然 応援の友軍部隊 である第7師団の部隊を優先して後退させるのが 武士の不文律で あったに拘らず 戦況上 止むを得ざる 措置とは言い乍ら 1番最後に 多数の戦死傷を出させて後退させた これも他所者師団であって 本来の隷下部隊では無かった故と解釈されても止むを得ない 事例であった
第23師団は ノモンハン事件の起きた前年4月に編成に着手した 新編の寄せ集め部隊でもあった
敗因は こればかりで無く 近代戦に於て必要欠く可からざる重装甲 戦車 長距離重砲 及 重砲弾等の絶対数の不足と其れ等の性能の劣低 及び 敵を識らず 己を識らざる傲慢な第23師団 第6軍 関東軍の 夫々の 司令部の作戦の在り方も大きく作用した
後の項に於て 詳しく触れるが 昭和19年10月初旬 私は関東 憲兵隊教習隊(当時 新京市 現在 長春市)に分遣の命を受け 在隊中 教習の余暇に主に同一区隊の教習兵同士の間で 当然の如く 出身原隊の事が話題の中心になった 主として歩兵科出身の者が 断然多かったので 其れ等の部隊の事が対象になる
以上の3條件が揃えば 軍隊内務令に於て律せられた事は完全に 近い状態で履行される事は 肯定するに充分である 新兵の教育は 第1期検閲終了までは 古兵とは別に内務班を設けて教育されてゐた事 を付記する
琿春到着早々の頃 中隊初年兵総員集合の場で 中隊付先任將校教官 吉田 少尉(少尉候補者出身)の訓辞の中に「初年兵と整頓は 叩けば叩く程 良くなる」の一下りがあった 教官の言はんとする処は 大体に於て諒解出来たが 第1班長M軍曹 第2班長K軍曹の2名は 必要以上の暴虐性を以て 教官の訓辞を 文字通り忠実に実行した (此の軍曹は佳木斯に移駐後 日ならずして宇品に在った船舶工兵隊に 転属した 其処で外出中に強姦を犯し 宇品憲兵隊員に逮捕された 被害者の親権者の告訴に依り 軍法会議に送致された 〜後は 憲兵転科後 此の事実を戦訓資料に依って承知)
それに反して 第3班 〜 第6班の各班長は 其の様な野蛮な教育は しなかった 從って 其れ等の内務班の空気は 正に和気に満ち 満ちてゐた 同一中隊 同一兵舎内に居住し乍らも 上官殊に 内務班長の人間性如何が 此の様に相違した
戦闘兵科部隊内務班で 兵の階級にある者が 四六時中直接言葉を 交す上官は内務班長である 戦地にあって 上級からの命令を兵に 最終的に下すのは 分隊長 若しくは 班長である 軍人 然も兵たる者は その命令の理不尽に対し 反抗は絶対に 許され無い(反抗すれば 陸軍刑法の抗命罪に該当) 命ぜらる処 欣然死に赴くのである 欣然 死地に飛び込むか否かは 常々 兵は接する内務班長なり 分隊長の人間性如何に據る 私達の部隊 では 軍曹の階級にある者を以て内務班長に任命する方針であった
1班 〜 2班の担任する戦闘火器は 前にも記した様に 連射砲である 部隊に於て連射砲に経験ある軍曹は M、Kの両軍曹の外に 居なかったが 私達にとっては 致命的であった
速射砲実戦の場合を想定すれば 次の如きものである
縦横に展開して 激しく襲撃して来る 敵戦車群を至近の距離に 迎撃し 戦闘を交える 火器の内でも 特に 速射砲は その構造上 敵に露見の 度は極めて大である 從って 敵の絶好な攻撃目標となる 其処は好むと否とに拘らず 戦死傷率は 絶対的に大となる 攻撃弾を数弾撃てば 早急に砲の移動である 重量な砲の分解 駄載 等を迅速に行ない 新攻撃地点に推進し 直ちに 卸下 結合等の 激務が重なる 其処には 生死の瞬間の連続であるから 当然の如くに 精神状態は異常性を超越した昂奮に駆られるであらう事は 想像に難くは無い
如斯場合の罵言 制裁は 戦友間相互の死の 危険囘避と成功弾多射等の敏捷性要求の為である 從って 容認するに吝では無い 乍然 交戦終了後の上官上級者等の 部下に対する対応如何である この事は実戦の場合 特に然りである 若い純真な現役兵をして 不惜身命の境に不知不識の間に達せしめるか 否かの鍵は 正に此処に存すると明言しても過言では無からう
琿春の部隊に入隊して 2ヶ月位過ぎた頃と思う 隷下部隊巡視の為に 私達の部隊に山下奉文大將が巡視に来隊する事になった 営庭は勿論の事 兵舎厩舎 その他等々の 内外の大掃除 兵器 被服等の 手入 補修 軍馬の検査等々 部隊を挙げて大童の騒ぎになった 私達の部隊は 同じ営庭の中に 輜重隊(輓駄馬専17)と兵舎は 異にしてゐたが 一緒に居たので更に大変であった
いよいよ当日が来た 私達 初年兵は未だ乗馬に不馴れと言う事であったので ボロ隠しの為 であらう 部隊の最後列に位置して乗馬列を為して 大將の来着を待った その間 連隊長 中隊長 教官 班長に到るまで 整列がどうの 軍装がどうの 服装がどうのと 乗馬を駆走させ乍ら あれこれ注意した
遂に大將が到着した様である 営兵所では ラッパ手が歓迎を意味する吹鳴を 行ってゐる 部隊長以下の幹部は 持てる勲章 記章等の總てを佩用し 投げ刀の敬礼を行なった 部隊長は 大將に扈從して 各中隊(4392部隊は3ヶ中隊編成)を巡視した
私達の乗馬列には 来ないであらうと思ってゐたが 第1列 〜 第3列目が終ると 初年兵の 列にも巡って来た シンガポール陥落の際 敵將軍パーシバルを Yes or No で降伏を迫った時の写真で 大將を見てゐたが 実物を見る のは この時が最初であった 電光をも刺すが如き ギョロリとした眼 イカメシイ顔付 チョコレート色の顔色 体は肥満大形の為か アラブ系の 乗馬が非常に小形に感じられた 緊張の余り 体は硬直した様になった 入隊 早々の軍隊 最下級の二等兵と 最上級の大將 例えるならば 「オテントウさんとバントウさん」程の違いである
大將に随行して来た 参謀以下の將校連中の数の多かった事も印象に残る 第1方面軍司令官の来隊ともなれば 聯隊長は 私達の様な初年兵 二等兵が聯隊長の前に呼び出された時と同様に 最大級の緊張を した事であらう
あれ丈 大騒ぎをした此の日の準備に対し 巡視に要した 時間は30分も要しなかったらう 余りにも 事大主義的な 印象が強く残る
当時の関東軍の戦闘序列を示す(昭和19年5月初旬)
関東軍総司令部 | ||||
第1方面軍(掖河) | ||||
第 3 軍(掖河) | 満洲国 | 東面防衛 | ||
第20軍(東寧) | 満洲国 | 東面防衛 | ||
第 5 軍(掖河) | 満洲国 | 東面防衛 | ||
第3方面軍(斉斉哈爾) | ||||
第 4 軍(斉斉哈爾) | 満洲国 | 北面防衛 | ||
第 6 軍(海拉爾) | 満洲国 | 北面防衛 | ||
関東防衛軍 ーー | 満洲国内面防衛 | |||
第2航空軍 ーー | 第2、第4飛行師団 | |||
理由は何であれ 此の責は總て私にあった事である 兵舎から舎外に 出る際には 必らず定められた 自分の靴棚に 上靴(軍隊では ジョウカと呼び スリッパの事 革製)を置く事になってゐた 其処に 上靴を置いて演習に出た 演習が終わって戻って見ると 私の上靴が 見当たらないのである 同年兵達が心配して探して呉れたが 見当たらなかった 致し方無く 2年兵の初年兵教育係 助教の 樺沢兵長(下士勤)に報告した 「必ずあるから落ち付いて探して見ろ」 と云って 兵長も一緒になって 探して呉れたが 見当らなかった
行方不明になった事は勿論であったが 荒神様や神様連中の制裁を 最も怖れた 上靴の支給は1足丈である 履いてゐなければ 直ぐ解る事である K兵長が此の事を耳にした 小声で 「サンクッテ来い その位出来なければ 1人前の兵隊になれんよ」 と言った (軍隊では隠語で窃盗する事を サンクル と言う) 結果から考えれば 此の事に就いて 樺沢兵長に相談し 早急に 班長に報告すべきであった 併し それを考える 余裕はその時の 私には全然無かった
夕食後 私は厠に行くと偽って 第2中隊の 玄関に勇を鼓して(本当に勇を鼓した)這入った 靴棚の辺りには 幸なことに誰も居なかった 靴棚を見廻すと 丁度 薄れた 文字の判読の困難な上靴を見付けた 私は素早く 其の上靴を掴み取って 韋駄天の如くに 一気に内務班に戻った 日夕点呼は無事済んだ が此の後で 2中隊の週番下士官の兵長(下士勤) が「2中隊で上靴の紛失があったので 間違って 3中隊の方に紛れ込んで ゐないか探しに来た」と言った
私は良心に咎めてゐたので 早速 下士官室に走り 窃盗の旨を班長に報告した 其処え 2班の内務班長 K軍曹が 2中隊の週番下士官を下士官室に 案内した 此の時 私はどの様な制裁を受けても当たり前だ 窃盗罪で軍法会議に送られても致し方無いと覚悟した
2中隊の週番下士官は「有ればいいのです」と云って 上靴を持ち帰えった 班長からは 口を極めて罵言と共に 往復鉄拳をもらった 2班のK班長からも 連射砲の面汚しとして 数発の鉄拳を見舞った 班に戻った処で 今度は班付先任のY兵長から殺されんばかりに 殴る蹴るの制裁をもらった 縦長の顔は横に拡がる程に変型し 片眼は腫れの為 見えなくなった
私は此の夜は マンジリともせずに 真剣になって 脱走の事ばかりを考えて夜を徹した 豆満江は 直ぐ側を流れてゐるし 渡り切って仕舞えば 朝鮮だ 東に走って 北チグローワヤ山の麓に辿れば ソ聯領だ 併し 親 弟姉妹の事が 頭に浮かんで終に思い留まった
翌日 内務係 黒石曹長の出勤後 曹長に呼ばれて 中隊事務室に行った 私は昨日の上靴窃盗の 1件で憲兵隊に送られるものとばかり思って 唯々 恐怖に戦いてゐた
曹長は 「其処の椅子に腰を掛けろ」と言ったが ただ「ハイ」と云う のみで直立不動の姿勢でゐた 更に 軍曹が 「腰を掛けろ」と 言ったので 恐る恐る腰を掛けたら 曹長は 私を見つめて 「大分殴られたな 痛むか」と聞くので 痩せ我慢をして 「何でもありません」と答えた
「昨日の上靴の件は 今朝 班長から報告を受けた お前のやった事は 悪い事だ 決して褒めるべきものでは無い お前は自分の行為を どの様に思うか」と曹長は訊ねた 私は「悪い事であります 後悔をしております どの様な制裁をも お受け致します」と答えた
曹長は 「俺も初年兵当時 班長 古兵 の無理難題に苦労した 物品の紛失 事故等で 懊悩した事 辛いだらうが 初年兵の間の辛抱だ 今後間違った考えなど起こしてはならん 以後困った事があったら 直接 俺に話を持って来い 今度の事は 内務係の俺止まりで処理し 中隊長殿には 内密にしておく」等の事を 諄々と訓戒された
入隊以来 この時程 條理を尽くして説諭された事は無かった 私は 曹長の前で 声を出して泣いた 止め度も無く涙が出た 「もう良い 涙を拭け」と言って ハンカチを出して呉れた 又 涙が出た 私は申告をして事務室を去らうとすると 「一寸待て 以前よりは程度は落ちるだらうが 此れを履け」と言って 代わりの靴を支給して呉れた 有り難い事であった
此の黒石曹長は 軍紀の弛み勝な 予備応召者には 鬼軍曹の様に 思はれてゐたが 弱い立場の補充兵 初年兵には 正に味方の様な 存在の人であった 私的制裁は 軍隊内務令に據って 禁止はされて ゐたが 私達の部隊に関する限り 完全に守られてゐなかった
軍隊内務令 第168 を引用する
「犯罪ノ嫌疑者ヲ互選投票シ 又ハ私カニ懲戒 糾問 制裁等ノ行為アルヘカラス」
又 同令 第178を引用する
「兵ニシテ事故アリタルトキハ何事タルヲ問ハス 速カニ内務班長ニ届ケ出スヘシ」
某日午前の演習を終り 班内に戻った処 私の整頓棚に置いてある筈の 予備の略帽(正式名は略帽 一般的には戦闘帽と呼んだ)が見当たらない のに気が付いた 食後の後始末もあり 又午後も引き続いて演習がある ので 丹念に探すこともせずにゐた 毛布の中にでも謝って 畳み込んだ 位に思い 今日の演習後 探せば良い位に思い 気軽な気持でゐた
演習終了後 その訳を清水2年兵に話し 探すのを手伝ってもらったが 寝床の附近には見当らなかった 清水さんは「一寸待てよ」と云って 古兵の整頓棚をジーット見渡して居たが T上等兵(予備役 Y.K兵長と 同年 洗濯嫌いで不潔感あり 予備の為 班内では暇があるのか 唯 漫然と補充兵 初年兵のミス探しに懸命 Y兵長に告げ口が 日課 の一ツ 平素より彼の盗癖に2年兵以上の者 警戒あり)の整頓棚を見て 「あの略帽は お前のだぞ」と言った
見れば確かに私のものである 同じ様な形をしたものであっても 自分の支給されてゐる物は 直ぐに分るものである 清水さんは「俺に任して置け 他人の居ない 処で話を付けて遣る 明朝厩作業の終るまで待て」と言った 翌朝 清水さんの骨折りに依って 私のものである事が確認された
T上等兵に清水さんと私は交渉をした Tは此処ではマヅイ 別の場所で話をする」と言って 朝食後 私達を洗面所に連れて行った そして そこで Tは「俺の外出用の略帽の型が 気に食はんので かなわんから 止むを得ずの手段であった 悪く思はんで呉れ その代りに 日夕点呼までに 必らず 員数を付けてやる それで良い だらう」と言った (軍隊隠語では数を揃えることを 員数を付ける と言った その為には 発見されなければ 盗品であると否とは 一切不問)
幾ら私が初年兵であるからとて馬鹿にするなと心中思った 余りにも身勝手な言い分では無いか だがこのT上等兵は今までに 私を含めて初年兵や補充兵に1度も私的制裁を行なった事は無かった 神様でも無ければ かと言って 仏様の何れにも属さない男であった 平素の気の小さい男でもあったので 憐憫の情も湧き 我慢する事にした
清水さんは「お前それで良いのか」と尋ねたので 私は「良くあります その代り上程度の物を お願いします」と言う 事で承知した Tは約束通り 何処で どの様にして 員数を付けて 来たのか 代りの物を持って来て呉れた 程度は良く無かったが 我慢するより致し方無かった 騒ぎを大きくする事によって罪人を出す のを怖れたし 班長の制裁を最も怖れた 初年兵と雖も 予備役応召の 勲八等白色桐葉章に貸しが出来た事は 大いなる優越感を味わった 先ずは 1件落着であった
軍隊では便所を厠(カワヤ)と呼ばせた 私の満洲第4392部隊での 生活中一番好き?な当番は 此の厠掃除当番(半週勤務)であった 何も厠掃除を趣味と心得た訳では無かった 大便器の雑布掛けは 素手で行なう 故に決して愉快と言えるものでは無かった 併し此の当番に服し 掃除中は荒神様 神様連中の直接監視も無く 又其の結果に就いても唯の1度も文句を言はれた経験が無かった
掃除終了後 週番上等兵に報告をするのであるが 滅多な事に 点検にも来なかった おまけに此の当番に付くと石鹸の特配があった 当時軍隊でも石鹸は配給制であり 配給量丈では不足気味であった 食事当番 中隊当番 班長当番等に比すれば 異常なばかりの 神経を消耗する事も無く 苦痛からの大解放であり 此の当番の 好きな所以であった
厠の事を記した ついでに 大便所の扉の内鍵を掛ければ 此の臭い 密室は初年兵にとっては 正に楽園であった 理由は 配給の 甘味品(軍隊では菓子類の事を カンミヒンと呼んだ) 主に カリントウ であったが この密室の中で喰べたし 命がけで煙草も喫った 又 家から友人から来た手紙も 此の密室で何囘も繰り返しては 読んだものである 軍隊生活をした者であれば 相当数の者が 此の臭い密室で 以上の様な少時の寛ぎを経験した事と思う
満洲第4392部隊は 前にも記した様に 乗馬騎兵であり 3ヶ中隊だけの 部隊であった 歩兵科と異なり 少兵数であり 其の上 勤務兵も多く 病馬廠派遣勤務 官舎当番 他部隊教育分遣等々の者も多く 為に不寝番は半夜交代であった 初年兵同士や補充兵等とペアを 組んでの 不寝番勤務には 何等の問題は無かった が 神様連中と 初年兵がペアを組んでの勤務が一番厭であった
例えば 初年兵が前半夜勤務の場合 深夜に交代時刻の約5分前に 後半夜勤務の神様を起こす(此の起こす時刻にも神経を使った 10分も前に起こすと 大目玉を喰うのである)と「ウン解った」とは 云うが仲々起きないのである 定刻を30分も過ぎた頃 再び起こす のであるが「ウルサイ判ってる」と言ったきり起きずに 朝の起床ラッパ 30分位になると起こしもしないのに 起床して来て「直ぐ寝ろ 誰にも云うなよ」と言って 後半夜異常無し」を報告するのである 「寝ろ」と言はれた 初年兵は 襦袢袴下だけになり床には 一端 這入るが起床ラッパが間も無く鳴るので 起床する演技も誠に 辛いものであった
一方 神様が前半夜勤務の際には 午後11時を過ぎた頃には 必ずと言って良い位に「腹が痛む」 「頭が痛む」等の理由を告げては 初年兵に交代を強要するのである
初年兵や補充兵は 文字通り不寝番であり 対する 神様は熟睡番であった 但し 内務係 黒石曹長が週番士官の際は流石の神様も控えておった 事である
軍隊内務令 第165を引用する
「上級者ノ取扱 縦ヒ不條理ト考フルモ 決シテ之ヲ争ヒ 論スルコトヲ許サス 但シ徐ロニ順序ヲ経テ其ノ意ヲ陳フルハ 妨ナシ 此ノ際兵ニ在リテハ 要スレバ直接 准尉ニ上申 スルコトヲ得 又 上申ハ二人以上共同若クハ勤務中ニ於テ 之ヲ為スコトヲ禁ス」
上記の前文は 確実に厳守を義務付けされて 実行されてゐた 但し書にある様に 上申の途も開かれてはゐたが この但し書は 兵に関する限りは 死文であり 空文であった 中隊幹部は此の事実を 識らなかったでは済まされぬと思う 事実知ってゐたとするならば 此の不條理を確認する努力を怠ってゐたとしか思え無い 此の辺りにも 寄せ集め部隊の性格を垣間見る思いがした
丁度其の日は豪雨であったので 野外演習は中止になり 砲廠 (此の部隊が建設される前には朝鮮人農民の耕作地であった 其の 農地を強制買収して兵営を造った 其の際 土壁造りの家屋を 取り壞はさずに その侭 砲廠として使用してゐた 粗末な扉に 施錠はしてあったが 簡単に壞して這入れる様なもので 砲廠週番は 勤務してゐなかった)で 速射砲各部の名称の説明(学科演習と称した) が班長によって行はれた
軍特有の兵器用語であり 軍隊ボケしてゐた 頭脳では理解に苦労した 文字を記し乍らの説明であれば 早く各部の名称も記憶し 理解も出来たであらうが 「砲身」 「車輪」 「測距眼鏡」 「脚」位までならば 実物を指し乍らの口頭説明でも 理解出来たが 「ヨウガ」 「キャクグ」 「チョウガ」(その他たくさんあったが 忘却)等々になると どの様な文字で書くのかな? 等と考えるので 仲々に骨が折れた
其の上に 砲に関する操典を取り出し 弁慶がなー 式の読み方で教育をするので 一層 理解に苦しんだ 一応の教育も終はり 「質問があれば受ける」との事であったので 上記片仮名の部品名に就いて どの様な漢字を書くのかと 私は質問した 班長は 何を思ったのか「貴様 此の野郎 ナメルナ 此処を何処だと思ってゐる 軍隊だぞ 学校では無いぞ」と言うが 早いか鉄拳の往復を以て 質問に対する囘答に代えた
私は何の為の鉄拳なのか 此の時は分からなかったが 日を経るに 從って判って来た 此の事があって以来 私は班長に質問する事を 一切控えた 班長に対する不信感は 一層募るばかりであった
結果的には 私の無精に基くものであったが 右手親指の爪が瘭疽 に罹った時の事である 最初は多少 ウズク程度の痛みで 少しばかり の熱が患部にあった 余り気にかける程のものでは無かった 其の日 の消燈後から 本格的に痛む様になった 熱も大分あった様であった 就寝してから 左手で患部を強く握り絞めたり 離したりを繰り返して 居たが 痛みと熱は一向に解消しない所か 増々痛みは激しくなり 体中が熱っぽくなった 窮余の策で 私は飯盒に洗面所から水を汲んで 来て その中に右手を入れて患部を冷やした 気持ちが楽になった だが水が温まって来ると 其の効果は薄れて来る その度に水を 代えに洗面所に通った
グッスリ寝て居た清水2年兵が気が付いて 「お前は何をしてゐるんだ」と訊ねたので 訳を話したら 小声で 「お前 明朝の日朝点呼の際 班長に診断を申告しろ 俺は明日 伝言使 として北鮮の慶源行きだから 休暇外出と同じ様なものだ 寝なくても 平気だ 後は俺が水を汲んで来てあるからな」と云って呉れた時には 「地獄に仏」の様な思いがした 此の時ばかりは 清水さんの親切に 甘えた 清水さんは起床ラッパの鳴るまで何囘も水を取り代えて呉れた 有難たかった 清水さんの寝ずの看護にも拘らず 痛みは更に激しく なった 此の為 一睡も出来なかった
日朝点呼の時 清水さんは 班長に診断を申告する様 再び奨めたが 私は「日夕点呼まで我慢 します」とその忠告を素直に受け入れなかった 班長や神様の制裁 の方が痛みよりも 恐怖に思えたからであった 日中の演習は 普段でも鈍な私は 指の痛みと熱の為 一層 鈍になり 教官や班長から 怒鳴られ通しであった
その日の日夕点呼の際にも診断を申告し なかった 点呼後 伝書使勤務の清水さんが帰隊した 清水さんの顔を見た途端 痛みに対する我慢の限界を越えて仕舞った 清水さんは「馬鹿だなあー あれ程 俺が言ったのに」と言って 初年兵教育助手の樺沢兵長(2年兵 下士勤)に伝えた 樺沢兵長は 「お前もう手遅れだぞ」と言って 中隊付衛生兵の緑川 上等兵(2年兵)を呼んで来て見せた
緑川衛生上等兵は 「既に 軍医殿は退営された後だしなー 併し明日まで放ってはおけん 直ぐに班長殿に報告した方が良い」と言ってゐる処に Y兵長が来た Y兵長は 「何ッ 瘭疽だと? それ見せろ 何んだ大騒ぎする程の ものぢゃねぇかよ 北海道になんか石鹸などと言う文明品はないん だろう? 軍隊に来て初めて石鹸を見て使い方も知らんのだらう 石鹸はなー 汚れを洗い落とすもんだ 良く覚えて置け 軍隊は 医者料が タダだと思いやがって 此のフザけた野郎 此の位のものは 俺様が治してやらあー」と云って 往復ビンタをもらった
其処え班長がやって来た 「貴様 馬鹿野郎 班長を困らせる気か 中隊長殿や 黒石曹長殿に ヤキを入れられるのは この俺だぞ」と云って 班長からも 数発の鉄拳をもらった 班長と緑川衛生兵とで話をしてゐたが 医務室に行く事になった 此の週の週番士官は 名は忘れたが 確か 甲幹出身の見習士官であった 第2班長のK軍曹も一緒に 医務室に来た
軍医官の診断に據る手術では無かったので 麻酔薬の使用は許されなかった 手術は飽くまでも軍医官の診断 を要したが 週番司令 週番士官 本部付衛生曹長 3者の暗黙の諒解 の下に行なはれた 班長は 私の体を後ろから羽交締めに押え込んだ 緑川衛生上等兵が私の右親指を固く握り絞めた K軍曹が私の左手首 を両手で握り絞めた 本部付衛生曹長が一段高い台に登った 緑川上等兵が眼を閉じろと言った
私はすっかり諦めた 覚悟した 本部付衛生曹長が「此の位 化膿してゐれば 手術に丁度手頃だ 何 虱が噛み付いた程の痛さだから 安心しろ」と言うが早いか 麻酔無しの幹部にメスを入れた 私は此の世の地獄では無いかと 思う程の痛みを全身に感じた 耐え切れずに班長等3名にブラ下がった K軍曹に脇の方から 蹴飛ばされたが 直ぐには立ち上がれるものでは 無かった 軍医官の診断無しの手術であった為に 正式の練兵休は 許可にならず 從って其の後の治療は總て軍医官退営後の 主に日夕点呼後であった
馬手入れの際 左手では蹄洗も思う様にならない為 患部のある 右手を使った 治療中と雖も 化膿は4囘繰り返した 傷の完治には 4ヶ月を要し 更に満足に近い状態に爪の形がなるのには 憲兵教育隊に 分遣されてからの事であった
軍隊内務令 第233を引用する
「劇毒薬ハ錠アル容器ニ収容シ 其ノ鍵ハ衛生部將校之ヲ 保管シ退営ノ際 内務衛兵司令ニ預ケ置クヘシ」
某日 私は厠(便所)に行く為に 班内に居た最上級者のY兵長 (班付先任)に其の旨を告げるべく 「中倉二等兵 只今より厠に行って 参ります」と申告し 班を出ようとしたら 其の途端に 常に初年兵や 補充兵のアラ探しに極めて精勤な彼は 「中倉一寸待て オイ 皆んな聞いたかよ 中倉の奴 二等兵と言いやがった これでも 二等兵の心算で居るらしいぞ ロクな演習や内務も シクサラン で 事務室ばかりに シケコミ やがって フテエ奴だ テメエ見テエナ奴は 陸軍二等兵の下の陸軍劣等兵と言うんだ 解ったか 解ったら あと1囘やり直しだ」
私は止む無く 「中倉劣等兵は ・・・」 と心中穏かならざるものを抱きつつ申告した Y兵長は更に 「オイ 皆んな 聞いたかよ 中倉の奴 自分から劣等兵と名乗って 居りやー 世話ネエヤ 軍隊は これだから退屈 シネエヤ アハハハハー」 私は「忍」の1字で耐えた だが天罰覿面 その週の週番士官の 内務係 黒石曹長の耳に どこから どの様にして 伝はったのか その日の日夕点呼後 Y兵長は 事務室に呼ばれて 曹長から 鉄拳制裁 を受ける結果となった 私の不穏な感情は 心で「ザマ見ろ」 と叫んだ事に依って解消した
私達の満洲第4392部隊が間島省琿春から 北満 三江省 佳木斯に 移駐する直前の頃であった 私が熱発で 医務室の休養室に 入室してゐた時に 日夕点呼後 私達の内務班長M軍曹が珍らしく 本当に珍らしく 笑顔(荒神様の笑顔を入隊以来初めて この時に見た)で 私の入室してゐる休養室に這入って来た
大分酔が廻ってゐたロレツがはっきりしない 班長は「俺は今度 東京城(牡丹江省寧安県 ー 日本人は トンキンジョウと読んだ 満人は ドンピンチェンと読む) の航空隊に転属の命令を受けた 着任後曹長昇任の内命までもらった 今度は 営外居住になれる人だ 今まで速射で苦労した甲斐があった」 と一気にシャベッテ 良い機嫌で帰って行った
私は班長が転属になり此の部隊に居なくなるのを非常に嬉んだ その意味で 「御芽出度うござゐます」と言って祝ってやった 班長は「東京城」を トンキンジョウと言はずに トウキョウジョウ と言って戻った。 班長は 准士官 下士官 集会所 で送別会を催してもらった帰りに 私の処に立寄ったのであった 班内随一の劣等兵である私の処まで 転属を知らせる為に 立寄ったのであるから 余程嬉しかったのであらう
班長が帰った後で 私の瘭疽の手術にメスを入れて呉れた 本部付衛生曹長が私の入室してゐる休養室に這入って来て「M軍曹の奴 送別会の席上で頻りに トウキョウジョウを連発して 内地の東京に 転属して 宮城警備専門の航空隊に行けるものとばかり1人合点して 得意になってゐたのを 其の誤りを誰も指摘せずに 御芽出度う を別の意味で言ってやり景気付をしてやった」と話してゐた
私は 其の話を聞いて 滑稽にも思ったが 同時に憐れみの様なものも 感じた 班長の転属を義理にも惜しむ 初年兵や補充兵は 1人もゐなかった 全部隊の下士官連中もM軍曹の転属を或る意味に 於て拍手して歓送した事であらう
私は憲兵転科後の任地は 石頭(セキトウ、牡丹江省寧安県石頭村) であり 東京城には石頭憲兵派遣隊と同じ寧安憲兵分隊指揮下の 東京城憲兵分遣隊があり 度々事務連絡に出張した事があった その折に 航空大隊に転属したM軍曹の其の後の消息が知り度くて 庶務主任 下士官に調べて呉れる様依頼した だがその時には 既に その航空大隊 そのものが他処に移駐した後であったので 遂に分からず仕舞いであった
一期検閲の直前の頃であった様に思う 私は班長に呼ばれて 下士官室に赴いた 其処で班長から「蹄鉄工兵を志願する様」 申し渡たされた 私は「希望しない」旨を答えた 不思議な事に その日は何事も無く班に戻った 其れから数日して 再び班長に 呼ばれて 下士官室に行った 此の時も班長から 再度 「蹄鉄工兵志願する様」に申渡された 此の時も前囘同様辞退した
班長は「お前の親は牧場を経営してゐるので 蹄鉄工兵になれば 除隊してから 大いに役に立つぞ」と言って頻りに志願する事を 迫った 私は再三 辞退した 班長は殴る事もせずに辞退の 理由を訊ねた 私は「志願は飽くまでも個人の意志に基くもので 他から強制される可き性質のものでは無いと思います」と答えた
私は既に此の頃から 他部隊に転属の事ばかりを希望してゐた 劣等兵は劣等兵らしく 除隊まで 満洲二等兵を覚悟と言うよりも 進級は戦死するより他に無いと諦めておったし 班長を軽蔑し 切ってゐたしで 班長には 不貞腐った態度をとる事にしてゐたので 殴るなら殴れと思った
按の定 班長は昂奮した「俺は中隊長殿の 命令に從って お前に志願をする様 話をしてゐる 貴様は 中隊長殿の命令を聞けんのか」と怒鳴った 私は 「黒石曹長殿に相談します」と答えた 「貴様 何を言うか 班長を馬鹿にするのか」と言って往復ビンタ数発を見舞はされた 私は不貞腐った態度で気の済むまで殴れと思って 班長を睨み返えした 「貴様 此の野郎 班長に反抗しとるな」と言って 再び殴ぐられた 口の中が切れた 鼻血も出た 私は此の時 班長に対し 真剣になって殺意を覚えた
軍馬の多数居る部隊(騎兵 野砲兵 輜重兵等)には落鉄予防及び 落鉄した際の蹄釘締めの要員として各中隊に数名の蹄鉄工兵を 控置した 「死よりも怖い テッチン工」 或いは 「死ぬ方が楽な テッチン工」と称し その修業の激しく 且 厳しい事の表現した 「テッチン工」とは蹄鉄工兵の軍隊隠語也 此の代役は 真面目な事では 中隊随一の同班同年兵の横木藤吉君 に白羽の矢が射られ 立派に修業を終え 後日「装蹄師」の免許状を 師団獣医部隊長 及び 農林大臣より下付された由である
それにしても 横木藤吉君(増毛郡増毛町)には 誠に申訳の無い 事であった 紙上から深くお詫び致します
蹄鉄工兵志願強要のお粗末劇の数日後 私は内務係 黒石曹長に 事務室に呼び出された 曹長に蹄鉄工兵志願を奨められたら どの様な理由を付けて辞退しようかと その事ばかりを考えて 曹長の前に進み出た
だが案に相違して蹄鉄工兵の事は何も話は無く 曹長は 「俺は高田軍曹から聞いたのだが お前は憲兵志願であると 言う事だが 本当か」と訊ねられた 私は「ハイ」と答えた 曹長は 「憲兵には下士官志願と兵志願の2通りあるが どちらを 希望するか」と訊ねた (下士官志願の外に兵志願がある事を此の時 初めて知った) 曹長は更に「下士官志願は 在営1ヶ年以上 兵志願は5ヶ月以上と決められてゐる」と付け加えた
私はタコ部屋同然の内務班から1日も早く脱け出し度いと望んで おったので 下士官志願であらうと兵志願であらうと その様な事は 一向に頓着しなかった 私は本音を隠して「自分は長男であり ますから 兵志願をします」と建前論で答えた 曹長は「良し諒解 其の様に 本部に上申の手続きを採る 帰って宜敷い」
私は 正直言って 天にも昇る思いがした これで どうやら俺も ウマク行けば 脱け出す可能だなー 然も合法的に 荒神様や神様連中と縁が切れるなー と思ったら 急に軍隊がバラ色に感じて来た 私は高田軍曹の使役に出た 折々 他部隊に合法的に転属する方法を訊ねた事があった 高田さんは「お前はそんなにM軍曹が嫌いか 良く解る様な 気がするよ 憲兵志願をする気は無いか」 私は即座に 「あります」と答えた事があった 其の事が黒石曹長に伝えられ たのであらう
此の事があって 間も無く 班長から「お前は黒石曹長や 高田軍曹には話は出来ても 班長の俺には話は出来んのか 班長を無視してゐる証拠だ」として 入隊以来最大級の鉄拳を もらった 心中で「当たり前だ」と叫んだ
憲兵志願の意を内務係に伝えて間も無く 私は中隊命令に據って 事務室使役を命ぜられた 勤務の内容は 内務係管掌事務の 助手である 具体的には 中隊員の功績名簿 軍隊手牌 勤務割出簿 等の精書 命令囘報簿の整綴 日報記入 其の他の 係の書類整綴 其の他等々であった 事務室には既に 3年兵の 兵長 関 豊さん(四制美校卒 旧制中等学校教諭 現ー東京都 練馬区)が助手として勤務してゐた
執務に就いての要領 其の他 等に就いて 直接懇切に指導して頂いた 人格 識見 教養ともに 尊敬すべき 立派な方であった 中隊に掲示する總ての毛筆書は 總て関さんの筆に據った 見事な書であった 関さんの様な人が どうして 幹部候補生を志願しなかったのか不思議に思ってゐたので 2人丈の時に 事務を執り乍ら聞いた事があった
関さんは「落ち幹」だよと言ったのを 私は「乙幹」と聞き違えた それにしては幹候を表示する徽章(俗に座金と称した)を付けて ゐないので 更に尋ねたら「落ち幹」と言って 甲乙共に幹部候補生 不合格の事を自蔑する意味だよと説明して呉れた「落ち」と「乙」 の聞き違えであった
黒石曹長からは「執務中識り得た件に関して如何なる事も他言 する事を禁」ぜられた 個人の名誉に関する極秘な事もあった様に 記憶する 此の事務室使役に勤務する事に依って 神様連中からは 以前よりも更に 初年兵のクセに 生意気な奴だと言う事で 冷遇される羽目になった
遂に来た 私は此の日の来るのを一日千秋の思いで待ってゐた 憲兵志願の希望を内務係 黒石曹長に伝えたのは 部隊が未だ 琿春に駐屯して居た時であった 部隊は師団が 三江省佳木斯に 移駐したのに伴ない 同様に移駐した 為に憲兵志願は取り消し になったのでは無いのかと危惧してゐた
処が内示は移駐後 程無くして 正式発令の5日程前に 黒石曹長から伝えられた 内示後は 黒石曹長から中隊事務室で受験準備の勉強をする事を 内々に許可された 併しそれを勉強するにしてもどの様な問題が 出るのか分らなかった それにも増して参考になる様な書籍類も 無かった 仕方が無いので 軍人勅諭 戦陣訓 典令範等 中隊事務室 備付けの本を手当たり次第読んだ
高田軍曹や 関さんから「幾何や代数等も出題されるかも知れんぞ」と言はれたが 軍隊ボケして しまってゐるので不安になって来た 高田さん 関さんに 問題を作ってもらって 解いて見たら案外簡単に解けた 尤も問題は其れ等の極く初歩的な程度のものであった それでも自信の様なものが 多少なりとも湧いて来た
いよいよ採用試験が明日に迫った前夜の囘報の折に 高田軍曹に依って 命令が達せられた 「中倉二等兵は 明日 午前8時30分 佳木斯憲兵隊本部に出頭すべし」 各中隊から 受験者は各々1名であった 1、2中隊の受験者は 2名とも 2年兵であった 初年兵は私1人であったので心細かった 当日は軍用トラックに乗せられて 本部付曹長の引率で佳木斯憲兵隊 本部(一般警察では 当時の道府県警察部に相当)に出頭した
本部前庭には既に多勢の受験者が各部隊より集合してゐた 其の内に続々と受験者が集合して来た その面々を見ても 優秀な者達に見えて 私は試験場に這入る前に既に不合格を 覚悟してしまった 受験者の中には 精勤章を これも 3本も付けた 2年兵 3年兵と思はれる上等兵の階級の者が 相当数居た その証拠に軍服も上等の部類のものを着て居たし 私の軍服の様に三装以下のクタビレ果てたものを着てゐるものは 居なかったのと 如何にも軍隊馴れした態度であった
やがて定刻になり呼名点呼に據り呼び出され 受験番号票を 渡され試験場である大講堂兼武道場に入り指定の番号席に着席した 1、2中隊の2年兵も神妙な顔をして着席した 試験管は憲兵中尉であった その他に准尉 曹長 等の補助官が数名居た
試験官から受験に当たって の注意が達せられ 本日の受験者総数 150名 採用予定者約40名 試験内容は憲兵下士官志願者と全く同様である旨が述べられた 3.75倍の競争率である 全然気おくれしてしまった これでは完全に駄目である 試験官は「受験に自信の無い者は 答案用紙配布前に退席して宜敷い 其の分だけ 採点の手間が 省ける 遠慮するな」と云った 此れには度肝を抜かれた 激しく自信が減退した
だが誰も退席する者は居なかった 試験科目は 修身 国語 数学 歴史 公民 面接 等であった どの様な 問題であったか その殆を忘れたが 未だに記憶に残るのは 次の様なものであった 「朝見の儀」(天皇の践祚の際に群臣を召して 勅語を賜う儀式) これは昔 学校で習った事はあったが 不勉強の為 思い出せずに(天皇が臣下に謁見を賜う儀式)なる迷答を書いた これは 面接試験の折に憲兵准尉から「勝手な解釈」として 指摘された想い出が濃厚に 今に到るも残る あと一つは 「天尊降臨の詔勅」を誤字 当て字 脱字 無く記せ であった 此の勅分は分ったが何としても 正解の漢字の思い出せない ものがあったので その部分は 片仮名で書いた これも面接の折に 勉強不充分なりと指摘されたのを今以て想い出す
試験は午前9時開始され 昼食の1時間を除いて 午後5時まで 一杯行なはれた 帰途トラックの荷台上の3名は 全員不合格を 決め込んで仕舞った
翌日 黒石曹長 高田軍曹 関さん達から 「試験はどうだった」 と聞かれたが 「駄目でした」と答えるより他は無かった
前項までの記述の中で各所に 荒神様 神様連中の野蛮性を 真実の侭書き綴った 此の様に書いて来ると 私達の中隊は 悪鬼の棲家の様な印象を持たれる事を避ける為に 人間性豊な 人々の居た事も併せて記し度い 在隊中の好印象が現在に到るも 記憶にある方々は
中隊付幹部 | |||
曹長 | 黒石義美氏 | (現役 高知県香美郡) | |
軍曹 | 高田國康氏 | (現役 東京都西多摩郡) | |
第1内務範 | |||
兵長 | 富田平吉氏 | (予備役 埼玉県秩父郡) | |
兵長 | 樺沢藤吉氏 | (現役2年兵 群馬県勢多郡) | |
上等兵 | 伊藤 由氏 | (現役2年兵 茨城県水戸市) | |
一等兵 | 清水 滋氏 | (現役2年兵 静岡県) | |
他範 | |||
兵長 | 関 豊氏 | (現役3年兵 東京都練馬区) |
同年兵 補充兵は言うまでも無く 同病相憐む仲であり 辛苦を共にした 最も信頼のおける そして遠慮無用の同郷出身の者達ばかりである 其の友情は絶える事無く続いており 毎年開催の戦友会には 会旗の下に顔を揃える仲間である
半ば以上 憲兵に採用される事は諦めては居たが 心の片隅には 若しやと言う淡い望みが無い訳では無かった 採用試験から 相当の日が経た頃 関さんと共に事務室で執務してゐた時 朝から 本部に行ってゐた 黒石曹長が戻って来た 曹長は 思はせ振りな笑いをして 私の方を見てゐたが「中倉来たぞ 良かったな」と言った 私は咄嗟に「憲兵の事でありますか」と 尋ねた 曹長は「その通り 此の部隊では お前1人だけ合格だ 詳しい事は後で話す」と言って 中隊長室に這入って行った 関さんは「良かった 良かったなー 俺は合格間違無しと思ってゐた」 と言って 我が事の様に嬉んで祝って呉れた やがて中隊長が 曹長と一緒に事務室に来て 「中倉 おめでとう だが俺は憲兵 と言う兵科は気に入らんのでなー 中倉が断はる気があるなら 今から断っても差支無いんだぞ 黒石曹長にも話はしておいたが」 と言って事務室を去った 私は起立して聞いてゐたが不安になって 来た
中隊長は口では おめでとうと祝って呉れたが 腹の中では 採用をどの様に思って居るのであらう 判断に迷った 傍らの 曹長は「中隊長殿は あの様に云ってはおるが お前の決心次第だ うちの中隊長殿は 憲兵嫌いで有名だからなー 其処え 高田 軍曹が這入って来た 曹長が軍曹に私の話をした 高田さんも 「良かったなー お前の念願成就したなー おめでとう」と嬉んで 呉れた
私は「有り難くあります シッカリ頑張ります」と大声で 皆にお礼を言った 曹長は「正式に聯隊命令は未だ出ておらん 本部の書類を見て来た丈だ 近く命令が出るが それまでは 口外をしてはならん」と申し渡された それでも私は嬉さの余り 能田 佐藤 の両君(劣等兵仲間)には「口外しない様」に頼んで 内密に知らせた
両君とも「お前 本当か 良かったなー うまくやったなー 此処を脱け出すのは お前1人で ズルイゾ」 と云って 祝って呉れたり 羨ましがられたりした 今までの隠気が 一度に晴れた 神様連中等 怖くは無いぞと大声で叫びたかった 出発3日前の日夕点呼時の囘報の折に 高田軍曹から命令が 達せられた 「陸軍二等兵 中倉鹿三 昭和19年10月○日付ヲ以テ 関東憲兵隊教習隊ニ分遣ヲ命ス」 班内で祝って呉れたり 別れも惜しんで呉れたのは 同年兵の諸君であった
此の発令後 急に態度の変ったのは 神様連中であった 「中倉 憲兵になれば 原隊駐屯地の憲兵分隊に勤務する様に なるはずだ その時には 外出日の取締りには 手加減して呉れよ」 であった そして Y兵長(下士勤)の如きは「被服係に話して やるから 被服類は一装用ばかりに交換してもらえよ」と お世辞を 言った 私は最後の抵抗を試み キッパリと「御心配無用」 と断った Y兵長より先に内示直後に高田軍曹と関さんの骨折りにより 既に 中隊事務室に 全部新品の被服類が用意されてあった
新京(現 長春市)に出発する前は 黒石曹長に呼ばれ「明日は 出発が早いから これから本部に行き 部隊長殿に 分遣出発の申告 を行ない 帰りに経理室に寄って 旅費の支給を受ける様」 申渡された 二等兵が中隊長に直接口をきく事の稀な軍隊なのに 佐官 それも大佐部隊長に 唯の1人で申告する事の重大さに 威圧感を覚えた 私が「ハイ」の返事を躊躇してゐると 曹長は「これから憲兵になるものが その様な事でどうする 1人で 行って来い」と言はれて 曹長の前で 申告の予行演習を数度 繰り返えし 完全武装をして 恐る恐る本部に行った
本部週番 下士官に 申告の来意を告げると「一寸待て」と言って 本部事務室に 案内された 間も無く週番司令が来て「部隊長殿は 目下司令部 出張中に付き 代って本官が受ける」と言った 私の緊張感は 少しは解けた 申告も無事終はり 経理室に立寄って 新京までの 旅費その他を受領し 中隊に戻り 中隊長以下の幹部に申告し 班に戻って 班長(此の頃は M軍曹は他に転属し 軍曹に昇任した 遠田さんが班長になってゐた)に申告し 古兵や同年兵に挨拶した
此の時 佐藤 昌徳君から初めて 「実は俺も憲兵志願を申し出て あったが受理してもらえなかった」事を聞かされた 私は「次の機会があるさ」と言って 詫びたり 慰めたりした 其の夜は 嬉しさの余り熟睡出来ずに 厠に何囘も往った 翌日 佳木斯駅までは 乗馬で 2年兵の伊藤 由 上等兵が 付添って送って呉れた 伊藤さんからは「体に気を付けて 原隊差し戻しになる様な事の無い様 シッカリ勉強しろよ」と 激励された 私は今までの厚情を謝し 駅で別れた 伊藤さんは 2頭併馬で 何囘も振り返えっては 手を振って帰隊して 行った 私はその度に手を振って それに応えた
佳木斯駅に集合した 各部隊の合格者は 佳木斯憲兵隊 本部付 曹長の引率の下に 途中 牡丹江 哈爾浜 等経由で新京に向かった 部隊経理部の主計將校から支給された旅費 其の他の全額は 確か50円近かった様に思う 処が私達一行の旅費 その他は 總て佳木斯憲兵隊本部の経理に據って支出されてゐる事が 引率曹長の説明で分った どちらがどう言う手違いに依るものかは 解らなかったが 二重に支出されたのであった 此の二重支給は 一行の中で私1人だけであった 曹長は「後日返還命令があるかも 知れんから 教習隊到着後 所属内務班長に その旨を申告しろ」と 言はれた
併し此の金の返還命令は終戦に及ぶまで無かった 教習隊卆業の時には 班長から「預かって居た金を返す」と言って 返金して呉れた 同行の合格者の中に富錦の歩兵部隊から来た 2年兵の上等兵が「返還命令などあるものか 其の様な事をしたら 主計將校のミスになるばかりだ お前皆んなにオゴれよ」と言ったので 私は遂に其の気になって手持ちの小遣い銭の中から 途中の駅で 何を買ったか忘れたが 御馳走した 同行の殆んどの者は 車中で 既に友達になり切って 四方山話に打ち溶けた 次の日の夕方 初めて見る新京に到着し 教習隊 第3中隊 第2区隊 第4内務班に 落ち着いた
正しくは「関東憲兵隊教習隊」と称した 略して「関憲教」と呼んだ 教習隊の教育内容を述べる前に 教育指導の在り方を述べる 「憲兵を儀表兵科と定義し 監軍護法の精神に徹せよ」が教育の 大きな柱であった 從って法律学科は勿論であったが 内務教育 も又 法律学科と同程度に重点を置いた 内務教育の厳しさは到底 他部隊の追随を許さぬ程のものであった(歩兵科部隊出身者多数の言) 内務の採点に據っては 脱落する者さえあったのである 教習中に 此の事に依って 原隊差し戻し処分を受けた者が同一区隊に少数では あったが居たのである 「他を律する者は 先ず己を律せ」であった
教習隊の個々を単なる消耗品としての兵の取扱で無く 1人の 立派な人格である有能な軍人としての待過であった (壱銭五厘 視的 野蛮思想否定) 幹部が教習兵を呼名する際は 絶対に呼び棄て にしなかった 例えば「○○候補者」と呼び 「○○二等兵」 「○○上等兵」と呼ぶ事は皆無であった 全員を同じ目的の下に 修学する 同列同級の候補者としての処遇であった 同列同級の 候補者なるが故に 新年兵 二等兵も 三年兵 上等兵も 同列同級としての 取扱いである為に 各種当番 日直取締り勤務等は輪番制であった 教習兵同士が 相手を呼ぶ場合は「○○候補者」又は呼び棄てで良かった 私の場合 初年兵 二等兵であったので 相手が年次階級ともに私より 上位者を呼ぶ場合 呼び棄てにするのを少なからず躊躇したものであった
幹部から教習兵を呼ぶ場合「お前」「こらっ」「貴様」等の罵言を 発する事は絶対に無かったし 私的制裁も又絶無であった 内務の 厳しさは他に類を見ない程のものであったが 私的制裁 罵言も無く 人間的な扱いであり 荒神様 神様も居ない環境下にあった為に 其れ等の者の 私用雑用からの解放であった 精神的には原隊とは 比較にならぬ位 余裕が出来た
班長は 軍曹 又は 曹長であった 軍曹以下は実科教官であり 曹長以上 准士官 將校は 学科教官であった
教習兵 全員が最も怖れたのは 陸軍志願兵令(昭和17年11月17日 勅令 第802号にて改正) 第87條であった 即ち
「憲兵 兵候補者ニシテ左ノ各号ノ一ニ該当スルモノハ憲兵候補者ヲ免ス」として
以上の條文中の何れに該当しても直ちに 憲兵候補者を免ぜられ 原隊差し戻しの憂目に遇う事になるのであった 前にも記したが 以上の條文の何れかに該当して(学科について行けぬ者が最も多し) 原隊差し戻しになった 差し戻しになったら 不名誉と言う事で互に良く頑張ったものであった 候補者の身分は夫々が原隊より教習隊に教育の為に 分遣命令に依り 来てゐる以上 籍は原隊に在り 教習隊は教育の為の飽くまでも 仮の宿であった 私は憲兵兵を志願したのであるが 陸軍補充令 (昭和17年11月17日付 勅令第801号にて改正)に據り 即ち 「兵役法ノ定メル処ニ從カツテ 2年乃至 3年 現役服務ヲ終了シタル後 除隊セシメルモノニシテ 長期服務スルモノニ非ス」とされたものであった
大東亜戦争に依り戦域の拡張に伴ない師団の増設 從って憲兵の需要 もつれて 大幅に要求された 憲兵の補充は 予備 後備の在郷憲兵の 召集のみにては 在郷憲兵の絶対数の不足の為 その充足に大いに 支障を及ぼしたのである 然し乍ら 其れ迄の憲兵養成は 下士官を 養成するのが建前であった 下士官養成を從来通り続行してゐたのでは 將来憲兵下士官の過剰を生起する事になり 憲兵人事に差支る事を 予防しての 兵候補採用の措置を採用したのである 從って 憲兵 兵候補者は 卆業後 憲兵上等兵を命ぜられると 拝命後の 勤務成績によって 予備役編入除隊までに 上等兵 又は 兵長 特に成績優秀者は 下士官勤務適任證授与される事になってゐた
憲兵兵制度が創設されて 私達は 第2期目の候補者であった 第1期の憲兵上等兵は 私達が教習中に既に 憲兵隊に於て 活躍中であったが 実務勤務に当たって難点が相当に指摘された との反省の下に 兵候補者と雖も 第2期目からは 下士官法歩者と 教育に際し 全く差を付けぬとの方針が立てられた 從って私達は 兵候補者ではあったが 教育内容は 下士官候補者と全く同様で あった訳である (第3中隊長 吉川大尉 卆業直前少佐昇任の 入隊直後の訓示による)
憲法(日満) 刑法(日満) 陸、海軍刑法(日満) 治安維持法(日満) 刑事訴訟法(日満) 裁判所構成法 陸海軍軍法会議法 満軍軍法会議審法 特別高等警察(思想対策) 服務教程 陸軍懲罰令 兵役法 徴兵令 軍隊内務令 作戦要務令(抜粋) 陸軍礼式令 軍律会議法 外国語(満、鮮、露の 内 1語任意選択 必須) 指紋法 その他
乗馬 拳銃操法 逮捕術 留置場監守 救急看護術 巡察 停車場取締 高官護衛 護送 警務書類 司法書類作成 外来者応接 剣術 分隊教練 指紋採取 足跡採取 その他
犯罪心理学 吟詠 空手術 其の他
相当の覚悟はして 教習隊の門を勇躍して這入ったのであったが 多数の 教科書を一度に支給された時は 驚いたものであった 先ず学科授業に 耐え得るか否かであった 同じ教習兵の中には 旧制高校 旧制専門学校は 言うに及ばず 旧制大学卆業者が多勢居た 其の連中と肩を並べての 勉強であった 平時ならば 憲兵教習兵の教育は 満1ヶ年を要した との事であったが 戦況逼迫の最中 憲兵供給が急を要すると言う事で これを6ヶ月に圧縮教育すると言う事であった 卆業時には 更に1ヶ月短縮され5ヶ月であった 1日の授業は 10〜12時間に 及んだ さればとて 内務の手加減は絶対に許される事は無かった 夕食後 点呼時限まで授業は続けられ 毎夜の様に復習の為の延燈の 世話になった 全員が原隊差し戻しの憂目に遇う事の汚名は受け度く 無かった 正に真剣勝負そのものであった
班長(千村軍曹)の話に依れば 数年前 原隊差し戻しになった兵が 原隊に帰隊途中 列車の走行中 原隊差し戻しの汚名に耐えられず 飛び降り自殺を図った者があった との事であった この為に以後 原隊差し戻しの際は 原隊より差し戻し兵 受領の為 付添 下士官の派遣方を要請してゐるとの事であった
学科の中で 私が最も興味を魅かれたものは 思想対策の特別高等警察 服務教程であり 次いで満語(私は当初 班長から鮮語を選択しては どうかと言はれたが 取り付き難い気がしたので 満語を選択したが 思想対策に興味を感じてから 鮮語にすべきだったと思う様になった) であった
思想対策の中に 資本主義 社会主義 共産主義 自由主義 民主主義 帝国主義 帝国主義の崩潰 共産党 八路軍 国民党軍 ロシア革命 労働組合 地下秘密組織 アジト オルグ スパイ 武装蝶者 二重蝶者 平時謀略 戦時謀略 その他 沢山の耳新しい用語 地名 人名 (李承晩 金日成 毛沢東の名を記憶する)等々の講義に興味津々 1時間の時限の短さに不満を覚えた その様な具合の為であらう 良く教官に質問した 教官からは冗談に「変な方に 思想天候するなよ」 と言はれたものであった
教官の氏名を忘却したが 満洲事変 当時 新任の憲兵上等兵として從軍し 後 准尉の際 予備役編入願を出して 満洲国警察に奉職中応召し 少尉に特進して教習隊に勤務してゐた 「現役中は特務専門に勤務の為 軍事警察(警務)の経験は零に近く 憲兵としては片輪と同様だ」と 講義の合間に話されておった 私達の卆業直前 中尉昇任 鮮語 満語 等の2等通訳免許状所持者であった
満語の教官は満人であったが 青春時代 早稲田に学んだ丈あって 日本語は 日本人よりも品よく上手であった 神田の古本屋 浅草の観音堂 銀座のカフェー 等の想い出話等をしては 懐旧談を して呉れたり 親しかった学友の1人に関西出身の者が居たとの事で 関西弁を披露しては 私達を笑はせた 又 満洲娘(歌謡曲)の歌詩 「私シャ16満洲娘 春3月雪解けに・・・」を満訳しては 小声で歌って 聞かせて呉れた 歌った後で「班長殿や区隊長殿には 内証にして 下さいね 分かると軍法会議に送られますから」と冗談を云っては 笑はせたものであった 「皆さん お嫁さんをもらう時には 満洲娘を もらいなさい 皆さん 満語が上手になりますよ」と言っては更に 笑はせた 「教官殿」と呼ぶと「教官殿はやめて下さい「李」さんと 呼んで下さい 教官殿と呼ばれると皆さんとの間に厚い壁が出来ます」 と度々言ってゐたが 私達にとっては 先生であるので 「教官殿」で押し通した
李教官は 満洲国 国務総理 「張 景恵」に良く似た風貌で 如何にも大陸的性格の落着いた人であった 学校時代 英語が 最も不得意であったに拘らず 教習隊で満語の時間が楽しみになれて 授業に付いて行けたのは「李教官」の人柄と教え方の優れてゐた為 では無かったかと思はれるのである
教習隊の教官では 思想対策と満語の両教官の好印象が今だに 強く記憶の中に快く残る
教習隊の教育期は 満洲の厳寒期に当たる 10月〜3月初旬であった 学科は広い大講堂で行なはれた 其処には何基かのペチカが設置され 燃えさかっては居たが ガラス窓は終日厚い氷が凍て付いており 室内で鉛筆を握る手は冷たく 足元は冷えた 手を軽く摩擦し 足指を絶えず屈伸させても 尚 温みは来なかった 連日の圧縮授業と 内務の厳格さの為 寒さと疲れが加はって 授業中 度々 睡魔に襲はれた 時間にすれば 数瞬時であったと思うが 良く舟を漕いだ その様な時でも教官は怒る事無く 青年兵の興味を魅く様な 少しエッチな話題を持ち出し 皆が(舟漕ぎ兵を除く) ワッと笑った 処で 話を止め 本論に立戻った (皆の笑声で舟漕ぎ兵が眼を覚ますのを 見届けた上で「○○候補者は鈍いなー 教官の色話が解らんかね」 と暗に居眠りに注意を与えたものであった)
実科で最も厳格に教育されたのは 拳銃操法 実弾射撃 逮捕術(捕縄術) 救急看護法 軍刀操法 等であった
拳銃は 誤発 暴発 軍刀は混雑中の抜刀 何れも万一誤れば 他人 自己の殺傷に及ぶものである 此の術科には 中隊長 直々の 監督の下に 特に声を励ましての演習であった 過去の過失の事例 を挙げて 誤ちを警防した 「憲兵武器 使用の限界」は 軍令憲兵 である関東憲兵隊司令部に於ては「自己又ハ他人ノ緊迫不正ノ 侵害ニ武器ヲ用ウルニ非サレハ他ニ囘避スルノ暇ナキ時」の條文の 外に3ヶ條あった 此の武器使用の限界は暗唱し置く事を命ぜられ 刑法講義以外の授業中にも 突如指名されて暗唱させられた ものであった 卆業試験には当然の如く出題された
逮捕術は戦友同士が交互に模擬犯人になり 演習した 時には 班長が模擬犯人になって 捕縄を掛けるのであるが 逃走したり 抵抗して仲々思う様にならず 滑稽であった 馴れるに從い 序々に上達した
救急看護法は 止血法 人工呼吸法 三角布の応用法等であり 教習隊付軍医官が教官となり 衛生下士官が助教であり 大変有益な 内容であった
最も愉快であったのは 乗馬であった 乗馬と云っても定跡運動だけ であった 乗鞍は將用鞍であり 馬は將校用の良く調教されてあった アラブ系であった 乗馬と云っても騎兵の如く鐙無しの演習で無く 最初から鐙を踏んでの演習であり 飼付 手入 調教 装鞍脱鞍 等 總て専門のベテラン軍属の軍馬手が行なって呉れたので 正に將校 並みであった 教官は輜重部隊から出張して来る予備役応召の オトナンイ中尉さんであった 私の乗馬を見て 「貴官(中尉さんは 私達を貴官と呼んだ)の乗馬は素人とは違う様だが 出身部隊の 兵科は何であるか」と訊ねたので 私は「出身は捜索聯隊であります が 騎馬専門の騎兵であります」と答えた処 「良し貴官は列外に在って 助手を勤めて呉れ」で以後助手となった 騎兵隊の劣等兵も教習隊 に来たお陰で大いに面目を囘復する事が出来た 私が総合点に 於て どうやら 卆業認定限界ぎりぎりの点数を頂戴出来たのは 乗馬の採点に預かる処が大であったものと思ってゐる
実務演習は学科 術科の圧縮授業で 疲労が蓄った頃を見計らっては 新京の街中で行なはれた これは得る事が大であり何よりの気分 転換になるものであった 例を挙げれば巡察の目的は? 着眼点は? 巡察中挙動不審者に対する 不審訊問を行なう 法的根據は? 不審訊問中相手が突然兇器を執り出して抵抗した 場合の措置? 四囲の状況上 自己又は 他人に迫りつつある 危険囘避の方法は? 万一武器使用して 相手方を殺傷した場合 の救護措置は? 武器使用の法的限界は? 巡察中 人通りの 繁しい路上に於て放尿をなしある制服姿の軍人 又は軍属を発見 した場合の取締りの法的根據は? その後の措置は? 巡察中 橋上から將に跳び込み自殺せんとする者を発見したる際の措置 その法的根據は? 等々を班長から 次々と質問されるのであるが 普段は ○○法第○○條○○項 該当等を記憶してゐる 心算で で居ても いざ本番となり 其の場 其の場に遭遇すると 俄には 思い出せぬものであった
是等の事は帰隊してから 教科書と 六法全書と首ッ引きで調べては 翌朝 班長出勤時に 提出し チェックしてもらう事になってゐた 停車場取り締り演習は 主に南新京駅 及び 寛城子駅で行なった 此の時に満服に扮装した 班長が旅客になり済まして 私達に「ミナカイデパートに行き度いが 路を教えて下さい」 「今何時ですか」 「今 駅前の店で日本の 兵隊さんが喧嘩してゐます 取締って下さい」 等々を早口の満語で 話し掛けて来るのである 何を言って居るのか判らずに大いに 困ったものであった 後で「その様な事では満人に馬鹿にされるぞ」 と班長に言はれて 自信が減退した気持ちになったものである
昭和20年2月下旬に 約1週間に亘り 憲法を始めとする法律課目の 学科に関する綜合試験が実施された 正に薄氷りを踏む思いの 期間であり 殆の者は 食欲は大きく減退し 残飯の量は多かった 極度の緊張が漲った 眼は落ち窪んだ 結果は若干名の者が 原隊差し戻しになった 憲兵拝命を目指して互に切磋琢磨し合った 仲間であって見れば 送る者 送られる者 唯 無言で握手して別れた 非情と言えば 正に非情であった 厳しさを一入銘肝した
班長からは 合格した者に対し 次の様な注意があった
「卆業までは あと1週間足らずである 合格の余り 緊張感の解放に 依って 内務その他で 憲兵に不適と思はれる様な行為があれば 即日 原隊差し戻し 処分になる事がある 過去に於て若干名の者が 処分を受けた例がある 各自一層の自重自戒を怠らぬ様いせよ」 と達せられた
綜合試験終了後 教習隊恒例の兎狩りと新京市街見学が行なはれた
第2区隊長(准尉 氏名忘却)引率の下に 新京駅 寛城子駅 南新京駅 ヤマトホテル 満鉄綜合事務所 新京神社 関東軍司令部 関東憲兵隊司令部 日本大使館(大使は関東軍司令官兼務) ミナカイデパート(店に入り 買い物を許可された) 忠霊塔 等々を見学した
それにしても 市街地区画の整然とした 街路幅も広く 札幌市 帯広市 その他の市街地に於ても整然と区画されてはゐるが 新京の如く 雄大な 大陸的規模のそれ等のものには 到底比すべきものでは無い 悠揚迫らざる 大陸的なスケールの超大的なものであった 特に関東軍司令部 関東憲兵隊司令部 等の超豪壮とも形容すべき 建物には驚異以上のものを感じた その他の建物にしても 正に 「大満洲国」の首都の偉容を表徴するに充二分であった
忠霊塔は遠く 日清戦争以来の満洲に於ける戦没 軍人 軍属の霊を 祀るものであり 塔の高さは 格別で 高いと言うよりは 聳える程の高さ と表現すべき者であった 相当の遠距離からも望む事が出来た 此処では区隊長の指揮の下に 教習兵の全員が抜刀の上 捧げ刀の礼を以て 先輩英霊に敬虔なる敬礼を行なった
此の見学の折に 多分 寛城子駅(貨物を主に取扱う)の近くであった 様に記憶するのであるが 満洲国皇帝の宮廷 建築現場を見学した 四囲の景況を考えると如何にも 場末と言った感じで 宮廷造営に 相応しく無い場所である様に思はれた
其の日は小雪が散ら付いてゐた 雪が覆ってゐたので 良く解らなかったが 墓地らしく無い 人家から遠く離れた広い萱原に 幅5〜6米 長さ20〜30米 深さ3〜4米 位の大きな溝が掘削されてあった これが不特定多数の 無縁故の共同墓穴であった 墓穴と言うよりは墓溝であった 無縁故 且 葬儀費用の遺産の無い仏は 衣服を剥ぎ取り 丸裸にして その侭 此の溝に放り込んで置く 狼が夜間に鳶や鳥や野犬等が昼間に 夫々此の場所に来ては 仏の肉を喰らう 早く其れ等の動物に始末して もらえると それ丈 早く成仏出来るのだと言う事を 班長の通訳で 満人の墓守りから聞いた その墓守りの更に曰くには 雪一色で 分らないだらうが 狼その他の鳥獣等が啣え出した 人骨が其処等辺りに 散らばってゐるとの話で 私達は 途端に 急に寒気がした 春になって 雪が解けた頃になってから 掘り上げてある土を埋め戻す のであるが 辺り一面に散乱してゐる人骨までは 殊更に集めてまでは 埋葬をしない 今世で得た總てのものは 成仏の際 一切不要である それ等に未練の有る者は「今世の別れ」が出来ないと言った
祖先の霊を大事に祀る満洲で何故 この様な仏を冒涜する事を するのか質問したら 墓守りは昔からの習慣だから別に何んでも無い と説明した 支那全土が生前恵まれなかった仏に この様な取扱いを するとは到底思はれなかったが驚いた それにも増して 帝都 新京の 都心から幾計も離れてゐない郊外の地に於ての光景に納得の出来ない ものが残った 「地獄の沙汰も金次第」とは 此の様な事を指して 言うのかと思って見たりした
経済的に困らない 普通の生活をしてゐる満人であっても 死者が出ると 立派な棺に仏を納め墓地に棺をその侭放置し(日本人の眼から見れば 放置としか映らない)狼 鳶 鳥 野犬 狐 等に死者の体を食させる 数日を経た後に頃合いを見て 埋葬するのを牡丹江省 寧安県 石頭村の 満人墓地で見た事を思い出す
琿春の川原で 斥候演習の折に ドッヂボール大のボールが数個 散らばって あるなと思ってゐたのを 昼の休憩時に 近寄って見たら それは紛れも無く 人の髑骸であった事等を思い出し 習慣の違いを強く感じた
新京市内見学の折に どこの部隊であったかは忘却して しまったが (多分 貨物廠であったとは思うのであるが)蹄鉄の古くなったものを 加熱赤熱して叩き伸ばし 槍の穂先ならぬ 木銃(銃剣術の際に使用する 小銃に似せて作った 木製のもの)の先に固定する銃剣代用の剣先を 作ってゐる工場を見学した 鍛冶職人であった多くの人達が 軍属として 徴用されて 其れを作ってゐた
ソ聯軍と一戦を交える 際に 第一線に於て 実戦に用いるのだと言う説明を 技術指導中の 兵技將校から聞いた これまでにしなければ ならぬ程に 関東軍の 兵器は不足してゐたのであらうか 私が後に 石頭憲兵派遣隊に 勤務中の昭和20年7月10日防衛召集された補充兵 (未教育、 在満在郷軍人)達が此の木銃を以て演習してゐるのを 石頭駐屯の 歩兵科部隊に事務連絡に出張した折に見て「あの時 新京の工場 で作ってゐたものと 同じ物」であると直感した
これも前項の部隊見学の際であったが 携帯口糧を製造中の処を見学した 餅を搗く時と同様に糯米を蒸篭で蒸し上げたものを厳冬季(見学したのは この季であった)蓆に拡げ 寒気に曝し 冷凍乾燥させて 携帯口糧をする ものであった 実際に之を食糧として用いる折には その侭 食するか 或いは 熱湯を注いで加温したる後 用いれば 更に美味であるとの 説明があった
試食を奨められて 其の侭 食べて見たが 結構いけると 思った 熱湯を注ぎ加温の上 これを試食したが 熱湯に塩を 少量 加味してあったので 非常に美味しかった どこの開拓団であったか 忘却したが 其の開拓団の婦人会考案のものであるとの説明があった
正式な固有名は「関東憲兵隊特設憲兵隊」と呼び 通称「86部隊」と 称した 場所は新京特別市寛城子駅裏側の辺りに在った
任務の内容は 無線探査(ソ聯、中共、中華民国政府系 共産系 鮮満人 その他の敵性蝶者等の発信する謀略電波の傍受 探査逮捕)指紋 法医 細菌 写真 思想対策 謀略対策 等であった 此処の見学で特に 印象に残ったのは 謀略用の小型時限爆弾(煙草の空箱利用) 超小型 特殊カメラであった 詳しい説明を求めたが 機密に属するとの事で 説明を避けた 從って此の部隊の隅々までをも見学は許されず 物足り なさを感じた 教習隊の教課の特別高等警察服務教程に載ってゐた 謀略対策専門の部隊であると諒解した
尚 此の部隊の編成当初から終戦までの編成の変遷を次のページに記す
特設憲兵隊 | ||||
隊長 | 中佐 | 山村義雄 | ||
副官 | 少尉 | 印南武雄 | ||
本部付 | 少佐 | 滝山三男 | ||
第1分隊長(無線探査) | 大尉 | 吉田文武 | ||
第2分隊長(無線探査) | 大尉 | 吉岡安直 | ||
第3分隊長(指紋) | 准尉 | 四宮祐二 | ||
第4分隊長(法医細菌) | 少尉 | 菅原三治郎 | ||
第5分隊長(写真 筆跡鑑定) | 少尉 | 菅原三治郎(兼任) | ||
第6分隊長(科学) | 大尉 | 亀井真清 | ||
第6分隊の科学とは 思想対策 謀略対策 及び 事件 事象に対する 科学的(物理 化学 電気)究明である 以上の役職者は總て 現役 憲兵將校 准士官である | ||||
昭和19年5月25日(関東憲兵隊の編成改正に依る) 関東憲兵隊無線探査隊(上記 第1〜2分隊を併合) 関東憲兵隊司令部科学偵諜班(上記第3〜6分隊を併合) |
上記の1隊1班に(事実上は2隊)改編した
尚 更に次ページに続く
関東軍総司令部に於ては 満洲国内の治安維持を更に一層強化すべく 昭和20年8月1日付を以て 関東憲兵隊の警察力低下を覚悟し 全満より 多数の憲兵を抽出し 各地特務機関(正式には関東軍情報部各地支部) 及 独立守備大隊等 3者を合編して 関東軍特別警備隊(略して特警) (第1特警司令部 〜 奉天 第2特警司令部 〜 牡丹江 第3特警司令部 〜 斉斉哈爾)を新編した 所謂 関東防衛軍(満内治安維持)の発展的 解消であった 昭和20年7月末 新設の第30軍司令官の隷下に属した
前頁記載の無線探査隊 科学偵諜班は 第1特警に編入された 昭和20年8月1日 現在に於ける 特設憲兵隊の編成は
本部 (78名 第30軍司令部付) | ||||
隊長 | 中佐 | 松永光治 | ||
副官 | 少尉 | 林 幸男 | ||
戦務課長 | 中尉 | 雨宮初ニ郎 | ||
教育課長 | 少尉 | 西田晴夫 | ||
第1 中隊(113名 第1特警付) | ||||
中隊長 | 大尉 | 村井 博 | ||
哈爾浜派遣隊長 | 少尉 | 久保田捨己 | ||
大連 派遣隊長 | 准尉 | 坪内暲一 | ||
奉天 派遣隊長 | 少尉 | 神津幸久 | ||
東奉天分遣隊長 | 曹長 | 村松林平 | ||
安東 分遣隊長 | 曹長 | 柴崎慶三 | ||
第2 中隊(75名 第2特警付) | ||||
中隊長 | 大尉 | 宮崎末男 | ||
牡丹江派遣隊長 | 少尉 | 西原貞夫 | ||
佳木斯分遣隊長 | 軍曹 | 石田金一 | ||
延吉 分遣隊長 | 曹長 | 張替次郎 | ||
第3 中隊(72名 第3特警付) | ||||
中隊長 | 中尉 | 木村欣一 | ||
斉斉哈爾派遣隊長 | 少尉 | 鷹羽秀三 | ||
斉斉哈爾分遣隊長 | 曹長 | 山中一男 | ||
科学偵諜班 (100名 第1特警付) | ||||
班長 | 大尉 | 長島恒雄 | ||
指紋 | 准尉 | 矢口 正 | ||
法医 | 准尉 | 山田 弘 | ||
写真 | 少尉 | 村越 清 | ||
化学 | 少尉 | 鎌田光次 |
以上の役職者は 總て現役憲兵 將校 准士官 下士官である 以上の編成資料は「日本憲兵正史 〜 全国憲友会連合会編」 から引用したものである
軍隊に於ては 封書 葉書 を不問「書翰」と称した 綜合試験終了した 其の日の夕方 私は班長に呼ばれて 班長室に赴いた 其処で私に 宛てた一通の封書を渡された 封書の裏の差し出し人を見なくても直ぐに 差し人は分った 毛筆書きの見事な筆捌きの文字で分った 多田幸子先生 からのものであった だが裏書きは小島幸子になってゐたのが一寸気に 懸ったが 筆跡は先生のものである
班長は「此の封書は綜合試験 開始前に到着したものであるが 女性からの郵便物であるので 試験に 影響するのを避ける為 態々渡さずに置いた その点を諒として呉れ」 と云はれた 更に班長は「此の場で開封の上 黙読せよ」と云った 私は黙読後「内容に異常はありません」と答えた だが班長は差出人 との関係に拘泥した
発信人は先生からであった 私が入営前の 一時期 小学校の代用教員をしてゐた時の先輩訓導で その当時は 牡丹江省 穆棱の在満国民学校に奉職中であった 私は代用教員奉職中の 先輩である事を説明したが「本当に其れ丈か 学校の教員に相違無いか 幸子とあるからには 若い女性か 年令は」等々を詮索した
私は 少なからず 内心 ムッとなったので「御不審に思はれるならば 管轄 憲兵分隊に御照会を願います」と云い この手紙を検閲してもらい 疑念を解いてもらう為に 班長に手紙を差し出した 班長は手紙の 披見はしなかった
「良し分った 貴官の將来を心配するからだ 過去に 於て女性問題で身を誤った憲兵があった 飽くまでも班長の老婆心からだ 悪く思はんで呉れ」と云って 帰班を促した (多田から小島え姓が変ったのは 渡満後 結婚されたからであり その 挨拶状であった 私は復員後 この話を先生にした処 抱腹絶倒された 事があった NHK札幌放送局アナウンサー 小島崇好氏の母堂である)
綜合試験終了直後 中隊長から希望任地を申告する様 申渡され 用紙を班長から各自支給された 希望任地は第1希望から 第3希望まで申告を命ぜられた 私は思想対策に何よりも興味を 抱いておったので ジックリと肌で体験した勤務をし 其の途で 大いに満期除隊までの期間勉強をして見やうと言う 今になって 考えれば身の程不識の野心を抱いておったのである
そして 初めて満洲の部隊に入隊した琿春を其の管轄にする延吉に 本部のある関東憲兵分隊を第1希望地とした 次に綏芬河分隊を 第2希望地とし 最後に満洲里分隊を第3希望地として申告した 3希望任地とも国境近辺であり 何れも 思想対策上の要地ばかり である 何れも辺鄙な地の分隊ばかりであった 青年時代の怖いもの不識の冒険心からの発想がその様な任地を 希望したのかも知れぬ
かてて加えて 東海林太郎さんが一世を 風靡した歌謡曲「国境の町」の歌詞とメロディーが大いに私の身体の 中に在ったロマンチシズムを少なからず刺激した事も事実であった
教習隊卆業間近になってから各人の任地が発表された 発表は分隊名は知らされずに 分隊上級機関である憲兵隊本部 (一般部隊の連隊本部に相当 警察にあっては道府県の 警察本部に相当)名で発令された 私は牡丹江憲兵隊本部に配属された 希望任地を管轄する本部に発令された者 私と同様に希望任地外の 本部に発令された者 様々であった 希望する任地を管轄する本部に 発令された者が極く少数であった事が 皆の何よりの慰めであった
此の時 班長 曰く「任地の上申は関東憲兵隊司令部人事担当官が行ない 最後の決定は憲兵司令官の専決行為 故 諦める事 その代り 発令された任地には別嬪の姑娘が一日千秋の思いで諸官等の 着任を鶴首してゐるから 大いなる夢と希望に燃えて行け 楽しい事が 沢山待ってゐる」と冗談を云って慰めた 新京にも何名かが発令されたが 華の都に発令された者は 慨して落胆してゐた
(東海林太郎さんは大学卆業後 満鉄調査部に奉職中 彼の思想が 当時の関東軍参謀の神経を逆撫でした結果となり満鉄図書館長の 閑職に左遷され 後 歌手として 長期に亘り 歌謡界を風靡した 彼の 死後 政府は 生前の功に報ゆる為 勲三等旭日中綬章を贈った)
教習隊入隊以来何よりも待ち望んでゐた 卆業式の日が遂に来た 教習隊長(憲兵中佐 堀口政雄)の祝辞 及び 訓辞があった その中で 昭憲皇太后の御歌「金剛石」を引用し、諸官は金剛石である 其の素地は 此の教習隊の教育期間を通して作り上げられた 学科術科は勿論であるが 厳格な内務教育に依って作り上げられたのである 珠の光を出すも 出さぬも 諸官の今後の熱勢な努力如何である 任地着任の上は 捨て身になって己を試し 軍務に精励されん事を希う」として 訓辞を 終った事が強く印象として残ってゐる
卆業式は短時間に終了し 中隊に戻り 中隊長 区隊長 班長より 夫々 祝辞 訓辞を戴いた 午後からは明日の拝命式に備えて全員に 新品の95式軍刀 14式拳銃 憲兵腕章 憲兵徽章 上等兵の階級章等が 支給された 夫々が既に憲兵を拝命した様な嬉さで 嬉々として 階級章 徽章等の逢着 腕章の取り着け等を行ないつつ 教習中の苦労話や 未だ見ぬ任地等々の事を話し合った
二等兵の階級者は 二階級上って 上等兵に 一等兵の階級者は 一階級上って上等兵に 上等兵の 階級者は 現級の侭 私は二階級上っての上等兵組であった 私の 軍歴中に 一等兵の経験は無かった 何の事は無い 憲兵の最下級は 上等兵なのである 憲兵の初年兵なのである それでも二階級昇給は 嬉しかった 「二階級進級は戦功殊勲甲と同格ぞ」と二等兵組が言えば 上等兵組は「二階級進級と言えば玉砕部隊と同じで 戦死扱いだぞ」 と半畳を入れた 二等兵組はその半畳に負けて居らずに「現級留置き では戦功零とおなじぢゃ無いか」と愉快にやり合った
夕食は卆業を祝って特別料理の外に5名に1升の祝酒と各自に 天壇(支那高級煙草)3個宛の特別加給があった 24時まで 延燈が許可され 鯨飲とまでは行かなかったが 下戸の者も居たので 班長を中心として教習隊最後の夜を楽しく語り合った
普段 謹厳を以て鳴る 中隊長(吉川少佐) 区隊長(氏名忘却准尉)の お二方が余興に少しエッチな歌を披露したのは 教習兵一同ビックリ すると同時に 人間性豊なるものを発見した 大きな収穫であった
次の項に移る前に触れておき度い事がある
支那事変の前半期頃までは教習隊を卆業すると分遣を命じた原隊に 帰隊し 聯隊長以下の直属上官に卆業の旨を申告し 卆業の錦を飾るのが 通例であった由である 2〜3日は原隊の中隊で演習勤務等は免ぜられ 精々 中隊事務室の使役を希望に依って与えられる客分扱を受け 二等兵の階級の者は 一等兵に進級命令が出され 2〜3日を経て正式に 憲兵転科 憲兵上等兵の発令が原隊の聯隊長より発せられたもので あったとの由であった 憲兵として必要兵器の 軍刀 拳銃 被服類等は 原隊から支給されたとの事である 大半の者が原隊の駐屯地を 管轄する憲兵分隊に配属されたものであった
以上は中隊長の説明であった
昭和20年3月10日 陸軍記念日 此の日は旭川の北部第5部隊に入営した 日から数えて 満1年月を迎えた日であった 全員上等兵の階級章 憲兵徽章 及び 憲兵腕章を付けた軍服に 新品の軍刀 拳銃 を佩用した軍装で 寒気凛冽ではあったが 雲一ッ無く晴れ上った 抜ける様な碧空の下 営庭に各中隊(2ヶ中隊)毎に整列し 教習隊長 堀口 中佐から 厳かに 「○○候補者 他 ○○○名ノ諸官等ハ 本日付ヲ以テ陸軍憲兵上等兵ヲ 命セラレタ」と宣言された 首席卆業者が全員を総代して 拝命の申告を 行った 此の瞬間 正式に夢にまで見た 憲兵上等兵に任命されたので あった (文中の○○候補者 ○○○名と記したのは 首席者氏名 総員 等を忘却した為である)
中隊長 区隊長 班長 等に拝命の申告と共に5ヶ月間 お世話になった 謝礼を述べ 親しかった 同区隊 同班の教習兵仲間に別れの挨拶をし 何時の日かの再会を誓い合った
新任地の隊本部ごとに集合 赴任旅費等の支給を受け 引卆下士官 (第4中隊の班長 軍曹 氏名忘却)に引卆され 隊伍を組んで 新京駅 に向かった 途中 忠霊塔 新京神社等にて 捧げ刀の礼を行なって 拝命の報告を兼ねて 軍務精励を誓った
新京駅では 軍隊生活で 初めて 自分から乗車券を購入した 教習隊で軍人割引證を渡されて ゐたので それを利用したので 50%割り引きになったので 旅費の半分は 車中の小遣銭になった 引卆下士官は「車中節度を失する事なき 限度で飲酒を許可する」と達した 満洲も物資は不足してゐたが 日本 本国の其れに比して 緩やかなものであった 新京駅で助役に 交渉して 酒を購入した
新京を発車したのは 夕刻を過ぎてゐた 新京を発車して間も無く 私達の車輌は車内暖房のスチームが故障して 暖房が効かなくなった 春3月とは言え 中満地帯の夜間温度は氷点下である 車内温度も相当低下した 酒を飲んだが さっぱり効き目が無い 車掌に交渉して 途中の駅で 車輌交換を迫ったが 哈爾浜駅に着くまでは 対策無しとの事であった
その代りに 途中 雙城駅で 白金懐炉を 差し入れしますから辛抱して欲しいとの事であったので 我慢をしたが 寒さの為 眠る事は出来なかった それでも その車輌は 私達赴任者 専用であったので 一般民間人が乗り合わせて居なかったのは幸な事であった
翌早朝 列車は 哈爾浜駅に着いた 此処で哈爾浜隊本部に赴任する 連中と別れた 互の健康・武運長久を祈り合った 私達の車輌は 予め哈爾浜駅に用意されてあった別の車輌に交換され それに乗り換え ホッと人心地が着いた
列車は哈爾浜までは急行であったが 哈爾浜からの浜綏線は準急であった 昨夜来の睡眠不足の為か 殆んどの者が車中で良く寝た 牡丹江までの車中からの景色の中で 一面坡や横道河子が満洲のイメージとは異なった駅舎を物珍らしく眺めた 記憶がある 曾ての ロシア帝国東進の国策に據って建設された 東支鉄道 時代の由緒ある名残りのロシア風建築の駅舎である
夕方 牡丹江駅に着いた 私達牡丹江隊本部に配属された者達は 此処で降りた 佳木斯隊本部の配属組は更に列車で北上したが 此処でも互いの健康と 武運長久を祈り合い 何時の日かの再会を約して別れた その番は 牡丹江本部 大講堂に用意された仮寝台に就いて寝た
牡丹江本部では 管内の地理歴史の外に軍事警察 特別高等警察の 現況 日本軍 満軍 満洲警察 その他の満洲国官庁等 日系 鮮系 等 開拓団 等々 その他の配置状況に就いての説明が 夫々の担当の 曹長 准尉 將校等に依って 詳細に行なはれた 以上の説明の中で強く印象に残る ものは 特別高等警察の思想対策の講義を担当した曹長(氏名忘却) のものであった 現在朧気乍らも記憶に残るものを参考資料の助けを 得て概記する
「曾ての韓国(日韓併合に依り朝鮮と改称)は 相当の長期に亘り 政治の 腐敗に據り 国民の貧富の差は著しく 日本が鎖国政策を明治維新から 開国政策に改革した後に於ても 依然として鎖国政策を固持して居た為に 韓国民が現代文明に大きく遅れ隣國(主に露清日)からは 其の主権をも 侵害される程に 獨立国家としての権威をも失ってゐた時期が永く続いた 其処には当然の如く国の現状と將来に対して 危惧感を抱く憂国の志士が 輩出した この事は徳川幕府末期の日本とさして変る処は無い その結果 革新思想に基く 国家再建を念願する知識青年層に対する韓国官憲の弾圧 の度は次第に熾烈を極めて行った
韓・支両国は白頭山(標高 2,744米白頭山節にて有名)に源を発する 豆満江(図們江) 及び 同じく鴨緑江を以て 其の国境線としてゐる 言はば 陸続きである 山岳地帯の険峻な地域を除けば 冬期河川の結氷期には老幼婦女子と雖も 徒歩で車馬で 橇で 越境 (密出国 密入国)は容易であった 彼等は祖国官憲の弾圧を避ける為に 手近な隣国 支那(後の満洲国)に好むと否とに拘らず 亡命した 主に 東辺道 延吉道 (鮮支国境に接する山岳辺鄙の地帯 満洲建国後はそれまでの道制を省制に改変した)と呼ばれた地方である 牡丹江省 吉林省 奉天省 等にも亡命した その他露領南部ウスリー地方 にまで足を伸ばして亡命したのである
上記の東辺 延吉 等の地方は 支那の国土ではあったが 当時の支那官憲の行政上の威令は及ばず 所謂 支那の辺境の地であった 為に亡命した韓国人は 支那官憲の 五月蠅い掣肘を受ける事も無く 且 他国であって見れば 祖国官憲の 威令の及ばぬ地であった さればこそ 安住の地であった訳である だが 裸一貫亡命して来た彼等の生活は苦しかった 併し乍ら亡命する程 にしてまで革新の思想に情熱を燃やしてゐた彼等は 生活の苦に打ち拉がれる 様な意志薄弱な持主ではなかった
延吉道の人口の70%〜80%は 亡命韓国人で占められた 韓国延吉道(間島省)とも云える様な 感さえしたものである 祖国の腐敗し切った政治態形を改革し 国民一般の生活向上を図るには 共産主義革命の断行以外に策は無い との統一思想の下に 革命思想運動を推進し続けた
一方 日本は明治38年世界の最大強国 ロシヤ帝國陸海軍を打ち破り 日露戦争の勝利を収めた ポーツマスの日露講和條約に於て 南樺太の割譲の他に 露国が清国韓国等に於て所有する権利等をも 日本は其の手中に納めたが ポーツマス條約の第2條には 「露西亜帝國政府ハ 日本国カ韓国ニ於テ 政事上 軍事上 及 経済上 ノ 卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ 日本帝国政府カ韓国ニ於テ 必要ト 認ムル指導保護 及 監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻碍シ 又ハ 之ニ干渉 セサルコトヲ約ス」
以上の條約には米英両国も承認の形を採った 日本は此の條約に依り 其の後 韓国の主権に大幅な掣肘を加え屬国的政策を採用したのであるが 明治43年8月 終に日本は韓国を併合し 版図に収め日本の一地方とし 朝鮮と改称した
当然の結果として 亡命者は勿論の事 国内居住の同胞も この併合に民族を挙げて 反対した 民族の獨立に 燃え旺った 革新思想者も 革命の何たるかを解せざる 無学文盲の者も 挙って反対した 此の結果併合に反対する多勢の同胞は 今度は 日本 官憲の弾圧対象となった この弾圧を避ける者が先輩革命家の亡命 居住地に後を追って 東辺道 延吉道 その他に亡命した 亡命した 彼等の内 青年層を中心とする武力抗日革命思想が萌芽し 武力に依る 抗日戦が行はれる様になった これを日本では 一概に馬賊と呼んだが 誤りであって 共産匪であり 政治匪であり 革命匪であった
大正6年(1917)第1次世界大戦が終局を告げやうとしてゐる時 ロシア 10月革命に依って 帝政ロシアが倒れ 革命政権に據って「平和宣言」が 発表され 民族獨立 無賠償 無併合の原則が闡明された 引き続き 米国 大統領 ウイルソンは 大正7年(1918)1月 平和原則14ヶ條を発表した 2月のパリ講和会議で被抑圧民族の獨立が承認されるであらうと発表した
大正7年(1918)11月 世界大戦が終了すると共に ハンガリー ポーランド チェコスロバキヤ エジプト などの諸民族 獨立が宣言され 此の民族自決 主義獨立の気運は 世界の植民地從屬国の民衆に大なる勇気と行動力を 与えずには置かなかった 日本 支那 米国に在住する朝鮮人等は 韓国獨立 の好機到れりとして 米国大統領に獨立に援助する様 陳情 嘆願したが 朝鮮の場合 該当せずとして 米英露に一蹴された 民族獨立の意識に 燃え立った彼等が 此の様な事に依って 易々と挫折する様な事は無かった 民族意識に燃えた 祖国獨立の革命思想は益々醸成されて行った
日本憎しの念は 反日 侮日 抗日 の旗印の下に いやが上にも燃え旺った 満洲事変作戦中 及び 満洲国建国(昭和7年3月、1932)後と雖も執拗な までに 日本軍の匪賊討伐作戦を妨害し 抵抗した匪賊の中に 鮮系 共産 革命思想匪が多数存在したのである (朝鮮民主主義臣民共和国 元首席 金日成も当時有力指導者の1員であった)
当時の韓国内の政治が安定し 且 韓国の存在が 日本との平和友好関係に 寄与する処が大であり 相互の国家の共存共栄に資する処も 又 大であった ならば 韓国を併合する必要性は毫も存しなかった 日本は 北からの脅威 即ち ロシア帝国の南進政策を最も危惧した 其のロシア帝國は清国の 政治の貧困に付け入り籠絡懐柔を計って 満洲に進出し 満洲を足場として 更に韓国の内政の紊乱に乗じて その主権を侵害し始めた 日本としては 枕を高くして眠る事は出来なかったのである 韓国の次への 野心を日本に指向してゐたからである
日本は ポーツマス條約第2條に從って 韓国えの指導保護を行なって来た のであるが 其の成果は余りにも遅々として意の如くに進展しなかった 韓国が密かに露国と手を結ぶ素振りさえ行なう様になった 日本の安寧を 保持し 且 韓国の領土の保全の為に 韓国併合に踏み切ったのであった
時は流れ 満洲事変は終了し 日満漢蒙鮮の5族共和に據る 王道楽土 国家建設の雄大なる理想の下に新国家 満洲国は建国された 日満議定書の締結に據り 満洲国の防衛 及び 治安の囘復は 関東軍の任務となった 併し乍ら 建国後の治安に関しては大なる悩として 重くのし掛かった 日満両国政府は勿論の事 直接 其の任に当たる 関東軍の「獅子身中の虫」的 存在は
以上 3の項において「満洲国軍内に紛れ込んだ 東北人民革命軍」 及び 6の項では「通ソ謀略分子」の事を記した 其れ等の思想謀略が 功を奏した 満軍將兵の重大な背反事件の内 主なものを 列挙すると
以上の如く満軍の反乱の危険性は常に孕んでゐたのである
日本農村の次、三男以下の者に 自作農経営の場を与え兼ねて 建国早々 の満洲国の僻地 及び 満鉄沿線等の日本軍警備兵力の不足をも補充させる 一石二鳥の策を採り 日本から多数の開拓団を結成し 武装移民させた 北満に入植した弥栄 千振 等の開拓団は 成功した代表の部類に 属するが 中には生命の危険を冒してまで 軍人の代りを勤めさせられる 矛盾性に反感を持って 帰国する者や 満洲で他の職場に 就職する者も 現出した その後 終戦の年まで 逐次 開拓団を送り込んだ これ等の 開拓団が入植した地は 全くの荒地に入植した訳では無かった 既に現に 満人農民が耕作中の沃土の熟地を 満洲拓殖公社と称した 満洲国 政府 関東軍等の御用会社が安値で強制買収し 開拓団に払い下げた
農地を一方的に収奪された満人農民は怒り心頭に発し 怒髪天を突く 程の憤慨をしたが 日本絶対優位には抗する術も無く 奥地僻地に 耕地を求めるか 日本人開拓団に使傭されるか しての生活を余儀無く させられた 其れ等の満人農民や 同情する満人達は日本人 開拓団員を 盗賊以上の掠奪者として怨嗟した やがては無学文盲に等しく 思想の何んたるかを解せざる 其れ等の満人に共産革命思想を 普及する 反満抗日 謀略分子に 活躍させる場を与えて仕舞った
彼等は結果として 日満両国政府官憲には面從腹背の術を以て 対処する様になった 開拓団員の中には 極く稀ではあったが 基礎も固まり一応 財力も出来た頃に 満人の小作人に農地を貸し付け 高率の年貢を取り立て 「糧財」(満語でリャンザン〜地主の意)風を吹かせて 「今日は 哈爾浜 明日は新京」と遊び廻る者さえ現はれ 元「糧財」で あった満人の憤りに 一層の拍車を当てる事となった例もある
開拓団の土地買収の他に 満洲事変以降 続いて昭和16年7月 有名な「関特演」発動に依り 全満各地に関東軍は師団を急増設した 其の結果 満人 鮮人 等の耕作してゐた農地を大面積に亘って 強制買収し 軍用地と為した 其処に居住してゐた農民を強権と以て 立退きさせて兵舎 その他の軍施設を構築したのである(4392部隊が 駐屯した琿春では 鮮人 佳木斯では満人 等の夫々の農地であった処である)
土こそ生活の基盤である農民にとって土地を奪はれ 先祖代々永年 住み馴れた土地を去る事の無念
以上の事に依っても 日本乃至は日本人 怨嗟の無言の抵抗意識は 更に強く萌芽した 侮日 排日 反満 等の思想の目覚めに導く結果に 大きく作用した
一方 綏遠事件(昭和11年11月 関東軍の指導する 内蒙古軍が中国 綏遠省に進行 傅作義と交戦 百霊廟で敗北) 張鼓峰事件(昭和13年) ノモンハン事件(昭和14年)等に於て 日本軍の惨敗に帰するや 東北人民革命軍 韓国獨立革命等は関東軍恐るるに足らずと 祖国復帰 に確信を抱く様になった 剰え満軍の士気に大いなる動揺を来たした 日本人に好感を抱かざる一般満人の侮日感情は増大した 満洲ゴロは 平素関東軍の虎の威を借りて悪事を重ねてゐたに拘らず 関東軍の無能 を詰る等 治安の維持に危惧すべき兆候が現出した 特に通ソ分子の 暗躍や東北人民革命軍 韓国獨立革命軍の活溌は目立った
昭和16年 関特演(関東軍特別演習)の発動に據って 兵員70万人 馬匹 15万頭 航空機600機等に 増強され 全満に展開された 関特演以降は 流石の革命軍団も表面立っての行動を控え 盗賊連の 少集団も鳴りを潜め その作戦を隠密のものとし 地下活動に 切り代えた
一方 朝鮮総督府に於ては 朝鮮人の皇民化政策の為
以上の皇民化政策は今まで比較的 親日的な朝鮮人にまで 侮日 排日の思想に馳せ立てる原因を作ってしまった 満洲 朝鮮 の防衛 及 治安の任に直接当る 関東軍 朝鮮軍 等は 直接 侵寇 するであらうと怖れのある外敵(ソ聯軍)に警戒の砲口を備える と共に 背後には視えざる「虎の尾」を踏む危険性(思想謀略戦) にも警戒の銃先を備えざるを得無い結果となった
特に満ソ国境に接するか 又は 朝鮮人の多数在住する地帯の 分隊の勤務する憲兵は 特別高等警察服務上 以上述べた様な 事柄を承知し置く可き 必要性」を力説した
更に「朝鮮の獨立を希求し 又は 満洲国の建国を否定するは 彼等の思想である 然し乍ら 我々憲兵は日本国 及び 関東軍の権威を侵し 挑戦する者に対しては 法の定むる処に從って 断固として之を取締する任務を有す 仮初めにも 共産主義思想に 共鳴し 彼等の心情に同情するが如き事の無き様 自重自戒 法の 擁護者たる憲兵の自覚を失する事無き様 特に留意され度い 又常に 自らも正確なる情報を得る事に努力され度い」と訓示して 説明を 終った
教習隊で教えを受けた 特別高等警察服務教程にも無かった 生々しい内容の説明に 見の引き締る思いを銘肝した
牡丹江隊本部 最終日には市内見学に当てられ 関東軍関係では 陸軍病院 貨物廠等の軍事施設を 満洲国政府関係では 地方裁判所 刑務所等を見学した 所内に新築中の死刑執行棟は 収容中の囚人等に依って8分通 工事が進んでゐた 階段(20段位) を昇り詰めた突き当りの部屋が執行宣言室であり 遺言があれば 刑務所長に遺言し 此処で目隠しの為の黒頭巾を被せられ 右隣の 執行室に2人の刑務官に誘導され 部屋中央部に執行時 絞首シの 為の落し床が設けられてあり その部屋の 下階に刑死人が落下し 縊死するのである 其処には刑務所長 医師2名 教誨師等が居て 死亡の確認をする との説明を刑務所長から 直々に受けた 背筋の 硬直し 胃痛を覚えた記憶が未だに残る
見学は終り 隊本部に帰隊した処で 人事担当將校から各自 赴任すべき分隊名が発表され 庶務係から各自 憲兵手帖(警察 手帖相当)呼笛 捕縄 旅費 等を支給された 三浦芳明君 戸口 繁春君に私の同期3名の他数名は 寧安分隊付を命ぜられた 分隊からは私達を受領の為 池田曹長(終戦後 外蒙ウランバートル に於ける「暁に祈る」事件の吉村隊長)が出張して来て居た 池田曹長に 引卆されて 図們急行列車に乗った
その夜は 寧安分隊に1泊し 翌日 夕方まで 管内警察状況の説明があり 終ってから 三浦 戸口 の2君と私は 更に隊下の石頭憲兵派遣隊勤務を命ぜられ 既に 用意されてあった 名刺(陸軍司法警察吏 陸軍憲兵上等兵 姓名 刷込み)1箱宛を受領(4月分給料から差引き) 派遣隊から出張して来た 庶務主任 大隅正義 軍曹に引卆され 寧安駅発の最終貨物列車で 石頭に着いた 到着したのは 23時を過ぎて居たが 残務中の 下士官に日直下士官等が居て 私達3名を迎えて呉れた
私達は取り敢えず 着任の申告をした 下士官達は「君等が来て呉れた ので助かった 明日からは 大分楽になるなー これで官舎に帰って 寝る事も出来るし 大いに期待してゐるから 頑張って呉れよ」と 先ずは 3名の着任を喜び 激励して呉れた 私達は 補助憲兵の 谷口兵長に案内されて 上等兵室に行った 既に谷口さんに依って 3名の床は用意されてあった
私達の着任当初の派遣隊の陣容は(私達3名を除く)
派遣隊長 | 准尉 | 高梨 三喜 | ||
班長 | 軍曹 | S | ||
警務主任 | 軍曹 | 広瀬 (名 忘却) | ||
戦勤主任 | 軍曹 | 班長兼務 | ||
特務主任 | 軍曹 | 守口 秀雄 | ||
庶務主任 | 軍曹 | 大隅 正義 |
以上の外に 補助憲兵 谷口兵長(名 忘却) 満語通訳 鮮語通訳 馬夫 厨夫 雑役夫 各1が居た
派遣隊長 以下11名の少数であった この為に 日直は隊長まで 加はり 3日に1度の激務振りであった
翌朝 派遣隊長の出勤を待って 隊長室に於て着任の申告を行なった 申告が終ると派遣隊長は 「御苦労 君等の着任を永い事待って居た 本隊の様子は昨夜の内に聞いて 承知の事とは思うが 軍務は相当 激務だ 覚悟しておいてもらい度い だが当隊は少人数ではあるが 全員気持ちの良い連中ばかりだから その點大いに安心してもらい度い 兎に角 体に充分留意して 頑張って欲しい 本来ならば官舎の割当が 有る処だが 空きが無いので当分隊内居住で辛抱してもらう 本日は 休養 明日から勤務に就いてもらう」 との言葉を頂いたが
私達は 「休養は不要であります 一刻も早く勤務に就かせて頂きます」と 意見開陳し 採用され 事務室で隊長から下士官たちに私等3名を 紹介して頂き 班長から管轄区域の諸々の説明があり 昼食後 雇傭人等に紹介された 午後からは 満軍関係の鐵路警護隊長 満警所長 駅長 満郵 満逓 等 日本軍関係では 軍事郵便所 営外酒保 その他等に 着任の挨拶廻り等をした
昭和16年の関特演 発動に據り 此の石頭にも師団1ヶが置かれ 憲兵分駐所が設置(後 派遣隊に昇格)された 然し乍ら 憲兵 不足に依り 常勤出来る者は 極く限定された数に留まり 分隊長 及び 隊本部下の他の分隊からの応援によって短期は1周間 長期にても 1ヶ月位の出向の形で隊務を行なってゐたのが現情であった由である
名は派遣隊であったが 1ヶ師団の駐屯地であった為 実際の勤務の 内容は 分隊と何等変わるものでは無い 事務量であった 為に残務は 極く当り前であり 日常の茶飯事化してゐた 事件輻輳すれば 連日連夜の連続勤務であり 之を見兼ねた陸軍病院では態々 衛生部 將校を派遣し 健康診断を行ない疲労囘復にと栄養注射 栄養剤投与 等の便宜を計って呉れた由である 從って例え駆け出しの新米上等兵と 雖も私達3名の着任は大いに期待され歓迎される処であった
私達着任後 20日程して 今度は下士官候補者出身の兵長(下士勤) 3名が教習隊を卆業し着任した それから数日を経て 牡丹江分隊から 清水 勇 曹長(広瀬軍曹と入れ替り)が着任し 派遣隊の陣容は 一気に整備された
派遣隊長 | 准尉 | 高梨 三喜 | |||
班長 | 曹長 | 清水 勇 | |||
警務主任 | 班長兼務 | ||||
係 | 兵長(下士勤) | 金田 春実 | |||
係 | 上等兵 | 中倉 鹿三 | |||
戦務主任 | 軍曹 | S | |||
係 | 兵長(下士勤) | 小川 栄 | |||
特務主任 | 軍曹 | 守口 秀雄 | |||
係 | 兵長(下士勤) | 高橋 恒助 | |||
係 | 上等兵 | 三浦 芳明 | |||
庶務主任 | 軍曹 | 大隅 正義 | |||
係 | 上等兵 | 戸口 繁美 | |||
補助憲兵 | 兵長 | 谷口 | |||
満語通訳 | 憲補 (満人) | 李 | |||
鮮語通訳 | 憲兵補 (鮮人) | 木村 | |||
馬夫 | 傭人 (鮮人) | 長谷川 | |||
厨夫 | 傭人 (鮮人) | 孫 | |||
雑役夫 | 傭人 (北支) | 陳 |
憲兵 11名 補助憲兵 1名 雇傭人 5名 総員17名 所在地 満洲国東満總省寧安県石頭村石頭屯
身元確実にして 思想上懸念無き 雇員にして満人には憲補 鮮人には憲兵補なる職名を附与し 通訳の他に情報蒐集の補助員として活用 警察権無し
憲兵は隷属指揮命令 指示等の系統が他兵科と異なるので 其の概略を記す
指揮 | 命令 | 指示 | 系統 | ||
軍事警察 | 行政警察 | 司法警察 | 行政司法に係る事件 の指示 | ||
日本本国 | 陸海軍大臣 | 内務大臣 | 司法大臣 | 警視総監(東京) 北海道庁長官 府県知事 樺太庁長官 検事 |
|
朝鮮 | 陸海軍大臣 | 朝鮮総督 | 朝鮮総督 | 朝鮮総督府 道知事 右同検事 |
|
台湾 | 陸海軍大臣 | 台湾総督 | 台湾総督 | 台湾総督府州知事、 庁長、法院検察官 |
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南洋群島 | 陸海軍大臣 | 大東亜大臣 | 大東亜大臣 | 南洋庁長官 検事 | |
満洲 (除 関東州) |
関東軍総司令官 | 満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
|
関東州 | 関東軍総司令官 | 満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
関東州長官 関東法院検察官 |
軍令憲兵の勤務の根據は 作戦要務令 第3部第7篇に在る事を p.136に於て記したが それを明文すれば
憲兵隊は 陸軍官衙としての性格 及び 戦闘部隊としての性格を 併せ持ってゐた 野戦に於て作戦軍に配属された憲兵長以下の 憲兵が敵軍陣地 突入の一番乗り歩兵部隊と共に 戦闘を支えつつ 諸情報の蒐集 良民の救護 第3国人の保護 治安の囘復に当る等の 例を挙げるならば 理解される事と思ふ
勤務の内容を私が勤務した 石頭憲兵派遣隊に例を挙げるならば
以上の様な担任する勤務ではあったが 極めて少ない兵員で分隊と同一 の事務量であったので 或る主任担当の事務輻輳の際は 担当の事務に 差支の無い限り 他の係 主任以下は 之に積極応援して 事務を完了させた
お陰で担当任務以外の事務の内容を勉強出来る機会に恵まれた 少数兵員隊のお陰であった
教習隊でも同様であったが 石頭隊の上司 上官(Sを除く)は何れも 軍人である前に 立派な人格者であった 教養の高い人達ばかりであった 出身原隊のM軍曹 Y兵長 K兵長の様な 劣等極まる 軍人とは雲泥の相違 であった 憲兵隊の勤務の内容は他の兵科とは 大きく異なっては居たが 勤務は相当の激務であったに拘らず 精神的な重圧感を覚える様な 処では決して無かった 上司 上官 等の私用は絶対に無かった 又その様 な所でなかったならば 憲兵と言う特殊な軍務は 果たせぬであらう
憲兵隊の性格上 他部隊と異なり 気の毒であったのは 派遣隊長以下 の下士官に及ぶまで 私用の為の当番兵の不在であった事である(隊長 当番 班長当番 下士官当番 官舎当番 等の皆無 〜 陸軍官衙の性格上)
派遣隊長 高梨 三喜 准尉 (昭和58年11月没 福島県) 班長清水 勇 曹長(昭和38年1月没 栃木県)の御両氏 及び 上官(守口 秀雄 大隅 正義の2軍曹)の下級者に対する優れたる統卆力は 派遣隊 一致結束の源であった 兵長(下士勤)3名 上等兵3名 計6名は 教習隊卆業が前後20日程しか違はなかった為に 全員同期とも言える 仲であり 階級の相違は意識しつつも 時に階級を超越しての親近感を 抱いて居た事である 上等兵であり乍ら 三浦君と私は バンカラ的 要素を多分に持ち合はせてゐたので 下士官待遇の兵長(下士勤)3名に は随分と迷惑を掛けたものであった 40年後の今に到り 代表して深く お詫びを致します
班長の清水曹長は 栃木県 佐野町(現 佐野市)近郷の出身であり 宇都宮市(第14師団司令部駐屯)に在った輜重兵第14大隊が出身の 原隊であった 私の生れ育ったのは 其の輜重大隊から西え 2Km位しか 離れて居ない処であったので 話は良く合ったものであった 公私ともに 随分とお世話様になったものであった(永年の念願であった 班長さんの 墓参を昨 昭和59年10月に させて頂き 心の重荷が降りた)
昼食は勤務上 外出中の者を除いて 派遣隊長以下の憲兵 補助憲兵に 到るまで食堂で一緒に摂る事になってゐた 此の時間は誠に楽しい ものであった 先輩の豊な体験談は資する処が大であった 特に派遣隊長 班長 の御両名は ともに 支那派遣軍に從軍した 野戦憲兵隊員であり 作戦軍に配属され 敵陣突入の歩兵部隊と 共に1番乗りを行ない敵兵と間近に於て交戦しつつ 敵産の封鎖 中立国財産の保全 蝶者の検挙 諸情報蒐集 良民の保護 治安の 囘復 中国側警察の統制 産業の再興等々 戦闘部隊に勝るとも 劣らぬ 神速果敢な対処談は有益なる参考資料であった その他新聞 記事に対する意見の交換 諸情報の交換 等有益なものであった
勤務に関する意見開陳は 私達の様な憲兵最下級の上等兵の意見 であっても 派遣隊長 班長は 耳を傾けて呉れた そして採用するに 足る可きものは 之を採用して呉れた 自から志願してなった憲兵では あるが 一上等兵の意見でも 採用されるとあっては ヤル気は数段と 湧き出るのは当然であった 一般兵科部隊で兵の階級者の意見開陳の 途は 軍隊内務令第12に於て明文化されては居たが これは建前であり 死文化 空文化されてゐた事実は殆の軍隊生活経験者の認める処であらう
下士官以上は 全員官舎居住であった 班長(妻帯)や他の下士官(独身) も度々 私達と一緒に入浴しては背中を流し合ったものである 正に裸の 付合いである 同階級であっても 古参と新任の差の厳しい軍隊で 上官が 兵の背中を流す等と言う事は 到底考えられぬ事であるが 石頭では それが極く当り前の様に行なはれた 決して兵であった私達が甘えて居た 訳では無い そして夜遅くまで私達の兵室で一緒に盃杯を傾け合っては 諸々の事を腹蔵すること無く話し合ったものであった そして 相床で寝た 事も良くあった こうなっては上下の階級を超越して 互の信頼感は 弥増すのは理屈抜きであった 上官の意とする処は命令を待つまでも無く 諒解出来たし 又 横の連絡にも毫も齟齬を来たす様な事は無かった 「石頭一家」とも言える鞏固な団結は この様にして急速に醸成されて 行ったのであった だが S軍曹だけは どうした訳か1人此の派遣隊に あって 遊離する態度を取り続けてゐた
憲兵の勤務には 制服の軍曹を整えて服する 軍服勤務と 軍服以外の 服装を着用して服する 所謂 私服勤務の方法が用いられた 通常「警察務に服する軍装」と言えば 陸軍制式の軍服 軍帽 長靴を 装し 軍刀 拳銃 を 佩装の外に 憲兵腕章着用 憲兵手帖 名刺 筆記具 印鑑 捕縄 繃帯包 呼笛 巻尺 非常準備金(兵階級者は20円 封印済の布製の袋に収納 自己負担) 小遣銭 ハンカチーフ チリ紙 等の携帯を義務付けられた 帽子の顎紐使用も同様 義務化
警察務の目的に據っては 所謂 私服を以て 勤務に服した
憲兵服務細則第12條には 次の様に定められてゐた
「憲兵ハ上官ノ命令アルトキ 又ハ時機猶予スヘカラサルトキ 制規ノ 服装ヲナサスシテ勤務ニ服スルコトヲ得」
制服の場合と雖も 事務室に於ての執務には 兵器類の装備は免ぜ られてゐたが 日直勤務者は 兵器装備であった 尚 私用外出に際しては 拳銃 憲兵腕章は装しない事になってゐた
公私両面に亘って 「タダ(無料)の酒は飲むな」 「甘言に乗ずるな」 「女に手を出すな」 「越権行為の厳禁」 「服装の正整 身体の清潔 言葉遣いに注意」等々は殊の外 厳守実行を命ぜられておった
尚 憲法 刑法 刑事訴訟法 陸海軍刑法 その他の法令等の 自習 及び 満語会話の習熟は 勤務の多忙等の理由を認めず 強制に 近い程 五月蠅さかった 特に関係法令等の 不勉強者は 憲兵 不適格者也 と 派遣隊長 班長 等から常々言はれてゐた 法令等の 実際摘用に就いては夜遅くまで 日直下士官に質問をしては 勉強した ものであった
私達の直属である牡丹江憲兵隊(本部)隊長 (憲兵大佐 望月政吉) の情報教育方針として 隊下全憲兵(補助憲兵を除く)に毛筆に依る習字 を課した そして其の教育の一環として隊下の下士官 以下の憲兵に対し 軍人勅諭(我が国の軍隊は世々天皇の統卆し給ふ所にぞある 〜 中略 〜 汝等 軍人能く朕が訓に遵いて 此の道を守り行ひ 国に報ゆる の務めを尽くさば 日本国の蒼生挙がりて之を悦びなむ 朕一人の懌 のみならむや 明治十五年一月四日 御名) 〜 で終る 彼の有名にして 超長文 難読にして 且 難解な 処々に変体仮名を用い その暗記 暗誦 で兵を苦しめた 「陸海軍人に賜りたる勅諭」の浄書を命じた
此の直喩発布が一月四日であるのに因み 隊長の手元には毎月 四日に提出する事になってゐた 憲兵隊と言う特殊な部隊である為に 事件発生の予見は不可能である 非常呼集は日常茶飯事であり勤務が 終日連夜する事は極く当り前であった だが其の事を理由として 軍人勅諭の浄書提出を免除される事は絶対になかった 字の上手下手 で其の責を問はれる事は無かったが 所謂 殴り書き 走り書等は厳しく 叱責された 誤字 当て字 脱字 変体仮名の平易書も 又 認められなかった 其れ等があれば 其の半紙は没として 改めて書き直した 勅諭全文の 浄書には 優に5時間を要した 為に 一夜漬で書き上げれば 其の 3分の2は字が クタビレル のは避けられなかったので 3〜4囘に 分けて書く事にした
私は石頭着任と同時に他の下士官の分まで 代書をさせられた 代書は認められなかったが 敢えてそれをやらされた 正直言って 甚だ迷惑至極な事であった 兵長連中も同期の三浦 戸口の両君も 月末近くになると 一向に冴えない顔をしてゐたのを 想い出す 代書をした事が 終に発覚しなかった処をみると 本部に送り届けた浄書は 果たして全部を隊長が検閲したものか 否か 極めて疑はしかった様に思う
憲兵分隊以下の隊(分遣隊 派遣隊等)に在っては 隊付先任の 准士官 又は下士官を總て班長と呼称した 班長の職務の内容は P. 139に於て記したので 省略するが 日常の勤務を具体的に 記せば 分隊から受領して来る 日々の命令 囘報 手牌情報 その他等々は 列車の時刻の都合で午後9時を過ぎる事が 通例 であった為に 其れ等の書類を派遣隊長 出勤前に班長は眼を通し 措置すべき事項等を朱書(チェック)して 派遣隊長に提出するまでの 朝は出勤時限1時間以上も前に出勤 夕方は各係主任の提出する 報告文書 翌日 勤務割当表作製 点検 加除訂正等の為に官舎に 帰宅は 普通でも午後8時を大分廻ってからであった だが突発事件 でもあれば(良く起きた) その分だけ加重されたのである(その度に 補助憲兵の谷口さんは官舎に走って奥さんに今夜は遅くなる 或いは 隊泊りを連絡した 日中は来隊者の応接(派遣隊長不在時 又は派遣隊長の判断を仰ぐ までも無い件等) 外部との折衝等 席の温たまる暇は無かった
補助憲兵 雇傭人等えの直接 指導 監督 内務係 内務班長等の任が 此の外にあった 実務隊に於て 最も多忙極はまる職掌であった
我が石頭隊に於ては 曹長 清水 勇氏の担当する処であった 清水さんは仕事には極めて厳格そのものの人であった 警務 司法等 の書類 駐屯地部隊えの通牒等の書類作製に当っては 一字一画 たりとも誤りは 厳しく指摘した 部下の報告等にしても微細に到るまで 忽にしなかった だが その反面 勤務外にあっては 清水の次郎長的な 親分肌の人であり 竹を割った様な性格の人であった 部下の面倒を 良く見る人情豊かな人であった 部下を良く信頼した だから部下も 良く班長を頼り甲斐のある班長として信頼した 「班長の為とあらば」 「命とあらば」水火をも辞せずとの感情が極く自然に萌芽した 名班長であった
私はある時 横着を極め込んで 取り替えた 褌 靴下 等を寝台の下に 丸め込んで置いたのを 運悪く班長に発見されて 大眼玉を頂戴した事があった 此の時は上等兵室と兵長室が点検を受けたが 上等兵室では私の他に 同期の三浦君も同じ事を発見された 兵長(下士勤)室では流石に その様な横着を極め込む様な者は居なかった 班長は「貴公等は何時も この様な不潔な事をしてゐるのか? これから発見した時には謹慎処分 だぞ」と注意を受けた
2人は直ちに選択場に急行して洗濯をした 洗濯を終って帰ったら 班長は「これも俺の役目の内だから 悪く思はんで呉れ 洗濯位入浴の時に必ず行へ 面倒な繕い者 があったら 家内にさせるから 勤務後 官舎に持って来いよ」と言って 兵室から去らうとした その時 私達 不潔者 2名は「班長殿 お待ち 願います 謹慎処分を免除された お礼の印にと思いますので 一献差し上げ度いと思います」と言って 立去る班長を引き止めた 前々から 三浦君と2人の私物として 購入して置いた ビール(普通 兵室に酒類を保管しておく事は禁ぜられて居たので 食料庫に置いた) を食料庫から持って来て 班長 陳さん 私達上等兵達で酒盛りを 始めた その内に残務の終った 下士官も私達の兵室に来て 仲間に 加はった 「此の様に歓待されるのならば 毎日の様に 貴公等の アラ探しをやるか」と言って 班長は大笑した 全く以て懐かしい 昔日の物語りの一駒であった
李さんの待遇は陸軍雇員であり 正式職名は憲補であった 憲補とは満人で身元確実 思想堅実にして 憲兵隊に忠勤を誓約し 採用された者 元より警察権は無く 各種情報蒐集に際し 派遣隊長 監督下にあって 憲兵の補助を為す 平常は満語通訳を勤務(同様 な任務を行なう朝鮮人には 憲兵補なる職名を与えてゐた 有事に際し 野戦憲兵隊に随伴する 憲補 憲兵補は 下士官 兵と同様の軍装 (階級章 憲兵徽章 こそ着装しなかったが 憲兵腕章 軍刀 拳銃等は 佩帯させて 憲補 憲兵補 の誇りを持たせ士気を鼓舞させた)
李さん(24才)には超美人の奥さん(27才)が居た 夫婦揃って 好人物の大人しい人達であった 李さんは牡丹江市郊外の豪農の 次男坊で 朝鮮 京城 の日本人 中学校に特待生として 留学した人で 勿論 日本語 堪能(日本語1等通訳免許状所有) 墨書に優れ 素人の 私が見ても惚れ惚れする程の美事な書であった 私達営内居住者は 勤務終了後 李さんの帰宅を無理を言っては引き留めて 満語会話の 習得に励んだものであった 難しい込み入った会話になると 私達は 文法を無視して単語の羅列になってしまうのであった 此の様な時 李さんは「満人で日本人を理解する人は それなりに何を言はんとして ゐるか推察して呉れるが 憲兵さんならば もっと文法を誤まらない 様に勉強して下さいよ」と屡々苦言を提された
李夫人は 日本語は片言混じりではあったが 私達との会話には 充分用を足した 夫人も墨書は美事なもので 良家の育ちらしく 上品で鷹揚にして超美人であった その上料理は上手であり 特に 棗入の支那菓子作りの味は 今以て忘れる事は出来ない 結婚して5年に なるが未だ子供が生れ内のが淋しいと言ってゐた 私は巡察の経路に 李さんの家の前を通る様 計画案を作って 班長に提出した 巡察の折に良く立寄っては 支那菓子の接待に甘んじた (警務係の 特権?でもあった) 接待に甘んじた丈では決して無かった 時に 得難い情報を耳打ちして呉れたのである 李さんは「第4夫人位までは 持ちたいが 憲兵隊の給料では第2夫人を持つ事も難しい」とボヤいて居た 私は満語会話教授のお礼に李さんに煙草ケース(入営の時に親父から 贈られた 金属製の一寸した者)を贈った 義理堅い李さんは返礼として 硯 墨 毛筆(硯は南支端渓産の美事なもの であった)等を贈って呉れた 私は除隊記念品として有り難く頂戴して 保管してゐたが 終戦間近に爆撃被害で失って仕舞い 申し訳無く 残念でなら無い
名は何と云ったか忘れて仕舞ったが 背が高く身長は2米近く ガッシリした 体格の人であった 背が高かったので 陳さんと呼ぶより「很高子」 (ヘンコーで 很=非常に、ひどく、大変 等の意)なる和製愛称を呈上して 其の様に呼んでゐた 無学文盲であったが 誠実一徹の陰日向無く良く 働く人であった
中国北京の南約20〜30Km位距てた処に良郷と言う 街があり郊外で貧しかったが 家族6名(陳さん 夫人 子供3名 老母) 農業を営なんで平和な生活をしてゐた 昭和17年の春買物の為 北京に夫人と一緒に出掛け買物を済ませて 帰宅の為 北京駅に向かって ゐた処を 日本側の強制徴用に会い 無理槍に トラックに乗せられ 泣いて 哀願する夫人と別れさせられて 東京城(牡丹江省 寧安県)の近くに在る 鏡泊湖近くの軍事施設建設労務者として多勢の仲間と一緒に連れて 来られたのであった
昭和18年晩夏の頃 故郷の家族の事が心配で 故郷に逃げ帰える決心をして 死を覚悟で 逃亡したのであった 逃亡は間も無く判明し 沿線 沿道の要所には逮捕の為に 警察の網が 張られた 勿論 早速 日満相方の憲兵隊 満警 鉄警 等に手配された 逃亡5日後に 石頭憲兵が石頭屯の鮮系部落に潜入中を発見 容疑者として 石頭隊に任意同行した 取り調べの結果 以上の 事実が判明したのであった 派遣隊長は勿論の事 隊付下士官 連中も事の詳細を知り 私情に於て 同情した
然し乍ら 一件書類を 作製の上 当然 軍律会議に送致すべき事件である 派遣隊長は 暫し 沈思黙考の末 分隊に急行し 分隊長に 次の事を意見開陳した 「逃亡は届出人(軍施設建設請負業者の労務主任)の手続の手違い (労務者を軍関係の他施設に移籍手続き事務の連絡不充分)に起因 と言う事にすれば 逃亡事件は成立せず 他の軍事施設とは 石頭 憲兵派遣隊とする事に書類を作れば事は丸く納まる」と思う旨を 意見開陳した
分隊長は特進の憲兵將校であった 從って憲兵とは 言っても他兵科將校から憲兵に転科した將校とは訳が違う 憲兵として 無駄に禄を食んで来た人では無い 立身出世型のエリート意識過剰の 將校とは 程遠い考へ方の持主であり 稀に見る肝ッ玉の据わった人で あった(分隊長は恐らく 前川宗雄大尉では無かったかと思う) さればこそ 派遣隊長は この分隊長ならば話の解る上官として 勇を鼓して 意見開陳に及んだのであった 「結論は明日まで待て」との事に依り 派遣隊長は 其の日は帰隊した 翌日 分隊長より「此の責任は本職一身に 在り 意見開陳を採用する 直ちに実行せよ」との電話命令を受けた
一方留置場に留置されてゐる陳さんは 有罪を覚悟して「没法子」 (メイファズ=諦観の意)を決め込んで居た 留置場から出されて通訳を 介して 派遣隊長から「石頭隊付に移籍されたので もう心配無用」と 申渡たされたが 何の事か チンプンカンプン さっぱり分らず 唯 夢の中 に居る様な気持ちであった由である
その後 班長から「分隊長や 派遣隊長の特別な計らいに依る放免であり 暫くの間 石頭隊で 働く事 真面目に働けば 故郷に帰える事が出来る」旨を達せられたが それでも騙されてゐるものとばかり思ったさうである 更に李通訳が 派遣隊長の意を詳しく話して聞かせた結果 ようやく諒解したとの 事であった だが飽くまでも 定員外の傭人として雑役夫に使うことにした 官衙であれば致し方の無い事であった 給料は分隊長の機密費 及び 派遣隊員の據出金(補助憲兵を除く)で補充した
以上の事は私達が着任してから先輩の下士官や補助憲兵から聞かされて 承知した事であった 私達も4月分給料から 兵の階級者は金50銭を 據出した 下士官以上は階級に応じて応分の據出をしたのである
陳さんは 派遣隊長 班長 の食器洗いは厨夫には絶対にさせずに 必らず自から行ない 熱湯消毒を確実に実行した 又 派遣隊長 班長 の靴の手入は常に ピカピカに磨き上げてゐた 陳さんの仕事は 舎外全般の掃除と舎内では廊下 留置場 洗面所 厠 の掃除が受持ち であった 当時若僧であった 私達が見ても良く働く人であったので 私達は據出金の他に金を出し合っては 煙草 甘味品 等を購入しては 進呈した
彼の最も得意とする特技?は 食料庫 馬糧庫に出没する鼠を 庭箒で 100% 捕える名人であり その上 その獲物を素早く ペチカの火中に放り込み 2〜3秒して 逸早く之を執り出しては 醤油に付けては 丸飲み同様に食べ 「好吃很好吃(ハオチー ヘン ハオチ=大変に美味しいの意)を連発した それを唖然として 見て居る私達に「吃罷」(チーバ=食べなさいの意)と奨められたが 下手物食い揃いが多い憲兵もこれ丈には遠慮した
三浦君と私が未洗濯物を寝台下に丸め込んで置いたのを 班長に発見されてからは 良く私達の部屋に来ては 満語と日本語を チャンポンにしては「有 センタク 洗々没有」(ヨウ センタク シーシー メイヨウ=洗濯物はありませんかの意)と言っては気を遣って呉れた
眞に愛すべき人であった
新任の上等兵 兵長(下士勤)達は 憲兵実務の初年兵であったので 最初の頃は 先輩下士官直々の指導に依って ペア(下士官 及び 兵 2名1組)になって 巡察勤務の見習いを命ぜられた 巡察中に 遭遇する諸々の 事件 取締対象現象等々を摘要根據法令等に就き 指導され 又 質問され乍ら実務について現場教育を受けた この 勤務は5月早々 清水曹長 着任するまで 毎日 の様に行なはれた
清水曹長 着任早々に各担当係の選考をする際 私は「特務係 を命ぜられ度い」旨を班長に意見具申した 曹長は「貴公の具申は 希望として聞き置くが 派遣隊長の最終判断に據り 決定される事 である 俺は前任地(牡丹江分隊)勤務中 石頭隊転勤の内示の あった折に 隊本部に於て教習隊から送付されゐた個人別 学科評定表を見せられて来た 貴公の特別高等警察服務教程 採点は「特に優秀」と記入されてあった 若い貴公は純真だ 青年憲兵は さうあらねばならぬ その反面 思想対策警察務に 熱中するの余り 思想上 間違を起す様な事があっては 一大事だ 前途有為の評価をされたに拘らず 思想上に於て要注意となり 憲兵不適格者となった者を支那事変以来今まで見て来た 貴公が 憲兵勤務に馴れた上で その時には ジックリ と相談に乗らう」と言はれた
そして 其の日の夕刻 新任兵の担当係職が発表された 金田兵長 (下士勤)と私は 警務係を命ぜられた 勤務の内容は P. 140に記した 通りである 警務主任は班長兼務であったので 班長 清水 曹長の 直接 指導の下に軍事警察服務のイロハから懇切 且 厳格に叩き込まれた 警務書類 司法書類の作製は殊に厳しく指導され 聴取書の精書は 特に厳格であった
軍法会議 又は 軍律会議 に送致する被疑者 又は 現行犯人等の 刑罰に依っては 人命にも係る裁判資料の基礎 となる書類である 誤字 脱字 当て字 その他 1点1画にも誤り無き様 厳しく指導された 聴取書の最終に「取調官 陸軍司法警察官の意見」 として記入する1項があった その1項に記す文を朧な記憶を辿って記す
強盗現行犯の実例 「被疑者(又は現行犯人)何某は幼時に於て父の早逝に会い 母は 日傭労務者として一家の生計を支え 経済的には貧困した生活を余儀無く された 被疑者(又は原稿犯人)は小学校義務教育も充分に受けず 弟妹の面倒を見る傍ら 少年時代より家計を助け 母を助けた 長じて 徴兵適令となり 甲種合格し 満洲第○○○部隊に入隊せり 軍隊に於ける 勤務態度は優秀(中隊長証言書の通り) 軍隊にて受領する俸給は之を 全額家郷の母に送金(中隊長証言書の通り) 為に小遣銭に窮し居た のである
偶々 ○月○日 外出を許可され ○○屯附近見物中の処 ○○商店店頭(満人経営)前を通行中 該店舗前に販売の為 陳列せられ ありし饅頭を一瞥するや 俄に食欲を催せり 然るに被疑者何某は当時 懐中に無一文なりし為 購入し得ざりしが 一度催したる食欲を抑止 する あたはず 遂に饅頭1ヶを不知不識の内に出来心に依り窃盗し 逸早く店前を去りたる処 此の様子に気付きたる該店主何某は 被疑者何某に走り寄り 問詰せる処 被疑者何某は該店主を 殴打せるものにして 偶々附近路上を通行中の 満軍憲兵上等兵何某 に據り事情を聴取され 強盗犯 惹起 を自白し 准現行犯として 其の場 に於て逮捕され 後刻 石頭憲兵派遣隊に 移牒されしものなり
本事件発生を考察するに 被疑者何某の栄誉ある帝國陸軍軍人としての 自覚欠如に據る処 大なるは論を俟たざる処なるも 前記の如き 理由に基く懐中無一文なりしが 抑々の原因の一に該当すと 思料せらる 被疑者何某は長男にして家郷に在る母を想い 弟妹等を 想ふ 家郷へ全額送金は 孝養心 及び 弟妹愛から発せられたる事は 明々白々なりと思料せらる
一方 軍務にありては 所属中隊長 證言書の如く 服命する事 忠実にして 率先躬行し 他の模範とするに足る優秀なる精勤兵なり 出来心なりとは言え 強盗罪を犯したるは 厳正なる軍紀を犯したる 事犯なるも 初犯なり 身柄受領後の被疑者何某は精神状態の冷静化と 共に己の犯行の重大性を強く認識し 深く反省し 改悛の情 極めて 顕著なり
被疑者何某の直属上官は本件発生後速かに 被疑者何某に対し 弁償 治療 慰謝 其の他等々の適切なる措置を実施せり 剰え被疑者何某は任意に貴職に減刑嘆願書を提出しあり(別添の通り)
以上縷々記したる條々及び 罪は憎むも人は憎まずの刑法立法の精神等を 併せ御高配賜り 御温情ある 御判決を賜はらん事を 判士長殿 並びに 判士各位に 謹んで意見具申す」
以上の事件は単なる窃盗事件であったならば (被疑者の改悛の情 顕著なる場合にのみ限る)憲兵隊が仲に入り 被害者に充分なる弁償 慰謝 その他等の措置を 所属部隊に実行する事を要請し 直属上官の 罰権(陸軍懲罰令へ行政処分に該当)に基く処分(P.166参照)に 一任したかったが 強盗罪に該当した上 加えて友邦国 満洲国軍憲兵に 発見逮捕された とあっては厳正なる軍紀維持を一枚看板として標榜する 関東軍としては真に止むを得ざる 軍法会議送致であった とは 送致後 派遣隊長 班長 等の述懐談であった
「憲兵初年兵は 先ず巡察勤務に始まる」の原則に從って 兵長(下士勤) 上等兵 各1名 計2名がペアになっての勤務が開始された 前夜 兵長と2名で案を練り乍ら作った巡察勤務計画書を当日 班長出勤(班長は定刻1時間以上も前に出勤が常であった) と同時に提出 種々の注意すべき事項を朱書にて記入された上で 認可を受ける慣はしであった 朝礼後 正式に派遣隊長より本日の 勤務を命ぜられ 日直下士官より拳銃弾(14発)の交付を受けて 定刻 派遣隊長に申告 事務室に於て 班長に勤務を報告し 勤務開始 である とに角馴れるまでは 緊張の連続であった
憲兵と雖も 勤務に差支の無い限りは陸軍礼式令の定むる処に從って 路上で他兵科 各部の上官 上級者等 及び 軍属の相当階級以上 には 敬礼を送る
憲兵は横柄だと難詰された節があるが 大方は憲兵の勤務に就いての 誤解である 例えば 停車場取締勤務中 乗降する軍人 軍属 (外○軍人 軍属を含む)の自己以上の階級者に対し 一々敬礼を 送って居たのでは 不審者 非違者等の発見 又は 指名手配者等の 逮捕 その他等々に 差支える その為に 「勤務に支障のある場合 上官 上級者等に敬礼を省く事を得」とされてゐた
憲兵の將校 准士官 下士官は 陸(海)軍司法警察官であり 兵の 階級にある 兵長 上等兵は陸(海)軍司法警察吏であった 憲兵も 軍人である以上 他の兵科 各部と同様 階級章は付けてゐても 勤務中は夫々が陸(海)軍司法警察官 又は 吏としての 職権 執行中 であって 何れも関係法令等に於て定められてゐた 又 憲兵の 勤務の都合に依っては 所謂「私服勤務」も認められてゐた 即ち 憲兵服務細則第12條には
とされて居り 軍令憲兵も当然 之を準用されたのである
軍人 軍属等の現(准)行犯人 被疑者 非違者等に対する 取調べに際しては 其れ等の軍人 軍属が 己の階級以上の際は 下級者たる憲兵が上級者 上官等を 取調べる事になり 相手方の人権 を尊重する意味で 軍服を脱ぎ 私服を着用したのである
恐縮する事 極はまり無かったのは 憲兵は軍刀を吊り 長靴を履き 襟に付した憲兵徽章が見習士官の襟章と誤認されて 路上に於て 他兵科 各部の准士官 下士官等から 先に敬礼された事であった その様な時に 私の方から急いで 敬礼を送り乍ら 近寄って 「自分は上等兵ですから 敬礼しないで下さい」と頼み込んだ ものであった
外国軍人(満洲に於ては 主として満軍將兵 及 鉄路警護団員) 及び 礼式令に定められては居ないが 同職である 満洲警察官等の 自己相当以上の制服着用者に敬礼を送る 国際法上 事実に於ては 消滅済ではあるが 白系ロシア人(ロシア帝国崩壞に際し 革命政権に 反対し多くの其れ等のロシア人が満洲に亡命してゐた)にして ロシア帝国時代の元士官等は「腐っても鯛は鯛」「破れたりと雖も 名誉あるロシア帝国軍人」としての名誉を矜持し「天の時到らば 祖国再建の大志を抱き」との確信の下に 何かの記念すべき日には 曾ての日 栄光に輝いたであらうロシア陸軍の軍服を着て 街路を闊歩する老士官に会う事があった 其の様な場面に 会った際に 敬礼を送ると 「スパシーボ(露語 〜 感謝の意)」と言って 近寄り 相手方から握手を求められたものであった (内戦に破れた とは言え 敗軍の將である事に変りは無いが それにしても ロシア帝国軍隊元士官である事に臆する事無く 反って誇りを矜持して 居た態度は 終戦後卑劣な行動に走った一部日本軍將校と比較し 立派であると明言して差支ないものと断ずる
一般的に鮮人は警戒心が強い様に感じられた 尤も私達が鮮語に 全く暗く会話の出来なかった為もあるが 相手が私達に近寄るのを 敬遠して居た様であった 一方満人の方は相手側が親近感を寄せて来た 私達の方も下手な満語ではあったが 積極的に話し掛けたのが功を奏し たのか 急速に顔馴染みが増えて来た
石頭駅取締りに就くと 時々 牡丹江に嫁に行った娘の家に遊びに行く石頭屯の屯長夫人(満人) に出会った 何時の間にか此の夫人とも顔馴染みになった 此の夫人は決まった様に 大きな包を背負い 内孫の手を引いては 列車に乗るのであるが 支那夫人の例の纏足(幼児の時に足に布を 固く巻き付けて発育を止める習慣 美人の條件の一ツに数える説と 夫の留守に情夫の元に走るのを予防する説の2説あるも詳で無い)の為に 本人は差程に苦痛を感じてはゐないのであらうが その様な習慣の無い 日本人の眼には何とも其のヨチヨチ歩きが不安定に写るものであった 私は彼女の大きな包を列車の網棚に乗せるのを度々手伝った その様な 時彼女は「大謝您的好意」(ターシェ ニンデ ハオイ 〜 貴男様の 御親切に感謝しますの意味)を繰り返しては礼を言うのであった
私は「不要謝説話 請半路上 小心孫女 再会」(プヤオ シェソワホワ チンバンルーシャン ソンスーサイホイ 〜 いいえ何をおっしゃいます どうか途中 お孫さんに気を付けて 又お会い致しませうの意)と 下手な私の満語の発音を それなりに解釈してくれる彼女に感謝した (満洲国の面積は日本より遥かに広い 日本は当時 北は樺太から 南は台湾まであった 同じ日本でも夫々の地方で方言あり 訛ある 如くに 満洲でも同様であった 満洲の帝都新京で教った満語の発音は 満洲の標準発音であったが 東満の石頭地方では 発音は全く 或いは 多少の相違あり 馴れるのに大分苦労した) 満洲国面積 1,303,143 Km2 兎に角 臆する事なく大胆に話し掛ける事に據って満語も上達し 人との 触れ合いも深まった
鉄路警護団(日本の現在の国鉄の鉄道保安官に 似た組織であるが それよりも大幅に職務権限があり 場合に依っては 戦斗行動もする満洲国軍事警察の一種 〜 満洲事変まで満鉄の守備に 就いてゐた関東軍の獨立守備大隊の肩替はり)石頭派出所長(日系)も 開拓団医師も「間違っても良いから臆する事なく話をすることです 例え 下手な満語であっても こちらに誠意があれば向う様の方で それなりに解釈して呉れますよ」と忠告し 激励して呉れた
巡察計画の道順に從って先ず 石頭駅に到り 発着列車の乗降客の内 軍人軍属の軍紀風紀の状況 手配犯人 容疑者等の有無 軍用貨物 列車の異情点検 満運倉庫(軍需品の仮保監に使用し 陸軍代用倉庫 に借り上げ)の異情点検(駅長 鉄警所長 満運 支配人の立会を要請) 後 駅長室に於て駅長(日系)助役(鮮系)に挨拶 暫時用誤 次に 鉄警派出所長と情報交換 次いで満系所長(満系 日本語達者)に 同様 挨拶 情報交換 次に満郵に立寄り 20〜30通の郵便検閲 (主に封書 〜 満洲国検討違反ではあったが 反軍 反戦 反満 侮日等の思想動向把握には欠かせぬ 便法であり 公然の秘密行為 であった)
次に特殊慰安所に於て 駐屯地 司令官命令(主として 衛生関係 〜 室内外の清潔 寝具類の消毒励行 慰安婦の疾病の有無 健康状況 衛生具の備付状況) 遵守の程度 点検 次いで 開拓団 医院(院長 日系 開拓団員の診療のみでは 経営が成り立たないので 一般住民(日、満、鮮)等の診療を併せ行なってゐた) 院長 又は 夫人から その日その日の出来事(多民族の患者通院に就き 時に 有力情報に接す)等を雑談を交えて聴取を終って 李通訳宅に 赴き 超美人と若干時満語会話の練習を行なった (巡察勤務者の 特権?)
其処を辞去後 午前の最後の巡察目標の陸軍官舎群 及び 陸軍病院 看護婦官舎の巡囘(外出する軍人が好奇心から良くこの 看護婦官舎附近を徘徊することがあり 女性下着の洗濯後の曝乾中に 窃盗する事件あり (私の着任前 及 着任後に各1件あり) 以上で午前の巡囘が終了 帰隊して巡察簿に見聞事項記入 異情の 有無を派遣隊長 班長に申告 昼食後 午後の巡察勤務に出るのである
石頭隊の奥 10Km位 離れた辺りに多数の部隊が駐屯してゐた 其処まで行くのであるが 途中1軒の家も無く 一面の草原であり 緩い波状地であった 在ると言えば 道路に沿って各部隊 官舎 営外酒保 兵士ホーム 駐屯地給水所 開拓団 慰安所 等への 電線 電話線にそれ等の電柱丈であった 途中の草原は 駐屯部隊の実戦さながらの 大演習場であった (日本軍最大面積の 演習場であったと記憶する) 一般人の通行は 禁止されてゐるので 不審者に出会うことも無いのである 連れの兵長と互に 陸軍刑法 刑法 刑事訴訟法等を 図裏から取り出した法令集を参考に設問し合い乍ら 勉強したものであった
漸くにして部隊群に到着し 各部隊周囲を巡囘 次に陸軍官舎群 その近くに兵士ホームと称する軍人軍属 及び 其の家族を対象とする娯楽施設(映画館 演芸場 食堂 喫茶店 等を 併設)があり 外出日で無い時には 其処に立寄り 主任軍属と用談 特に火元取締り食品衛生等を喚起 次いで営外酒保に到り 同様の喚起 等を行なった 物品販売所と言えば 此の営外酒保 1軒丈であり 官舎の夫人連中にとっては 物足りなさを感じられた事であったらうと 察せられた (石頭屯でも同様であった) 最後に特殊慰安所 給水所に 立寄って帰隊の途に就いた 私は乗馬巡察を希望したが 相方が 乗馬部隊出身で無かったので 単独勤務になるまでは 徒歩巡察で 勤務した
南方 又は 支那戦線等に 転属した軍人の留守官舎にあっては 別に其の 官舎に入居を要する軍人の居ない限り 出征家族援護の目的を以て 家族の入居を駐屯地司令官の裁量に依って許可してゐた その家族の 為に 此れ又 出征軍人家族の援護の目的で 部隊では官舎当番兵を 便宜勤務させてゐた 主人の出征した留守を守るべき夫人の中には 孤閨の淋しさから 其の当番兵との間に 不真面目なる噂を云々されてゐる 者も稀にあったので 其の事を意識し乍ら官舎群を巡察した この様な 噂が例え事実であったとしても 当の主人から告訴が無ければ 憲兵としては 親告罪である以上 事件として処置する事は出来無い
噂の濃度(軍隊に於ける情報用語では確度 甲、乙、丙の3種に分別) の高いものは 関係部隊長 及び 駐屯地司令官等に対して 軍紀風紀 上の見地から 当番兵差し出し中止 又は 夫人の帰国、官舎立退き その他の措置を採る事が適当と思料する旨を通牒した 此の様な事故 を起こした当番兵は 直属上官の罰権 陸軍懲罰令(行政処分)を摘用 された 因みに当時の刑法第183條を引用する
「有夫ノ婦姦通シタルトキハ2年以下ノ懲役ニ処ス 其ノ相姦シタル 者亦同シ
前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス 但シ 本夫姦通ヲ從容シタル トキハ告訴ノ効ナシ」
陸軍懲罰令とは軍隊生活中に起きた 所謂「事故」の事であり 一般官庁等で言う 「行政処分」の事である 陸軍懲罰令第21條 及び 第24條には
「第21條 師団長 及ヒ 之ト同等以上ノ権アル軍隊ノ長ハ 部下ニ 本令ニ規定セル一切ノ罰目ヲ科スル権ヲ有ス 旅団長 聯隊長 大隊長ハ 各々 ソノ部下ニ 罰権ヲ有ス」 「第24條 中隊長 及 獨立分屯 若ハ 分遣セル軍隊ノ長タル 中 少尉ハ 部下ニ対シ 左ノ罰権ヲ有ス」
例示すれば
等々である
憲兵初年兵も巡察勤務に馴れた頃になると派遣隊長から単独勤務を 命ぜられる事になった 之は私が単独巡察中に遭遇した事件である
駐屯地司令官(同一警備地区に駐屯する部隊 陸軍病院 陸軍官衙 及び その他の陸軍施設の長を以て構成し 其れ等の長(各部を除く) の上級先任者を司令官と為すものにして 駐屯地 部隊間の軍紀 風紀の維持向上を図り 且 各部隊間の統制に資する司令官) 及び 犯行者所属部隊長命令に依り 石頭屯の西方を流れる牡丹江 (川の名)を越える外出は営内居住下士官 兵 は禁止されてゐた(p.145参照) 対岸の鮮 満人部落との往来は 石頭駅の直ぐ下に在る渡舟を利用して ゐた 此の日の巡察経路には計画外であったが その渡舟場にも足を 延ばすことにした 丁度その時 渡舟から 鮮満人に混じって1名の 見習士官の軍服姿の軍人が下舟した 其の見習士官は 飯盒2ヶを手に 提げて居た 不審に思い その見習士官に 相当の礼を尽くして訊ねた 以下は見習士官と私の言葉の遣り取りの概略を記す
私「貴官にお訊ね致します 貴官は今しかた渡舟から降りられた 様でありますが 公用中なるや 否やを お伺い致します」
見習士官「今日は外出日であるので 私用だ」
私「では士官職勤務中で無いと解して 宜敷いですか」
見習士官「その通りだ」
私「貴官所属部隊長 及び 駐屯地司令官命令に依って 営内居住下士官 兵の外出禁止区域立入りの事実は如何 したのでありますか」
見習士官「本官は 苟も將校待遇の見習士官だ 憲兵とは言え 上等兵如きに 兎や角言はれる筋では無い」
因みに 陸軍刑法第11條には
「陸軍士官ノ候補者ニシテ下士官ノ階級ニ在リ 士官ノ 勤務ニ服セサル者ハ 陸軍下士官ニ準ス」
と定められており 尚 見習士官は軍隊内務令に依り営内 居住を義務付けられて居た
私達の囲りには 何事ならんと 多くの鮮満人が 取り囲んで来た 私は その鮮満人に直ぐ退く様 促した 一時は立退いたが 又 集まって来た 見習士官との遣り取りは未だ続く
私「陸軍司法警察吏として お訊ねしております 誤解無き様 お含み願います」
見習士官「本官の名誉を考えろ 上等兵では話にならん」
私「職権に基いて お訊ねしております 貴官の提げておられる 飯盒も検査して良くありますか」
見習士官「憲兵風を吹かせるな 検査には応じられん」
と言って 私を無視して歩き出した そこで私は語気を強めた
私「お待ち願います 重ねて申し上げます 陸軍司法警察吏としての 職権を公私中であります 貴官が不審訊問に応じなければ 最後の 手段を採ります 宜敷いか」
見習士官「そんなに見たけりゃ 見ればいいじゃ無いか」
と言って 飯盒を地面に降ろした 任意提出と見て 中を見ると 高粱飴が一杯詰まってゐた あと1ヶの飯盒も同じであった
其処へ次の渡舟が着いた 朝鮮人3名が急いで降りて 急ぎ足で 私の傍らに来て 片言混じりの日本語で「此の兵隊さんが飴を売って 呉れと言うので 2ヶの入物に飴を入れてやりましたが 代金を払はずに 帰えらうとしたので 代金を請求したら いきなり此の兵隊さんに殴ら れました 初めから呉れと言うのであれば 無料でも上げたのに 代金を 払はずに その上殴られたのでは やり切れ無い 朝鮮人だと思って 馬鹿に されたのが惜しいのです 憲兵隊に知らせに行く処でした 良く調べて 下さい」と憤慨遣る方無い口調で訴えた 私は鮮人に「貴男の申し立ては 間違い無いか」と念を押した 鮮人は「絶対に間違いありません この兵隊さんです」と答えた 他の2名の鮮人も同様の旨申し立てた 私は見習士官に向って再び訊ねた
私「見習士官殿 此の朝鮮人の申し立てに相違ないか 事実を述べよ」
見習士官「金は払う 値を言え」
私は激怒した
私「見習士官 本職の訊問に答えよ」
見習士官は開き直った態度で返答無し 私は更に語気を強めた
私「この告訴人の告訴の真否に就いて明言せよ」
見習士官「その通りだ 金は幾らでも払うから 見逃して呉れ 第1線 ならば こんな事 当り前と言うぢゃ無いか」
私は終に怒り心頭に発し 「フザケルナ」バンーと一発 突嗟に喰ら はせて仕舞った (私の体重は此の時分 70Kgを越してゐた)小柄な 見習士官は大きくよろめいて倒れかかった 犯罪の事実は明白だ 之れ以上の 訊問は不要だ 強盗準現行犯である 直ちに逮捕であるが 周囲を多勢の 鮮満人達が群がって取り囲んで居る前で捕縄を掛けるのは 見習士官 の体面を考慮して 「武士の情」で思い止まった それにしても 準現行犯人 であれば その侭連行する訳にも行かず 軍刀の提出を求めた 素直に 軍刀を吊り革より脱して差し出したので 隊到着まで預かる事にした 告訴人3名には 憲兵隊まで出頭を促した
此の事件に関しては 所属部隊副官 所属中隊長等が 代金払い 慰謝料払い 被害者の治療費(殴打された際の口中の裂傷)支払い等 に就いて被害者の満足する額と 部隊に於て 責任を以て誠意ある姿勢 を執るので 穏便に処理して欲しい旨の嘆願が派遣隊長に出されたが 派遣隊長は「初犯とは云い乍ら 刑事事件である強盗罪である事 近い將来軍隊の楨幹たるべき將校の候補生が軍隊の命脈である軍紀を 紊り 剰え 友邦満洲国建国の五族(日満漢蒙鮮)協和の大理想を 一片の反故と化すが如き行為者は 法の定むる処に據って 軍法会議の 法廷に於て公正なる裁判を受ける事が 本人に更生を促す絶好の機会也」 として拒否した
此の事件は 陸軍刑法の抗命罪(所属部隊長 及び 駐屯地司令官 命令に違反)及び 一般刑法の強盗罪を以て軍法会議 送致の為 分隊に護送したが1ヶ月余で 終戦になったので その後の事は 不明である 此の見習士官は 旧制工業学校卆業の甲幹出身であった 当時満洲は「戦地 又は占領地」でなかったので 陸軍刑法第86條に 抵触しなかったのは不幸中の幸であった
因みに陸刑86條には
尚 同第88條には
犯行の直接原因は 見習士官を命ぜられた隊付勤務になったが 平素からの統卆力に欠けて居るのを自認し 從って中隊の2年兵以上 からは常に馬鹿にされて居ると思い込んでゐた 何かの機会に 部下に 点数を稼ぐ可く内々思ってゐた処 中隊の甘味品配給が停滞してゐたので 外出の際 飴でも購入して兵に与える事を計画した 処が見習士官の 給料は安かったので小遣銭に窮し 遂に強盗に及んで仕舞ったとの 供述であった
陸刑第57條には
当時の満洲は陸軍刑法上 軍中に指定されて居た
一般刑法第236條には
一般刑法の場合 此の上更に 戦時刑事特別加重刑が重科される 事になってゐた
此の事件には次の様な 思はぬ付録が付いて仕舞った
此の見習士官を送致書類と共に分隊まで護送したのは 警務主任 兼任の 清水班長と私の2名であった 私は逮捕連行の経緯を派遣隊長 班長の 2名には詳細に報告済であったが 分隊に於て分隊長(憲兵大尉 前川宗雄)にも同様報告した 分隊長は次の2点に強い難色を言明した
以上の2點を強く指摘し 陸軍刑法 刑事訴訟法 陸軍礼式令等の 不勉強を窘められ 最後に越権行為 初囘に就き情状を酌量して 「譴責」(陸軍懲罰令 〜 一番軽い罰目)処分に付された そして其の 余波は 派遣隊長 班長 にまで 及び 「部下の監督 指導」に欠くる 処ありとして「譴責」処分された
私は己の非に対する処分には 当然の事として 甘受したが 恩あるべき 派遣隊長 班長 にまで類を及ぼした事の重大さに責任を強く感じ 愕然とした 私は2名の上官に誠心詫びた 2名の上官は怒る処か 返えって 激励される結果となり 唯々 恐縮の語あるのにであった 即ち 「貴公の良識に少々欠ける點があるとは言え 正義心に 逸る青年憲兵にあり勝ちな事である これを一ツの試金石と心得て 今後とも警察務に励む様 此の度の処分で挫折するが如き事の無き様 特に留意せよ」との有り難い言葉であった
私は後に 牡丹江特務機関(関東軍情報部牡丹江支部の通称名)に 転属の折 分隊から受領した軍隊手牒の賞罰欄には この処分の 一件の記入は無かった 分隊長の温情ある措置であったと深謝 の他無い 此の分隊長はシベリヤ抑留中 戦犯氏名を余儀なく された上 不帰の人となり 未だに凍土に眠っておられる 謹んで御冥福をお祈りいたします
昭和18年3月兵役法を改正(朝鮮人徴兵適令者にも適用、それまでは志願者のみ を徴兵)し 昭和19年より実施 次いで昭和19年10月兵役法施行規則改正 (17才以上を兵役編入)実施された 其の結果として朝鮮人青年が満洲の 各部隊に入営した 石頭駐屯の各部隊にも入営した 部隊に依り其の数は 一定して居なかったが 3% 未満の充足であった様に 記憶する 内地人兵に混入した部隊もあった様ではあるが多くの部隊にあっては 言語 習慣 思想 等の配慮から 彼等のみを以て 1ヶ内務班を編成し 食事等にあっては 大蒜(ニンニク) 唐辛子 雞肉 朝鮮漬等にまで細かい 気配りを示した 部隊もあった様に記憶する 又私的制裁は 固く禁じられゐた
内務班帳 班付先任 教育助手等の人選には特に最新の配慮をし 高学歴者等を当てる等をした様である 彼等の士気は 日本人的な 主観より観察すれば 内地人兵に比して 遥かに劣等であった だが 彼等は表向きこそ 日本人的な教育を受けては居たが (日本語に依る義務教育) 両親 親類等は朝鮮語を用い 朝鮮独特のハングル文字の使用等 又 家に あっては有言無言の 排日 抗日 侮日 反戦 反軍等の思想等も 扶植されて 生長をして来たものである 剰え 日本敗戦必至の情報は 日本が君臨して居た 外地先住民の間に広く 流布され 「知らぬは日本人ばかり也」 が真の姿であった 鮮満人にしても 無学文盲者が その様にして その情報をキャッチするのかは 特務に携わる者の驚異であり 恐威でもあった
その様にしても 生長した朝鮮人兵の逃亡事件は相次いだ 石頭駐屯の 各部隊からは1週に2〜3件、1件当り1〜5名の逃亡兵 捜索願があった 又他管内の逃亡兵 捜索手配等もあり 相当数の朝鮮兵が 逃亡したのである 石頭憲兵派遣隊の極く限られた兵員のみにては 自ずと 当該事件に投入する兵員に限界があった 此の為に 分隊の応援 満軍憲兵隊 鉄路警護団 満洲警察 等にも捜査 協力を要請するの他 密偵等にも情報提供を要請した 稀では あったが 内地人兵(日系)の逃亡もあった 彼等の逃亡は単に軍隊 生活の厳しさからの逃避でもなければ 家郷懐しさの念 等のものでは 無かった 反日 侮日 等の思想的なものの他に 日本の敗戦必至 の確信に基くものであった
逮捕し 取調べの段階で 聴取書作製の為 陳述する事を記録 するのであるが 逃走の理由を訊問すると 彼等の大半を超す者が 共通して供述する事柄は
関東軍の武力の強さを 日本人自身が自認して居た譬え言葉に 「泣く子も黙る関東軍」と称した 其の「泣く子も黙る関東軍」に在って 関東憲兵隊は 「熟睡する大人も憲兵と聞いた丈で跳び起きる」と譬へら れてゐたのである その様な威厳があると称された 憲兵隊の取調室で 憲兵直々の取調べに 豪も臆する処無く 堂々と己の信念を供述する彼等 の態度は見事であった 日本の指導階級にあった者が終戦を境 として昨日まで 天皇至上主義 神州不滅 打ちてし止まん 其の他の 荘言等を誰に憚る事なく弄して居たに拘らず 米占領軍の進駐を見るや 今までの主義主張をあっさりと翻えして 平和主義 民主主義 等の仮面を 素早く被って アメリカ様々と尾を振った 風見鶏的醜態を曝らして 平然とした連中と比すべくも無い崇高な信念であったと断言する
革新思想を貫き 民族運動の鞏固なる信條に敬服する 教習隊で 習った 思想対策の講義を追憶し 彼等の態度に感服し 同情した ものであった 然し乍ら 監軍護法は憲兵の最大任務である 一度 捜索願を受理した以上は 非違者の捜索 発見逮捕に当然の事乍ら 全力を傾注して是れに当面した だが逮捕した途端に 憲兵に逮捕されずに 上手に隠遁する方法は他になかったのであらうかと思ったものであった
留置場監守は僅少兵員の石頭隊であったので 逃亡兵所属中隊長に要請して 其の要員(下士官を長とする若干名)の分遣を求めた 勤務の要領は 営倉入者の監守に準じて勤務してもらった 其の折に夜中に 日直下士官の 暗黙の諒解 (S軍曹だけは承知して呉れなかった)の下に 表向きは密かに 砂糖湯を作って与えたり 配給の羊羹を御馳走してやった 勿論 監守の為 所属隊より分遣された長である下士官以下の者達には 口外する事をせぬ様に 厳に要請した
此の様な時には 彼等も人の子 涙を流して礼を言って呉れた いよいよ 一件書類と共に身柄を分隊に護送 (金田 下士勤兵長と一緒) するのであるが 此の護送勤務は 如何に任務とは言え 気の滅入るもの は無かった と悔まれる事も一再では無かった 派遣隊長や班帳の 特別の思い遣りで 衆人の眼を避ける為に 分隊までの護送には 貨物列車の車掌室を利用した
因みに陸軍刑法第75條を記す
以上は 単独犯行の場合であるが 復数人員で共同した場合は更に 重罪となり特に首魁には峻厳な刑に処せられる定めであった
序に陸軍刑法第77條(奔敵罪)を記す
当時満洲は陸軍刑法上 軍中に指定されてゐたので 逃亡が明確 (明確ならざる時は所属隊長の推定した時刻)に認識された時刻から 起算して72時間(正3日時)以内に自首(所属隊長を含み 他部隊 憲兵隊を含む 全満の警務機関(満軍憲兵、鉄路警護団、満警等))するか 或いは 発見逮捕されれば 逃亡罪は成立せずに 直属上官の罰権に 基く陸軍懲罰令のみの摘用(P.166下欄参照)で処分され 軍法会議に送致されずに 済むのである
石頭隊に於ては 派遣隊長 班帳 両者の方針として 72時間を6時間程度 超過しても司法書類 作製の段階で調制して 逃亡罪 不成立とした 罪人を強いて 作らぬ事も憲兵の温情ある措置として実行した 肝っ玉の据はった 者で無ければ出来ぬ 離れ業であったと断言する (此の事実が 発覚すれば 派遣隊長 班長 等は軽くても 礼遇停止 免官等 重ければ 軍法会議送致事件となる)
当日の日直下士官は 庶務主任の大隅軍曹 日直上等兵は 同期の 戸口上等兵であった 前半夜勤務の大隅軍曹が 日直室で勤務中 (23時頃) 石頭駅前の食堂(開拓団経営)の女將(主人応召中)が 血相を変えて寝間着に羽織りを羽織って男物のゴム長靴を履いた侭 約1Kmの途を走って 派遣隊の玄関に飛び込んで来た
何事ならんと 大隅軍曹が訊ねると 息を弾ませ乍ら 女將の曰には「どこの部隊の 將校さんか分らぬが 泥酔状態で 錠前を破り店内に侵入した その物音に 驚いて跳び起きて 電灯を点けた処 私の寝室まで押し入り一緒に寝せろ と言って狭い部屋中を追い廻された 危険を感じたので 咄嗟に衣桁を 投げ付けた処 將校さんに当り 將校さんは其の場に倒れたので 急いで 憲兵隊に知らせに来た」との事であった 既に就寝中であった私達は 非常呼集され 直ちに警察務に服する軍装を整え 日直室に集合した
大隅軍曹から手短に事件の内容を前述の如く知らされた 「相手は 泥酔状態とあらば 警務係の金田兵長(下士勤)と中倉上等兵の2名 が行けば良い 刀 略帽等は 其の場で領置 場合に依っては 靴 図嚢 等も領置して差支無し 制止しても効なく暴れる様であれば 負傷をさせぬ限り 少々手荒に取扱って宜敷い 但し相手は上官に就き 礼を失する事なき様 充分配慮せよ 直ちに出発」と大隅軍曹から命ぜられ 拳銃弾(予備弾倉分を含む 14発宛)受領装填して女將同道の上 食堂に急行した
着いて女將の案内で 室内に這入ると女將の寝室で 鼾をかいて刀を吊った侭 倒れた衣桁を下にして 大の字になって寝て居た 女將は途中で屡々当り処が悪くて 死んで居るのでは無いかと そればかりを 気にして 心配して居たが 私達は正当防衛行為だから 心配無用ですと 言って女將を勇気付けしたが 鼾をかいで 寝て居る姿を見て 女將は安心した 様子であった 私達は早速図嚢から用紙と巻尺を取り出して 現場図を 記録 壞された錠前を女將の同意を得て 証拠品として領置した
一応の措置を終ったので 少尉を起こした 仲々 眼を覚まさぬので 大声を発して再三起こした それでも起きぬので 尻を強く蹴って 起こした 漸く眼を覚ました 少尉は朦朧とした眼を擦り乍ら 「此処はどこだ」と連呼 した 見れば衣桁を投げ付けられた際の擦過傷と思はれる傷跡が顔に 認められ 僅かに血が滲んでゐた 「何だ貴様等 憲兵が何んで 俺をこんな処に寝かした」と言って起ち上らうとしたが まだ よろよろ として 居た
金田兵長が 「貴官を強姦未遂 現住家屋不法侵入 器物損壞 の現行犯で逮捕します」と告げた 相当の抵抗はあったが 酔って居たので 先ず 軍刀を否応無しに取り上げた 略帽は部屋の隅に転がって居たのも 図嚢に納めた それ丈領置すれば 捕縄の必要も無いとは思ったが 酔って居たので 転倒した際の怪我予防の為に 両手の自由は拘束する 事無く腰縄だけにして 私が介添する格好で 彼の右腕を私の肩に 廻して支えた 少尉は水を要求したので 女將の差し出したコップの水を 一気に飲み乾した処で僅かばかり興奮が覚めた様であった 「俺は何 をしたので ここはどこだ 誰が連れて来たのだ」等と再び騒ぎ出した
金田兵長が再び前述の罪名に依る現行犯逮捕に依る連行を告げた 締りの無い此の若い少尉は將校の体面も威厳をも かなぐり捨てて いきなり泣き出した 「言う事があれば 憲兵隊に到着の上 聞きませう」 と告げて ダマシ ダマシ 派遣隊に連行した
取り敢えず 酔の覚めるまで 検束処分と言う事で 留置場に藁布団 毛布 等を搬入し 留置場入りを願った 最初 何彼言って 留置場入りを拒んだが 大隅軍曹が説得の上で 漸く応じた
補助憲兵の谷口さん 他1名が 監視に当る事になったが 日直以外の営内居住憲兵も之に加はって 30分交代勤務を大隅軍曹に意見開陳した処 採用されて皆で交代して 監視に当った 急報に據って夜分出勤した清水班帳からは 次の様な注意をされた 「將校を検束 又は留置した場合 特に注意 すべきは酔の覚めて来るに從って 將校としての名誉を自から汚した事を 強く自覚し 舌を噛み切るか 首を吊るかして 自殺の危険性があるから 監視を厳重に行ふ様にせよ」と指導された
少尉は事の重大性を自覚 したのか 胡座もかかずに 正座し ジーット 瞑目してゐた 此の様な 馴れぬ座り方をしてゐたのでは 足が痺れ 起つ事も出来ぬであらうと思い 私は少尉に声を掛けた 「少尉殿 横になって お休み下さい」と言ったが 「諒解」の一語あるのみで座を崩さなかった 気を落ち付かせ様と思って 「水はいりませんか」と訊ねた処 「頼む」と言うので 日直の戸口君に 頼んで水を汲んで来てもらい 与えた コップの水を一気に飲んだ 未だ飲むか否かを訊ねたあら 「結構」と言って断った 幾分 気持ちに 余裕が出たのか 胡座をかいた 疲れたのか「壁に背を凭れても良いか」と 聞くので「どうぞ お楽にして下さい」と告げた
班長は夜明け早々少尉の 酔が覚めた頃 取調室で 取調べを開始した 金田兵長と私は 陳述書作製 の見習助手として 清水曹長の横に椅子を設けて座った(相手が私達より 上級者であるので 3名とも 私服着用) 先ず 私達は班長以下私服であったので 陸軍司法警察官 及び 同吏を少尉に告げる為 憲兵手帖を示した 少尉の所属官等級氏名は少尉携帯の名刺と一致した
取調べ過程で判明した 事は 牡丹江に私用外出し 料亭で シタタカ飲酒の上 更に帰途の列車中でも 又相当量を飲酒し 前後不覚の状態になったが 石頭駅で下車する事を車掌が 判明して居たので下車したが 其の後 開拓団経営食堂に立寄った事は 全然記憶の無いとの供述であった 派遣隊長も早々に出勤して 班長の 報告を受けた 所属隊週番司令に電話通報し 責任者の来隊を求めた
所属隊からは週番司令からの報告を受けた副官 直属の中隊長の2名が 官舎より貨物自動車に乗って到着した 早速派遣隊長室に於て 其れ等の 責任者に事の顛末を派遣隊長から説明した 漸くして班長から領置した 軍刀 略帽等を持参する様命ぜられた 此の事件は 「飲酒過多に基く 心神喪失下の一連の行為であり 刑事事件送致は断念した」旨が 派遣隊長より説明された
因みに 当時の刑法第39條には
とあり 同條 前段適用であった 後は 少尉の直属聯隊長名を以て陸軍 懲罰令に基く処分を行ない 他に転属発令 及び 女將に 充分なる慰謝料 支払い損壞物件に対する現物辨償 等も円満解決した旨の通報が寄せられた 此の少尉は 甲幹出身の予備役少尉であり 近い將来特別志願將校を 志て勉強中であり 現役復帰を夢見て居たとの事であった 皇軍の質の 低下振りを如実に曝露した1件であった それにしても 制服着用中の 然も將校たる者が 泥酔状態で市中 車中を横行するとあっては 論外中の 論外な事であった
制式には「関東軍予備士官学校」と称し 通称号は「関東軍甲種幹部 候補生教育隊」であり 普通には標題の呼名で通用してゐた
昭和20年頭初から関東軍の兵力の他管内もの抽出や満内の移動等が 大幅に行なはれた 之れに伴なって今まで 関東省延吉に在った標記の 教育隊が 石頭の元戦車第1師団隷下の機動歩兵第1聯隊(本土決戦に 備え 関東地方に抽出)の空兵営に移駐して来た 此の時の移駐組は 昭和20年6月移駐後 間も無く卆業し 同年7月第13期甲幹候補生 3,600名が入校して来た 校長は 小松大佐であった 尚 此の教育隊には 元陸軍大臣や元文部大臣を歴任した荒木貞夫大將の子息(陸大卆)が 隊付少佐として勤務務してゐた
幹部候補生制度は 旧1年志願兵制度(在営費 全額自己負担にして1ヶ年 在営で済み 除隊後 予備役教育招集し 召集解除の際予備役 少尉 又は 同伍長に任官させる制度・金持ち子弟の優遇制度として 悪評あり)を改正 (昭和8年 及び 同13年)し 旧制中等学校(正科目として現役將校も派して 軍事教育を5ヶ年間に亘り教育)以上の卆業者が徴兵 又は現役志願(満18才に 達すると志願可能)で入営すると 幹部候補生志願の受験資格が与えられ 合格すれば家庭の貧富の差無く無償で教育され 後に到り甲幹となり 士官適任者に認定され 予備役少尉に任官の際に 軍装費全額を支給され 正八位に除される等の恩典があった
幹部候補生に合格すれば 俗称「座金」と称された徽章を付け 一般の兵や 下士官と区別することにした 所謂軍人のエリート意識を自他共に 認めさせたのである 後日 この幹候を甲種乙種に区別する聯隊の 詮衡会議が行はれ 其のエリートの中から極く少数の更にエリートを選び 拔くのである これに選び拔かれた者が 甲種幹部候補生となるのである 此れは建前論であって 甲乙の区別の付け方は多分に政策的配慮に依る 区別であった
その一例を揚げる 大江志乃夫氏の著書 「徴兵制」(岩波書店)に據れば 其の文中に 「甲種 乙種は 試験の結果によって選考されたが 在郷將校として農村部の地域社会の 在郷軍人会に指導性を発揮する 農業学校卆業生は 優先的に甲種に採用され 都市サラリーマンとなる商業学校卆業生は乙種に廻されることが多かった」 と記されてゐる件りがある
甲種幹部候補生(甲幹と略称 予備役少尉養成を目的)及び 乙種幹部候補生(乙幹と略称 予備役伍長養成を目的)養成の 大きな目的は
以上の必要性等々であった
乙幹出身の下士官には 極く一握り程の例外はあったにしても 問題となる 様な事は起こらなかった 義務教育のみを受けて入営し 下士官を志願した 連中から比すれば 高学歴者が占める割合は多く 一般教養学科に於て 特に優れてゐた 入隊したばかりの新兵教育には 欠かせぬ存在であった 又 軍隊と雖も 一般官庁等に異なる処無く 机上事務は整然適格 且 迅速に 処理されねばならず 戦時野戦に従軍の際は陣中日誌の戦闘詳報等の 記録もあり 乙幹出身者の存在は貴重であった 部隊の指揮に於ても 軍曹 伍長 等は普通分隊長(混戦下の破断界の際は臨時に 小隊 中隊 等の指揮を執る場合 応々にしてあり)としての職分であり 部下掌握に差支ある可きものでは無かった
だが 問題は 甲幹出身予備役將校にあったのである (中には指揮 統卆力優れ 人格識見に於て幹部としての素養充分あり 軍隊が楨幹 たるに相応しい者も居たので 之等の者を除く) 一般的に言って 指揮統卆力に欠如してゐた事である
現役少尉(陸軍士官学校卆業者 少尉候補者出身 及び 特進者)は 職業意識に徹して居た 陸士出身者は入校以前から職業軍人を志願し 陸士に於て武人としての徹底的な教育を受けた 少尉候補者出身 及び 特進組出身等は 入営後 軍隊最下級の二等兵の下積み時代より 長い軍隊生活に耐え 骨の髄に到るまで 軍人精神を叩き込まれて来た 猛者であった
一方 甲幹出身予備役少尉は 士官学校卆業とは云え 飽くまでも予備 士官学校卆業者であり 幹候志願の頭初より 帝國陸軍將校としての 強い自覚に不足し 認識に欠けて居た 事実は否定出来ぬ事であった 將校養成とは云え それは速成であり「付け焼刃」的教育であった
支那事変(昭和17年7月7日 〜 同16年12月7日 〜 以降は 大東亜戦争 に包含)初期の頃までは さしたる問題(無かった訳ではないが極く少例)は 慨して少なかった様であるが 戦線が中支 南支に及ぶに從って 又 大東亜 戦争(昭和16年12月8日 〜 同20年8月15日)の宣戦に及ぶや 南溟 北漠の 域に急激に拡大された 戦線に大多数の軍隊を送って戦中を行なった これに伴なって下級士官の不足を来たし その充足には予備士官の大量補充 の為 詮衡規準の低下を来たしたのである 所謂 粗製乱造は元より 覚悟の上で行なはれたのが 現実の姿であった 結果は指揮統卆力に 欠ける 下級將校の多数誕生を招来したのである
石頭の教育隊に学ぶ 甲幹(軍曹の階級章付着)も 決して其の例外では 無かった(全員を対象とするもので無く 飽くまでも対象となる非道者に 焦点を絞る) 教育隊に甲幹は 見習士官(曹長の階級章を付け尉官用帯刀に 將校刀佩刀)に採用される 一歩手前にあって 將来の予備士官を夢見て演練中の 軍人であった 厳しい教育に耐え 互に切磋琢磨して居る事は理解された
彼等とて人の子 緊張の連続の教育隊の疲れ ストレスの解消を休日の 外出に求めた 別に不思議は無い その解消法が法令に違反し 典令範等に 犯則しない限りに於て 憲兵は一切之れに介入するものでは無かった だが 中には 外出中に稀に 非違の行為に走る者があった
何時の世 如何なる社会にも 多少の無軌道者は付き者として 片付けて 仕舞えば論外ではあるが 甲幹は將来の予備將校とは言い乍ら 帝國軍隊に職を奉じて居る間は 軍隊の楨幹である 將校それも 最下級の少尉は 高等官八等待遇である 一般社会を見るが良い 文官の高等官八等になる為には 学歴は不問とは言い乍ら 無学歴者が その地位に就けぬ訳は無かったが 各種の資格試験を経て後 任用される事は 極めて稀中の稀であった
一般的な常道としては 帝國大学法科卆業者の希望者の中から 高等文官試験に最終的に 合格した者の中から 更に 選拔された者のみが その任に就けるのである 軍隊なるが故に 中等学校卒業者でも 文官のそれに比すれば 割合簡単 な試験に依ってなれたのである 將校ともなれば 判任官待遇の下士官 とは訳は大きく違う 陸軍懲罰令第24條(P.166参照)を参照され度い 重複の煩瑣を敢えて行ない 再び記せば
と定められ部下たる 准士官以下に罰権を有するからこそ 下級將校 及び 將校候補者の見習士官 甲幹の公私に亘る一挙手一投足に到るまで 微細にに到るまで問題とするのである
石頭憲兵派遣隊で取扱った 事例を挙げる
以上は敢て罪人をt作らずの憲兵の温情ある措置であった
関東軍予備士官学校の名誉の為に次を記す
昭和20年8月9日未明 不法にも満ソ国境を越境し 侵寇したソ聯軍 戦車隊を 磨刀石 (牡丹江〜穆棱の略々中間)附近に於て果敢に邀撃し為に 友軍の転進を有利ならしめた事である
此の教育隊に 大阪外国語専門学校(現大阪外大)露語科に在学中 学徒動員されて入隊した 某 候補生が居た 終戦後 私は抑留されて シベリヤの収容所に送られ 半年経た頃に 他収容所に居た その某 候補生は 私達の収容所に露語通訳として転属して来た 私は其の 某候補生 には見覚えは無かったが 彼は私を姓と共に見覚えて居た 私の巡査勤務 中 或いは 他の勤務中に姓と顔をと見覚えたのであらう
私は抑留された 直後から憲兵であった事を秘匿し 元の兵科の騎兵とし 姓は山本と 変名して 抑留者名簿に記載して居たのである 彼によって 私は石頭 憲兵隊の憲兵上等兵 中倉である事を 見破られて仕舞ったが 私は頑として 否定し続けて居たのであるが 終に彼に依って ソ聯政治將校に密告 されて仕舞った
政治將校の執拗 且 脅迫(虚偽申告は死刑と 通訳(某 候補生)された)には遂に 抗すべき述も無く 虚偽の申告をした 旨を自白した ソ聯に刑事訴訟法が有るのか無いのか 私は欠席裁判で どの様な ソ聯刑法上の罪名に抵触したのか知らされる事なく1囘目は 懲役20年に処せられた
私は再三抗議した 理由は虚偽の申告は認めた 憲兵とは云え 最下級の者が ソ聯に対し それ程の軍事恐威を影響させる 作用をしたかを述べた それに対し 又も 欠席裁判に依り 10年に減刑 されたが 又も執拗に 同様な事を抗議した これに対し 懲役5年に 再び減刑された 私は之れ以上は抗議を諦めた
不審なのは 欠席裁判 である 政治部將校と某候補生 通訳の馴れ合いに依る密略謀議に依る 威嚇であって 裁判等 開廷しなかったのでは無いかとも思はれる だが 虜囚の身の哀れで 之以上不利になる事を避ける為 以後は沈黙を 守ることにした
私にとって生ある限り 忘れ得ぬ厭な想い出の H候補生である
支那事変勃発以降終々に到るまで外征軍 及 本土守備の大量派遣に 據って 現役兵のみにては到底間に合はずに 予備役は勿論の事 後備役 補充役等の召集によって その不足を充足した (支那事変初期には 40才を 越えた後備兵が召集された 〜 村田 知志郎氏 著 「日中戦争日記(四) 〜 鵬和出版 〜 に據る) 其の結果 必然的に我が国の伝統を誇った 精強 無比の大日本国陸軍の姿は完全に消え失せた
何れの国の軍隊に在っても「眞に精強」な軍隊と称されて居たのは 平時に 於て現役兵のみを以て編成されて居る軍隊の事を指すのである 日本軍 はさて置き 卑近な外国軍隊の令を挙げる
以上の行為は何れも 血生臭い 戦場の第1線従軍將兵の人間としての 情緒感覚麻痺 若くは喪失現象の結果である
我が国の軍隊と雖も決して其の例外では無かった 軍隊が平時にあって 然も現役兵のみを以て編成された軍隊が精強である事は頭書の部分に 於て触れた 其の精強である理由は 軍紀風紀が厳正に維持されたからで ある 厳正に維持された大きな理由を記す
以上の理由の結果 軍紀厳正 風紀正整が維持された 「軍紀ハ軍隊ノ 命脈ナリ」とは 軍隊内務令 綱領五の頭書に訓える処である 軍紀厳正 なれば 服従の精神に徹し 命令ある処 断固欣然として死地に挺身 出来るのである 之が真の軍隊であり 上大將より 下一兵に到るまで 軍人の神聖なる任務である
以上は大日本帝國軍隊の特有のものでは無い 何れの国の軍隊に 在っても共通して居た事項であった
外征軍最高司令官以下 各級指揮官の戦陣に臨んで最も憂慮した 事は
以上の事例が大日本帝国の軍隊が外征した際 現実に発生したのである
古来「軍紀を紊り 身命を惜む」軍隊 軍人の軍勢は 確実に「戦場 の敗者」となったのである
野戦の生活が長期に及べば 其処には厭戦 反軍等の思想が 渾然 一体となって 自然的に萌芽擡頭 且 戦線が広範囲に拡大されれば 一人の高潔は外征軍最高級司令官の意図する処が末端の一兵にまで周知 徹底される事は容易の事では無かった 忠誠な軍人であり 精強な軍隊の 姿は文字だけに終ったと言っても決して過言では無かった 昭和16年1月8日 「戦陣訓」なる戒めの訓が 時の陸軍大臣 東條英機大將から陸軍軍人 全般に示達されねばならぬ程 特に外征軍の軍紀風紀は紊乱してゐた
曾て大本営参謀勤務中の三笠宮が北支八路軍(中共軍)地域を 戦線視察した際 同行の参謀連に「一体どちらの軍隊が聖戦を行って 居るのか分らんね 八路軍の方が驚く程厳正な軍紀を保持して居る」 と慨嘆して事実を見ても明らかである
次に現実にあった事件を記す
ノモンハン事件(昭和14年5月11日〜同年9月4日 満洲北西部 外蒙国境 と接する附近)に従軍し赫々たる武功を立てた 第7師団通信隊は 第7師団が 旭川に凱旋した後 北部第8部隊の通称号で呼称された 其の部隊には 九州出身の福田少尉が居た
昭和16年秋 旭川市春光町の陸軍官舎街に 頻々として盗難事件が発生した 憲兵隊で捜査の結果 福田少尉の 容疑が濃厚になった 少尉の官舎を家宅捜索の結果 押し入れから 盗品が発見された
10月28日 憲兵准尉と直属上官である山下(幸)大尉が 憲兵隊に連行の途中 突然隠し持って居た 拳銃で2名を射殺 更に 山下大尉の官舎に走って 電話機を手に取らうとして居た 夫人を射殺した 此の後 路上で擦れ違った他部隊の准尉を射殺して春光台の山中に遁走した
此の報に接した 第7師団司令部は 事の重大性から極秘扱とし 憲兵隊は 各報道機関に報道禁止の措置を採った 師団司令部では急々に 極秘裡中に実弾演習の名の下に 実包を込めた1ヶ連隊を動員 山狩りを 行なった処 拳銃自殺体の福田少尉を発見した
少尉は此の他に看護婦 1名にも妊娠させて居た事も判明したが 山下大尉宅では乳児1名が遺された 一連の窃盗事件の他に連続4名の殺人事件を犯す 軍紀紊乱事件であった 此の責を負い 師団長國崎中將は任半にして予備役編入 後任は鯉登中將 が着任した
(以上は「ノモンハンの死闘」 三田 真弘編 北海タイムス社 より抜粋)昭和17年12月27日 北支に在った 第59師団(衣部隊)隷下の 第53旅団 隷属独立歩兵第42大隊 第5中隊長 福田中尉は 部下の金子兵長以下5名に対し 良く28日 臨清に駐屯中の 大隊本部に転属を命じた 転属要員は計10名で 部隊新編成の為 であった 当時旅団は「と号」作戦決行中であった 夕刻 転属者は 中隊幹部との会食に招かれた 金子兵長等は此の移動に 不満であった そこで中隊内務係(人事担当)浅野准尉に対して この人事移動に激しい不満が憎悪に変はった
会食は中隊長の心尽しの送別会であったが 席上 小隊長の 配慮に依って日本酒は無く 僅量のブドー酒だけが用意された 酒好きの金子兵長は之を憤慨し 席を蹴って 内務班に戻り 残留者20名と 日本酒8本を集め 派手な酒宴をした 為に 転属えの不満は 酒の助勢で エスカレートした 午後7時30分頃 一先ず解散したが 向里上等兵 他8名の転属者は 更に外出して 飲酒を望み 中隊事務室に居た 浅野准尉を捉えて営外近くの 富士食堂に連行した 此の際 向里上等兵 等は 浅野准尉との 間に止めに入った 週番下士官 日下曹長を殴打し 暴行を加えた 更に 中隊長の胸倉をつかんで 暴言を浴びせた だが 中隊長は 事の拡大を怖れて 慰撫に勤めただけで 他に何等の 対策を講じなかった さて 富士食堂に 連行された 浅野准尉を 心配して 追って来た箕輪曹長は 一緒に飲酒を付き合って 向里上等兵 を慰撫してゐた 之を云い事に 更に増長した 向里上等兵は転属の 怨念の余り 浅野准尉を再度 侮辱殴打した 浅野准尉は席を離れたが 後難を恐れて 翌朝まで帰隊しなかった 向里上等兵は その侭酔い潰れて その夜は富士食堂で1泊した 一方 向里上等兵等とは別行動で街で 遊興した金子兵長等は 午後11時頃帰隊した 翌28日朝 富士食堂から 帰隊した向里上等兵等は 尚 転属の不満が覚めず 午前8時30分頃 金子兵長等 3名を誘って 無断外出し 再度 富士食堂で飲酒泥酔し 転属者の出発前の軍装検査時刻の午前10時に到るも帰隊しなかった ここに於て 福田中隊長は 午前11時 鈴木少尉以下4名の曹長を富士食堂に遣はし 金子 向里等に帰隊を命じた 処が金子 向里の2名は命令伝達に来た 鈴木少尉等を 侮辱し 暴行を加えた 此の報告を一旦帰隊した 鈴木少尉から受けた中隊長は 懐柔策で 金子兵長等を飲み潰した上で 出発させやうとした そこで 再び 鈴木少尉等が 富士食堂で酒を飲み始めた 午後12時過ぎた頃に 舘陶〜臨清の自動車警乗警備勤務から帰隊した塙上等兵に 草柿一等兵も 転属組であったので 金子兵長等の話を聞くと 直ぐに富士食堂へ押し掛けて 痛飲し乍ら 浅野准尉への 復讐的暴行を計画した 午後1時20分頃 鈴木少尉は 乱酔した塙上等兵等を 同行帰隊させて 中隊事務室へ連行すると 居合はせた 中隊長以下幹部の前で 塙上等兵は 帰隊して居た 浅野准尉を殴打し 中隊長に侮辱的暴言を吐いた 側に居た菊谷軍曹が竹刀で彼等を押え ようとすると 中隊長が之を止めた 塙上等兵は増々 増長して 菊谷軍曹を殴打 銃剣を拔いて暴れ出した 折から帰隊した 向里上等兵が之に加勢した為 中隊長以下の幹部は隊外に避難して仕舞った 向里上等兵は中隊幹部を 見失ったので 再度 富士食堂に行った これを見た塙上等兵も後を追って 衛兵所の前まで来たが 此処で衛兵所のガラス窓を破り 銃架 ストーブ等を 転倒させた 衛兵司令がおだやかに 抑止しようとすると 更に激昂して 銃を執り 備付弾薬を不法に使用して 処構はず発砲し 手榴弾までを投げて 爆発させた だが衛兵司令は 塙上等兵の戦友であった為 断固たる措置を取らず 哨兵守地を離れて避難した これは重大な軍法違反である 一方 富士食堂で 飲酒中の向里上等兵 草柿一等兵の2名は 銃声を聞くや直ちに帰隊して 塙上等兵に加勢して 銃を乱射 手榴弾を投げ 中隊幹部を探し求めた
此処に於て 福田中隊130名は 全員隊外に出て避難した すると 塙 向里 の2名は この後 隊外に出て 県公署 飲食店等に立寄り 乱暴狼藉 の限りを尽くし 中隊に帰へった 彼等は更に 將校室 下士官室を荒し 電話機を破壞し 又もや 富士食堂に到り 飲酒を始めた 此の後 残留兵等に 慰められた 塙 向里 両名は 酒を略奪して 午後4時30分頃 漸く帰隊した 転属者達は逐次帰隊した兵達と別離の盃を交はし 記念撮影を行ない 午後 5時30分頃に 全員トラックに乗車して臨清に向って勝手に出発した
これより先 午後2時頃 中隊から逃避した 福田中隊長は 県城内望楼から 状況を偵察して居たが 他部隊からの応援依頼で鎮圧を決意し 県警察官を 舘陶 東北の張官寨に到着 同地の県警から邱県警備隊を通じて 電報で 大隊本部に暴行鎮圧の為の兵力派遣を要請した 大隊本部が此の電報を受領したのは 午後11時であった 次いで張官寨 舘陶間の電話が復旧し 転属者出発の報告を受けた 福田中隊長は 午後11時頃 舘陶の中隊に帰隊した 又 富士食堂で金子兵長等の説得に 当って居た 鈴木少尉は 銃声を聞くと 食堂を出て 南門望楼に退避した だが 転属者が中隊出発後 電話囘復を待って 大隊本部副官に 事件の 状況を報告した 此の間 中隊の下士官 兵等 残留者は 塙上等兵の 乱暴狼藉を鎮めやうとはせずに 大部分は兵営外に逃避してゐたのである
12月28日 午後7時頃 臨清の大隊本部で第5中隊の軍法軍紀違反 事件発生を 鈴木少尉の電話報告で承知した 大隊副官 松島中尉は 午後8時に到着した 転属者の内 暴行者6名を隊内の営倉に留置した 続いて 午後9時過ぎに 邱県経由で 福田中隊長の兵力派遣要請を受けた そこで 午後10時に 池本少尉以下22名と 臨清憲兵派遣班から 松本 明 憲兵軍曹 以下憲兵5名を舘陶に派遣した 更に 翌29日 清南に帰還した 大隊長 五十君 直彦 大佐に報告 同時に 旅団副官にも連絡した
12月30日 五十君大隊長は報告の為 副官を旅団司令部に派遣し 自ら 現地舘陶へ赴き 事情を聴取した 旅団長 大熊 貞雄 少將は 折角 清南 東北 の章邱整備隊の師団随時検閲に随行中であったが 直ちに 清南に帰還して 大隊副官の報告を午後4時過ぎに受けた 大熊旅団長は 事件が一般住民にも 関係が生じた事から 師団司令部に報告すると共に 清南憲兵隊長 村上 直枝 憲兵中佐に 捜索を依頼した 此処に於て 命を受けた 清南憲兵分隊長 笠原 三郎 憲兵少佐 が捜査主任となり 部下憲兵に調査させたが 事件そのものは 単純であった (単純とは 革新思想に起因しない 事を指す)
昭和18年1月6日 夕刻 第59師団 椋川 悌 中將は 笠原憲兵少佐 から事件報告を受けると 捜査の徹底と急速な事件解決の為 同日 軍司令部に連絡して 軍命令に據る 軍参謀 軍法務部長等を 現地に派遣した 又 舘陶警備 交替の為 軍予備 1ヶ小隊を派遣し 事件関係者を清南に集結させた 笠原憲兵少佐は 前日 夕刻に 暴行容疑者 及び 福田中衛兵等を連行して 清南憲兵分隊 留置場に留置してゐた
1月7日朝 椋川師団長は 事件の全貌が明白となるや その内容が 極めて悪質重大な軍紀犯に留まらず その関連する処が舘陶部隊全部に 及ぶ事を知って 愕然となった 直ちに舘陶の警備を予備隊の 第44大隊に交代させ 第5中隊を臨清に集結させて 徹底的に 調査する事を 大熊旅団長に命じた 翌1月8日夕刻 師団長は 福田中隊の鈴木少尉以下41名を 清南に集結させて捜査処分に付した 此の数時間前 中隊長 福田中尉は 清南到着後に事件の重大性を 自覚し 拳銃で自決して居た
翌日 第12軍 軍法会議が清南で開かれ 向里 塙の両上等兵は銃殺刑 草椋一等兵は無期懲役 金子兵長は懲役6年 2名が禁錮 更に 鈴木少尉 日下曹長と衛兵司令 衛兵4名も禁固刑となった 更に 旅団長は 1月17日に 五十君大隊長を重謹慎30日 椋川師団長は 翌日 大熊旅団長を重謹慎30日に附した 又 第12軍司令官 土橋 一次中將 第59師団長 椋川 悌 中將 第53旅団長 大熊 貞雄 少將 第42大隊長 五十君 直彦 大佐は 3月1日付で 転任となり 4月15日付で 待命 予備役編入になった
以上を「舘陶事件」と称す (此の項は 「日本憲兵外史」〜全国憲友会連合会編纂委員会〜全国憲友会 連合会本部 発行 より抜粋 1、 2項ともに文中の字句一部変更 及 文中省略の部分あり 乞御容赦)
大東亜戦争下に在った同じ 日本軍の軍隊にあっても 支那派遣軍 南方 派遣軍 其の他の如く占領地域 戦闘地域等の如く 所謂作戦区域下に 在った軍隊に比べ 満洲防衛の任に在った関東軍は ソ聯外蒙 と国境を挟んで互に対峙する状態に在り 全体的に見れば表面上は安穏 なものであった
処が昭和17年 ミッドウェーの海戦の敗戦以来 攻めの 日本軍が守りの作戦に方向転換してからは 昭和18年以降 関東軍から 本土南方等の防衛の為に櫛の歯を拔くが如くに 現役兵を主体とする 精鋭部隊の抽出転用が超大量 急速に行なはれた 其の結果 その穴埋め として 在満在郷軍人 (予後予備役 補充兵役(未教育者))を召集して 補完した
予後備 補充兵と言えば 当り前であれば 後方地域に在って 治安を担当する 言はば 予防警察的に任務を帯びる可き 兵役の者であった にも 拘らず兵員の不足した当時にあっては 作戦常識云々を論じて居る 余裕は全然無かった 之等の兵を国境に接壌する 第1線の 「戦死か金鶏か」と兵の最も嫌った 全軍の弾除け的性格の玉砕部隊に 守地命じたのである
東満国境に構築した綏芬河 東寧 虎頭 等の トーチカ陣地に配置した事実が その最たる例であらう 重砲等の操作の全く出来ぬ 砲兵以外の出身者である予後兵や 執銃教練さえ出来ぬ 未教育補充兵等の心境は如何計りであった らうと推察する 抽出した精鋭兵員に見合った補充を前述した老令兵を 以て数だけを補充しても 兵力の補完にならぬ事は 当然の理であった
私の勤務した石頭村の隣村に蘭崗村があった 其処には陸軍 飛行隊の練習機(当時 赤トンボと俗称)の練習専用の飛行場後(当時 使用中断)があった その広い飛行場跡の一隅に全木製の戦闘機 実物大の模造と言うより偽造機が幌に覆はれて数機置いてあった 関係者(極く限られた者)以外立入り近寄る事は禁止され 禁を無視した者 は射殺(後備少尉を長とする一ヶ小隊が実弾装填にて警備)された
又 此の飛行場跡には ノモンハン事件 マレー戦 比島戦等で 露英米軍 から鹵獲した故障戦車や日本軍の現役を後退した 旧式戦車等数台偽造 飛行機同様幌を覆せてあり 幌を脱する事は無いとの事であった
以上の事は 整備小隊長の陸軍刑法講義要請を受け 清水班長が講師 として出張した際に助手として随行した際 憲兵さんは例外扱との事で 少尉さん直々の案内で側に近寄り手を触れて体験した事である
又大型兵器の例に漏れず 小型兵器も同様であった 例を小銃 帯剣に とって見ても 石頭駐屯の歩兵科部隊に事務連絡に度々出張した際 副官から直接 耳にした事は 小銃は10名に1挺 帯剣も同様 致し方無く 木銃を使用との事であった 小銃の内 何割かは 旧制中学学校以上の学校に教練用として払下げられてあった 旧式銃 までも引き上げて使用して居た (命中度の低下した38式 及び 日露戦争 当時使用の村田式もあり 菊の紋章は打消済のもの)
最早や以上の如き 兵力 兵備であっては 忠誠心に燃え立った 帝國軍人 と雖も 如斯実態を眼で肌で 直接体験しては 士気の低下言々を叫んで 見たとて 如何とする術も無かったであらう 関東軍は藁人形であり 張子の虎の軍隊に低落した
「士気の低下」の序にあと一ツ例を挙げる 下級将校大量不足の為に 其れ等の補充は甲幹の大量採用の事は前に記した 一方 現役少尉の 補足は陸士卆業者 及 少尉候補者を以て充てた その少尉候補者 詮衡の不條理性に的を絞ることにする 何時の世にあっても 一般社会にあっては 学歴最優先主義を採用する 軍隊と雖も その例外では決して無かった
私は甲幹出身 予備将校 不用論を力説する程 野暮天では無い 現役 であれ予備役であれ 一度び 軍務に就いたからには 少尉は少尉 中尉は中尉 としての身分の保證と共に職分に就く事に豪も異なるものは無いのである
さらば 予備将校 候補者の詮衡規準は 現役将校候補者の其れと同一に すべきであると言い度いのである
二等兵として現役入営し 下士官志願をし 以後 累進して 曹長 准尉 となり 士官職(週番士官 週番副官 小隊長 等の職)を執る様に なれるのには 二等兵時より 起算して 平時にあっては 優に10年を超す (戦時には多少の短縮あり) 士官職を執る 曹長 准尉 クラスは 人格識見 教養 実務に於て 甲種出身将校に比して 何等 遜色無く 返って優れた 指揮統卆力を有して居たのである 少尉候補者(現役の曹長 准尉の 内から適任者が現役少尉昇任 但し 航空機操縦者(現役の曹長から) 採用の制度の門は 誠に狭く規制されて居たのである 無学歴者が 高等文官採用される事の稀と同様であった
甲幹大量粗製乱造の結果 やがては 見習士官(曹長の階級章付着) になる 軍隊の階級制度は 同一階級章であっても 伍長 軍曹の 階級者では年功序列を無視して 幹部候補生は その階級の最右翼に 位し 見習士官ともなると 准尉 曹長 等の最右翼に位置付けられて居た
階級が上ると言う事は 以前よりも数段 指揮統卆能力があると認定 される故である 此の事には寸毫と雖も異論の余地は無い
だが 現実には 力量の如何を問はず トコロテンの押し出しと変ら無かったが 特に甲幹から見習士官 やがては 予備将校えと 2ヶ年間の短期の 在営中に出来上るスピード出世である
文官の世界では 一案件を作り上げるのに その審議に 長いものは 数ヶ年を要すると言う 文武の違いはあるにしても 武官は有事に際し 突発する 又は 千変万化の戦の状勢に迅速に 且 適格に 指揮官は 決心し 逸早く部下に下令 小なる損失で 大なる戦果を収める 之が要求される 所以である
正面切って 平常は 口にこそ出さねど 准尉 曹長 クラスの内心には 不満があった 無かったと言えば 建前論である 飲酒の席の無礼講で 此の不満が爆発し 准尉 曹長 等が 見習士官 予備少中尉 等に 暴力を加えた事例は決して 稀では無かったのである
その辺の事情を心得た陸士出身の若い中隊長は 私的酒宴の席を設け 其の上座に 准尉 曹長 据えて 盃を傾けたと言う 又第一線の敵情判断に当って 准尉 曹長 等の意見開陳を尊重したとも言う
職業軍人を志望せざる者に 門戸を広く解放する要は無かった様に 思はれてならない
石頭憲兵派遣隊管内には 特殊慰安所が4軒あり 1軒は日本人経営 後の3軒は朝鮮人経営であった 其処には計約45名位の慰安婦が 従業して居た 特殊慰安所 又は 特殊慰安婦と言えば 曾て外征軍に 従軍した者であれば 其処で 遊興の有無に拘らず どの様な施設であり どの様な 接客婦であったのかは 既に承知の事であり 敢て詳記しない
此の施設の経営者 従業者 及び 施設等への命令権者は 石頭 駐屯地司令であったが 直接の監督は 石頭憲兵派遣隊長の任ずる 処であった 慰安所の経営上の開店許可 その取消 指導は 勿論の事 経営者 従業婦等の身元調査に到るまで 憲兵隊に於て厳重に行なはれた
経営者が 従業婦に契約書に締結した返済額 その方法に就いて 苛酷なる 條件で返済を強要し非ざるや 必要以上の物品の購入を強要し 非ざるや等の刑事犯に抵触し非ざるや 駐屯地司令官命令に違反し非ざるや 陸軍病院長の衛生指導に違反し非ざるや等々に及ぶまで 監督した
衛生面に於ては 特に駐屯地司令官の意を注いだ點であり 施設内外の 清潔 寝具類の消毒 曝乾 従業婦の健康 特に性病等に就いては 陸軍病院長に診断 指導 検診を命ぜられ 病院付軍医官の 直接 診断 指導 検診等が行なはれた その時には 憲兵が 之に立会する事になっており その任は 清水班長であった
在る時の 立会に班長も金田兵長も他の緊急事件の操作の為 行けぬ事になった 警務係上等兵の私に其の代役は命ぜられた事があった 清潔 消毒 等の検査時の立会ならば 別に躊躇する処は無かったが 全裸になった 慰安婦の検診立会には大いに困惑した 私は他の係主任軍曹に 班長の代理出張を意見具申したが 「警務係の当然の任務」として 採用されなかった 全裸の若い婦人を想像した丈でも 異状なある種の 艶めかしい 興奮を俄かに覚えざるを得ない程の 若僧 現役 上等兵(22才) の私にとっては余りにも酷な そして刺激的な大役であった
私はその時の 検診に当った軍医官(予備役応召中尉〜産婦人科専門)に「素人の私には 何も分りませんので 總て軍医殿に お願い致します 私は店の帳場で 遊客名簿の点検を致しております 検診の終るのをお待ち致します」と告げた 処 軍医さんは「若い憲兵さんには 無理だよネー」と言って承諾して呉れた 私はホーッと安心して帳場に戻った 助手として同行して来た病院付の 従軍看護婦(外科婦長 巡察で顔見知りになったが 氏名忘却)が 何か意味あり気な笑をしたのが 気に懸った
暫くしてから 看護婦長が「軍医殿がお呼びです」と言って私に知らせに来た もう検診は終ったものと思い 検診室に行って見ると 未だ検診中であった 検診台上に1人の慰安婦が仰向けになって寝かされ腹部位に低い天井から 白布が垂らされ(顔は見えず)両膝を立て両腿を開いて 恥部を露見させてゐた 正直言って息が詰まる程の大きな衝激を受け 眼の遣り場に 窮した 軍医さんは「憲兵さん後学の為だから 一寸診なさい 之が見本的な 膣カタールです」と言って 子宮鏡を秘部に挿入した 私はそれ以上 見るに耐えず 「解りました」と言って(何も解りはしなかった) 急いで部屋を立去った 検診が終ってから 軍医さんは診断書の外に 報告書3通(複写)を作り 立会憲兵の署名捺印を求めた 私の職名 官等級 氏名 を記入捺印し 1通を受領した
軍医さんは「此の種の施設で遊ば無い方が賢明です」と忠告して 呉れた 従業婦の出身地は 日本(長崎県 天草地方 和歌山県 南部 海岸地方) 朝鮮(主に北鮮地方)が 石頭に関する限り多かった
日本人の殆どは 渡満以前 醜業経験者で占めた 朝鮮人周旋業者の 口車に乗せられて来た者が多かった その他は 大部分が生家の 経済上の理由(親の巨額の借金の身代はり供御になった 気の毒な 身の上であった) 前借金の最高額は 4,000円 最低額でも 800円位 平均して 1,500円の負債を背負って居た 女性の身で 此の大金 (現在の時価にして どの位になるであらう 当時としては大金 であった)をどの様にして 返済して行くのかを思い 憐憫以上のものを 当時感じたものである
彼女等は終戦後 無事に 夫々の家郷に帰り着く 事が出来たであらうかと思う事頻りである 血生臭い戦場に在って 妻子ある応召兵の強姦婦女 暴行を予防する措置として支那事変以降 採用された 此の制度は 外征軍は欠く事の出来ぬ必要悪であった のである 彼女等は 陰の従軍功労者であったが 国家からは労に 報われる事は全然無かった
慰安所登楼には 遊興規則があったが 忘却したので 次の資料を 参考に記す (「従軍慰安婦」〜千田 夏光著〜講談社 文庫本より 抜粋)
以下は 支那事変初期(支那戦線)のものである
第1條 親任官 同待遇者ニシテ婚姻ニ関シ 勅許ヲ仰カムト スル者ハ婚姻願書三通ヲ陸軍大臣ニ差出スモノトスル
第2條 前條以外ノ陸軍現役軍人(在郷兵卒ヲ除ク)ニシテ婚姻ヲ 為サントスルトキハ左ノ区分ニ據リ許可ヲ受クベシ
第3條 士官候補生 主計候補生 現役見習士官 現役見習 医官 現役見習薬剤師 現役見習獣医官 及ヒ 諸生徒ハ婚姻ヲ許可セス
以上の手続きを経た者は 陸軍大臣 関係部隊長等を経て憲兵隊に 結婚の相手方(女性)の身元調査が移牒された
個人の自由が規制されて居た 旧憲法下にあっても 男満 30才 女満 25才を過ぎれば 親の許可を要せずとの 自由に結婚が当時の 民法に據って認められて居たが 現役軍人に限っては 以上の 規則に據って厳しく規制されて居たのである (資料は昭和12年 版 六法全書〜札幌市 中央図書館所属により抜粋)
此の事件は石頭憲兵派遣隊閉鎖直前の事であったので 昭和20年 7月中旬近くであった様に記憶する 以下は事件解決後帰隊した 清水班長から説明された事を記憶の侭に 私の説明と併せて記す
満洲の物資 殊に食料品の内 砂糖 塩等は 其の需求のアンバランスは 日本本土と同程度であった様である 全満の事はイザ知らず 石頭村の食糧配給の在り方に 一部満人間に於て 不平不満の有る事は 特務情報として 派遣隊では承知して居た 之は憲兵の所管外の事であり 飽くまで満洲国政府管下の当該行政機関の管轄事項であった 主要生活物資の配給の方法に就いて不公平があり 其の悪習慣は 相当以前から公然と行なはれて居た様であった
在満日本人 (軍人軍属 及び 其の家族 開拓団関係を除く)有力鮮満人等は 前記の 砂糖 塩 等の外に 衣料品等を 当然の如く 有利な配給を受け 貧しい階層にあった 鮮満人等は 次等に置かれ不利な配給を強要されて 居たのが実情の様であった 其れ等の物資を有利に配給を受けた 何人かの者は 不利な配給しか受けられなかった階層に高値で 売り付けて居たのである 特に食塩は 日常の生活に欠く事の出来ぬ 物である 然も前記の如く 相当長期間に及んで この悪習は続け られて居た 其の間 何囘か改善方を村公署(村役場)に陳情して居たが 言を左右して受理される事は無く 当然の如くに続けられて居た
終に 配給の不公平に対する忍耐の限度を越える日が来て仕舞った 当日は配給日であった 例によって不公平極まる配給が行なはれた 配給上の差別待遇を受けて居た 貧民階層は その場で 公平な配給を要請したが ニベも無く 一蹴された 彼等は大挙して 村公署に押し掛けて 村長(満人) 助役(日本人)等に交渉したが 同様軽く一蹴されて仕舞った 此の仕打ちに激昂した彼等は 村長 助役を 村公署の一室に監禁して 解決を迫った 驚いた 村公署では直ちに 石頭駐在の満警派出所に通報した
直ちに警官(鮮人) が急行して解散を命じたが 激昂した彼等は警官の命を無視した 警官は再三に及んで 解散を命じたが 彼等は遂に その命に從は無かった 止むを得ず上空に向けて 携帯の拳銃に依る 威嚇射撃にも応じなかった 事は急を要するので 警官は 石頭駐在の鉄路警護団派出所に 急報して応援を求めたが 折悪しく不在であった 次いで 寧安警察署に応援を要請した 警察署長は応援を約したが 距離の 関係で時間的に到着に時を要するので 石頭憲兵の応援を決心し 寧安憲兵分隊長に石頭憲兵の協力要請を発し 要請を受理した 分隊長から派遣隊長に満警応援出動の命が下った
派遣隊長は 清水班長1人を私服で応援に急行を命じたのである 此の際 班長は 憲兵所管外の事件介入の誤解を招く事を憂いて 私服の上 更に拳銃携帯をせず 憲兵手帖のみ 携帯したのであった 人を法的手続きに依らず 拘束する事そのものが満洲国刑法の 不法監禁罪に抵触する事であり 事の成り行きに依っては 人の身体 又は 生命に懸念されるものがあったので 分隊長の 出動下令となったものであった
満警警官と共に私服で村公署に到着した清水班長を彼等は 逸早く認めるや(憲兵隊と言う特殊部隊であり 少数兵員であった為 全員の顔は満人に依って覚えられて居た)「日本憲兵来了 (リーベン シェンビン ライラ 〜 日本憲兵が来たの意)を叫び 彼等は 直ちに全員庁舎外に出て監禁を解いた
庁舎内に這入った 清水班長 満警警官等は 直ちに 村長 助役 等に 面会を求め 不平鮮満人2名(満鮮系各1名)の代表を交え 計6名の 会談を持ち次の事を 村理事者 及 住民の相方に確約させた
以上 相方の確約し 庁舎外の村民に其の旨を告げた 之を知った 村民(不満組)は 大歓声を挙げて拍手した そして 「大謝 日本憲兵」 (ダーシェ リーベン シェンビン 〜 日本憲兵さん大きに有り難うの意味)を叫んで 感謝した 此の事件で一番感謝されたのは 憲兵であり その反面不心得な 日鮮満人等からは 憎まれる事になった
此の際 満警署長の応援要請に協力した 法的根據は 不勉強の為に 詳で無いが 日本軍人 軍属等の犯人 容疑者等の 捜査逮捕 協力要請を満洲国官憲に対して行なって居た 反対給付では無いかと 思はれる
因みに陸軍刑法第44條を引用する
司令官の定義は 陸軍刑法第17條約に
と定められてあり 一隊の命令権者を総称したものである
日満融和 五族協和は満洲国建国の一大理念ではあったが それは名目上に過ぎず 実態は占領下 或いは植民地に於ける 統治と少しも変らざるものであった事は 在満経験者であれば 否定する事は出来ぬ事であらう 即ち常に優先順位は 日本人 朝鮮人 満人の 序列主義であった
石頭駅前の開拓団経営食堂(開拓団員 軍人軍属 その家族を対象 にした食堂 主人応召中 夫人が留守を預かり経営)があった その食堂 には 巡察の途次 立寄った事が屡々であり P.177のの「泥酔少尉の 家屋侵入事件」の現場でもあった その食堂の内壁は壁土塗りの 満洲特有の建築を模しており 壁土の痛んだ部分は 新聞紙 広告紙等を 貼り付けた 決して一流と言える様な 食堂の体裁では無かった その食堂の 内壁には装飾の意味で何点かの安価なものと 素人眼にも解る額入りの絵が 掲げられてあった
食堂とは言っても 大都会の一流店ならば いざ知らず 此の辺鄙な石頭の文字通り片田舎の店には 全く不釣合な額が 1点だけ懸けてあった 其れは多色刷りの見事な版画であった どこかで 確かに見た事のある版画である 大きさは美濃版紙位はあった様に思う 良く見ると「澄生」の刻印があるでは無いか そして版画は 日光東照宮の「陽明門」であった 正に川上 澄生 先生陸札の 「陽明門」であった
私はどうして先生の本物の版画が 此の片田舎の食堂に有るのか 不思議に思えてならなかった 早速 店の主人に尋ねて見ると 夫人の説明は
「昭和18年の夏の頃 此の石頭の 或る部隊が どこかに移動しました それまで良く店に来て呉れ 私の下手な ギョウザを美味しい美味しいと言っては 何人前も お代りをした 現役の 一等兵の兵隊(名前と聞いたが忘却)さんが居りました その兵隊さんは 私を見て「故郷の姉さん そっくりで 此の店に来ると 家に帰えった様な 気持ちになる」と申されておりました その様な事があってからは その兵隊 さんからは お代は頂きませんで 私の身内のつもりで 客扱はせずにして 居りました 兵隊さんも「姉さん 姉さん」と言って慕って呉れ 姉弟の様な 気持ちで居りました 其の兵隊さんが他に移動さえる際に「今まで 色々と親身 になって お世話して下さった 厚意に報い度いが 兵隊の身では何もして上げる 事は出来無いのが残念です 今 私が持って居る最高の財産は恩師から 贈られた 此の版画丈です 此の版画を受取って下さい どうか 私の せめてもの志として 是非とも収めて下さい」と申されました 私は「その 様な大切な物を頂く訳には参りませんが 貴男様が御無事で お帰えりに なるまで お預かり致しませう」と言う事で 箪笥に入れて置いたのですが 店に飾って置けば お客様にも見て頂けるし 又 私も毎日 眺める事も出来ると思い あの兵隊さんの武運長久をお祈りして ゐる様な次第です」
との事であった 私は直ぐにその兵隊の出身地を 夫人に尋ねて見た処「栃木県」である旨を答えた 私はそこで夫人に 「実は この版画の刻名の人は 栃木県立宇都宮中学校の英語の 先生であり 本業の英語教諭と言うよりは 版画界で有名な 先生です 私もその中学に学びましたが 先生からは英語は教はりません でした (先生は 3、4組担当であり 私は1組であった関係で) 工作 の時間に 3時間程版画の講議を受け その折に 此の「陽明門」 の版画を見せて頂いた記憶があります 川上先生の版画を持って 居るだけでも 大変名誉な事です 宇都宮では先生の名を知らぬ 者は モグリ とさえ言はれておるのです 大事に保存なさい」と説明 した
川上先生の版画を何の記念であれ 贈られる者と言えば そんなに 沢山居る訳が無い 先生の「お眼鏡」に余程適った者であり 宇都宮 中学卆業生であると思った それにしても 此の日本よりも遥かに広い 満洲のそれも片田舎で不思議な出会いをしたものであった
略して「武諜」と称した 此の武諜たる者は何たるかを簡単に記す 武装(モーゼル拳銃 手榴弾 等)をし 満ソ 又は 鮮満等の国境を暗夜を 利用し密かに越境し 満領又は鮮領(鮮領から満領え その反対もあり) に潜入 以後は可能な限り携帯武器を使用する事無く 隠密裡に行動し 武諜その者丈が承知の場所に武器 弾薬 諜報用 極小型超短波 無線機 暗号書 潜入時の被服類等を防水性の布又は紙に厳重に梱包して 隠匿(殆は土中に埋める)し 以後は満領 鮮領に潜入の際 携行した 別の被服に着代え 同じく潜入時に携行した 満鮮等等の紙幣 磁針計 特殊地帯旅行許可證(偽造物)等のみを携帯して 良民になり済まして ソ聯側の必要とする軍事情報(日本軍の配備 兵備兵力等の如何)や 民心(主に鮮満人等の思想動向)を探知し 蒐集に勤める者である
武諜の多くは 鮮人 満人 稀に日本人(逃亡し ソ聯領に越境した日本兵) である ソ聯側の必要とする情報は前記の通りであるが 兵要地誌 作制上の資料等を探知が目的であった ソ聯軍が満洲 又は朝鮮に侵寇 の際は その最先頭に起って道案内 及び 通訳を勤める他に ソ聯軍 作戦展界に当って有効意見開陳の役も果たすものである (教習隊での特別 高等警察服務教程の講議に據る)
武諜は ソ聯に忠誠を誓って 其の特殊任務に就く命不識の猛者である 其の多くは日本の朝鮮統治に 抵抗し 又は満洲国建国に反対する 反日 反満 抗日等の革新思想 を有し ソ聯領(主に南部ウスリー地方)に亡命した 革新思想に徹っした 者達である ソ聯側と予て定めた時刻に暗号を使い極く短時間に打電 (基地はハバロフスク、チタ、ウラジオストック等) 打ち返えしはしない ものであった 目的達成後は 速やかに隠匿物等を収納して 潜入時と違った間道を抜けて脱出入ソするのである 有効情報を 探知した者には ソ聯軍より手厚く待遇されるのである
ソ聯より潜入した有力蝶者を発見逮捕した場合は「金鵄勲章」 叙功との事であった 私が憲兵拝命以来 その発見逮捕に出勤を 命ぜられたのは 計2囘であった(憲兵拝命より終戦に到る期間は 僅かに5ヶ月5日であったが 2囘の出勤下命は短期服務に比して 多い部類に属すとの事であった 〜 詳しくは後述) 第1囘目 出勤下命 の際を記す
第1囘目は 石頭憲兵派遣隊勤務中の昭和20年6月頃であった様に 記憶する 其の日は珍らしく残務も 19時少しばかり過ぎた頃に終り 日直以外の営外者は帰宅し 夕飯前に入浴して居た 其処え武諜 出現の緊急電話が石頭奥地の開拓団長から入電した(開拓団長先には 軍用電話線を架設しあり 〜 開拓団幹部には平素より武諜に対する 予備知識を与えて居た その他不審な事象 見聞の際の通報も依頼済) 私達は日直下士官S軍曹の「非常呼集」命令に接し 直ちに入浴を中止 予ての打合せ通り戦務に服する軍装(各自が隊備付の満服 苦力服 満鉄社員制服 等を思い思いの服装へ軍用と外見して解る 服装の禁止)をし 地下足袋を履いた 38式騎銃には黒布を巻付け 拳銃は嚢より出して裸身の侭 満服ズボンのバンドに差し挟み 実弾を 携帯した 夕飯もそこそこにして派遣隊長 以下の出勤を待った 玄関前には入電と同時に協力を要請した貨物廠の軍用トラックが 私達 出動憲兵の乗車を待機して居た やがて派遣隊長以下の下士官 が走って出勤 直ちに幹部に依る捜査会議が開かれた 会議が 終ってから派遣隊長は要旨 次の様な命令を下した
「大隅軍曹は捜索班長となり 金田 福田の2兵長 及び 三浦 中倉 の2上等兵 等を指揮し 武諜捜索に出勤を命ず」 併せて「大隅軍曹 の指揮に從い 濫りに発砲 爆発等を厳禁する 相手も銃器等を 携帯に就き 充分警戒の事 万一は覚悟の事と思うが 早まった功名心 に駆らるる事無き様 特に注意する」と指示された 谷口兵長(補助憲兵) が用意した携帯口糧を各自背負袋に詰め トラックに乗り込んだ 派遣隊長以下に見送られて 一路開拓団へと急行 開拓団にあと2Km位 の地点で下車し あとは徒歩で夫々が変装した姿で 暗い夜路を 相当の距離を保ちつつ 一列縦隊になって 開拓団長宅に向った 夜道とは言え 巡察の足を伸ばして幾度か来た事のある道であった 勝手知った路である とは言え武諜出現して 私達の命を狙ってゐる かも知れぬ危険性もあり 周囲を厳重に警戒しつつ進んだ 石頭隊 で実戦の経験者は派遣隊長 班長(共に支那事変従軍の野戦憲兵隊員) 丈であり 武諜捜索体験者は皆無であり 要領に 就いても馴れてゐなかった 開拓団長宅に到着したのは24時 近かった様である 大隅軍曹は直ちに 開拓団長に事情を尋ねた 処 大要 次の様な説明であった
「今日は午前中は雨降りであったので 畑作業は出来なかった ので 牧場(団の共同放牧場 〜 牛馬 緬羊等)見廻りに行き 休憩 小屋(草葺の粗末な雨を避ける程度の拝み小屋)で 一休みした処 此の4、5日 誰も此の小屋には 来た者が居ないのに 気の勢か 比較的新しい足跡があるのに気付いた 良く見ると新聞紙か 雑誌の小片が落ちてゐるのに注目して何やら1部が焦げてゐるのに 不審に思い手に取って臭を嗅いで見ると 煙草の様な臭がした その紙を見ると 英語の様な文字が印刷してあったので いよいよ 不審に思った 団に持ち帰えり団員に訊ねた処 昨日までの好天 で誰も牧場の見廻りには行って居ない事 從って小屋に於て 休憩した者の居ない事が判明した して見れば部外者が休憩した 事は明白である 団員の中に昔 現役当時 シベリヤ出兵に従軍 した者が居て 小紙片を見て 露文字に良く似て居る様な気がする との事であった これがその紙片です」と言って机の引出しから 取り出して示した 三浦上等兵が見た処 「意味は解からぬが 之は 露文字に相違ありません」(三浦君は教習隊で露語専攻)と言った 其の時 大隅軍曹は「露助は刻煙草を 新聞紙の小片に巻き付け 唾液を以て貼り合はせて喫煙する習慣があるとの事だ」 と説明したが 私は半信半疑であった (終戦後 ソ領に抑留された 時に露兵の喫煙を見て それを確認した) 私達は外に出て辺りを 警戒して居たが 団長と話し合って居た 大隅軍曹に呼ばれて 再び団長先に這入った 軍曹は次の判断を下した
更に次を決断した
報告は団長宅から電話に依る方法もあったが 万一の盗聴を憂いて 単に報告の為 2名を帰隊させる旨を通電した
翌日 S軍曹は師団に要請した補助憲兵 2ヶ分隊を指揮して 間道を 捜索したが隠匿物品の発見 及び 不審者の発見に至らず 捜索を 断念した 然し武諜が開拓団に出現した事は 開拓団長提出の小紙片 を 隊本部を経て 86部隊(P.107参照)に鑑定を求めた処 露文字 新聞紙であり ニコチン反応ありとの通報があったので ソ聯領より潜入 せる者(武諜より他に考えられぬ)の使用した事 確実と断定したのである
後日 武諜捜査に対する反省会が開かれ 私の如く最下級の上等兵 に到る迄 参加を命ぜられたのであるが 結論めいたものは出され なかったが 一般論に落ち付いた
初陣の武諜捜査は 何としても物足りなさと不甲斐なさが 入り混った ものに終って仕舞った 第2囘目の出勤は 後述の項に譲る
私達 兵候補出身の上等兵3名が石頭憲兵派遣隊赴任した時には 派遣隊着先任下士官 班長兼戦務主任のS軍曹であった そして 清水曹長が牡丹江分隊から転任して来る直前の頃に 牡丹江隊 隊本部隊長(憲兵大佐 望月政吉 〜 戦後ソ聯抑留中死亡)の隊下 分派遣隊に対する随時検閲が実施された 勿論 石頭派遣隊 にも実施され 寧安分隊長(憲兵大尉 前川宗雄 〜 ソ聯抑留中 死亡)も之に随行した その折の事である
私達上等兵が赴任して幾日も経たない頃 隊門前を特有の朝鮮服 を着た鮮人が通行した(隊門前の道路 その他 P.145〜P.146参照) 其の道路は 軍人 軍属 その家族 開拓団員 制服の満軍軍人 軍属 満洲国 政府機関職員等を除く 以外の者は 許可なく通行を禁ぜられて 居た 事務室の窓からその通行している鮮人を認めたS軍曹は 私達 3名の上等兵に直ちに隊まで同行する様 命じた(此の時 派遣隊長 は留守中であった)
新品上等兵3名は班長から命ぜられる侭 その鮮人の処え 走り寄って同行を求めた処 素直に応じた 玄関まで 同行した処 S軍曹は玄関の上り口廊下で待ち構えており 鮮人に 通行許可書携帯の有無を訊ねたが 無許可通行の為 所持していなかった S軍曹はその事を理由としたのであらう 二三言怒鳴り付けると 殴打した揚句「置場に放り込め」と私達に命じた
命令されれば 服行しなければ無らない 直ちに身体検査の上 兇器その他を検べた その上で留置場に留置したのである そして小1時間経た頃に 留置場から出して放免した その際 他の軍曹以下に 留置の件を 派遣隊長に知らせる事の無い様 命じた 守口 大隅の2軍曹は此の留置は 明らかに越権なる旨をS軍曹に意見開陳した 併し派遣隊長に報告する ものは無かった 当日の日直下士官は從って 此の事を当直日誌に 記録しなかった 從って派遣隊内で此の事実を知らぬ者は 責任者 である 派遣隊長だけであった だが私は 私物の日記には其の 顛末を可成り詳しく記し 最後に「之を称して 検束と言うのか」と 反問めいた字句でその日を締めくくったのである
扨て 話は随時検閲当日に戻す 諸種の保監状況や現在処理中の 事件等の検閲も終り 次に隊舎裏の広場で 本部隊長の 設定する 敵軍との戦闘演習 軍馬(2頭)等の検閲も無事終了し 最後に営内居住者(補助憲兵を除く)兵長(下士勤)3名 上等兵3名 計6名の私物日記を提出する様 本部隊長の予定外 の命令に接した
私達6名は狭い派遣隊長室に整列し (隊長 の他に分隊長 派遣隊長も起立して隊長の横側に列んだ 営内者の序列順に 金田 福田 小川の3兵長 及 三浦上等兵までの 日記の検閲は型の如く パラパラとめくる程度で 簡単に済み 済んだ順に日記を受領して 派遣隊長室を去った 後は私の他に 戸口上等兵の2名のみになった 私の日記帖も パラパラと めくって居たが 更にめくり直して 前述の「鮮人検束云々」を記した 箇所を発見し 一読後 派遣隊長 分隊長に 此の欄を読む様 命じた それが済むと S軍曹に来室を命じた 派遣隊長室に 這入った S軍曹に 隊本部の大佐隊長は 同様 私の日記の 該当欄を読む事を命じ 読み終った処で 此の鮮人に対する検束 調書の写しを持参する様 命じた 私は蒼白になって 緊張したが 分隊長 派遣隊長 は元より 不法検束の張本人である S軍曹は緊張と 精神的動揺の余り 隊長の命令に唯「ハイ」「ハイ」を答えるのみであった 戸口上等兵は退室を命ぜられた 結局 派遣隊長室には 隊長 分隊長 派遣隊長 S軍曹 私の 計5名であった
隊長は 私に対し 「此の記述の内容に相違ないか」を訊ねたが 正直の処 何を答える可きか 大きく躊躇した その様子を見た隊長は 更に「速答」を命じた その時の私は将に「清水の舞台」から飛び降りる 気持ちで 「相違ありません」と答えた 隊長は今度は S軍曹に 「検束の法的根據」を質問したが シドロモドロの答しか発しなかった そこで やうやく 私は退室を命ぜられ 冷汗三斗の思いで退室した
以後 派遣隊長室で どの様な事があったか関知しない
「検束」の法的根據は 行政執行法に據るが 詳しい当時の法令集 無い為に法文の記述は不能であるが 記憶を辿れば
等々を記憶し 令状執行に依らず 分隊長(警察署長)権限で 身体の拘束が可能 但し 検束の翌日の日没時限以降に 及ぶ事は 法に依り許されなかった様に思う
從って 此の鮮人に対する 不法な検束は 越権行為であった 此の件は 単なる反則行為であり 「厳重注意」の上「始末書」提出で済む事であった その上 直属上官である 派遣隊長に報告せず 更に報告書作製を 意識的に怠ったとあっては 何をか言はんやである
S軍曹が陸軍懲罰令に依る処分を受けた事は 勿論であったが 直属上官も 又 同令の処分対象になった 原因は S軍曹の 不法行為であったが 私の日記記述も 又 原因になった 派遣隊長は その事に依って 私を責める事は無かったが 私自身の 気持ちは 暫くの間釈然としなかった S軍曹に好意を普段から 寄せて居なかった 守口 大隅の両軍曹からは 「派遣隊長には申し訳 なかったが 新任上等兵良くやった」と激励された
此の様な事があってからは S軍曹は 私に対しては事毎に 「新任の癖に」のイヤガラセをした そして其のトバッチリは 三浦君にまで 及んだ 尤も2人はバンカラ気分過多症プラス ちゃらんぽらん性過多症も 彼の性格に合致せざる処であったらう
又 S軍曹は戦務主任であったが その密偵に対する報償物品に関し 兎角の風評が石頭居住者の鮮人の間にあったが 確たる事は関知しない その後 清水曹長が着任した 今までのS軍曹が その任にあった 班長の座は 清水曹長の任ずる処となった 当然の事である 特に 階級序列の確然とした軍隊であれば尚の事である 清水曹長の定期移動 外の転勤は S軍曹の検束に関する不法行為(厳密に言えば 刑法上の 瀆職罪)に対する反省から 班長不適任に依る降格処置として 清水曹長の急遽赴任人事になったのであった
石頭派遣隊では 事件突発の無い限り 毎週土曜日 夕食は少数隊員間の 融和を図る目的で 懇親夕食が恒例として開かれてゐた 派遣隊長以下全憲兵(補助憲兵を含む)12名の席には 日本酒 ビール等 も出され 無礼講の席であった 酒盃を重ねる内に 裃を脱いだ雰囲気 が漂い 石頭の様な片田舎であればこそ 尚更の事 楽しい行事であった
石頭隊閉鎖前の或る土曜日の会食の折の事である 例によって 酒も出て無礼講であった 営内居住の兵長 上等兵は 派遣隊長以下 の下士官に 表敬の意味で酌をして廻った いい加減 酔の廻った頃 S軍曹は 三浦上等兵を私(此の2名は酒量に於ては派遣隊内で酒豪の 部類に属した)に「酒の勉強よりも法令の勉強に精を出せ」と カランデ来た それも平素から好感を抱かざるS軍曹の言であった 酒の助勢もあった 私達2名は 「承知 御忠告に從います S軍曹殿も 検束の法的根據と運用法の勉強を願います」とやりかえしてしまった
幾ら無礼講の席とは言え 憲兵最下位の上等兵が上官に向っての言葉 であった S軍曹は「上官侮辱」で軍法会議に送致するぞ 覚悟しろ」と来た 「送致出来るものなら 送致して見ろ」更に酒の加勢で私達2名は興奮して やりかえした 以下 エスカレートしたが 班長に依って仲裁され 私達2名は S軍曹に其の場で詫びた 会食も終り兵室に帰えった処で 清水班長からは 「無礼講の席とは言え 以後言葉に気を付けよ」と説諭された
後の項でも触れるのであるが 石頭憲兵派遣隊は 昭和20年7月中旬 閉鎖命令に基いて 寧安分隊に全員復帰した そして約半数の者は 他分隊 或いは 牡丹江特務機関 その他に転勤 又は 転属した 分隊復帰後 最初に転勤(掖河分隊)したのは S軍曹であった 当時非番であった 守口軍曹が旧石頭隊を代表して 寧安駅まで 見送った
私は牡丹江特務機関へ転属が内示されて居たが 命令が出るまでの間 寧安駅取締勤務を命ぜられ 寧安駅に詰めて居た 勿論 勤務中であるので 私用を達する事は御法度ではあったが 旧石頭隊当時の上官であった S軍曹の見送りを プラットフォームで 行なった
その時の事である どの様な理由であったか 分らぬが S軍曹は転勤に際して 私物の刀を帯びずに 91式の軍刀(サーベル型の護拳付)を帯びて居た 牡丹江行の列車 がプラットフォームに到着寸前 S軍曹は見送りに来た 守口軍曹 (Sよりも教習隊卆業は後期)の95式の軍刀(日本刀型)と無理槍に 交換を迫った 守口軍曹は当然 之を拒否した 然るに 同階級ではあっても 古参のSは 更に威圧的態度で守口軍曹の刀を奪はんとした
守口軍曹の側で その事を最初から見て居た私は 憤然となり S軍曹に 「余りの事です 多勢の一般客の居るプラットフォームで その様な無様な 真似は止めて下さい」と 駅取締の職務上 中止方を促した S軍曹は 私に「下級者の癖に上官に向って何を言うか」と威圧的態度を取り 更に守口軍曹に迫って 守口軍曹の刀に手を掛けた 私は昂奮 の余り 嚢より拳銃(実弾7発入り 安全装置は外さず)を取り出し Sに向け「貴官を強盗現行犯で逮捕する」と告げた その時 守口軍曹が 私に「止めて置け」と制した
此の様子を一般客も見て居たのと 何時の間にか横に満軍憲兵が1名来て居たので 止むを得ず 拳銃を 嚢に収めた 守口軍曹は 自ら刀を脱して S軍曹の旧式刀と 交換し 「S軍曹殿 掖河分隊着任の上は 行動を慎んで下さい 此の様な 馬鹿げた事は許されませんぞ」と言った 丁度 其の時 列車が侵入し 停車 すると 何の挨拶もせずに 車中に逃げる様に して S は去った 私は当時体重 90Kgの重量であったので 腕力には自信があった S軍曹位 逮捕連行には 差支無かったが 守口軍曹の制止があったので 中止せざるを得なかった
兎角 奇怪な行為のある S軍曹であった
昭和15年9月27日 日本はドイツ 及び イタリヤ等と相携えて 所謂「日 独 伊 三国同盟」に調印した 次いで 同16年4月13日 日本はソ聯と「日ソ 中立條約」に調印した 北の脅威(ソ聯)に備えて 大本営陸軍部は「日ソ中立條約」調印後 僅か3ヶ月足らずの同年7月2日 有名な「関東軍特別演習」略称「関、特、演」を発動した 之に據って 関東軍の兵力は一挙に40万から70万 馬匹約14万 航空機600機 になった 此の為の召集は 7月から9月にかけて行なはれ 鉄道 船舶 港湾等 最大限に動員して 満洲 朝鮮 樺太 等に輸送した
最盛事(航空部隊にあっては 昭和15年)の関東軍の特に 東満国境 東寧(北緯44°)に駐屯した1ヶ師団を例に挙げれば
兵力 計7万 将に 1ヶ軍に相当する兵備を擁して居たのであった 以上に 先立ち ドイツ、ソ聯は1938年(昭和14年)8月23日 「独ソ不可侵條約」を調印して居たが 1941年(昭和16年) 6月22日 ドイツは一方的に條約に違反して ソ聯に侵攻(第2時 世界大戦の開始)した 此の事に據り 日本は先に 日独伊三国同盟を 調印して居た関係上 日独間の国際信義上(日ソ官の国際信義を無視) の見地から 関特演を発動し ソ聯軍を牽制したのであった
ソ聯領を侵攻したドイツ軍は 全世界をして瞠目させた 電撃作戦を以て ソ聯領の首都「スターリングラード」(モスクワ)まで迫ったのであるが 1942年(昭和17年)11月19日 ソ聯軍は「スターリングラード」の線に 於て 冬将軍 到来を好機として俄然 大反抗を開始した 対する独軍は 厳冬期作戦の最必需品である防寒被服 糧食は勿論の事ながら 兵器 弾薬等の補給に全く無準備の状態であった これが為 後退するの余儀なきに到った
ソ聯の極東軍の兵力は 独ソ開戦時 30ヶ師団 戦車約2300輌 航空機 1,700機と推定されて居たが 大本営 及び 関東軍が 最も強く希望して居た 極東軍の欧州転用は僅少に止まった模様 であったのが実状であった
大東亜戦争 開戦(昭和16年12月8日) 略々6ヶ月後の同17年6月5日 日本海軍は ミッドウェイ海戦に於て一挙に空母4艦を喪失する 大惨敗 以来 それまで攻勢であった 日本軍は守勢になり大局に於て 常に後手後手の劣勢を挽囘するに到らなかった
日独伊 枢軸国の内 伊太利は 1943年(昭和18年)9月8日に 連合国軍に無條件降伏に 昭和20年4月1日 米軍は我が 沖縄本島に 上陸 次いで4日後の4月5日 ソ聯は「日ソ中立條約」の不延長を 日本に通告(此の時点に於ても此の條約は生きて居た 且 昭和21年 4月12日まで有効なのであった) 同年5月7日 ドイツはイタリヤに 次いで連合国に無條件降伏した (私は石頭隊恒例の土曜日の会食 の折に 派遣隊長に今後の日本は イタリヤ ドイツ 等の敗戦に據って 果たして戦勝可能かを質問した その時の高梨派遣隊長の怒りは大であった
「口を慎め 日本軍人として監軍護法の憲兵として口外する事の善悪を 判断出来ぬか」と強く窘められた記憶が鮮明である)
此の頃を境として ソ聯軍は満ソ国境線に欧州からの兵力を 昼夜兼行で東送したのである 日々寧安分隊から受領して来る それ等の特務 戦務に関する情報は 確度甲のものが圧倒的であった
それに反して大本営は 此の間 外征派遣軍中 最強を誇った 北の守り専用の関東軍からは 昭和17年〜20年初頭に到るまで 本土決戦に備え 或いは南方戦線増援の為に 櫛の歯を拔くが如くに 精鋭師団 その他精鋭部隊等を大量急速に抽出転用した これが為 関東軍は文字通り「張子の虎」 「藁人形」等 同然の 劣弱な総軍に低下した
日本の凡有の情報蒐集機関が万策を尽くしてソ聯の動静を探求して 居たと同様 否それに何倍かする手段(ソ聯の諜報網の発達は 世界の優位にあった)を駆使して 日本の「お家の事情」を探索してゐた ソ聯が関東軍の衰微する姿を虎視眈々として 監視して居た 即ち 熟柿作戦開始の好機を窺って居たのである
一方 満内の治安状況は表面上は一見さしたる動揺はなかったかに 見えたが 日本の敗戦必至の思想は 満人 鮮人等の無学文盲の 人達の心にまで深く滲透して居たのである 古来より常に乱世の国に 生き続けた祖先の血を濃厚に受け継ぎ 其の時 其の時の統治者に 対応する変り身の早さとも言う可き動物的本能のなせる業としか言い様 の無い情報分析の驚異的敏速性は正に脱帽に値するものがあった
関東軍が在満日本人の生命財産を守って呉れるものと信じ込んで居た 日本人だけが 日本の不利な当時の戦況を漠然とは知っては居たが 音も無く犇々と迫り来たりつつある危機に最も鈍感であった 尤も満洲国政府からも関東軍からも 何等の予知も受けてはいなかった のであるが いよいよ 関東軍の最期近しを体得するまでは 若干の 時の流れを要したのである
何かのキッカケが起これば 満人鮮人等の永い間の不平不満に一気に 急激に爆発する要素は多分に醸成されてゐた
既に ソ聯に対して 及び 腰になって居た 大本営は 関東軍に対して
等に対しては 兵力使用に依る防衛は之を行なはざる事を得 と大きく 防衛上の思想転換を行った そして国境線より後退した 適当の地に 警備線を設定し 警備線より前方には 一切の監視哨を配置せず 兵器の使用は自衛上止むを得ざる場合に厳しく規制し 兵力に依る 友軍救援は原則として危急の際に到るも行なはず(見殺し玉砕)とした のである 所謂 後世悪名高い 「北辺静謐保持作戦」であった
如斯状況下に於て
以上は其れ以上に事件発展せずに済んだのであるが 昭和20年8月9日 未明の全国境線突破 不法侵寇開始の為の 日本軍に対する 侵寇直前の小手調べであった 此の際 日本軍は先に達せられてあった 大本営命令に基き「北辺静謐保持」の為 無抵抗であった
昭和20年6月末頃から7月早々の頃 此の石頭内で 各種情報綜合 判断の結果 石頭隊は廃止になり 分隊に復帰するのでは無いか さもなくば 最近国境方面に頻繁に武装蝶者出現等の情報急増に付 その捜査 逮捕の為 野戦憲兵隊の如く完全武装の上 移動憲兵隊要員 になるのではないかとの憶測がなされる様になり 派遣隊内部に対し 防衛召集の名の下に臨時動員された
此の為に日本人開拓団は 老幼婦女ばかりが取り残された 殊に国境に近く 又は 交通に 不便 在いは遠隔の地にして 日本軍の不駐屯の地に居た開拓団員の 不安は極度に昂まり 治安維持の面に大きく影響した 其の結果 不良 鮮満人等の婦女暴行 強 窃盗等の刑事事件が憲兵隊 満警等に訴えられた 此の防衛召集された者達は 其の殆が 未教育補充兵であり 年令も 40才を越した老兵(軍隊では 25才以上の応召兵を老兵と呼んだ)ばかりで あった (此の時の召集令状は活版印刷が間に合はずにガリ版謄写印刷 であった その摘要欄には軍服代用品 巻脚絆 水筒 飯盒 等の外 日本刀 槍 等の武具に到るまで所持する者は 携行する事を指示してあった)
これと相前後して帯刀を本分とする憲兵の内 下士官にして私物日本刀 を有する者は 私物日本刀を佩刀する事も許可した 清水曹長以下4名の 下士官はそれを実行した 軍曹以下に支給されて居た33式騎銃の 遊底覆 及び 14年式拳銃の吊紐(木綿製)に到るまで供出を命ぜられた 之れ程までに 兵器類は不足してゐたのであった
昭和20年7月15日 寧安分隊長の命令に據り 急遽分隊にに出張した 派遣隊長は分隊長命令を受領 直ちに折り返えし 午後帰隊した 帰隊した派遣隊長は班長を派遣隊長室に招じ 協議して居たが やがて 事務室に現はれて 大要次の如き 分隊長命令を下達した
漠然とした憶測ではあったが その憶測が現実のものとなり 急々の閉鎖 とあらば 動揺の色はかくせなかった 即日解雇される雇傭人等は 驚くと思いきや 満語通訳の李憲補 員外傭人の陳さんの2名を除けば 全く平然たるものがあった 矢張り彼等は鮮人であり 日本敗戦間近かを 信じてゐた様でもあった 尤も 7月に入り 木村通訳(鮮語 鮮人)は 営内居住にも拘らず 度々外泊する事が多くなった 又 孫厨夫(鮮人)は 石頭屯の鮮人部落に家庭を持ち通勤であったが 無断欠勤 再三の 為 懲戒解雇処分にして居た 李憲補 は日本敗戦を信じて居た 様であった その証拠は解雇通告と同時に 「曾て留学した事のある 朝鮮 京城に妻と一緒に行行き度いから 国境通化許可書を作って 欲しい」旨を派遣隊長に申し出た事である 李さんは朝鮮語通訳の 免許は無かったが 鮮語会話は達者なものであった
派遣隊長は躊躇する事無く 直ちに證明書を作って渡した 雇傭人全員(陳さんを除く)には 夫々待遇身分に応じて退職金が 支給された 雇傭人達は立去った 義理固い李さんは 翌日 夫人と2名で 「今までお世話になった お礼の印です」と言って大量の ギョウザに奥さん手造りの棗入りの「粽」を作って 贈って呉れた 李さんは「牡丹江の本家に報告して成る可く早い機会に京城に 行きます」と言って居た 互の健康を祈って別れた
谷口兵長(補助憲兵)は 「せめて17日の閉鎖時まで 残留させて下さい 分隊へ発送の荷物梱包を手伝はせて下さい」と派遣隊長に意見具申 したが「貴公の具申の気持ちは痛い程 諒解出来るが 命令 故 採用する 訳には行かん 止むを得ん 貴公の誠意は分隊復帰時に 分隊長に 報告する 長い間御苦労であった 原隊復帰後も健康に留意し 軍務に精励せよ」と慰労した
石頭駅発の列車の時刻は迫りつつ あったので 別れの会食をする時間的余裕は無かった 谷口兵長は 涙を拭き拭き軍装を整え 「捧げ銃」の敬礼を派遣隊長に送り 申告して隊門を去った 私達は手持ちの煙草を全員から寄せ集めて 餞別の代りに贈った 谷口兵長は銃を何囘も高く掲げては 後を振りかえりつつ駅路へ向った 戦中下の軍隊とは言え余りにも 淋しい急々の別離であった
後は清水班長の指示に依り 分隊に輸送する品目別に 毛布や 携帯天幕等に梱包する作業が開始された 規模の小型の 軍隊とは云え 可成りの量になった 作業は深更に及んだ 隊の性格上何と言っても 書類 事務用品 等がその大半を占めた 翌日 これらの梱包品は 貨物廠から借用した軍用トラックで 清水曹長 直接運転し 大隅軍曹 戸口上等兵の2名は警戒の為 騎銃(実弾装填)携帯で 同行した
馬夫は昨日解雇済みであったので 軍馬2頭は私が軍属傭員を示す 胸章の付いた軍属服(昨日まで長谷川馬夫(鮮人)の着用して居たもの) に拳銃は裸身の侭 軍袴に差し込んで秘匿し 2頭併馬で陸路寧安分隊に 送還した
巡察の途次 顔見知りになった 輜重隊の自動車隊長の 石川中尉(少尉候補者出身 〜 昭和11年2月26日 未明 蜂起された 所謂 2.26事件の際 歩兵第3聯隊(第14師団隷下)の下士官志願の 2年兵、彼の所属する中隊は事件には出勤しなかったが 他中隊では参加 事件後 此の師団は北満警備の任に就いた 第1師団隷下の 聯隊が事件蜂起に参加した為に 下士官志願書は退役後も 一生を 贖罪の意味に於て 満洲で暮らせと上官から言はれたとの事を 此の 中尉さんから聞かされた事があった中尉さんは歩兵科出身であったが 少尉任官後 輜重兵に転科を命ぜられたとの事であった) に会った
乗用車には尉官旗を掲げてゐたので 私は馬上から敬礼をした処 車を停めて 不思議さうに 私を眺めて居たが 「君は憲兵隊の中倉 上等兵ではないのかな」と問い掛けて来た 私は中尉さんと会えるのも これが最後と思ったので 下馬して改めて敬礼の上 「中尉殿 中倉 上等兵であります」と答えた処 「今日は何かあったのですか 今朝は 出勤の途中で 清水さんが車の運転をして居るのを見た 今 又 君が 軍属に変装して乗馬してゐる 変だなあー」 私は憲兵隊と雖も 軍隊 ですから 清水班長殿は輸送演習中であります 中倉は今日は馬夫が 病休しておりますので代って 馬の運動中であります」 それでも 石川中尉 さんは 鞍に 旅嚢 鞍嚢 水嚢 までも付けての運動には合点の行かぬ 顔をして居たが 「ぢや失礼するよ」と言って 再び車を走らせて去った
石頭隊の閉鎖実施は 石頭駐屯の師団長 及び 参謀のみに 牡丹江憲兵隊本部長から極秘に通報され その他の部隊や陸軍官衙 満洲国関係機関その他等には 関東軍総司令官命令に據り 厳重に秘匿すべき事を達せられてあった 分隊復帰時に於て 其等には分隊長名を以て 通報される事になって居たのである 私は中尉 さんに敬礼を送り乍ら 幾ら関東軍総司令官の極秘閉鎖命令とは言え 中尉さんに虚偽の答をした事に後めたさを覚え 心で詫びた
夕方近くなって分隊に到着 早速分隊長に無事軍馬2頭の送還完了を 申告し 事務室で勤務中の隊付先任の池田曹長に挨拶した処 「先刻 清水曹長以下3名は駅に向った処だ 疲れては居るだらうが この様な時だ 直ぐに 食事でもして 石頭に帰って呉れ給え」と言はれたが 直ぐに駅まで分隊の自転車で走れば 清水曹長以下に 合流出来ると 思ったので その旨 池田曹長に具申した処 「宜敷い」と言はれ 駅に急いだが 数秒の違いで列車は発車した後であった
仕方無く 駅事務所で雑談をして居ると 「東京城行の臨時貨物列車が あと30分で 出ますが 石頭駅には停車しませんが 石頭駅で徐行する様 機関士 車掌 石頭駅長に連絡します それで良ければ乗車して下さい」との駅長の 好意に甘え その列車に便乗し 石頭駅では徐行中を飛び降りた
帰隊して申告を済ませ 事務室に這入ると隊舎内外は僅かな残りの 者達に依って綺麗に片付けられていた 派遣隊長 以下の官舎居住者は 交代で荷物梱包に行った その夜(16日)から明午前にかけて 数次に亘って 閉鎖に伴ふ撤退を秘匿する為の分隊復帰が行なはれた 金田兵長(下士勤)と私は 石頭隊に於ける警務係最後の勤務と言う 事で留置中の2名の容疑者の分隊までの護送を命ぜられ 守口軍曹 指揮で異情なく護送勤務を果たした
関東軍総司令官の命令とは言い乍ら 余りにも淋しい派遣隊閉鎖に 伴なふ撤退であった 教習隊卆業後 大いなる夢と限り無い希望に 燃えて赴任した 初任地の石頭憲兵派遣隊であった S軍曹1人を 除けば 他は皆 懇切に新米上等兵を指導し 教育して呉れた そして 親身になって悩み事の相談にも応じて呉れた
初年兵入隊時の4329 部隊では 同内務班の荒神様 神様 連中からは 劣等兵と評価され 決め付けられて居たのに 教習隊以来 石頭隊では 人格ある有用な 兵としての待遇を受け 短かい軍歴ではあったが 一生 忘れる事の 出来ぬ懐しい想い出の石頭であった それにしては 余りにも 情緒を幻滅させる事象であった 関東軍の将来を暗示するに足る 不吉な前兆でもあったが 憲兵最下級者の私にはその暗示を 読み取る千里眼は持ち合はせてゐなかった
此のような閉鎖命令に接した隊は 石頭ばかりで無く 他にも 同様な命令を受けた 分隊 分派遣隊があったのであった 此の為に 後日何等の事情を知らぬ 一般部隊の者達から 「憲兵は ソ聯軍の 侵寇を事前に承知してゐて 夜逃げした 卑怯な奴等」と誤解され 非難されたのであった
私は 昭和20年6月末頃 派遣隊長に伴はれて 寧安分隊に出張した 何の為の出張かは 知る由も無かったし 派遣隊長からも班長からも 知らされて居なかった 私は分隊長室に分隊長(憲兵大尉 前川宗雄) から次の様な内示を受けた 「貴公は8月1日付で 86部隊に教育分遣 の予定だ 此の件は牡丹江隊本部より貴公を指名して来た 詳しい事は分ら無い 内示ではあるが謹んで受けよ」と申渡され そして「これから直ちに隊本部に出頭し 副官に会え」と命ぜられた
私は何の事か 全然分らずに狐に摘ままれた思いであった 併し仮令 内示(内示は命令発令以前の事なので断はる事は可能)では あるにせよ 分隊長命令の出た以上 牡丹江隊本部に出頭し 副官の 話を聞く為 列車で牡丹江に行き隊本部に着いた 副官に到着の 申告を行なった
副官(氏名忘却)は 普段余り使用して居ない様な 部屋に案内し 「分隊からの電話で 中倉上等兵の到着を待って居た そんなに固くならずに俺の話を聞け 実は86部隊で若干の欠員が生じた 模様だ 我が隊本部には 上等兵2名を差出す様 司令部から命ぜられた そこで その内の1名は 中倉だ 教育期間は概ね 3〜4ヶ月だ 教育 終了後は兵長(下士勤)に進級する 名誉と思い謹んで受ける様 形式は内示であるが命令と解釈してもらい度い」と申し渡された
直ぐに返事も出来んだらうから 帰隊の上 明日派遣隊長に申告せよ と付け加えた 私は此の事だけは是非とも質問して置かねばならぬ と咄嗟に思った それは下士勤兵長と言えば 下士官志願者と同様な 取扱いになるか否かであった 副官は「その様に解釈して良いだらう」 と言った 私は「それでは困ります 私は長男であります 現役状態の 上は家業を継がねばならぬ事 父は老令の上 弟も入隊中である事」 を告げた 副官は「命令と解釈せよと言った筈だ 帰隊の上 軍隊内務令の服従の章を復習せよ 直ちに帰隊」と言って部屋を 去った
帰隊したのは遅かったが 班長は私の帰えるのを待って居て 呉れた 申告の上 分隊長 副官からの内示の話をした 班長は その事の内容は既に承知して居た 班長は「貴公が強く希望して居た 特務に専念出来る絶好の機会だ この大戦下 他の兵科部隊では 現役満期除隊 即日予備役召集で引き続き在隊中の者の居る事も 又「関特演」に応召した者が未だに在隊して居る事も承知であらう 憲兵科とてその例外では無い 兵候補者出身の貴公であっても 現役満期 除隊後 その侭帰郷出来る等の甘い考え方で居ては 大間違いだ 長期に御奉公と言う事になれば兵で居るよりは 下士官になった方が 良いでは無いか 志願もせぬのに下士官になれる事は 貴公個人 にしても 又 石頭隊にしても ともに名誉な事だ 覚悟を決めろ」 と諭された
下士官志願は好まぬが 特務専念の魅力は大きかった 受ける可きか否か 私は大いに迷った その晩は熟睡出来なかった 86部隊(P.107参照)に於て どの様な部門専攻を命ぜられるのか 一抹の不安はあったが 特務専念と言う協力な磁石の如き 引力には勝てなかった 内示を謹んで受ける事に決心して 翌日 派遣隊長にその事を申告した
軍隊内務令 第11には
寧安分隊に復帰して間も無く 昭和20年7月20日 分隊から4割近い 多数の者が他分隊転勤 及び 関東軍情報部各地支部に転属発令 された 元石頭隊員の内からは s軍曹は掖河分隊付に 大隅軍曹 は石頭野戦貨物廠(牡丹江野戦貨物廠が石頭に移駐)配属憲兵に 高橋(旧姓福田)兵長(下士勤)は 関東軍特別警備隊敦化大隊要員に そして 金田兵長(下士勤) 三浦上等兵に私の3名は 関東軍情報部 牡丹江支部(通称号〜牡丹江特務機関)に夫々異動発令された
分隊からは20日早々 池田曹長(暁に祈る事件の吉村隊長)〜東寧分隊に S軍曹〜掖河分隊に転勤 翌日 分隊長 前田大尉〜東寧分隊長に 夫々転勤した 私達3名 牡丹江特務機関転属組は23日に転属発令され 即日転属の為出発した その前夜 元石頭隊員であった者(S軍曹は 転勤後の為 高梨准尉は新任分隊長 未着任に付 分隊長代理の為 夫々欠席)の内 分隊に残る者が 転出する者の為に 寧安街の満人 経営飯廳(ファンチン〜食堂の意)で送別会を催して呉れた 別離に涙し 温情ある友誼に更に涙した 宴も酣になり 私は送別の席を設けて呉れた 好意に報ゆる為に 私の最も好きな戦時歌謡「流砂の守り」を 歌って返礼した
1. 男度胸は鋼の味よ 伊達にや下げない腰の剣 拔けば最後だ 命を懸けて 水も漏らさぬ この守り 2. 流れ豊かな黒竜江の 岸の柳に駒とめて 水を鏡に髭面剃れば 満洲娘も一眼惚れ
翌日 終に 寧安分隊を発つ日が来た 転属出発申告の私達 3名は 分隊長代理になった 元石頭憲兵派遣班長 高梨准尉に お世話になった謝礼と数々の非礼を詫び 申告を行なった 准尉 は「健康に充分注意し 軍務に精励する様 特に 三浦 中倉の 2名は血の気が多過ぎて 気懸りである 特に自重自戒し 憲兵の名誉 を汚すことなき様 強く望む」との言葉を戴いた
次に分隊警務班長に就任した 清水曹長に挨拶した 曹長は「貴公等を 手離す事は 非常に残念であり 気懸りだ 併し此の際 他処の 飯を喰う事も大きな収穫になる事だ 縁があれば 此の満洲 の何処かで 再会する機会は必ずある その時まで お互に健康 に留意し 頑張らう」と言って 曹長から握手を求められた 私達 は固い握手を交しつつも 無性に涙が出た 曹長の眼にも光るものが 見えた
いよいよ班長室を出る時 曹長は「貴公等 此れを持って 行け 何かの足しにせ」 と言って 紙包み(餞別)を事務机の 引出しから取り出して渡さうとした 私達は強く辞退した 曹長は 「何を言うか 貴公等の軍事郵便貯金残高位知っているぞ」と言って 涙の私達を笑はせた 私達は有り難く頂戴した (曹長の 言う様に 新品憲兵は私物の法令集 辞書 ノート 満語習得の為 の参考書 その他等の購入 外勤が多かった為の 小遣銭出費等々の 為 出費が嵩んで 貯金の余裕はなかった)
それから分隊の 者達に挨拶した 高梨准尉は特に 同期の戸口君に 駅まで 見送る事を命じて呉れた 石頭時代の上官は 隊門まで見送って 呉れた 軍人とは言え 今の今まで辛苦を共にした上官 戦友等との別れは感傷的になるものであった
清水曹長 高橋(旧姓 福田)兵長(下士勤)の2名を除き 此の 時以来 石頭時代の面々とは 未だに再会する機会を持て無い で居る 同期の 三浦 戸口 の2君は その消息さえ 不明である 健在して居る事を切に祈るばかりである
高梨(復員後 石川姓となる)准尉は昭和58年11月12日 清水 曹長は昭和38年1月6日 夫々不帰の旅に発たれて仕舞った 共に良い上官であった丈に 惜しまれてならない 謹んで御冥福を お祈りする次第であります
私は元石頭隊の面々に別れる事は非常に残念であった 命令は 絶対であり 致し方の無い事であった P.239に記した様に 86部隊 教育分遣の内示を承諾して居たので 何れは短期間の分遣では あっても 別れる事は覚悟してゐたのである そして教育終了 後は 又 寧安分隊に復帰出来るものと考えて居た その為に 特務 機関転属とは言っても 86部隊分遣発令(8月1日付)までの 約10日間程の仮の宿位に1人合点して居た その間に特務機関 とはどの様な任務を帯びる処なのか識る事も 特務勉強にもなるし 此の際 満語会話の基礎を復習しやう等と言う暢気な事 を考えて居たのである
私は此処で 前以て特にお断りして置く事がある 特務機関 に転属後 旬日にして 関東軍第2特別警備隊新編成に伴なう 再転属 (8月1日付) ソ聯軍の不法侵寇開始(8月9日未明) 後退に次ぐ 後退の混戦から終戦(8月15日) 武装解除 抑留等々の為 其処で接した人々との時間的交際は何れも短かく 從って 親交 を結べる様な状況下ではなかった 從って 上官 同僚等になった 人達の氏名は極く僅かな人を除いて 忘却してしまった事である その店を諒とせられ度い
「牡丹江特務機関」なる名称は 通称号であって 正式の名称は 「関東軍情報部牡丹江支部」である
特務機関に到着した 3名は直ちに 荒木(明確ならず)少佐に 着任を申告した そして直ちに 藤田中尉(予備応召憲兵 7月10日 応召)の指揮する 藤田班に所属する事を命ぜられた 此の時点では 藤田班の人達は約15名位であった(全員予備応召 7月10日付の 憲兵下士官ばかりであった)
藤田中尉以下全員は 長髪で 協和服 満服等思い思いの服装であった 同じ憲兵と言う事で歓迎された 藤田中尉以下は 特に任務らしいものは命ぜられておらず 唯 毎日 ブラブラして居るとの事であり 強いて仕事と言えば 短波ラジオ を聴いたり 新聞を見たり 各新聞社 牡丹江支局 放送局を廻って 情報入手等の任務丈であり 各自が適当な時間になると官舎に 帰えっては 麻雀 碁 将棋 等を楽しんで居た
おかしな処だと思った 此の人達の中に広瀬(特機から特警を通じて此の人が最も強く 印象に残る)軍曹が居た 将に悠揚迫らず ヌーボー とした如何にも 大陸的な相貌の此の人に初対面の時から好感を抱いた 鮮、満、露の各語を流暢に話す人であった その他の人達も皆 鮮 満 露 の全部 又は 2語 或いは1語に堪能な人ばかりであった 私達は 此の事だけで すっかり度肝を拔かれて仕舞い 俄に劣等感に襲はれて 仕舞った これから どの様な勤務を割り当てられるにしても 勤まるかどうか 大変に不安であった ゆっくり満語の勉強どころの 事では無かった
其処で藤田中尉から 内命された事は 「86部隊 教育分遣は都合により中止」になった事と「8月1日付で 新編の第30軍の戦斗序列隷下の関東軍特別警備隊に 特務機関は 編入される事 從って特機の我々はその要員」である事を 承知した 寧安分隊出発の際には 以上の事は何一ツ 知らされて 居なかったのである 特別警備隊は
等があり 当該地の関東軍情報部支部 憲兵 兵站警備隊等を以て 臨時編成した 治安部隊であり その内憲兵は共産系鮮人等の多住して 居た寧安地区に進出する予定であった
その晩は 3名ともに 独立守備隊に用意されてあった 兵舎の1室に泊った 私達3名は 特警 要員として 特機に転属した組としては 早い方であり 同室した者は 数名であった
翌日 特機に行った処 藤田班を正式に編成して 其の 要員は中尉以下7名とする これから呼名する者は 藤田班員に なる事を告げられた 呼名された中に広瀬軍曹を這入ったが 私もその中の1名に加えられた 私は正直驚いた 金田兵長 三浦君は 呼名されなかった 口の悪い三浦君は「将校 下士官ばかりの 中に上等兵1名を入れたのは お茶汲み要員の為だ」と言って 冗談を 言った
藤田班の任務は 8月1日付で 関東軍第二特別警備隊 編成下令に備えての 編成事務であり 編成下令後は 憲兵大隊本部事務 の執務であるとの由であった 私はその様な勤務ならば 補助憲兵を 充てれば良いのにと ガッカリした そして不満であった 特機付の 憲兵として特務に専念したかった 私は其の事の不満を 初対面の 時から好感を抱いた広瀬軍曹に話をした
軍曹は笑い乍ら 「今から そんなに ブーブー言うな 俺も現役時代 編成準備事務など経験した 事など無い 命令の侭 勤務すれば それで良いのだ 現役の若い君が 特務勤務に就き度い 気持ちは良く理解出来るが 君が考えてゐる様な 生優しいものでは決して無い 増してや 言語 風俗 習慣等の異なる 満洲で特務に服する條件は 満人 鮮人になり切る事だ その為には 満語 鮮語の日常会話に差支無いだけの 勉強が必要だ 若い君 がその気になって 努力すれば 満鮮語の会話に習熟するのに2年 あれば充分だ 特務勤務はそれからだよ」と言って逸る私の気持ち に先制を打った
言はれて見れば 成る程と頷けたが 出鼻を クジカレタ思いで口惜しかった だが藤田班の人達は夫々が現地人と 接するのに必要な満語 鮮語 或いは露語に堪能な事実を知っては 当分と言うより 2年間は 我慢せざるを得ぬと思った それにしても 2年と言えば 86部隊分遣 中止の現在 現役中は駄目なのかと 無念に思った 悄然としてゐた私を見た軍曹は「そんなにシヨゲルなよ いい事もあるさ」と言って呉れた
編成準備事務執務の関係上 私は他の藤田班の者達と同様に 官舎居住を命ぜられた 官舎と言って も特機から余り離れて居ない処に会った 借上げの代用官舎であった 相部屋で寝るのかと思ってゐたら 私1人の専用で使える官舎であった 今で言う処の 2LDKとも云う様な間取りで1人住いには 全く以て 贅沢なものであり 金田兵長や三浦君には申し訳なかった
編成準備事務らしいものは どこで誰がやって居るのか 私達の 藤田班には その為の執務は8月に這入っても遂になかった あったのは 管内各地から入電する不穏な情報の整理事務であった
扨て 此の藤田班の行なった任務は 管内各地から入電する 情報記録を読み 広瀬(藤田班付先任)さんの指導に依って 情報の種類別に之を整理し 上官の情報分析に対する助手的な 仕事であった 何れも軍機に属する書類である 憲兵最下級の 上等兵である私に 其れ等の書類の披見を命じ 且 整理を命ぜ られたのである 私は異常なばかりの感激と任の重大性に 身振いする様な緊張を覚えた 情報の内容は
等々であった 此の様な不穏な情報入電の最中に全満各地の憲兵隊 の大幅な縮小が続けられ(特別警備隊編成要員充当の為)警察力 の希薄は一段と倍加されたのであった
此の頃になると既に 関東軍の参謀連中 及び 満鮮人等の極左思想 の信奉者の間には ソ聯侵寇必至と覚悟し 予期して居たのでは なからうか 表面こそ平穏な満洲も 内面では騒然とした空気が 眼には見え無い 乱気流となって荒れ廻って居たのであらう
特務機関の性格なるものを私が全然分らなかったので その様に 思うのであらうが 特に奇異に感じた事は 諸々の職業を持った人達が 良く出入して居た事である 例えば 理髪店主(日本人) 食堂経営者 (満人) 関東軍軍楽隊将校 下士官(勿論 日本人) 職業不詳(白系露人) 職業不詳の日本人(多分大陸浪人と言はれた 満洲ゴロ)等々が 自国語 の時もあれば 他国語の時もあり 見事と言う程に使い分けて居るのを 廊下 或いは食堂で見掛けた事である 藤田班の人達も良く食堂で 其れ等の人達と自国 他国の言葉を使い分けて話をして居た事であった
服装にしても 此の特機で 軍服着用者は 荒木少佐 軍楽部の将校 下士官に私の4名だけで あとは全部私服であり 長髪で 短髪は 私1人だけであった 私1人が何か部外からの闖入者の様な錯覚を 感じたものであった 藤田班付になってから 私は藤田中尉から 長髪にする事 及び 別命無き限り 軍服着用を禁止され 藤田中尉は 私に自分の私服2着(背広と満服)を贈って呉れた 有難く頂戴した 翌日からその満服を着用して 勤務したので 疎外感を抱かずに済んだ
同期の三浦君は 石頭当時 親から送金してもらって 上等(絹製)の 満服を購入済みであった 私は藤田中尉から贈られた満服を持って 居たので 藤田中尉の許可をもらって 牡丹江市街の鮮人経営の 写真館に行き 満服姿(帽子は写真館主より一時借用 三浦君は 中折帽 私はハンチング帽)で記念撮影をした 仕上り日に勤務の都合で段取りに 行けずに居る内に ソ聯侵寇となり 前金を払っただけで 遂に入手 する事は出来なかった 三浦君の満服は 冬用のものであった 満洲の 7月は盛夏である 「暑い」「暑い」を連発しての 我慢の記念撮影であった
昭和20年8月1日 関東軍第二特別警備隊が編成され 併せて 特警要員として先に 関東軍情報部牡丹江支部に転属して居た 私達も 特警に転属した事が 正式に発令された これに依り 特警配属憲兵は 従来憲兵隊の管掌した 戦務 特務 を管掌する事になり 関東憲兵隊 司令部隷下の憲兵隊は 本来の主任務である 軍事警察(軍秩維持) 及び 防諜警察を管掌する事に 任務を分担したのである
それにしても 満内治安維持を目的として編成された 特警の配属憲兵の転属発令は 一斉に発せられず 区々に発せられた為 編成完結(8月1日)は 予定の 如く進まず(事件処理中の為 その完整に日を要した) 且 憲兵分隊以下 の分派遣隊の大幅閉鎖縮小等の為 警察力の著しい希薄に依り 特警 及び 憲兵隊の機能低下は避ける事が出来なかった 其の様な 状況下に在って 夢にも忘れる事の出来無い ソ聯軍の不法侵寇が 開始されたのであった 再び8月1日に記事を戻す
此の日付を持って 藤田班7名中から 班長藤田中尉は 大尉に 班付先任 広瀬軍曹は 曹長に昇任した(この2名は予備役ではあったが 中尉 軍曹 の服務停年に達して居たので 1階級昇任は当然であった) それに 私までが兵長に進級した 上等兵拝命以来僅かに 満4ヶ月20日であり 「殊勲甲」の如く 金鵄勲章叙功の対象になる様な 功績は全然無かった 加えて石頭隊勤務中 準現行犯逮捕の際の越権行為に依る 「謹慎処分」を受けて居るのであった 私は何かの間違であると思い その事を広瀬さんに告げた 同室内に居た 藤田大尉は「間違無し 特務機関長に申告に行くから 直ちに軍装を整えよ」と言はれた 申告後 私服に着代えて居ると 藤田大尉に「86部隊教育分遣中止の 代償だ お芽出度う」と言はれた 広瀬さんは「これでは召集解除 延期の予告と同じだ 現役時代の昇任ならば別だが 予備の身には 迷惑千万だ だが君は現役なのだから もっと嬉さうな顔をしろよ」 と言って笑った
正式に特警転属にはなったが 藤田班だけは 特機に残って 依然として 昨日までの情報整理を命ぜられた 独立守備隊に行った 金田兵長やら 入電する情報は P.249 下欄に記したものの他に 東部満ソ国境に 於ける「ソ聯軍の散発的な少部隊の越境事件」 「落下傘蝶者の増加」 「開拓団員に 青酸加里の配分」 「無線蝶者の発信するものと思はれる 怪電波の急増」等々を告げるものばかりであった
特警転属の其の夜から 藤田班7名は全員特機泊り込み勤務 を命ぜられた 理由は上記情報の内「ソ聯軍の越境事件」 及び 「無線蝶者の怪電波増加」 「落下傘蝶者急増」等は 特に最悪事態 発生を予想してであった 藤田班の他にも情報蒐集班はあった のであるが 転属して間も無い頃であったので 特機の詳しい 事は分らず仕舞いであった 将に ソ聯軍侵寇の紛れも無い前兆で あったのである 国境第1線で ソ聯軍と対峙する 将兵の緊張の最中を思い 又 落下傘降下蝶者の捜索に生死を 懸けて勤務する 戦友等の身を思い 幾ら任務とは言い乍ら 青年兵 であった私には 此の事務室での勤務に 明け暮れする事に忸怩感を 持つ様になった 私は石頭当時から戦友の金田兵長 三浦君の 勤務する兵站守備隊に配置替えをしてもらう可く 広瀬さんに 意見具申した 具申と言うよりは訴えたのである
広瀬さんは 「第一線ばかりで 戦は出来るものでは無い 兵站基地が その任務を円滑に機能してこそ 軍の目的は達せられる 我々の任務は 決して「殊勲甲」になる様な 華々しいものでは無い 然し縁の下の力持ち 的存在の任務を遂行するのも必要だ 解るだらう それだよ」と言って 宥め 且 励まされ 私の意見具申は採用されずに終った 理窟では分って ゐても 若い血が何としても 分って呉れなかった
或る日 三浦君が 彼の現在の上官である 軍曹(憲兵〜氏名忘却)と 2名で 私服で情報蒐集の勤務中の余暇を割いて特機に尋ねて来た事 があった その際に 2名が交々話す処に依れば
等々の不穏極まる 情報入手の話をして 早々に帰えった その確度の 程度は不詳であったが 私は早速 広瀬さんにその事を報告した
特機に入電 又は 特機嘱託情報員の齎らす情報等は 細大漏らさず 整理の上 藤田班長より特機長に提出され 逐一 関東軍情報部長に 報告され分析されたのである
併し乍ら 後備 補充兵(未教育)を以て編成した部隊(此の種の編成 部隊は飽くまでも一応治安の囘復されて居る後方占領地の治安警備が 最たる任務であって 第1線に在って 直接戦斗を交える部隊で無い)を 国境 第一線に配置しなければ ならなかった 関東軍としては 打つ手は 既に無かったと思はれる 又 満洲国の防衛 及び 邦人保護を任務とした 関東軍にその任務を半ば 放棄した現在 打つ手どころか 唯 第3者的に 「拱手傍観」するより他に術は無かったのであらう
1日夜からの全員泊り込みは 5日夜より半数泊り込みに緩和された だが 6日午後 満洲通信社 牡丹江支局より「広島市に新型爆弾投下せらる」の報は 詳細が不明 であった丈に 不気味さを感じさせた 「原子爆弾」の語さえ その時は 知らなかった 増して1発の投下弾に依って 1市が瞬時にして 消滅するが如き事は 予想だに出来なかった 全満は イザ知らず 此処 牡丹江の夏の風景そのものも 街行く若い姑娘(クーニヤン 娘の意)の 夏用支那服(袖の無い ワンピース型 両裾の腰の辺りまで割けた服)の 刺激的な艶姿を見せ付けられては 入電する情報とは 裏腹な表面上は 平和時を想はせるに足る 桃源郷そのものであった
昭和20年8月8日は 大東亜戦争宣戦布告された 昭和16年12月8日 即ち 8日に因んで宣戦に対する大詔(詔勅〜(天佑ヲ保有シ 万世一系ノ 皇祚ヲ践メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 朕茲ニ 米国 及 英国ニ対シテ 戦ヲ宣ス 朕カ陸海将兵ハ 〜 以下省略) 奉戴日 として開戦詔勅 奉読式が 特機に於ても行なはれた そして其の日は毎月 恒例の防空演習を0時〜24時まで 丸々1日 実施された 特機は勿論 の事 官舎に到るまで總ての窓は 軍用毛布を以て 完全に遮光した 満洲と 雖も 真夏は炎熱の最中である 夜分ともなれば その暑気は多少緩和されるが ガラス窓を閉め切っての遮光の為 部屋の中は 余熱未だに残り その上部屋 に置いてある 消火水槽から蒸発する水分の湿気充満の為 寝苦しく 私は官舎で8日夜は 褌も脱ぎ 全裸の侭 床に就いて ウトウトと眠れぬ 夜を送って居た 枕元に置いて目覚し時計の時を刻む音さえ 気になって イライラしてゐた
其処え日直の軍属が戸を ドンドン 叩き乍ら「非常呼集」 「非常呼集」を連呼して告げた 「ハッ」として 直ちに電灯を点け 時計を見ると 0時20分位であったと思ふ 私は急いで 褌を付けて外に出て 見ると 今来た軍属が次から次えと 「非常呼集」を叫び乍ら 官舎を廻って 居たが どこの官舎も灯を点けた様な気配も無い 眠った様に 静かであった 誰も起き出した様子は無い 其処え隣の軍曹(氏名忘却)が寝間着姿で 外に出て「未だ防空演習の続きだらう 何んでこんな時間に非常の呼集等 馬鹿なことをするんだ 日直将校は誰だ」とブツブツ言い乍ら官舎に引き込んだ
私は私なりに解釈して「皆が出て行く時に行けば良いわい」とゆっくり 構えて部屋に戻り 寝付かれぬ ウサ晴らしに コップ1杯の冷酒を一気に 飲み乾し 煙草を一服付けてゐたが どうも落着が無い 其処え玄関の 扉をドンドン叩き再び「非常呼集」と告げて来た 「承知 御苦労」と叫ぶと 同時に急いで表に出て見ると 木銃を提げた 日直の軍属(判任官待遇〜氏名 忘却)が居て「火急に付き 此の非常呼箋持参の上 至急登庁願いますと 告げた(非常呼集に際し 非常呼箋なるものがあるのを此の時初めて承知した 非常呼集の告知を受けた時刻と官姓名を記入捺印の上 告知者に其の場で 渡すことも初めて承知)
私は何かありましたかと訊ねると 「ソ聯侵寇」 を告げ 次の官舎に急いだ 私は「真逆」と思ふ一方で 「遂に来たな」 と思う心が激しく交錯した 瞬時 ハッと気が付いて見ると褌一本の侭の 自分の姿が滑稽であった 「非常呼集」には憲兵隊で馴れて居たのでは あったが その時の私は 余程興奮して居たのであった 急いで 下着 を付け 満服を着て枕の下に置いてある 拳銃を裸身の侭に 何時もの様 に満服の下に隠して特機えと走った 既に何名かの者が部屋に来て居た 誰もが昂奮して殺気立って居る様であった 全員揃った処で 藤田大尉より「既に承知と思うが 落着して良く聞け」と言って次の様な 命令が下達された
其の他 数々あった様であるが 記憶に定かで無い
既に軍用有線電話は囘線満線 又は 中断 無線電信は輻輳混信し 正確な情報の送受は 困難を極めた 又 満洲通信社 各新聞社等の 牡丹江支局 牡丹江駅鉄道 満洲通運 満警 市公署 総省等の 電話囘線も1部 又は全部が故障 破壞等をし 正確な 情報入手に 重大な影響を及ぼした 夕刻に到り 満洲通信社 牡丹江支局より 「長崎市に広島と同型と思はれる新型爆弾が投下され 被害甚大の模様 なるも詳細不明」との電話連絡が入電した 夜になり出所不明の 怪情報が特機嘱託情報員に依って齎らされた
頭初 大本営発表と思ってゐたが その出所不明との事であったので 藤田大尉は 満洲通信社牡丹江支局に照会したが その情報には接して 居なかった 唯 街中に 1部 其の噂ある程度と言ふのみであった 其処で掖河の第5軍司令部に照会したが 「その報に接し居らず」との 事であった 牡丹江憲兵隊に於ても同様であった その後 この情報 に就いては 自然消滅した 全く不思議な事であった
又 ソ軍侵寇と同時に関東軍総司令官の指揮下に統合された 牡丹江 駐屯の満軍(第6軍管区)野砲隊は 第5軍司令官(中將 清水規矩〜掖河) の区処を受け 磨刀石に推進布陣し ソ軍の進攻に備え出陣したが 満系 軍官以下の逃亡続出し 解隊したとの情報入電した 但し 日系軍官に対する 不祥事件は 此の野砲隊に関する限り皆無であった 模様であり せめてもの 慰めであった
8月10日(ソ聯軍侵寇2日目) 此の日初めて 牡丹江市街は空襲を受け 数ヶ所が破壞炎上した 牡丹江は交通の要衝である 鉄道に例を 挙げれば 浜綏線(哈爾浜〜綏芬河=東西連絡線) 図佳線(図們〜 佳木斯=南北連絡線)の交差する 十字點に在った 此の為 追はれる戦火の難を避けて 然も日本軍部隊の支援保護も無く 東西南北から邦人避難民が続々と無統制の侭 集結した もう 此の頃になると 軍の統制も乱れ始めた 牡丹江特機も 上級司令部との 通信も途絶える様になった 横の連絡も不完全になった 囘線確保の為 交換手(女性軍属)に罵声 怒声を以て当り散らす声が壁を距てて 聞こえて来る 全員殺気立った ボサボサして居る者は 張り倒されんばかり の異常な雰囲気であった たったの2日目にして 眼は落ち窪み 血走って 居た 仮眠をとる者さえ居なかった 特機出入する者は 平素の10倍 を越すとの事であった 此の日は 早朝より重要書類の焼却を命ぜられた 紙屑焼却炉だけでは 間に合はず 庁舎の總ての ペチクの封印まで 破り(煙突の先端に工兵隊の応援を受けて 金網装着)焼却炉の代用 とした 憲兵丈では足りぬので 判任官待遇の軍属もこれに動員された
昨日正午頃から特機警備の為 独立守備隊から見習士官を長とする 約2ヶ分隊が派遣されて来たが 其の連中(未教育補充兵)が 軍紀上好ましからざる 流言飛語を流すので 長である見習士官に注意 を促したが 改まぬので 藤田大尉は怒って 原隊復帰を命して 仕舞った
8月10日正午頃であったと思う 丁度握り飯を噛ってゐる処え 広瀬曹長が来て「直ぐに警察務に服する軍装で 大尉の部屋まで 来い」と命じた 私は直ぐに官舎に戻って 軍装を整え藤田大尉の部屋 に行った 程なくして藤田大尉から次の命令を受けた
「広瀬曹長は 中倉兵長を指揮し 牡丹江憲兵分隊に急行せよ 到着 の上は分隊長の指示に従え」であった 大尉の説明に依ると 戦火の 急迫しつつある現在 分隊では管内の軍事警察 治安維持等に兵員の 不足(ソ軍侵寇の為 転勤赴任者の遅滞続出)の為 応援憲兵の派遣 を要請して来たとの事であった 早速分隊から出迎えのトラックに乗り 分隊に到着して申告をしやうと思ったら 分隊長は特別警備隊に出張中との 事にて 先任准尉に申告した 准尉は「やー御苦労です 事情は既に ご承知の事と思います 早速ですが広瀬曹長を班長として 牡丹江駅 取締り をお願いします 補助憲兵(一等兵)4名を増加します 停車場司令 駅長には電話で通報済みです 詰切り勤務を願いますので 報告は 電話で結構です」との事であった 再び駅まで運んでもらった
着いて見ると駅は大混乱であった 駅構内は清掃どころではなかった のであらう 到る処足の踏み場も無い様な 紙屑 トランク 風呂敷包み 布団袋 その他等まで 放置散乱されてあった 多分避難民が 持ち切れずに 放棄して仕舞ったものと思はれた 其れ等を持ち去らう とする満人も群れてゐた これ以上為す術を失った様な疲労困憊 その極に達した 避難民達の空虚な眼な差し これと引き代えに血走った 様相の必死を覚悟した様な人達 罵声 怒声 のざわめき等々の 何れを見ても 天災 地変 直後の如き 混乱であった 構内に放置されて 居る品々を持ち去らんとする 窃盗現行犯任を見付けて「不行小偸児 (ブシン シャオトゥル 駄目だ泥棒の意)と怒鳴り付けると 直ぐ逃げるが 私達の去るのを認めると 再び様子を窺っては持ち去らう とする 現行犯ではあるが この事に長く拘はって居る余裕は無い 駅は刻々 混乱の度を増すばかりである 牡丹江 牡丹江まで行けば との思いで 避難して来る邦人 南下 北上 西から東から 不定時に到着する 避難民を 寿司詰めにした列車 その殆が 有蓋無蓋 の貨物列車である 私が駅取締り勤務中 現認した最も悲惨な 邦人避難民の例を 3例挙げて記し
東部国境地域から命からがら 一段の邦人避難民を乗せた 貨物列車が駅に到着した 見れば 何れの貨車もソ聯機の機上掃射 を受けたと思はれる弾痕がはっきりと認められ 側板が 破壞されて居た 車中で死亡したと認められる死者は無蓋貨車に 移し代えられ アンペラを被せてあった アンペラを上げて検べて 見ると遺体は5体であったと思う 其れ等の遺体の眼、鼻、口等には 既に蛆が涌いて居た 避難行の最中に空襲を受けて 緊急退避の 為に非常停車した際に 採取したのであらうか 一見詰まらない雑草に 類する草花が数本づつ 遺体の枕元に供えられてあった あの混乱 時に於ても未だ温かい人情の血が生存避難邦人にあるのを見て心 慰さめられるものを感じた
避難邦人の引卆者から「既に空襲に依り死亡した人の遺児を此処まで 連れて来たので憲兵に引取ってもらい保護をして欲しい」との申出が あった 親を亡くした遺児達は泣く元気も失せて貨車の片隅で寝て 居た 彼等の申出はもっともであった あの最たる窮状下にあって己が身 と家族の心配で精一杯である 他人の子まで面倒を見る事は 不可能 な状況であった 私は此の申出に数瞬戸惑った 憲兵は最下級の 一上等兵に到るまで職務遂行上 単独勤務が多い関係上 一々上司 上官の指揮を仰ぐ暇が無い場合が多い その為に独断専攻を教育 された そして其の結果生ずる責を負う事になって居た だが他の事 とは違って遺児の引取り申出に どう対処すべきか迷った 随伴の 補助憲兵を憲兵詰所に戻る広瀬曹長に急報し 併せて満警詰所 の警官に通報させる為に 走らせた 広瀬曹長が走って来た 広瀬 曹長も彼等の申出を尤もなりとして 満警詰所の警官に移牒せんと したが 満警詰所には警官不在(ソ軍侵寇と同時に鮮満系警官 等の無断欠勤 逃亡等相つぎ 警官不足に依る)の為 満警に電話 通報し 死体の処置 遺児の保護方を申し入れた 1時間も経た頃に 日系警官が来着し それ等を移牒した
又 此の貨物列車の別の貨車では 避難行中 ソ聯機の襲撃を 受けた際の衝撃で身重の婦人3名が貨車の中で 分娩予定日 以前に も拘らず 早産して居た その内1児は分娩後間も無く死亡 あとの2 児は生はあったが母親が襲撃の恐怖の余り母乳が止まり 他の 婦人の乳で何とか生命を保って居たが 炎暑 母乳不足 非衛生 等の環境下に在って何れも死亡 そして3名の産婦は 死児を抱いて 居た 群がる蝿を追い払って居た 前には無蓋貨車に放り出され 3様にして仏になって居た 遺体を現認し 今 又この悲惨な 3婦人 仏になった嬰児を眼の当りに見ては 勤務中は如何なる場合に在っても 喜怒哀楽の感情を抑制すべき事を厳しく教育されては居たのであるが 哀感を抑える術も無く涙があふれ出た
再度 広瀬曹長の指揮を 仰ぐべく補助憲兵を走らせた やがて此の被災者達も満警に依って 保護された 聞けば之等の人々は 梨樹鎮 八面通附近からの 人達であった 着のみ着の侭 中には寝間着姿の人達 取るものも取り敢ず の姿で駅に集合を急遽命ぜられ 俄仕立の 避難列車(貨車)に飛び乗っての避難行であった 貯金払戻しは 勿論の事 食糧 着代えも その準備は不充分であった 忽の内に生活に困窮した 彼等の窮状は1刻の猶予も疎かする訳には 行かぬものであった
広瀬曹長は単身分隊に急行 その救恤方を分隊 長に意見開陳した この意見は採用され 分隊先任准尉と広瀬曹長は 陸軍各廠に交渉し 邦人避難民救恤の為 軍物資の緊急放出を 要請した だが此の様な非常の際にも拘らず 上級指揮官の命令を 云々して出庫を拒んだ 分隊付先任准尉は「邦人保護は 関東軍の 任務の内」を強く迫り 全責任は分隊長が負うと言う事で 各廠長を 納得させ 各廠のトラックに 食糧 被服 等を満載し 駅に輸送 した 駅長の諒解も何のその 貨物用引込線に独断でトラックを 乗り入れさせ 各貨車に それ等の物資を直接卸下して 分配したので ある 残余の物資は次の避難列車に備え 引込線構内のレール の脇に卸下集積した 補助憲兵1名を監視に当らせた これに依って 相当人数の避難邦人を 一時的とは言え 救済出来た事は 事実で あった それにしても憲兵の一下士官の独断強行措置は広瀬曹長 が支那事変3年間の野戦憲兵従軍の経験から来る離れ業ではなかった かと思はれる
私は交代で詰所で食事中 駅員が走り込んで来た 告げる処は 「駅待合所で避難列車を待ち合はせて居た邦人中の1婦人が自分の 子供を小刀で喉を刺して殺して仕舞った 直ぐに来て下さい」との事で あった 私は直ちに「満警詰所に知らせろ」と告げたが 駅員は「昨日 から誰も来て居ないし 鉄路警護団は憲兵さんに知らせろと言うので」 と言って立ち去った (鉄路警護団も手足となって勤務する下士官 兵の 階級に在る鮮満系は満警同様に ソ聯軍侵寇と共に無断欠勤 又 は職場放棄に依り著しい警察力の低下を来たして居た) 私は直ちに 勤務中の広瀬曹長の指揮を仰ぐべく補助憲兵を走らせた 私は待合所に 急行した 間も無く広瀬曹長も馳せ着けた
待合所に居た人達は殆どが 兇行を見て立去って居た 見れば現場の床と母親の衣服 顔 手 等は 専決に塗れて染まって居た 凄惨極まる状景であった 其の若い母親 の挙措から見て完全に精神錯乱の昂じて発狂して居ると見た 万一に 備えて携帯したであらう護身用の20cm足らずの白鞘入りの短刀を 左手に握り 殺した我が子を両膝に抱いて 床に座った侭 方針状態 であった 此の様な時には 相手を興奮させる事は禁物だ
広瀬曹長が静かに若い母親に近寄って 撫める様にして 短刀を捥ぎ 取った そして更に撫める様にして 死児を取り上げ様としたが 両腕で シッカリ と抱き止め離そうとはしなかった 婦人は急に悲愴 な声を上げて泣き出した そして腸から滲み出る様な 悲鳴にも似た様な 声で子の名を呼んで「御免ね 御免ね」と死児に詫びた そして泣き 伏した その際に曹長の目配せに依り私は死児を取り上げた その瞬間 その母親は屹然として起ち上り「憲兵さん私の子をどうするのですか 子供は 私の子です 私が始末しますから どうぞ お引取下さい」と言って 死児の 返還を迫って私に近寄った 若い母親は色白で育ちの良さを想はせる 様な品のある顔立ちであったが それ丈に 白昼の夜叉を感じさせる が如き悽愴さの記憶が未だに 印象に強く残る 私も異常な昂奮 をして居たのであらう 当時は気味悪くは感じなかった
補助憲兵2名 が母親を両脇から制止した 母親は補助憲兵2名を付けて 憲兵詰所 を緊急措置として代用留置所として留置した 死児は駅の仮眠室 と覚しき部屋に仮安置した 駅長(日系)の配慮に依って ローソクが 灯され線香をも薫かれた 私は血で汚れた手を洗い 戦火の中に 異常な最期を遂げた薄命の仏に線香を手向けて瞑目合掌した 広瀬曹長と私は待合所や構内に居た邦人避難民たちに 大声で 母親の家族 親戚 知人 友人等の有無を訊ね廻ったが 誰も名乗り を上げる者は居なかった
仮令居たとしても 皆自分達の事で 精一杯 だ 殺人犯に拘はり合う事を避けたのかも知れぬ 若しさうだと したら 幾ら異常な戦火の下に在るとしても 余りにも無情非常だと 感じた だが 此の兇行に及んだ母親を含めて それ等の者を責める 事はあの様な情況下に在っては 仮令 神仏と雖も 之を責め拔く事 は出来なかったらうと信ずる やがて急報に依り 馳せ着けた 満警(日系)に母親と仏を移牒した
私は此の駅取締勤務中 穆棱在満国民学校に奉職中の教師 小島(旧姓 多田)幸子先生の消息が頻りに気懸であった その方面 から避難して来る列車の邦人等に尋ねて見たが 遂に分らず仕舞 であった 途中無事避難して呉れる事を唯々祈るばかりで あった
この日の牡丹江駅には 引込線までにも何本もの避難邦人を乗せた貨車で 埋まって居た 其の内の1本の列車が これから駅を発ち 哈爾浜方面に向う 事になって居た 1刻も早く列車に乗らうとする邦人避難民が混雑し 収拾の付か無い程に 喧噪を極めてゐた 夫を妻を子を そして親を呼ぶ声 車窓から乗り込む者 連結器上に危険を犯して乗る 者 炭水車に乗る者 機関車の前面に乗る者 全員が1刻も早く安全と 思はれる方面に脱出する様は 悲愴等と言える様な生易いものでは 無かった
命からがら国境方面から避難して来た その邦人達は関東軍の 保護 救援 救出 等の策は何等為されなかったと同然であった 軍に対する怨嗟の声は 駅取締中の我々憲兵に 公然と投げ付け られた 憲兵は心で詫びて 唯々 聞き流すより他に為す術は 無かった
その様な時に 避難民の引卆者と思はれる数名の人達が 私の処え走り寄って来た 彼等は「折角 避難列車に乗って 一安心した処に多勢の兵隊さん達に依って 我々は無理槍に下車 させられて 其の兵隊さん達が乗って仕舞った 老幼婦女子の多い 我々は困ってゐます 何とかして下さい」との訴えであった 私は早速 その人達に案内させて 其の列車に馳せ着いて見ると 珍しくも客車 を連結した列車である 成る程 少数の避難邦人も乗ってはゐたが 多数の現役兵と思はれる 若い兵達が席に腰を下ろして(他の車輌 には立錐の余地も無い程に ギュウギュウ詰であった)居た
其の兵隊達 は帯剣こそ吊っては居たが 兵器と名の付くものは それ丈であり 全員一装用 と思はれる新品の軍服 その他の被服を身に付けてゐた 網棚には雑嚢 背負袋 毛布等のどれを見ても新品ばかりであり 嚢や袋等の内容は 不明 であるが一杯に脹らんで居た 此の一群の兵達は 上官の指揮を放れ 完全に遊兵化した 敵前逃亡犯達であると直感した
私は通路の扉を 開らかうとしたが 内鍵が掛けられてあって 開かなかった 強くノック すると扉の直ぐ側に居た兵が鍵を外した 私は車内に這入り「指揮者は 誰か」を訊ねた 直ぐに見習士官が「俺だ」と名乗り上げた 先ず 見習士官の官等級 氏名 所属 等を訊ねた それには答えた 憲兵手牒 に記録した
次に これからの行先 任務 任務があるからには 命令発令者 の所属官等級 氏名 を訊ねたが 答えは一向に要領を得なかった 私は当時の情況からして 異常なばかりに 昂奮して居たと思ふ いきなり 「貴様等は遊兵化した離隊兵だな 敵前逃亡兵と断定する 直ちに 全員下車」を促した 見習士官は 反抗的で容易に下車しやうとしない 私は更に「敵前逃亡は軍法会議で死刑だぞ 直ちに下車の上 最寄り 部隊に出頭 最上級指揮官に申告しろ」と強行に促した それでも 躊躇したので 違法は承知の上で情況上止むを得ず 見習士官に拳銃を 突き着け 下車を強制した 続いて車窓より上空に向けて拳銃の威嚇発射 をした 兵達は見習士官よりも早く下車を開始した 見習士官は仕方 なささうに下車したが
私に向って最寄りの部隊は どこに在るかを 尋ねたので 牡丹江駅駐在の停車場司令部を指定した 件の見習士官 に依って下車させられた 避難民は礼を述べ乍ら 乗車を開始した 此の様子を見て居た 駅助役は「今の様にして 割り込む兵隊さんが居て 困って居ます これからも宜敷くお願いします」と言ってゐた 乗車が 終ると間も無く 気の勢か悲しげな汽笛を鳴らして列車は発車した 威嚇射撃は 避難邦人に対する せめてもの保護 救済の役に立った ものとして自己満足した
憲兵は対敵行動以外の警察勤務中の兵器使用(拳銃発射 抜刀) には厳しい制限が加えられており 万一使用した場合は使用せざるを 得なかった現場の情況を詳細に記録して 所属帳を経て 最高級司令官 (満洲では 関東軍総司令官)へ都度 報告を義務付けされて居た 私は早速詰所に走り 広瀬曹長に 其の旨を報告した 曹長は「此の様な 情況下だ 少々の行き過ぎは止むを得ん 但しこれからもある事だ 過剰行為に陥る事無き様 自重自戒せよ」として注意を受けた
此の日の夕刻に到って 分隊から交替要員が到着し 広瀬曹長 以下の私達は分隊に帰隊した 帰隊申告が終ると 先任准尉から 特務機関復帰を告げられ 特機に戻った 僅かに 27.8時間位の分隊えの応援勤務ではあったが 迫り来る戦火を 避難する邦人を目の当りに現認し 惨状の異常さを知った 私の記憶は 今だに 年に数囘 夢に見る事である
特務機関復帰以来 終戦に到る間の朧気なる記憶を辿って 以下、記すよりは 私が復員後 ラジオ「尋ね人」に據って 消息の 判明した人の内 清水 勇(元 石頭憲兵派遣隊 班長〜曹長)氏 に宛てた書翰(清水勇氏〜昭和38年1月6日病没〜昭和59年10月 初旬 故人の墓参をした際 それまで大事に保存をして居てくださった 未亡人より拝借したもの)を 一部省略して記した方が 良しと判断し 記す事にしたい
「前文省略 ・・・・ 先ず終戦前後の模様をお知らせし度いと存じます 特警要員として牡丹江特機に転属(この内には 親交深し 三浦芳明 金田春実等の2君がりました) 編成完結寸前にソ軍侵寇となり 集まった者だけで行動開始を致しました 私達は戦務班員として 元勃利隊長? の荒木少佐を班長として 私服勤務を致し 此の勤務に当たり 満服は石頭隊閉鎖の際 三浦君と共謀して員数外を作り出し かくして 置いたものです 今だから口外いたします あれでも牡丹江には4日位? 居たと思います 開戦何日目かに 掖河隊に居た 確か?岩出曹長だった と思いますが2人で情報蒐集を命ぜられ 興隆に行き ズウズウ しくも1晩 会館前の慰安所で遊んで仕舞い 次の日 帰えり 荒木少佐と 元海林隊長? の須田准尉とに散々叱られ 不忠者扱いをされて 仕舞いました」
記 〜 此の情報蒐集に際して 岩出曹長は「俺の支那事変に野戦 憲兵隊員として従軍の経験と大量の精鋭部隊等の管外移動の 結果からして もう日本は完全に敗けた 鮮満人等の 日本軍に対する蔑視振りからしても良く解る筈だ 情報蒐集 して何の役に立つ 命令も糞もあるものか 今夜は興隆に 泊って 明日帰えらう」と言った 寧安分隊から 特機に 転属になった 金田 三浦 の両君とも離れ離れになった 現在 正直の処 寄せ集め部隊化してしまった 特機では 広瀬曹長丈が頼りになる人であった 後退する部隊に あっては やる気はうすれかけ始めてゐたのも手伝って岩出 曹長の言に從って 興隆で一泊する事にした 適当な場所 も無いので 会館前の慰安所を宿にしたのである 処が 宿には主人と慰安婦1名の計2名が居残る丈であとの 慰安婦はソ軍の侵寇に依り 逸早く姿を消して居た 結局 その晩は遊ぶと言っても 私達2名と主人と慰安婦 4名で酒を飲み明かして仕舞ひ 遊女と同衾出来る 様な気分にはなれるものでは無かった
「其の内 牡丹江空襲も頻繁となり 拉古から海林へと後退 此の海林では徹底的な空襲を受けて爆死の寸前を彷徨いたしました 海林滞在中 附近の海南村に鮮系の ソ聯武装空挺蝶者降下の 報に依り直ちに 元 海林隊付軍曹(太った笑顔の 面白い人)を長として 兵1ヶ分隊(補助憲兵)の応援を得て 該村に到りましたが 墜傷(後自決)者1名を収容して引き揚げて 参りました 此の時 三浦君は 私に行くのを引き止めて呉れましたが 私は押し切って行きました 此の為 大事な公私物梱包を 留守の間に爆撃に依って焼失してしまひました 此処で 三浦君は個人炊事を引き受けて 私達グループの炊事をして 呉れました
いよいよ死ぬ時が来たと言うので 憲兵連中全員 軍郵跡に寄り合って 飲めや喰えや唱えやの大騒ぎと一晩 演じてしまひ 特に海林隊付だった 山本軍曹?は 種々 工作をめぐらせ 物資(主に酒と支那料理)をかき集め ずい分 乱暴な真似をしたので 他部隊より にらまれて しまひました 其の内 海林も あやふくなって来たので 横道河子に退却 ここで一泊しました 海林から此処まで終日徒歩でしたので 皆伸びてしまひました 此処で一泊して次の日爆撃は一段と 熾烈になって 横道河子 特機も危険に瀕したのです 此の日 普段から 荒木少佐に点数の無かった者 5名 葦河に向けて 先発 を命ぜられ 先発して葦河附近の情報蒐集を命ぜられました
私達はこの時ばかり喜んで先発したのです 今思えば 此の時が三浦君や金田さんに最後の別れとなって しまったのです
出発した日に山中で爆撃を受け 相当数の戦死傷者 それに 自動車等の被弾 焼失等 被害甚大で ここでも死の寸前でした 其れでも其の晩は 被弾を免かれた 特機の自動車に乗り 間道 (横道河子トンネルの側)手前の山中で一泊いたしました 此の山中 では戦死者の通夜を各部隊とも致し 何んだか気味悪く まんじりとも出来ませんでした 其の上 しとしとと雨さえ降ってゐました」
註〜特機転属以来常に行動を共にし 下級者の私を懇切に 指導教育して呉れた 広瀬曹長は 此の日 ソ軍戦闘機の 機上掃射の一弾を頭部に被弾し壮烈なる戦死を遂げた 直ちに駆け寄って介抱したが 致命傷の為に 如何ともする事も出来なかった 私の知る限りでは 特機に 於ける戦死第一号であった 後退中の他部隊の軍医に 死亡を確認してもらった 後遺体は特機の自動車に収容し 曹長の右手小指を御遺骨とする為に 軍医官は切断をした 私は立会を軍医官から要請されたが見るに耐えず 御遺体の側で 瞑目した侭 合掌を続けた 其の晩濡れた枯木を集め 拾った携帯燃料で 大量の燠火を造り 荼毘に付した 御遺骨は 広瀬曹長 御遺品の将用飯盒に収め私が捧持した
話〜 P.272で記した落下傘蝶者に就いて触れる
海林滞在中の武装蝶者降下の報は 海林駐在の満警より報ぜられ たものであり 藤田大尉から次の命令を受けた
「今までの情報に依れば 寧安県地方の開拓団や鮮満人部落に 落下傘降下蝶者頻繁であり 海南村に降下の蝶者も之等と 連繋したものと判断される ソ聯が1時期に多数の蝶者を 大胆にも空挺せしめた事は 重大時機近迫の前徴である 満警からの報告に依れば 降下に際し 墜死 又は 墜傷との 事であるが 万全を期する為 近在の部隊に要請し 補助 憲兵1ヶ分隊の分遣協力を得た
此の際 此の附近の 地理に明るい軍曹(氏名忘却)を捜索班長として 中倉 兵長 及び 補助憲兵1ヶ分隊を指揮して 現場に急行せよ 現地までの案内は満警が之に当たる 此の際 捜索班長 は満警警察官を1時 区処すべし」を下令した 捜索 班一行はトラックに乗り 現場に急行した 現場に到着して見ると 住民を武諜より保護する為に 満警1ヶ分隊が 警戒に 当って居た
直ぐ近くの高粱畑を見ると開傘した落下傘が 高粱の先端部に掛かって一部の高粱が半分程 薙ぎ倒された 様になって居た そして其の中に 武諜が重傷なのか 或いは絶命したのかは分らぬが 居るとのことを 警戒に当って居た警官から知らされた 満人屯長(部落長) の話に依れば (満警の通訳に依る) 今朝早く犬が頻りに 鳴くので表に出て見ると 高粱畑に白い大きな布が掛って 高粱が折れたり 倒れたりして居たので 部落の者達に 急いで知らせた処 部落の者の話では 日本軍の落下傘 だと言う事になり 日本兵が居るらしい 負傷して居るらしい との事で早速 救助する事にして 近寄った処 急に銃砲で 撃たれ 2名の者が軽傷したので 治療の為 牡丹江 まで下げた そして警察に知らせた との事であった
知らせを受けた 満警は落下傘蝶者と断定したが 此の件は 日本憲兵隊の所管なりとして 丁度附近に憲兵が 居たので 私達の特警に急報したとの事であった
捜索班長は「明らかに落下傘蝶者」と判断した 班長は 現場で警戒中の満警をも併せて指揮を執る事を 満警に承諾してもらった そして全員を以て 武諜の 居る場所附近一円に匍匐散開を命じた そして命令 無く発砲を一切厳禁する事を併せて命じた 班長は 通信紙を丸めた急拵らえのメガホーンで 日本語を以て 「落下傘降下の兵隊 兵器を捨てて出て来い」と三度 大音声で呼び掛けたが 応答は無かった 次いで露語 (露語に堪能な人であった)を以て同様呼び掛けたが 同様であった 次に満警の1名に満語を以て同様に呼び掛けさせたが 応答無し 次に鮮語の出来る満警に同様にして 呼び掛けさせたが之も同様 応答は遂に無かった
捜索班長は 私を手招きして呼び寄せた 「補助憲兵の分隊長 に威嚇射撃を命ずる様伝えて呉れ」との事であった 私は 分隊長の側に匍匐して近寄り 兵3名に 同時に上空に向けて 威嚇射撃をする様 班長の命を伝えた 分隊長(下士勤兵長 氏名忘却)は近くに居た部下3名を指名して 上空に向けての 射撃姿勢を命じた 私は分隊長の傍に居て 班長の射撃命令を 待った 程なく班長の射撃を命ずる 引鉄を引く合図があった 私は分隊長に 其の事を知らせた 途端分隊長の 「撃て」の声があり 一斉に発射された それでも 一向に武諜の 応答は無かった
班長は私を呼び寄せた 班長は 「武諜は例え重傷の身であっても逮捕連行を希望して居るが それには 一斉突撃進入が効果的ではあるが 応援の補助 憲兵や警官等に例え軽傷と雖も 被害があってはならない 此の際 班長1名が 武諜逮捕に向かふ 中倉は直接援護の 指揮を執れ 私は補助憲兵分隊長は下士勤であり 満警上級者は 之も階級上 私よりも 上級職と思はれるので 私が指揮を執る事の是非を意見具申した だが班長は 「此の際の主導は憲兵が執る」と言って以後の指揮は私が 執る事を大音声を以て 全員に伝えた
其の時 高粱畑 の中から拳銃の発射音と共に ウメキ声が挙った 自決 であると直感した 班長は「全員突撃突込め」を命じた 一斉に高粱をかき分けて 現場に突込んだ 武諜は喉に拳銃を当て脳天めがけて発射 見事な 最後を遂げて居た 敵乍らも天晴れであった 班長 と警官上級者(日系)が検死(瞳孔 脈拍 睾丸)した が完全に事切れてゐた 「生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケス」の訓 は彼等にも徹底してゐたのである 班長はその場で 各自携帯の小銃 拳銃 等の「弾丸抜け」を命じた そして「ソ聯殉国勇士え捧げ銃」の礼を贈った 帯刀者は 「捧げ刀」の礼を贈った 終ってから遺体 遺留物を 畑から運び出し 改めてそれ等を検証した
当時の詳しい記憶は忘却したが 次の事だけは鮮明 である
等々である
武諜を眼前にして逮捕(生け捕り)出来なかった事は かえす がえすも遺憾千万な事であった 生け捕り不能であった為に 得る処は皆無と同一であった
「明けて次の日 自動車で行くのは 危険との事で 鉄道レールを徒歩で 葦河を指して行きました 此の日 珍らしく敵機朝から姿見せず 皆でスターリンの定休日だ等と言っておりましたが 今思えば 此の日が終戦の日だったのです 敵機の来ないのも当り前です でもその時は誰も終戦を知りませんでした 途中で満鉄社員の 避難民から停戦らしいとの事を耳にしたので「貴様等は すっかりデマに掛かって仕舞った ケシカラン奴だとしてずい分 に気合を掛けてやりました
段々に葦河近くなって 山の上から 今来た方を見ると 見馴れぬ トラックが何台も大砲の様なものを牽して走るのが見えたので 不審 に思ひ 双眼鏡で偵察すると 増々不審になって来ました 誰かが 新鋭皇軍部隊だと言ひ出したので 皆ああ さうかと言って 安心してしまひました でも何だか不安です
葦河近くになって 他部隊の兵の1人が 「昨夜俺は露兵を 握手したとか 莨を露助にやった」とか 或ひは 開拓団の人が 「日本は敗けたのだ 昨日のラジオで放送された」とか言ひましたので 夢では無いかと 皆 疑ぐり出しました 其の内に葦河の街に這入った 処が 既に 露兵が這入り込んで居て 満人達は 皆 晴天白日旗や 紅旗を持って 露兵を歓迎してゐました 此の時は 皆んな もう駄目だと あきらめてしまひましたが 一向に露兵は 我々に 手向ひしないので いよいよ 不安になりました
葦河に着く前 ヤブロニで1泊 悠々と無人(避難して留守)の 宿に泊りました そして満警(鮮系警官)に命じて情報を提出させたり 夕飯を出させたりしました 良くもあんな大胆な事をしたものと 後で 我乍ら びっくりしました 葦河を出発後は 降雨続きに出合い ビショ濡れとなって 一面坡の手前の九江包に辿り着き 此処の 駅で鮮系駅長の夕飯の御馳走にあり付きました 此の駅を夜10時頃 鉄道隊の機関車に便乗して一面坡に到り 此処の電々に行き 横道河子に連絡をとる予定だったのです
電々(満洲電信電話株式会社〜特殊法人)に行って見ますと 既に横道河子より 自動車で直行した連中が来て居りました 此処で武装解除の用意を する様にと言はれました 持って居た兵器と言っても拳銃と95式 軍刀 それに途中で拾った鞘無しの日本刀だけでした
此処に着くや直ちに憲兵関係名簿と兵器明細簿の作製をやらせ られました 着いた次の夜 就寝して間も無く電々は露兵10名程の 掠奪を受け殺された者 2名を出しました 憲兵は直ちに集合して 命令あり次第 駅に集合する様 命令されたので 愈々 殺されるの だと感じてしまひました 併しその後 何の命令も無かったので 事無く済みました
次の日 一面坡 独立歩兵大隊兵舎に移り後に 輜重隊 厩舎に入り 内務班を作りました 此処では憲兵だけで1ヶ中隊を作りました そして面部隊といたしました 此処で或る日 高橋曹長?(綏芬河 或いは老黒山方面から来た憲兵)が 日直下士官に就き 私が日直 上等兵に就いてゐた時 此の曹長と フトした事から 口論を起して しまひ 此処でも員数外にされて 軍属班に私1人追いやられ 同期生とも別々にされたのです そこで こんな時 班長殿(清水 勇氏のこと)さえ居たら こんな事にならずに済むのにと思ひ 口惜しかったのです 此処では毎日の様に 倉庫(陸軍倉庫)に侵入しては 酒を持って来ては軍属と共に自棄酒を飲みました 以下省略」
註〜昭和16年12月8日 大東亜戦争開戦と共に マレー半島 に敵前 上陸し快進撃を続けた 翌17年2月15日シンガポールを 攻略占領した「マレーの虎」と称賛された 第25軍司令官 山下 奉文 中將は 英軍敗将パーシバルから 彼の愛用した 乗用車を贈られた 後日 山下将軍は第1方面軍(関東軍隷下)司令官として 満洲に赴任した際 パーシバル将軍から贈られた乗用車 を満洲に輸送し使用してゐた 山下将軍は 後日 更に 敗色濃厚な比島派遣軍司令官として 転任したが 転任に当って パーシバルから贈られた その乗用車を 牡丹江憲兵隊(本部)長 望月政吉 憲兵大佐に 在任中の警衛に対する謝意として贈った
後退中 牡丹江隊長が使用したのであらう ソ軍機の 爆撃に遇い ヤブロニの山中の道路上に炎上被災した その乗用車が放置されてあったのを見た
註〜ソ聯兵の掠奪を受けた際 2名射殺の経緯は 夜分掠奪に侵入したソ聯兵等は 時計 万年筆 等を 強盗せんが為であった 此の時 部屋の入口近くに 就寝中の憲兵軍曹(氏名 出身分隊ともに忘却 露語堪能) が応待し 自分の所有する 時計 万年筆 等を 渡して 帰える様 ソ聯兵に要請した だが彼等は その数量では満足せず 更に他の日本兵に要求した 此の時 1人の憲兵曹長(氏名 出身分隊名ともに忘却 露語堪能)が ソ聯兵に向って 「貴様等は 軍人か 強盗か どちらだ」と詰め寄ったのである 此の時 ソ聯掠奪兵は 通称マンドリンなる連発銃を 発射し 上記の2名の憲兵(曹長、軍曹各1)を射殺して 逃走したのであった
以上の犯行をソ聯憲兵に訴えたが 遺憾乍ら誠意ある 囘答に接せず 遺体は電々の庭の一隅に 埋葬して 冥福を祈ったのである
ソ聯掠奪兵との やりとりの内容は 他に同室した 露語に明るい 憲兵の談であった 敗軍の一下士官と 雖も「貴様等は軍人か 強盗か どちらだ」と勝軍の兵に 詰寄った その毅然たる行動が最悪の事態を招く 結果になったとは言え 真に勇気ある態度であったと 私は今以て銘肝してゐる それにしても敗兵とは 情無いものであった
註〜 私が軍属班に追放された経緯は
高橋曹長(氏名の記憶 朧なり)が 日直下士官に就き 私が日直上等兵に就いた時の事である 曹長は 朝から部屋で飲酒し 泥酔の状態であった 日直の件 何を相談に行っても 明解な囘答を得られず 止む無く 私なりに独断で事を処理した その事に難題を付けて来た ので 私は「勤務中の飲酒は慎んでもらい度い 監軍護法は 憲兵の信條だ 敗戦とは言え 日本軍人の誇りは失なは 無いで欲しい」と生意気な 忠告を発した事から 更に 故 広瀬曹長の御遺骨を 高橋曹長の手違いから 電々に置いた侭にして来た事を追求した 『広瀬曹長の 御遺骨は私が 日本に捧持して御遺族に お届けする 〜 (此の時点では未だ シベリヤ抑留の事は予想もして ゐなかった)事にしてゐたのであるが 他の戦死者の 御遺骨と一括して 別に宰領官を指名して 日本に送還する との事であったので 止む無く それに従った ソ聯軍との 交渉で 高橋曹長の多忙なのは諒解出来たが 戦死者の 御遺骨を高橋曹長のミスから電々に放置した侭にした 事の責任は大であった 早速 ソ聯軍に その事を 交渉したが 全然相手にして呉れず 仕舞ひであった
先々は荒木少佐の心証を害し 今また高橋曹長の 怒りをかって 懲罰の意味で憲兵の中で私1人が軍属班に 追放された 自棄を起こした 私は数名の軍属を 扇動しては 作業拒否を行ない 毎日の様に 陸軍倉庫に 突撃しては 日本酒 ビール(一面坡には サッポロビールの 子会社のハルピンビールの工場があった)ので ビールも多量に勝手に持ち出して 飲みまくった 不思議な事に 倉庫監守の露助歩哨は 日本酒、ビール の持ち出しは黙認した それ以外の物にはうるさかった
憲兵拝命以来 特務情報を綜合するに 日本に不利な情報に 間々接しては来たが よもや敗戦と言う事は予想だにしてゐなかった それが現実のものとなり 帯刀本分者「武士の魂」とまで言はれて 居た 腰の軍刀を含む總ての兵器の武装解除の汚名を浴びる 等 到底 耐え難いものであった 「此の俺は何の為に歓呼の声に 送られて 故郷の駅を勇躍出発したのか 軍人とは 憲兵とは 何であったのか 日本男児と生れ来て 一度は軍人となって 国家に 御奉公することこそ 男児の名誉であり 本懐也と教えられ その様に信じてゐたのであるが 等々 想いを巡らせては 自問して見たが 愚鈍な私の頭脳からは明解な自答は引き出せ なかった その途端 俄かに説明し難い虚脱感に襲はれ 何をする 気も 一度に失せた そして時が経つに從って自暴自棄にも似た 感情に支配される様になった 否々 と否定して見ても 抑制する 気持ちは 一向に湧かなかった 馬糞臭い厩舎に収容されて 居乍らも 夜寝床代りの寝藁の上に寝て想い出すのは 両親 姉 弟妹 恩師 黒崎先生 学友 等や 4392部隊の同年兵 教習隊 石頭時代の上官 戦友等々の事などが 次から次えと 現れては消え 消えては更に現れたのであった 其の様な囘想 が乱れ切った 私の心を僅か乍らも序々に 平静化するのに役立った 事は確かな様であった
停戦ならばまだしも 日本軍が敗戦の上 更に武装解除される事には 何としてもやり切れぬものがあった 私は武装解除に先立ち 自分の 軍刀を抜き独歩営庭の置石に何囘も刀を叩き付けては刃をボロボロ にした そして鞘の中に携帯口塩を細かく潰して入れ 再び軍刀として の使用を不能にした 又 拳銃は分解の上 同様 塩をまぶして 発錆を誘い 銃腔に 褌の前垂れの布を引き削いて 此れにも食塩をまぶして固く詰め込んだ その上で武装解除の為に 営庭の定められた場所に差出した 拳銃弾と憲兵徽章 認識票等は 独歩裏を流れて居た 小川の中程の流れの深みに投げ棄てた 憲兵腕章 憲兵手牒 私物 日誌等は 独歩炊事場で焼却処分した それが私になし得た 武装解除に対する 精一杯の悲しい 抵抗であった
昭和19年3月10日 旭川北部第5部隊(捜索第7聯隊) 入隊以来満1年5ヶ月15日 帝國軍人としての余りにも 短い 栄光は将に「槿花一朝の夢」にも似たる儚いドラマは敗戦 と言う終幕に據って完全に消え失せた
完
追記〜 私の生年月日は 大正11年12月8日であり 大東亜戦争 開戦日は 昭和16年12月8日である
そして現役兵として旭川北部第5部隊入営日は 昭和19年 3月10日であり 関東憲兵隊教習隊卆業は 昭和20年 3月10日であり 共に陸軍記念日(明治38年3月10日 日露戦争に際し 満洲奉天大会戦に於て 大捷した事を 記念する日)であった
12月8日 及び 3月10日は ともに日本にとって 大きな 出来事のあった日であると ともに 私にとっては 余りにも 勇し過ぎた因縁に付き纏はれて居た様な錯覚がし無い 訳では無い
従軍期間 及び 不名誉極まる虜囚の期間等を通じて 私が泌泌と 且 痛切に体得したものは 戦争と言う手段が如何に最愚の ものであるかを骨の髄に徹して熟知した事である
戦争とは豊かな人間性を喪失させ 獰猛な野獣性を扶植させる 丈である 他国の内政に干渉したり 進んで他国に武力集団を 推し進めたり 好んで挑戦するが如き悪夢の過去の轍を 再び歩んでは絶対にならない 従軍の功に依る勲章 記章 等 を胸間に誇らしげに燦めかせる様な時代の再到来は 実力を以て しても絶対に阻止せねばなら無い 憲法第9條は謹んで之を 遵守せねばならない 其の事は戦争を経験した者が最も良く熟知して ゐる筈である
日本は独立国家である 日本の主権は 日本人自身が断固として 守り抜かねばならない その為には 自衛力は絶対に必要欠くべからざる ものである その為の自衛隊である 此の思想は前記の旧時代 当時の軍隊とは全く異質のものである 自衛隊をして曾ての 軍隊の如き働きをさせてはならない
因みに 私の日記(昭和56年12月8日付)を引用する
「春告げば 咲いて給もれよ シベリヤ桜 戦友(トモ)の御墓(ミハカ)に 植えしその草」
過労と栄養失調に発疹チブスを併発して病の床(丸太を並べその上に 枯草を敷き詰めたもの)に伏した戦友が息を引きとる寸前に「日本 の土を踏んでから死にたい頼むから一緒に連れて帰えって呉れ シベリヤ の白樺の肥料に丈はなり度く無い」と蚊の鳴く様な かすかに 聞きとれる 悲しい言葉を残して亡くなりました その戦友を葬っては みたものの 墓前に供えてやる物は何も有りませんでした せめても の慰めに ソ聯兵の煙草の吸い殻を拾い集めたものを燻らせて焼香 の代りとし シベリヤ桜(オオサクラソウ〜一名ミヤマサクラソウ〜高山 植物〜サクラソウ科〜花の容姿がエゾ山桜に相似して可憐〜私達は 勝手にシベリヤ桜と命名してゐた)を沢山掘り取って墓の囘りに植え 供花の代りとしたのです 「今日は戦友の身 明日は我が身」を深く 己が胸中に秘めて未だその時の命の有った私達は泣き乍ら瞑目合掌 したのです 来年も春が訪ずれれば忘れずに咲いて凍土に眠る 戦友の霊を私達に代って慰めて呉れる事でせう 敗戦とは虜囚とは 此の様なものでした これが天皇の名の下に従軍し 敗軍の 兵となり虜囚となって落命した者に対する 唯一無二の代償であった のです」
以上が日記の全文です
昭和60年4月29日
中倉 鹿三
記
本書を纏めるに当たり前記した諸兄姉の御援助があったれば こそであるが 尚 下記の文献を参考とさせて頂いた事も 併せて記し 感謝の意を表し度い
以上