題名は、壞了士兵的 参軍囘憶記
私なりに満文式に綴って見ましたので、私なり和訳すれば 「駄目兵隊の従軍回想記」とでもなりますか。 とにかく、内容の貧弱さを題名で何とか偽装しようかとした苦肉の策であります
文中、誤字や当て字や脱字など、また句読点が無いので、 読みづらいことと思いますが、御辛抱の上、御判読ねがいます。 印刷謄写のボケも多々ありますが、ボケ老人の手仕事につき、御容赦願います。
人は夫々に家庭や四囲の環境などの如何によって、かつて経て来た 青春時代に多少の差こそあれ、その時代が正に人生を謳歌し得た 素晴らしい時代では無かったろうか。 僅かの人の例外はあるにしても、家庭維持の責任が無かった 長い社会生活の無経験に依る自由奔放さ、将来に対する怖さ知らず等々、 そこには大いなる夢を抱き、限り無い希望に燃えた、若い躍動に満ち満ちた 血潮が滾っていたに相違無い。
かつては遠く日清・日露の両役に戦勝した旭日隆昌の時代に生きた青年は 「乃公出でずんば蒼生を如何せん」との壮士風的気概に燃えたであろう。 大正から昭和の初期に掛けては所謂、大正デモクラシー時代に生きた青年は 欧米の自由主義思想の到来に刺戟され、旧弊思想打破に 青春を打ち込んだであろう。
昭和に到り、満州事変以降、殊に2.26事件 (昭和11年2月26日、皇道派青年将校のクーデター事件)、 引き続く昭和12年7月7日発生の支那事変などの硝煙の臭いに 麻痺された時代に少年期、青年期を迎へ、かつ送った私達の世代は、 戦争一辺倒に傾いた国防色一色の軍国思想に青春の血が躍動した 時代であった。 何とも勇ましくもあり、盲者蛇に怖じずの時代であった。
今にしてあの時代を或る者は暗黒の時代であったと謂う。 或る者は、民主主義時代到来への模索の時代であったと謂う。 また、或る者は亜細亜にあった欧米などの強国の植民地解放と独立に 手を差し伸べた、後世、世界史に燦然として残る時代であったとも謂う。
人によって、夫々の観方、考え方である。 甲を善として、乙を悪として(その反対もあり)、 それ等の論を批判する事も、また結構な事と思う。 だが、私はその硝煙の臭いを嗅ぎ乍ら、若かった青春時代を経て来た。 その時代の為政者の政治の在り方を此処に於いて論じようとは思わない。 その青春時代が私にとっては、 今の世(元禄時代以上の太平の世であり、享楽の度を超えた世)よりも、 より以上に素晴らしい時代であった。 衣食足らざるも、そこには厳然とした礼節思想が堅持されていた。 すべてに節度が有った。拝金主義は存在しなかった。 協同性に欠ける者は、世間が之を許さなかった。 マイホーム型(悪い意味に於いての)の個人主義思想は勿論なかった。
私は可成り早い時期から、その青春時代の体験の一部を記録したい 希望はあったが、復員後は生活に追われ、 心を落ち付けて記録を纏める余裕は無かった。 昭和57年12月8日は、虚しく歳月ばかりを重ねて来て仕舞ったが、 人並みに還暦を迎えた日であった。 私は母に私の生まれた時刻を尋ねて見たが、 80才を越えた老母の記憶はうすれていた。 無理からぬ事である。 多分夕食後の頃であったと云う事であった。 還暦を迎えた日の母の云った時刻頃を見計らって、此の原稿を書き出した。 書いては破り、書いては破りの連続で、何とか素稿らしいものの 出来上がったのは2ヶ年を経た後の事であった。
内容は、御判読頂ければ御理解される如く、 青春時代を過ごした軍隊生活のすべてである。 今の世代の若い人達には到底想像すらも及ばぬ事であろう。 厳しい軍律に規制された、女人禁制の男だけの相当以上に荒っぽい 社会である。 それが軍隊、或いは兵営と云う処であった。 そこでは、道理も理窟も絶対に罷り通る様な、生易しい処では無かった。 無理偏に殴打蹴と書く兵隊の園であった。 そこでは、個人プレーは絶対に許されなかった。 飽く迄も、集団協同の連帯性ある責任行動の教育の場であった。 その様な環境にあって辛苦を倶にした、特に同年兵 (入隊した年月日の同一の戦友)は、誰よりも最も信頼の出来る、 遠慮無用の誼が萌芽した。 それは現在に到るも連綿として続いている。
いざ記録を書き出しては見たが、そこには茫々40年に垂々とする 不帰の過去の事である。 あわせて脳細胞減少による老化現象の為、 記憶薄れと記憶の全く蘇がえら無い事が数多くあった。 タイムトンネルを抜け出る事は至難であった。 その為に、恩ある数々の元上官の氏名を忘却してしまったことである。 途中で幾度か筆を折ろうと思った。 その度に、戦友 佐藤 昌徳(初年兵時の同内務班の劣等兵仲間、現在札幌市白石区在住)君、 高橋 恒助(石頭憲兵派遣隊当時の上級戦友、旧姓 福田、 現在 秋田県 平鹿郡 増田町 在住)君、 清水 ハツノ(石頭憲兵派遣隊 班長 故 清水 勇氏 未亡人 現在 栃木県安蘇郡田沼町在住)氏、等々に励まされ、 そして書き上げたのが拙い此の記録である。
記して感謝の意を表する次第であります。
記録は正確なるを以て、その本来の主旨に在りとして、 その心算を以て記したが、余りにも遠い過去の出来事であり、 多少の誤記は必ずあると思う。 また、日常会話に不充分ながらも或る程度まで懸命に勉強した満語であったが、 終戦を境として今日に到るまで用いる機会に恵まれずにいる内に、 その殆どを忘却して仕舞った。 それでも40才位までは覚えていたにも拘らず、 老化の進んだ現在全く勉強しなかったと同様である事を何よりも悔いる。
従って、此の記事中に何ヶ所かの満語を記したが、当然誤りがある事と存じます。
以上の2点特に諒とされん事を希う。
この文中に登場した人物中、氏名を秘匿し単にY.Kの如くに イニシアルを用いたのは実名を明かす事により当人の名誉に 差し支わるとの配慮であって、他意は無い。
私は、昭和18年初夏、本籍地門別村(現門別町)に於いて実施された 徴兵検査の結果、甲種合格であった。 同年初冬、村役場村長室で、他の合格者と倶に、 門別村長 菊池 貞(故人)氏より現役兵証書を1人宛毎に伝達された。 此の証書には、昭和19年3月10日午前9時 北部第五部隊に入営すべし の旨が記入されていた丈で、特に在満要員の記入はされていなかった。 札幌聯隊区司令部書紀の記入漏れであったのか、 その辺の事情は不明であったが、後日入営した際に、 他の聯隊区出身者の証書には明確に在満要員の旨が押印されてあった。
村役場兵事係(後備役陸軍曹長、故人 近野左衛門氏)は、 「北部第五部隊と云えば、元の騎兵第7聯隊だ。 しかし、今は騎兵は廃科になり新たに捜索兵科が誕生しているから 戦車に乗る様になるかも知れん」と言った。 当時、私は機械と言えば自家で使用していた3.5馬力の ヤンマー石油発動機より他に機械らしい物に接したことは無かった。 果たして戦車兵が勤まるか、否か大変不安であった。
昭和19年3月に入ると入営を祝って、村の青年団、短歌同好会、 ハーモニカバンド、防空監視哨、小学校職員、部落会、悪友、 親戚などの面々が送別会を殆ど連日の様に、或る日には2ヶ所から 招待され掛け持ちした事もある位に催して呉れた。
その中でも一番楽しくもあり愉快であったのは、 門別女子青年団の面々が門別小学校、裁縫室で催して給れた送別会であった。 「男女7才にして席を同じうせず」の時代に大義名分が立派に成り立って、 堂々と多勢の未婚のウラ若い美女群に囲まれ、ほんのり女臭いの漂う宴、 物資不足の折にも拘らず、彼女等の精魂を傾けた数々の手料理の膳に就き、 酌を受けるとあっては、正に入営兵冥利に尽きるものこれに過ぐるものはあるまい。
娑婆でこれ等の人達に会えるのもこれが最期と心得て、 鰊漬け、干鱈、熊肉、鹿肉などを肴にドブロクを鯨飲、かつ、痛飲。 女性軍の舞踊、手踊、合唱、独唱などの披露まであり宴は深更にまで及んだ。 今以て印象に残るのは、「祇園小唄」の音楽に合わせての舞踊である。 舞人が誰であったか忘却したが、心に残る。
いよいよ入営を明日に控えた、昭和19年3月9日朝、日高門別駅頭で、 村長さんを始め多勢の村人、家族、親戚などに見送られて旭川へと出発した。
親父は、1年志願兵出身の後備役陸軍獣医中尉であった。 戦没英霊の村葬参列や、出征入営、凱旋兵等の歓送迎などの際には、 在郷軍人として軍服着用で臨んでいたが、 私の入営の時には野良着姿で見送って呉れた。 頑固一徹、普段でさえも滅多なことに笑顔など家族の者に見せた事のない 父の眼に涙が光っていた。鬼の眼にも涙であった。
母は、「多勢の他人様の前で涙を流すことがあれば、お前は泣くであろう」 と言って、国道への出口の処までしか見送って呉れなかった。 私はそれで良かったと思った。母の涙を見たら私は必ず泣いたであろう。
途中の駅で入営兵が続々乗り込んで来た。 皆、明日は、旭川の夫々の部隊に入営するものばかりだ。 その日の午後、列車は無事旭川駅に到着した。 同村からの入営兵は私を含めて6名であった。 付添の村役場兵事係に引率され、旅館(場所、旅館名とも忘却)に投宿した。
娑婆最期の夜である。 入浴して夕食後、兵事係に案内されて旭川の遊郭街に赴いた。 現世の想い出に英気を養えと申し渡され、 「突撃一番」なるゴム製品まで支給された。 遊ぶ金は用意して来たと言って金壱封(宿に帰ってから調べたて見たら、 金10円也であった。大金であった。当時は郵便ハガキ1枚が3銭であった)宛、 渡された。 見れば、村長名で餞別では無く「志」の一字が記されてあった。 正に酸いも辛いも識り尽くした粋な計らいであった。 当時21才の若僧であった私に粋な計らいである等の解釈力を 持ち合わせてはいなかったが、その事を理解出来る様になるまでには 年月を要した。
元気と勇気ある4名の者は兵事係を先頭に登楼した。 あとの2名(私の名誉?の為に特に断っておくが、この2名の中の1名は私である)。 英気か鋭気かは判らぬが、養うことも無く童貞を守り、 街頭の屋台で薯臭い焼酎を飲み乍ら、オデンを摘んで宿に帰って寝た。 ウトウトしてどの位経た頃であろうか、ドヤドヤと音を立て乍ら勇気? のあった勇士等が帰ってきた。 兵事係は床に就いていた私達2名を起こし、 「全員入浴せよ。明日入営したら徴兵検査と同様に全裸で身体検査を 受けるのだから、特に男の大事な処は入念に手入れする様」命じた。 勇気の無かった私達2名も娑婆最期の入浴と決めて再度入浴した。
遂に入営の日が来た。 兵事係に引率された私は、北部第5部隊の営門を早目に入り所定の位置に待機した。 同村出身の後の5名は北部第3部隊(歩兵科部隊)に入営の為、 日高管内新冠村(現 新冠町)役場兵事係(非常に元気の良い人であった。 予備役陸軍伍長)の引率で新冠村出身の入営兵と一緒に入営部隊に向かった。
定刻になり、呼名点呼で1人宛 現役兵証書を提出し、入営の手続きを終了した。 そこで、兵事係にお礼を申し述べて別れた。 入営当日は身体検査の上、新品の被服類の支給があった位で、 あとは特に記憶に残る様な行事は無かった様に思う。 身体検査の結果、即日帰郷を命ぜられた者 (姓の1字に横 或いは藤が付いていた様に記憶するが定かで無い)が1名いた。 彼は悪い事でもした様に申訳無さそうにして営門を去った。 私達は、来年こそ頑張って復た来いよ、と言って励ましたり、慰めたりして見送った。
私達は、1ツ星の階級章を付けた軍服を着て是れで帝国陸軍軍人になった、 と言う実感は未だ湧かなかった。 満州の部隊は乗馬部隊である事をこの日聞かされておったので、 当然騎兵刀を渡されるものとばかり思い込んでいた。 既に、長靴を支給されていたので、これで軍刀を腰に吊ったら、 さぞ、今流に言うなれば、カッコイー、イカス軍人姿になるであろうと、 想像しては悦に入っておった。 所が、支給された兵器は新品であったが、 99式歩兵銃に帯剣も、また99式のものであった。 以前は、騎兵及び輜重兵(特務兵を除く)は、 二等兵と雖も刀を帯びたものである。
旭川にいた僅かの間は、徒手教練、執銃教練の初歩的な練兵丈であった。 満州の部隊からは既に満州第4392部隊要員宰領官として、 武須少佐以下の諸管が派遣されて待機していた。 私達の中隊担当官としては、庄司曹長、清水、久保の両軍曹の3氏であった。
兵隊になったとは言え、新米の未だホヤホヤ、地方気分は全然抜けておらず、 同年兵の相手を君付けで呼び、己を僕と称しては、 度々、庄司曹長以下の下士官に注意されたが、 仲々軍隊式呼び方(呼び棄て)に馴染めなかった。 無理も無い。 軍隊に来るまでは全く、見ず知らずの者達ばかりであった。 此の事は満州の部隊に到着して本格的に殴る蹴る、叩くなどのシゴキ が厳しくなるまで直らなかった。
北部第5部隊に滞在間は、部隊の員数外的存在で客分扱いの様なものであった。 此の間毎日接している庄司隊長以下の下士官達は良い人達であった。 この事は満州の部隊に着いた以後も同様であった。 私は軍隊とは案外楽な処であるかも知れぬと早合点した。 軍隊では殴る蹴る叩くは日常茶飯事であることを、 入営以前に村の在郷軍人から聞かされていたので、 相当の覚悟はしていたのであるが、大分甘く視ていた嫌いがあった。 渡満後、満州第4392部隊(捜索第171聯隊)第3中隊第1内務班、 班長M軍曹 班付先任Y兵長(下士勤)の激しい地獄の責め苦にも劣らぬ シゴキが満を持して我々をオイデオイデをして、 一日千秋の思いで待ち構えて居るなどと言う事は、全く想像し得ぬ処であった。
いよいよ明日は渡満出発を申し渡された。 3月14日、ハガキに限って郵便物を差し出す事を許可された。 私は母に宛てて書いた。 結局は、「元気で軍務に励んでおります。身体に御自愛下さい」 式の決まり文句の域を出ることは許されなかった。 防諜上、余計な事を記すことを厳禁されていた。 それでも母に便りを記した丈の事であったが、嬉しかった。 葉書は庄司曹長によって検閲された。
入営に当たり最も心配した事は、頑固一徹の親父のこと、 母が相も変らず苦労しているのでは無いかと言うことであった。 明日は渡満出発と言う事で午後はその準備で過ごした。 不安と期待混合して緊張した為か、深更に及ぶも寝就かれなかった。 私ばかりでは無かった様だ。 しかし、それでも夜は静かに更けて行った。
3月15日渡満の朝が明けた。 昨夜の寝不足は全く意識に無かった。 全員が起床ラッパの鳴る前に眼を覚ましていた。 起床ラッパと同時に跳ね起きた。 此の日は、早目に昼食を終り、寝具の返納、舎内の清拭、 整頓を終えて軍装検査があった。 舎内の清拭、整頓と言っても、渡満要員の私達の宿舎は、 雨天乗馬演習舎の馬糞臭い土間に寝台を並べてあった丈の代用兵舎であったので、 簡単、短時間に終った。
正午前、宰領官 武須少佐 抜刀指揮の下に、 5日間世話になった北部第5部隊の未だ相当量の雪の残る営庭を後にして、 別れを告げた。 衛兵所の直ぐ近くに、北部第5部隊長以下の幹部将校の見送りを受け、 武須少佐の「頭右」の号令により敬礼を送った。 僅か5日間の仮の宿とは言え、世話になった部隊であって見れば、 別れには一抹の感傷があった。
営門を出て軍用道路を挟んで左手に広い練兵場が在り、 また右手には北部第1部隊(第7師団司令部) 同2、3、4の各部隊 (歩兵科部隊)が続く、その道路を駅に向かって行進した。 左手の練兵場には、我々と同様に3月10日各部隊に入営した者達が、 此の日一緒に渡満する為に整列していた。 我々の騎兵科と異なり、歩兵科部隊は遥かに多数であった。 私達の騎兵科は、3ヶ中隊合わせて約180名の少数である。 私達は旭川駅に到る途中、北海道護国神社境内に整列し、 先輩英霊に敬虔なる「捧げ銃」の敬礼を贈った。
遅速の差はあるにしても、何れは此の社に眠ることになるのだと思った。 言い知れぬ感慨が一瞬身を過ぎり、身の締まる思いがした。 沿道に並んだ多数の旭川市民の歓送を受け乍ら、旭橋を経て旭川駅に着いた。 貨物専用引き込み線に応急仮設されたプラットフォームに相当数の 車両が待機していた。 私達の中隊は、その中の1輛を配当され乗り込んだ。 出発を前に予め達しされていた指示に従って、軍装を解き網棚に整頓した。 他部隊の者達も続々と乗車していた。 此の列車が函館に着くまでは鎧戸を含めて車窓を開ける事を厳禁された。
16時を過ぎた頃に、発車を告げる汽笛が鳴り響き、列車は静かに動き出した。 軍用列車は定期ダイヤの間隙を進行される為に、 1駅で定時列車の運転を避ける為、相当の時間停車することが度々あった。 車中でも「君」呼び「僕」呼びをしては屡々下士官連中から注意を受けた。 別命あるまでは、デッキに行くな、車窓は開けるな等々命ぜられてはいたが、 この様では車外の様子は皆目不明である。 矢張り気になるものであった。
悪知恵は自然に働くものである。 列車厠に眼を付けた。 此処だけは内鍵を掛ければ、完全に他からの掣肘外である。 外の様子を知る為には、絶好の場所である。 別に便意を催さずとも厠に入っては、鎧戸を少しばかり上げては、 外の様子を偵察した。 列車の走行中や停車中に、ここは何処と知らせる。 同年兵の情報は、全部がこの厠情報であった。 引率の下士官連中もその事は充分承知していた様であったが、 別に注意はされなかった。
岩見沢駅に停車中、一ツの賭けが行なわれた。 別に金品を賭けたものでは無かった。 「この列車は、函館線経由か、室蘭線経由か」と言う事で、 誠に他愛のないものであった。 皆、夫々の希望する線名の方に賭けた。 私は、入営前、度々処用の為に苫小牧に来た。 苫小牧の見納めになるかも知れぬ征旅とあらば、 駅のプラットフォーム丈でも良いから此の眼で確かめて置こうと言う事の外に、 ここから手紙を出す目的もあった。
旭川を発つ前日、葉書を出すことは許されたが、 封書を出すことは許可ならなかった。 私は旭川で便箋に書くことは、他人眼があるので控えていたが、 手帖の数片を切り取って、その両面に細かい文字で母に宛てて 密かに封書を用意して置いた。 どこで投函するかが難題であった。 私は室蘭線経由であれば必ず苫小牧駅で停車すると確信していた。
やがて列車は発車した。 何れの線を経由するか、皆の関心はその事に集中した。 厠情報を得ようとして多勢の者が頻りに厠通いを行った。 果たして私の賭は当たった。 心中、快哉を叫んだ。 それでも、苫小牧に停車するまでは心は落ち付かなかった。 だが、私の希望する様に列車は苫小牧駅に停車して呉れた。 深夜であった。
私は、ここで手紙を出す事に非常の決心をした。 命令を破り、万一その事が発覚した場合、 抗命者の責を負わねばならぬことは充分意識した。 平然と厠に赴いたが、既に先客入室中と見えて戸は開かない。 先客には申訳無かったが、 戸をノックしたら「オーッ」と言って直ぐ出て呉れた。
駅員に投函を頼んだ、加藤芳男(芦別市本町)君が先客であった。 「黙っていて給れ」と小声で言った。 私は暗黙の諒解を眼で合図した。 入れ代わりに私は厠に入った。 早速、鎧戸とガラス窓を半分位開けた。 丁度、そこに給水中の駅員がいた。 私は上衣の胸の物入れから、二ツ折りにした封書を取り出して必至の思いで、 その駅員さんに投函を頼んだら案外、心易く引き受けて呉れた。
私は旭川で支給された、 誉(軍用煙草)1ヶを差し出し、 礼に受け取って欲しいと言った。 駅員は「要らない」と言った。 「頼みます」と合掌の仕草をしたら、 「兵隊さんからもろうなんて済まないなー」と恐縮していた。 私は早々にガラス戸、鎧戸を閉めて厠から自席に戻った。 良心に咎めるものがあった。 幸な事に下士官連中が熟睡していてくれた事であった。
心のモヤモヤが急に晴れた。 私は、シベリヤから復員帰宅したその夜、苫小牧から母え宛てた 手紙の件を尋ねたら、大切に保存していて呉れた。 そして投函して呉れた駅員さんからは、 私が元気で出征して行った旨のハガキが寄せられ、 そのハガキも一緒にして大切に保存していて呉れた。 母はその駅員さんに、お礼状を出して置いて呉れた事も知った。 私は、復員後健康の回復した頃に、 その駅員さんに直接会ってお礼を述べようとして、 苫小牧に出た折に駅を訪れ、駅長さんにその訳を話して、 あの時の駅員さんの消息を訊ねた。 しかしあれ以来、相当の歳月を経ているし、転勤もあり、 現在は苫小牧駅に在籍していないが、管理局の人事担当者に照合すれば、 判る筈である。 日日は掛かるが、それで良ければ手配します、との事であったので、 照合方を依頼した。 後日、回答しますとの確約を頂いた。 数日して、駅長さんから、大要次の様な便りを届けられた。
「昭和19年5月応召し、南方海上に於いて名誉の戦死」をした事と 「御遺族は青森に居住」との旨であった。
私は、早速御遺族様に宛てて、その旨を綴り、 当時のお礼と亡き駅員さんの御冥福を祈る御悔状を贈った。 私とは僅か2ヶ月程の違いの征旅で、 後から戦地に赴いた者が、然も洋上に於いての戦死とは! 親切にして頂いた方だけに誠にお気の毒な事であった。
苫小牧出発後、仙台近くまでの事が津軽海峡を渡った事を含めて 私の記憶に蘇生しないのである。 列車が仙台に着いたのは、早朝黎明の時刻であった様に思う。 私は、この駅で私達を乗せたこの軍用列車が東北本線経由であることを祈った。 東北線経由であれば、宇都宮駅に必ず停車すると思っていたし、 若しも停車する事無く通過して仕舞っても良いと思っていた。
宇都宮は、私の生まれ育った地である。 懐かしい想い出の数々が包蔵された街である。 征旅に発った者が生還を望む事などは、叶えられぬ当時であって見れば、 冥途の土産に是が非でも宇都宮駅だけでも一眼見ておきたかった。 そして、宇都宮の北方、那須野ヶ原にある矢板の丘も 今生の見納めにしておきたかった。 私の小学生の折の恩師、黒崎虎男先生 (小学校長退職、現在 宇都宮市操町にて80才で御健在) に躑躅の季節の日曜日に、 2才年上の姉と共に躑躅の花見に連れて戴いた楽しく、 懐かしい思い出の地、矢板なのである。
だが列車は非情にも常磐線を回った。 列車は水戸駅に停車した。 ここは小学校6年生の初夏に恩師、 黒崎虎男先生に引率されて修学旅行に来た地である。 偕楽園見学、阿字ヶ浦、大洗などでの浜遊び。 夜は大洗ホテル宿泊などの楽しく懐かしい想い出に、 死出の旅になるかも知れぬ征旅にしばし、感傷的な気持ちになった。 黒崎先生や常に餓鬼大将の座を競い合った豊田仁一 (現、宇都宮市本町にて、割烹 武蔵野 経営、 戦時海軍征軍中 高松宮殿下専属 烹炊長勤務)君等の事が想い出された。
この付近から下関付近に到る間の事が全然記憶に蘇生しない。 唯記憶に残るのは、どこの駅であったか深夜にも拘らず、 茶菓の接待をして給れた親切な国防婦人会のあった事、 加藤芳男(芦別市)君が車中演芸会に於いて、 上衣を丸めて抱き乍ら一寸エッチは仕草をして唄を歌ったこと に同年兵とは言い乍ら仲々なる度胸の持主だなーと関心した事、 丈である。
私達は下関で下車し、そこの港から関釜連絡船に乗って釜山に 上陸するものとばかり思っていた。 列車は下関の街中を走っているのであるが、仲々スピードを落さ無い。 オカシイなと思っている内に、白昼であるにも拘らず、車内灯を点じに来た。 下車準備の命令も無い。 その内に急に辺りが暗くなり数分後に急に窓外の景色が見えて来た。 何の事は無い、関門海底トンネルを通過したのであった。
九州の何れの港から乗船するのか皆の関心は集中した。 博多、佐世保、長崎、鹿児島等々に意見は分かれた。 庄司曹長以下の下士官に尋ねて見たが分からぬと言う。 私は佐世保であると主張した。 理由は軍港であるし、輸送船護衛上最も便利である。 従って、佐世保以外は考えられない。 だが列車の終着駅は博多であった。 私達を青森駅から運んで給れた列車を下車した。 車掌さんと列車に惜別の情が湧いた。 車掌さんからは私達に「武運長久を祈ります」と言って励まして給れた。
乗船が終わり、軍装を解き、船室で寛いでいると、 この船室担当の船員がやって来て、 乗船中注意すべき事を達した概略次の様に記憶する。
以上の指示の後、早速救命胴衣着装の指導があった。 この指導中、船員は軍艦の護衛があるが、 朝鮮海峡、對馬海峡などに敵潜水艦潜航あるやも知れず、 また敵航空機攻撃の公算大なり。 万一の際は、船長以下船員の指示に必ず従って頂き度い事などを指示された。 私達は船員の話に異常なばかりの緊張を覚えた。 その一方で死ぬ時は俺1人では無い、道連れもあると無理にも思うことにした。 その様に思い込むことによって、少しでも気持ちを落ち着け様とした。 今流に言うなれば、「赤信号皆んなで渡れば怖く無い」 式の恐怖からの逃避希求的感情なのであろうか? 夜間航海は行なわ無い、との事でその夜は私達の乗船は、博多港内に投錨。 私達は船内で1夜を明かすことになった。 私達の命はもう全てを天に任す外に無かった。 だが時間の立つに伴なって船中泊の我々は、敵潜、敵機の恐怖心は薄らぎ、 庄司曹長の命令によって、演芸会を賑やかに行なった。
翌朝、夜は完全に明けたが、空は曇天、風は強く、海は鉛色、 波のうねりは大きかった。 船底からの機関の響が高くなった様である。 やがて出港を告げるドラが鳴り渡った。 この船は今まで何回も乗った事のある青函連絡船に比べて小さい様に感じられた。 船名は昌慶丸だった様に記憶する。
出港と同時に担当の船員が船室に来た。 「船に酔わない、自信の有る方は手を挙げる」様に言った。 数人の者が挙手した私もその中の1人であった。 「今、挙手した者には、交代で敵潜、敵機などの監視に立哨してもらいます。 波を被るので立哨中は外被着用の上、頭巾着装、救命胴衣着用、 軍手着装、甲板の鉄柱に抱き着く事、さも無いと波に体を浚われ、 海中に転落の憂のある事」を注意された。 折角忘れかけていた不安と緊張が再び襲い掛かった。 果たして敵潜、敵機などの発見が可能であろうか。 万一の際どの様にすべきか困惑した。
交代で船室に戻った者は、頭から波を被ったと見えて 外被はひどくズブ濡れになっていた。 何番目かに私の上番になった。 庄司曹長に申告を行ない、船員に誘導されて立哨位置に行き、 前番者の申し送りを受けて立哨開始である。 シッカリと甲板の鉄柱に抱き付いた。 波は遠慮無く甲板を洗った。 巨大な波の襲来には、船が大きな波の谷間に引き込まれる様な恐怖と錯覚を度々覚えた。 巨大な波に船は、翻弄されている様であった。 巨大な波は、船腹を叩き付ける様にしては甲板を洗い、 その度に体は海に浚い込まれる様であった。 敵潜、敵機の恐怖よりも、巨波の恐怖の方が大であった。 気が付いて見ると長靴の中に海水が流れ入り、一杯になっていたが、 靴を脱ぐ余裕など全く無い。 仕方無しに、交互に膝を曲げては、斜めにして海水を排出した。 3月の玄界灘である、未だ未だ海水は冷たく、 濡れた軍手の為、手は凍える様であった。 早く交代の来る事を望んだ。
船が巨大な波に押し上げられる度に、進航方向の左手に大きな島が見えた。 船員が巡回に来た。 船員は訊ねもしないのに、左に見えるのが壱岐の島で、 向こうに遠く霞んで見えるのが対馬である、と教えて呉れた。 ヤット交代の者が上番して来た。 待ってましたとばかりに申し送りを済ませて船室に戻った。 上衣はまあまあとして、略帽、軍袴、袴下、長靴、など何れもズブ濡れであった。 庄司曹長に「立哨中異常無し」を報告したら、 「御苦労、濡れた被服類を脱ぎ、スチームの上に干す様」 言って慰労して呉れた。
私は、入営前に遠くは日露戦争、満州事変、支那事変、大東亜戦争などに 従軍した村の古老や在郷軍人などから玄界灘の波の激しさを何回か 聞かされたものであったが、話半分と言う事もあるので、 大分割り引いて解釈していたが、 この航海で私の認識が大きく誤っている事を恥じ入る程に 訂正しなければならなかった。
広辞苑(岩波書店)には、 「福岡県の北西方の海、東は響灘、西は対馬海峡に連なり、 冬季風波の激しさで名高く、云々」と記されており、 また「鳥も通はぬ玄界灘」と唄の文句にもある通りの、 正に風波の激しさをこの航海に於て体験したのであった。
先程、私と交代したばかりの者が船室に戻って来た。 どうしたのかと思って尋ねて見たら、 「立哨中止」と船員が云うので戻ったとの事であった。 立哨者の海中転落を憂いての措置であった。 船が大きく揺れる度に、私達の体は船室の畳の上を縦に横に大きく滑った。 物が倒れる音もした。 庄司曹長からは、小銃を傷付けぬ様、再三申し渡された。 横波が船腹を叩く度に、船が割れ裂けんばかりに、異様な軋む音を発した。 船酔いで小間物を吐く者、 吐盥を取り寄せるのが間に合わずに、 通路に吐く者などが続出していた。 連鎖反応であろう、酔わない自信のあった私も遂にやって仕舞った。 既に吐く物の無くなっていた胃袋ではあったが、空上げが続いた。 全く苦しかった。 敵潜、敵機来襲の恐怖どころでは無くなった。
どの位、この様な状態が続いたであろうか、 疲労の為か、暫くウトウトした様であった。 不図、気が付いて見ると気の精か船の揺れは峠を越した様に感ぜられた。 船特有の機関の音もハッキリと聞こえて来る様になった。 この頃になって、「あと2時間位で釜山だ」と庄司曹長が言った。 皆んなはホットした。 気持ちの精か、船の揺れも先程までよりは、 大分オトナシクなって来た様であった。
この頃から、ボツボツ起き上がる戦友も増えて来た。 誰がするとも無く、吐く物の後片付けが始まっている。 決して気持ちの良いものではない。仕方が無い。 先刻まで、己の胃袋に納めていたものでは無いか。 その始末の終る頃には、気持ちに余裕が出て来たのか、 「泣く子もダマル 関東軍の兵隊も台無しだなー」 等の冗談も出る程になった。
船員がやって来た。 「本船は1時間程で釜山に入港の予定です。 もう敵の攻撃を受ける心配はありません。 船酔いで苦しむ人はあっても、死ぬ人はおりません。 あの揺れの激しい最中に1度も顔をださなかったのはその為でした。 甲板に出て新鮮な空気を吸って来たら、どうですか。 直ぐに気分が良くなりますよ」 と言って立ち去った。 庄司曹長の命令で、殆の者が甲板に出て 潮の香りのする空気を思い切り吸った。 朝鮮半島が遥かに巨大な姿で見える。 釜山と覚しき街が見える。 対馬は既に船尾の方に遥かに眺める位置まで遠ざかっていた。 朝鮮半島南岸一帯は、大小無数の島々の浮かぶ多島海域であるが、 それ等を眺めた記憶は失せた。
庄司曹長の命によって、上陸準備の為に船室に戻った。 上陸準備の軍装を整えた後、船酔いの酷さも忘れ、一しきり雑談を交わした。 船は港内に入り、静かに岸壁に停舶した。 いよいよ下船だ。 曹長の指揮によって下船。 広い波止場の指定された場所に整列。 停車場、司令部員の下士官の案内によって、 釜山駅の仮設プラットフォームに着いた。 私達を乗せる列車は既にホームに待機していた。 既に辺りは夕刻になっていた。
朝鮮も日本領土とは承知していても、 矢張り異国を感じさせるものがあった。 駅の案内板には、日本文字と一緒に独特の特徴がある音票文字、 即ちハングルが併記されてあった。 また、現地人の鮮語に依る会話や服装などを見聞きしても矢張り異国を覚えた。
朝鮮鉄道は、国際標準規格の軌道間隔(1.435m)で、 日本内地の狭軌(1.067m)よりは広軌の為に車内は幅が広くゆったりとしていたが、 座席は板張りの3等車(1,2等車は布張り)であった。 食生活の慣習の相違であろう、 車内は強い大蒜臭を感じた。 船で支給された昼食弁当は船酔いの為、食べなかったので、 釜山駅で渡された夕食の弁当はキレイに片付けた。
釜山駅では長時間滞留した様に思うが、 船内の疲れによるのか何時寝込んだのか分からなかったが、 ぐっすり寝た様である。 気付いた時には、列車は走行中であった。 戦友の殆の者は熟睡している様であった。 列車が未だ釜山駅に停車中に、 この列車は果たして京城からどのコースを走って満洲入国するのかに 関心は集中した。 この時になっても、未だ満洲の何処に行くのかさえも、 引率下士官連中からは下達されていなかった。 何人かの戦友が庄司曹長に質問したが、 防諜上の配慮であろうか、明示を避けていた。
当時、朝鮮半島を縦断し、 京城経由で満洲国に入国する鉄道コースは2本あった。 1本は、半島西側(黄海寄り)を行き鮮領、新義州を経て、 鴨緑江を渡って満領安東に到るもの。 あと1本は、半島東側に寄って日本海側に添い北上、 朝鮮北部の南陽経由、 豆満江(図們江)を渡り、満領、図們に到るもの。 一般的には以上の2コーズであった。
私は、西側のコースを走って入満するコースに望みを掛けた。 そして、私達の駐屯する地が斉斉哈爾であることを願った。
理由は、満洲事変(昭和6年〜7年)後半期に私の生まれ育った宇都宮に 司令部を置く第14師団は、斉斉哈爾を中心に討匪戦に従軍した。 北関東の健男児として勇戦したのであった。 当時小学校3年生であった私達全校生徒は、 先生に引率されては連日の様に沿道に並んでは師団の出征を、 日の丸の小旗を打ち振り、軍歌を歌っては歓送したものであった。 その分丈、イヤな勉強時間からの解放される楽しみもあった。 次いで、翌昭和7年、葉桜の候も過ぎた頃、満洲事変に従軍した 師団は戦捷の錦を飾って、 房だけの残る戦功の聯隊旗(軍旗)を先頭に堂々の凱旋をした。 既に、小学校4年生になっていた私達は、またも先生に引率されては、 毎日の様に日の丸の小旗を打ち振っては熱狂して、 凱旋兵を歓迎したものであった。
当時、宇都宮市、近郷農村などは、凱旋師団歓迎、凱旋慶祝一色に 塗り変えられた。 やがて、小学校には凱旋し、除隊した先輩同窓生が 在郷軍人の軍服に勲章、記章などを佩用して、 来校し講堂で、数々の従軍武勇談を語って呉れた。 私達は、時間の経つのも忘れて手に汗を握り乍ら、 その話を夢中で聴いたものであった。 そして、その後で下野新聞社(栃木県一円の地方紙) 従軍カメラマン撮影の従軍映写会が催された。 子供乍らも異常な興奮を覚え、熱心に映画を観た思い出があった。 第14師団激戦の地に駐屯を強く希望した所以であった。
列車は、京城を出発した。 東西何れのコースを走るかに、皆の関心は集中した。 稍々経た頃に、車内にドヨメキの声が挙った。 何と列車は東側のコースを走っていた。 出身の村からは、孫呉、 密山、 虎頭などの満ソ国境地帯に駐屯する 部隊に在隊中の先輩連中が何名かいる事を思い出した。 その辺りの部隊かも知れんと1人合点した。
いよいよ目的の駐屯地に着く前日の午後、 庄司曹長より次の事項が下達された。 即ち、私達の駐屯地その他に関する事であった。
上記下達後、駐屯地琿春の地図上の位置を口頭を以て説明された (略図その1参照)
旭川出発以来、終始和やかな車内は、俄に緊張した空気になった。 列車は北鮮部南陽から 満領図們に着き、ここで車中泊した。 翌朝、南陽に戻り、そこから北鮮部訓戎を経由して、 豆満江を渡り、 目的地、琿春へ向かった。
私達は、図們を出発して直ぐに下車の準備を命ぜられ、 軍装を整え下車を待つばかりになった。 琿春とは、どの様な街なのか、あれこれ想像を巡らせ乍ら、 車窓から外の景色を眺めた。 景色を眺め、道行く人達を眺めては、異国であると感じた。 訓戎を出てから国境線(鮮満国境)、豆満江(図們江)の鉄橋を通過したのであるが、 想像をしていたよりは川幅が狭く、流量も差程では無かった様に記憶する。 徒渉も可能では無いかと思われた。 程無くして向こうに見える街が琿春であると説明されたが、 想像していた街並、家の造り、道を行く人達であった。 そして、鄙びた感じのする風景であった。
終に列車は琿春の郊外の人家の少ない淋しい処に在る軍専用の 貨物駅に到着した。 遠く離れた処に煉瓦造りの建物の一群が立ち並んでいた。 琿春駐屯の各部隊の兵営であった。 陸軍病院と覚しき一郭も見え。 大きな煙突が見えた。 白衣を着た従軍看護婦さん達がチラチラ見えた。 下車して整列の上、隊伍を組んで、武須少佐 指揮の下に私達の到着を待つ、 満洲第4392部隊へ行進した。
私達を待つ部隊は案外近い処に在り、 直ぐ隣は道1本を挟んで陸軍病院であった。 部隊の営門を「歩調とれ」の体勢で勇んで行進し、部隊本部前庭に到着。 武須少佐は、総員180名の無事到着を部隊長に申告した。 申告後、今度は庄司曹長指揮の下に第3中隊舎前に到着、 第3中隊初年兵60名の無事到着を申告した。 中隊長からは、無事到着の歓迎の言葉を達せられ、 次いで中隊付各幹部を紹介された。 次いで呼名点呼によって6ヶの内務班に分けられた、 私の配当されたのは第1内務班であった。 第1内務班に配当された同年兵は、 次の通りであった (戦友会名簿の順に依る)。
能田 一男 | (故人 札幌) | 佐藤 昌徳 | (札幌) | |
田原 敏雄 | (函館) | 秦 正夫 | (千歳) | |
沢田 健次郎 | (音更町) | 松村 千代松 | (小樽) | |
南波 彰 | (北竜町) | 横木 蒋吉 | (増毛町) | |
千葉 亮 | (故人) |
以上の9名に私を入れて10名であった。
私達の第3中隊は、重火器中隊 (第1、2中隊は小銃中隊)であった。 そして、第1〜第2内務班は、連射砲班、 第3〜第6内務班は、重機関銃班であった。
部隊は、本部の外に3ヶ中隊であり、捜索聯隊ではあったが、 軽戦車、自動車、側車などは無く、乗馬を主とする騎兵であった。 従って、連射砲(戦車攻撃を主任務)重機関銃は分解の上、駄載とし、 火器の移動は、駄馬を自分の乗った騎馬と併馬(1人の兵が計2頭の馬を馭す)、 連射砲1門を分解すると弾薬駄馬、騎馬を合せて計14頭を要した (記憶失せの為、正確数は?)。 各内務班は、1門1銃宛を保有した。
入隊当時の中隊長以下の幹部を紹介する。
中隊長 | 大尉 | 片山 義隆 | 現役 | 少尉候補者出身 | |
付先任将校 | 少尉 | 吉田 明 | 現役 | 少尉候補者出身 | |
馬 係 | 准尉 | 卯月 真藤 | 予備役 | 関東軍随一の馬術者 | |
内務係 | 曹長 | 石黒 義実 | 現役 | ||
給与係(兼被服) | 曹長 | 南波 | 現役 | ||
庶務係(兼兵器) | 軍曹 | 高田 國康 | 予備役 | ||
馬糧係 | 伍長 | 遠田 佳男 | 予備役 |
以上の他に、内務班長6名(軍曹)、伍長、下士官勤務適任兵長若干名等であった。 現役6、予備役(補充兵を含む)4の割合で、中隊を構成していた様に記憶する。
間島省も、 その中にあった琿春も軍事上から見れば、 極めて重要な、鮮満、鮮ソ、満ソ、などの国境の第1線、即ち前線であった。 この地方は、満洲国ではあり乍ら、その住民の80%は朝鮮人を以て構成され、 思想的には侮日、反日、排日などの共産革命思想を有した者達が、 絶対的に多数を占めていた。 この為に、ソ連からは武装蝶者の侵入 (国境突破は多少の危険は伴うものの比較的容易) 多く、特に住民にして、ソ連に通謀する者多し。 また、満洲国建国以前から終戦に到る間、 この地方を含めて国境線(特に満ソ国境)に対する、彼我の主張の相違 (寸尺の地と雖も自国に有利になる様な解釈に立つ)からの国境紛争事件が 多発した。 広漠な大草原にも満ソ間の国境はあった。 国境線と言っても、特別にはそこには、白色の線を引いた標識となるべきものは無かった。 何粁かを置いて設けられた 標界を点として、その点を直線に連結すれば、 国境線ではあるが、その様な処でさえ、一方的に標界の移動を行なうなどの 暴挙が国際法に違反して行なわれた。
琿春の南東部の方向に位置する地帯を略図によって参照され度い。 鮮満国境と満ソ国境に挟まれた蛇の舌状に似た細長い満洲国の領土がある。 その満ソ国境に接するが如き処に張鼓峰(149m) なる小高い山がある。 この小山の領有を巡って、満洲国(日本)とソ連国との間に見解を異にした。 見解を異にするのであれば、その当事国間の政府外交官庁などの協議に 基いて時間を掛けて話し合えば良いのであるが、事、領土侵犯となれば 是れは現行犯である自国の権益を犯されては黙過は出来無い。
昭和13年7月9日、張鼓峰にソ連兵10名余現われ、 逐次兵力を増強し、陣地構築を開始した。 この現地情報第1報は関東軍から、第2報は 第19師団(朝鮮軍)から朝鮮軍司令官に報告された。 琿春県は満洲国領ではあったが、前記した如く、住民の80%が鮮人であり、 かつ、ソ連領、南部ウスリー州には、これまた多数の鮮人が居住していた。 そのため、帝国臣民(明治43年8月、日韓併合条約調印以来 昭和20年8月終戦に到る間、朝鮮人を帝国臣民として取り扱った) 保護の目的を以て、 特に朝鮮軍をして、琿春県の平時防衛の任務を課していたのである。 朝鮮軍に於ては、隷下の第19師団(司令部 羅南)に命じ、 琿春駐屯軍(本部、歩兵2ヶ大隊、歩兵砲1ヶ中隊、山砲1ヶ中隊、 外に満洲国の国境警察1ヶ隊を配属)を編成し、 主力を琿春に置き、それ以外の兵力を以て、 琿春県に接する満ソ国境の警備の任に当たらせたのであった。 この琿春駐屯隊は勿論、第19師団長の指揮に属させた 新阿山 ーー 上角山の線以南を第19師団所属の歩兵第76聯隊 国境守備隊に、以北を琿春駐屯隊に夫々警備担任させた。
前記の我軍の主張する満領に在る張鼓峰に不法にも越境せる ソ連兵の撃退に関し、大本営・朝鮮軍、対、現地第1線の師団で 意見は、消極、積極の両論に分かれた様であった。
大本営の見解は、当時支那事変の早期解決を最優先事項として 武漢攻略作戦遂行中であり、他地域に於ける無用な兵力使用を 極力控制していた。
朝鮮軍の見解は、例え国境侵犯であっても、 局地戦を以て解決可能の保証は無く、日ソ間の全面戦争に拡大する事を憂慮し、 武力発動は飽くまでも大命を待って行なうべきであるとした。 一方、現地に在り、直接国境警備の任にあった師団長の見解は、 「国境警備本来の任務達成上、不法侵犯のソ連軍を攻撃し、駆逐するは当然也」とした。
しかし乍ら、事の重大性に鑑みて、大本営は朝鮮軍に対し、 万一の不測の事態発生を憂慮して応急の派兵、その他の措置を命じた。 但し、事件の不拡大を期する為、航空機の使用厳禁、 使用兵力の限定などの厳命を附した。 第19師団では直ちに、現地対岸地帯に兵力を集中し、1部を展開した。 戦斗と言えば、斥候兵の1隊が任務達成上、自衛上、止むを得ず、 小戦斗を行なったのみで、数日を経て、ソ連軍は国境線上から撤退し、 現地は小康状態になった。 大本営の不拡大方針堅持と武力使用の御裁可無く、 現地に集中した師団は、1部の部隊を残し、原駐地に撤収した。
今度は、ソ連軍は7月29日に到り、張鼓峰とは近距離に在る、 沙草峰に不法越境し、陣地構築を開始した。 現地師団長は、前の張鼓峰の際は原駐地帰還の名を受けて撤収したが、 この度は新たに沙草峰に越境した ソ連兵駆逐までにその命は及ぶものにあらず、として独断攻撃を決心した。 以下、戦斗の経過、大本営、朝鮮軍、現地師団間の見解の曲折などはあったが、 本書の主旨外であるので省略する。 第19師団の全力を投入した戦斗に及び、悪戦苦斗した。 この悪戦苦斗の模様を当時第19師団参謀長が朝鮮軍参謀長に宛てた 長文の軍用電報が届いた。 その終りに近い部分を紹介する。
「弾薬ハ中央部及関東軍ノ好意ニ依リ漸次輸送セラレアルモ 急速ナル 戦況ノ拡大ト僻地ナル為輸送ニ時間ヲ要ス
作戦地内道路不良 カツ 後方機関ヲ有セス 敵ノ爆撃ノ為卸下 後第一線ニ到着スルニ 一日半乃至二日ヲ要シ 時々補給上ノ 危機ヲ臨機ノ方法ニ依リ糊塗シアル状況ニアリ
第一線指揮官以下 命ノ侭最後ノ一兵迄専守防禦ノ決意アルノミ 目下ノ状況ニ於テ師団ノ限リアル戦力ハ日ト共ニ 消耗シアリ 敵ニハ多大ノ損害ヲ与ヘアルモ 新手ニ新手ヲ加ヘアルヲ以テ 逐次砲兵ノ増援ヲ得ルモ此ノ侭ニテハ数日中ニ急激ナル戦局ノ 転換ヲ生スル虞アリ 師団カ確実ニ進退ノ自由ヲ有スルハ此処 一ー三日ト判断セラル
状況以上ノ如キヲ以テ 此処 三ー四日中ニ 一般情勢有利ニ 発展スルモ大乗的見地ニ於テ一旦隠忍シ現在迄 敵ニ対シ 日本軍ノ威力ヲ示シタル成果ヲ以テ満足シ 進退ノ自由アル間ニ 事件ヲ解決スル如ク 今ニ於テ速ニ外交交渉ノ措置ヲ講スルヲ 適当トス
以上ノ措置ハ朝鮮軍及中央部ノ如キ発動ニ依ルノ外ナク師団 トシテハ任務上当然死力ヲ尽クシテ占領線ヲ確保スルノ外 ナキニ付 御諒察ノ上 至急適法ヲ講セラレ度 綜合報告旁々 意見具申ス」
正に破断界に達した第1線の悲壮極まる情景が表われている。 そして、戦った末に甚大なる損害を被って停戦となったのである。
此れ以上戦えば惨敗したであろうし、まかり間違えば、 日ソ全面戦争に拡大したであろう。 この国境紛争に投入された部隊は次の通りである。
停戦命令は8月11日に下達された。 死傷者の計は、1,440名であった。 死傷者の損耗率は22.3% だが、 特に損耗の多大であったのは、歩兵 75、76の両聯隊であった。
歩兵 75 | 戦斗参加兵員 | 1,379名 | 損耗率 51.3% |
歩兵 76 | 戦斗参加兵員 | 1,094名 | 損耗率 30.6% |
歩兵が戦斗の最主力兵科である事を指摘すれば、 第19師団は、継戦能力低下では無く、絶滅である。
以上が張鼓峰事件の概要である。
大本営は、停戦後の昭和13年9月30日、大陸命第215号を発令し、 琿春県の平時防衛を関東軍に移管した。 下記に命令文を記す。
記述は大分横道を迂回した。 琿春とは、どの様な処であるかの一端を御理解願い度いと思うからである。 話を前に引き戻すことにする。
満洲国建国以前までは、安東省、 通化、及び、奉天省、吉林省などの各1部を含む 地域を東辺道と称し、 間島省を延吉道と称し、 牡丹江省は 濱江道の1部地域であった。 そして、以上の鮮満、満ソの各国境に接壞する地帯は、民族自決の意気旺盛な所謂、 韓国独立革命軍(日韓併合に反対する抗日バルチザンのゲリラ組織〜共産匪)の 勢力範囲であり、満洲建国後の日満軍警の治安対策上の大いなる癌的地帯であり、 思想対策上、憲兵の最も重点を置いた地域であり、 彼らとの戦は終戦に到るまで続けられた。 敗戦必至、ソ軍侵寇を予期した関東軍は昭和20年7月5日その主力を以て通化省を死守し、 その山岳地帯の利を生かしてゲリラ戦を展開し、長期持久戦を決定した。
関東軍の主任務たる「満洲国の防衛、及び、在満一般邦人の保護」を断念し、 総司令官以下は通化に満洲国皇帝以下政府機関は 臨江に、ソ軍侵寇後逸早く後退した。 在満邦人、殊に開拓団の史上稀に見る逃避行の悲劇は、これによって開始された。
前項に記した如き環境下にあった琿春であった。 何時如何なる不測の時機にソ連軍の不法侵入を受けるか判らぬ、 異常なる緊張下にあった地帯であった。 私達の部隊を含めて、全琿春、全間島の部隊は常に、臨戦態勢下にあった。 琿春から指呼の間にあった北チグロコーワヤ (部隊では単に北チグロと呼称していた)山頂のソ連軍陣地から、 長距離砲弾を如何なる時、撃ち込まれるか分からぬ危機感は常に我々の 脳裡に焼き付いていた。
入隊後、日の浅い初年兵は古兵と同一内務班に起居せられ、 内務に於ては加虐に値する躾(殴打蹴の茶飯事) 、演習は実戦 に勝るとも変わらぬものを課した。 教官の意に沿はぬ演習の結果の代償は、昼食抜きで、演習の続行であった。 非常呼集の演習は、週に2回は実行された。 深更の熟睡時間帯を選んでは行なわれた。
私達は速射砲担当であり、 敵戦車、装甲車などの攻撃に依る擱坐、破壞を主任務とした為に、 砲の分解、駄載、卸下、結合などに 分秒の短縮を強く要求された。 すべての動作には、俊敏を命ぜられ、モサモサしてる者には、 打蹴などの制裁が加えられた。
部隊到着(午後3時頃)第1日目は正に遠来の客扱いであった。 班長(M軍曹)に引率され、中隊兵舎に入り第1内務班室に落ち着いた。 班内は、上下2段式の蚕棚状に板張りされてあった。 昭和16年7月発動の関東軍特別演習(略して 関、特、演と呼称した) で一挙に大増員された兵員を収容する為に採用された苦肉の策。 私の寝床(2段式になってからは廃止)は、上段に指定されており、 戦友組は2年兵の清水1等兵と組まされてあった。 内務の要領はすべてこの清水さんから直接に指導され、時としては、 俗に言われた「一ツ軍人ハ要領ヲ本分トスヘシ」を殊の外、懇切に指導して呉れた。 私にとっては、大変良い古年兵さんであった。
班長は、一応の指示、注意を言った後に 「初年兵は直ちに、軍装を解き軍衣袴を脱ぎ、就寝せよ。 装具、軍衣袴などは、戦友組の2年兵が全部整頓せよ。 夕食事まで、就寝を許可する」旨を達した。 私達は、本当にそれで良いのか戸惑った。 躊躇していると班付先任のY兵長(下士官予備役応召)が、 「愚図 愚図するな早くしろ」と怒鳴った。
軍隊名物の一ツに挙げられている有名な、 封筒状の藁布団の中に膝を伸ばしたまま、静かにソロソロを体を 滑り込ませる様にして寝たが、緊張の余り一睡もする事は出来なかった。 夕食時、班長から「初年兵は軍衣袴着用に及ばず。 冬外被着用の上、食卓(食事、兵器手入れ、手紙書き、鶯の谷渡りなど、多用途に使用) に付けと達せられた。
今以て記憶に鮮明なのは、班長曰く 「夕食には初年兵の入隊を祝って、特に赤飯とオハギが用意された。 有難く食べる様」との事であった。 見れば成る程、赤飯(実は高粱の半搗の為、一寸見たところでは 赤飯の様に見えた。実物を見るのも食べるのもこの時が最初)の様であった。 飯盒の蓋には、小豆の餡が少しばかり盛ってあった。 あとの副食は何が出たか記憶に無い。 高粱飯は、お世辞にも美味しいとは言えなかった(やがて 演習の度が激しくなるに従って、この飯も美味しく量も不足に感じて来た)。 私達は食べ残した。 餡だけは綺麗に残さず食べた。 何時になったら、オハギが出て来るのか待っていたが遂に出なかった。 班長曰く「どうだ軍隊の赤飯とオハギの味は美味しかったか?」と尋ねたが、 初年兵同士は顔を見合わせて不思議がった。 誰も班長に答える者はいなかった。 更に班長曰く「軍隊では飯と餡が出ればオハギと言う」 成る程と感心したり驚いたりした。 要は、飯と餡を別々に食べずに飯に餡を塗り付けて食べる、 此れをオハギ也と諒解した。
食後、休憩となり、煙草を喫っても宜敷いと言われたが、 入隊初日の初年兵の身であれば、喫う事を躊躇した。 Y兵長が遠慮せずに喫えと言った。 同年兵の誰であったか喫い出したので、 他の者も意を強くして喫い出した (能田君 横木君はこの頃未だ煙草を嗜んでいなかった)。
今度は、K兵長が「初年兵さんよ。 これから、世話になる班長殿や、古兵さんに内地から持って来た煙草を 土産代わりに進呈したらドウナノ」と言った。 私達は言われた通りに、数個の煙草を食卓に並べた。 更にK兵長は、「こればかりでは、土産に足り無いぢゃないの。 ケチらずにもっとオダシヨ」と言った。 私達は、今度は、その何倍かの煙草を雑嚢から取り出して、食卓に差し出した。 K兵長は、「有り難うネ」と言って、班長の前に押し遣った。 班長は何も言わずに、頷いた丈で、下士官室に引き揚げた。
私は正直の処、ムッとした。 正に強要である。 土産の催促は幼児の行為だ。 それも躾の良い家庭の子ならば、その様な事を言わぬものを。 私はこの日以来、この兵長を軽蔑視することになった。 何と言っても、入隊早々の初年兵の身であって見れば、 如何とも致し方の無い事であった。 「泣く子と地頭ならぬ、古兵には勝てぬ」軍隊であった。 この様な土産物の催促は、1班、2班だけであって、 3班〜6班では無かった。
休憩も終り、明朝起床時まで就寝。 日夕点呼は就寝のままで良いとのこと。 正に入隊初日は、お客様であった。 だが、この客分扱いは、 翌朝、起床ラッパの鳴り止む前までの短時間の事であった。
明けて入隊第2日目の朝を迎えた。 世の中が一転も二転もして様変わりした。 「昨日の敵は今日の友」ならぬ、 「昨日の客は今日は奴隷」に一変した。 軍隊の立居振る舞、すべてに不馴れな私達は、 先ず起床後の軍衣袴着用からして、鈍調であった。 モタモタして居ると既に着用を終ったY兵長の罵言と共に 鉄拳が能田君と佐藤君に飛んだ。 私はこの時、幸な事に、Y兵長からは大分離れた場所に居たので、 鉄拳の飛来は避けられた。
清水一等兵の指導で、毛布を畳むのであるが、 簡単な様で仲々に難儀なものであった。 キチンと畳み、毛布、枕、藁布団が横一線に定規を以て揃えた如くに、 ならねばならないのである。 清水2年兵が「下段の者達の様に余り神経質に整頓しなくても判らぬから、 これ位で良いのだ」と小声で言った。 私はそれに従がはざるを得ない。
既に軍隊の裏表を知り尽くした、 班付先任のY兵長がその様な手抜きを見抜けぬ訳が無い。 上段に昇る梯子の中程まで昇ったY兵長によって発見されて仕舞った。 私はY兵長にイキナリ下段に引き擦り降ろされた。 「この野郎入隊早々の新兵のクセに要領を使いやがって、 生意気な奴だ、今後のみせしめに、可愛いがってやる」と言って、 往復ビンタの先は洗礼に浴した。
遣り直しを命じた兵長は、 私の毛布、枕、藁布団のすべてを全部下の床に叩き付けた。 私はそれ等の物を上段に拾い上げ、清水二年兵と畳み掛けた時、 班長のM軍曹がやって来た。 素早く私達を見た班長は、Y兵長と何か話し合っていたが、 私達の処に来て「オイ降りろ」と怒鳴った。 私は降りて不動の姿勢をとった「この野郎 フザケルナ」と言って、 往復数発の鉄拳をもらった。 そのまま何も言わずに痛みを憶えて立っていた。 班長の横に居たY兵長が「こら貴様 班長殿に礼を言え」と言った。 正直の処、何を言って良いのか、戸惑った。 重ねてY兵長が 「中倉二等兵は入隊第2日目にして要領を使って申し訳ありませんでした。 オテントウ様が西の空から昇り、琿春川の流れがサカサマに流れる事が あっても以後再度、毛布の整頓に手抜きする様なことは致しません。 お世話になり有り難くありました」と言うんだ解ったら言って見ろ、 と怒鳴った。
私が躊躇している内に、週番下士官の日朝点呼を告げる号声が聞こえた。 毛布その他は、清水二年兵によって整頓され、 班内の清掃は、同年兵や補充兵さん達によって済まされていた。 入隊2日目にして、鉄拳制裁を受けたる名は、 部隊がやがて佳木斯に移駐した後々までも、 事ある度に、班長、Y兵長、S上等兵によって私的制裁の的となり、 彼らのストレス解消の対象物となる破目になった。
この3名に特に共通していた事は、「一ツ軍人は要領を本分とすべし」 の会得に大いに欠けていた事であった。 能田、佐藤の両君は、生真面目であった。 そして、私は後で班長に3度程、正論(理解出来る様な班長ではなかった) を述べた事が大きく作用した。 班長、古兵などには、 殴り易い、叩き易い、新兵であった様であった。
何も40年前の事であり、時効を過ぎた事など列べ立てる事もなかろうが、 同班、同年兵の中で、特に劣等兵の名誉ある烙印を押された、戦友 (能田、佐藤の両君に私)3名を代表して敢て記すことにする。
M軍曹〜第1内務班長兼第1教育班長。 新潟出身、師団最古参、 軍曹である事を誇りとしていた(同年兵の優秀者は、1等級曹長、或いは 准尉任官済との事であった)。 筆記力、読力、読解力に甚だしく劣る。 常に劣等意識に怖ゆ。 些細なる事に興奮し、凶暴性を余す処無く発揮する。 筋骨逞しく身長あり、腕力に富む。 統率力に著しく欠く。 特に、教育班長としての能力、零に等し。 暴力を発揮する際は、 口を極めて罵言を発す(良くも次から次へと間断無く出たものである)。 部下を殴打の際に、出血する部下を見て、 快心の笑を顔面に臆する事なく表はす様は閻魔の化身かと疑う程に感じられた。
因みに、軍隊では特別なミスをしない限り、下士官を志願すると検定に 合格すれば軍曹にまでは任官出来たが、曹長に昇任するのには 簡単には選任されなかった。 定員の関係もあるが、曹長になれば週番、士官、週番副官、 小隊長などの士官職を命ぜられる。 武技は勿論であるが、秀れた指揮能力、指導能力、事務能力、人格、 識見などの士官職に通ずる要素が要求された。 これに不合格であれば、如何に曹長を望むとも却下され、 軍曹定年が近付くと、現役再役を希望して、再役願書を提出しても、 「再役願ノ儀ニ及ハス」として受理されなかった。 大東亜戦争後半期に到って、曹長の定員枠が緩和された様である。
Y兵長 〜 下士官勤務適任証所持、予備役、東京出身。 下級者、特に初年兵、 補充兵、などを殴打することに快感を覚ゆる如し。 些細なる事に、良く興奮し易し。 怒れる時は蛸入道、同然の容貌となる。 神経質にして、班長に胡麻擦る事も神聖なる軍務遂行と錯覚していた。 後日、伍長任官。 下士官任官の基準に疑問を抱いた。
K兵長 〜 予備役、東京出身。 応召前は、茶道、華道、舞踊、などの師匠。 色白、声は女声よりも更に女声、女形に適す。 班長に胡麻を擦る事は、Y兵長に異なること無し。 下級者、特に初年兵に注意を与える際は、説教、文句と言うよりは、 何時果てるとも無い、小言、愚痴が、蜿蜒と続く。 この様な時は、罵声と共に殴られた方が楽だと感じたものである。 コンチクショウ、ブックジテヤルヨ、なる語を良く用いた。 但し、殴打、蹴の癖は無かった。 見栄っ張りの気味あり。
S上等兵 〜 新潟出身。 18才で現役志願の2年兵。 蹄鉄工兵(技術、極めて幼稚)。 18才で現役志願したに拘らず、甚だしく世間擦れしあり。 2年兵ではあるが初年兵より年齢が若いと云う優越感充満。 初年兵、補充兵を殴る際、必ずと云って良い位に、 「年下の2年兵に殴られて口惜しいだろう、もっと叩いてやるか、どうだ」 なる言葉を用いた。 この男は、成績優秀と言うよりは、蹄鉄工修行兵のレッテル丈で、 上等兵、進級者と観察した。
軍隊では、どの部隊でも共通していたのでは無いかと思ふのだが、 私達の内務班にも、神様仏様と称される偉い連中が、 トグロを巻いて鎮座ましまして居た。 但し、初年兵、補充兵、2年兵は、 この尊称?の対象には絶対になれなかったのである。
具体的に解り易く記すと、 神様クラスは、下級者のミスを細大漏らさず、丹念に曝け出しては、 これ見よとばかりに、大袈裟にワメキ散らし、殴打蹴の私的制裁を加え、 かつ、自己の存在を誇示し、優越感を満足させているタイプの連中である。 私は心中で、班長は荒神様なる別な格付けをして軽侮することにした。
一方、仏様クラスは、下級者に対して、すべて懇切に指導を行なう、 人情味のある常識人であった。 そして、下級者のミスを庇ってくれた。 褌、靴下、ハンカチ、などの汚れ物の洗濯など、 絶対に下級者に命じる様な事はしなかった。 古兵の中で、これに属する部類の人の絶対数の不足が、 初年兵、補充兵、などを苦しめたのである。
軍隊には各種の当番があったが、私の1番嫌いな当番は、 何と言っても、食事当番であった。 先ず、週番上等兵に引率されて炊事場に行く。 そして、食缶の受領の際に己の中隊名、班名、己の官等級、 氏名などを申告するのであるが、 炊事勤務の神様連中から声が低い、服装がどうの、態度がどうのと、 散々に難癖を付けられ、再三、申告の遣り直しをさせられた上で、 ようやく食缶受領を許されるのである。 食後、食缶の洗浄に就いて飯粒が、隅の方に残っているとか、 洗い方が粗末であるとか、まあ良くも、重箱の隅をほじくる様な事を、 殊更に、大袈裟に暴き立てるものであった。
処で、班内に持ち帰った飯を、班全員(30名)の各人の食器に 盛り分ける(軍隊では飯付けと言う)。 荒神様は勿論であるが、神様、仏様、3年兵、などの飯付けには、 異常なばかりの神経を使わねばならない。 1粒たりと雖も、焦飯を混入する事は絶対に許されなかった。
私達の部隊の炊事場では、蒸気釜でなく、直接、 石炭で炊き上げる方式であったので、 必ずと言って良い位に、食缶に焦飯が混じっていた。 その飯を選別し乍らの飯付けである。 補充兵の長谷川省三さんと私が食事当番をした折に、 Y兵長の食器に焦飯が混入した時の状景を思い出す。 「今日の食事当番起立」とY兵長が怒鳴った。 長谷川さんと私は「ハイ」と答えると同時に起立した。 Y兵長は「飯付けは誰がした」と怒鳴った。 私は「中倉であります」と答えた。 Y兵長は「貴様、この野郎、俺の飯に、ヨクモ、焦飯を入れやがったなー。 勲八等の予備役応召の兵長さんをナメやがったなー」と言いざま、 食器を私めがけて投げ付けた。 私の胸に当たった。 飯は、私の軍服に相当量ヘバリ付いたが、 近くの同年兵の顔や服にも飛び散って、ヘバリ付いた。 「申訳ありませんでした」と謝ったが、その様な事で許す様な Y兵長では無かった。 M班長がこの場に居なかったのが、せめてもの幸であった。
清水2年兵が小声で「炊事に行ってもらって来い」と言って、飯盒を出した。 私はその飯盒を持って、炊事場に走った。 長谷川さんが心配をして後から走って来た。 炊事場には幸な事に、同班の補充兵、南さんが勤務兵として居たので、 直ぐに飯盒に飯を入れて呉れた。 南さんは「Y兵長に焦飯を付けたのか」と笑い乍ら聞いた。 私達の入隊前でも五月蝿く、先輩の補充兵さん達も、 大分苦労をしたのであろうと、その時思った。 持ち帰った飯をY兵長の食器(同年兵が洗っておいて呉れた) に改めて盛って差し出したら数口食べた丈で止めて仕舞った。 班内は シラケた空気になってしまった。 私のミスに原因した事であったが、4392部隊生活中の悪印象の一ツに残っている。 私はY兵長の氏素姓を深く疑った。
私が練兵休を許可されて、班内休養をしていた時、 昼近くなってから、長谷川さん(靴工兵修業者)が、 靴工場から午前の勤務を終わって帰って来た。 他班の補充兵で特技保有の人達も午前の勤務を終わって帰って来た。 週番上等兵が「今日は演習に出た者の帰りが遅くなる様だから、 現在居る者だけで、飯上げに行く」旨を伝えた。 炊事から飯を上げて、私達の班は、長谷川さんと2人で食事の用意をした。
その時の事である。 長谷川が「お前フケ飯の作り方を知っているか」と尋ねた。 しかし、何の事か私には分からなかったので、 「何のことでありますか」と聞き返した。 「お前未だ知らんかったのか。今日は俺が教えてやる。」と云って、 実地指導が始まった。 先ず、班長の食器に半分程飯を付け、 その上に自分の頭のフケをガリガリ掻き落し、 更にその上に再び飯を盛り足して、食器の縁を布巾で拭き取り、 「これで出来上りだ」と云った。 私は、唯、唖然として、長谷川さんの仕草を見ているばかりであった。 長谷川さんは、今度は、Y兵長の食器に同じことを繰り返した。 私は、驚くばかりであった。 「その様な事をして、若しもバレたら、どうするのですか」と訊ねたら、 「これ以上、フケを掛けたら、バレるかも知れんが、 この位では、絶対にバレない。今度、お前もやって見ろよ」と言った。 私は、不安で致し方無かったが、 班長のMもY兵長も何も云はずに全部食べて仕舞った。
午後の演習で皆、外に出た後で、長谷川さんは、 「今までに何回も同じ様にして、喰はせてやった。 あんな事でもして、お返えししてやらねば、叩かれたり、 殴られたりした憂さ晴らしが出来んでは無いか。 本当にお前もやってお返えしをしてやれ」と云った。 だが、私はその様な、蛮勇を振るい起こす勇気に欠けた。 それにしても、「フケ飯」とは良く名付けたものだと感心する次第であった。
前々項、及び、前項で、度々、長谷川さんの名が出たので、 この人の事を記し度いと思う。 長谷川さんを含めて補充兵達は、未教育、補充兵 (今度応召するまでに1度も軍隊で教育を受けた事の無い補充兵の 意味である)であった。 年令は概して30才を過ぎていた。 私達初年兵より約8ヶ月も前に召集になった。 北海道出身の人であった。 私達初年兵が琿春の部隊に入隊して幾らも日が立っていない頃の事であった、 朝の厩舎作業で、長谷川さんがどの様なミスをしたのか分からなかったが、 班長のMが長谷川さんを殴る叩く蹴る、転んだ処を更に蹴る、 長谷川さんが起ち上ったら、再び、殴る、叩く、蹴り上げるを繰り返し、 散々に罵言を浴びせかけた。 長谷川さんの口中が切れたのか、口から血が出、鼻血も流れ出た。 M班長は、その出血を見て、快心の笑みを浮かべた。 正に悪鬼であり、閻魔であった。 長谷川さんにどの様なミスがあったにせよ、狂人の如き班長を憎んだ。 この俺がMよりも上級者であったらと思い、他人事とは言い乍ら、 口惜しかった。 大いなる義憤を感じた。 軍隊とは云え、余りの事では無いか。
私は後日、憲兵に転科した。 その事は後述する。 憲兵に転科して、石頭憲兵派遣隊に 勤務中の事であった。 毎日分隊から受領して来る、命令、回報、情報、手配、その他、 などの書類の中に、戦訓資料と云う書類があった。 全満洲の軍隊の事故もこの中に含まれていた。
その事故の中に、昭和20年3月中旬頃、 満洲第4392部隊(私が憲兵転科前の部隊)が 佳木斯から 海城に移駐の際、 軍馬輸送貨車に馬取扱いの為、乗務していた長谷川さんは、 列車が奉天駅に停車中、馬の水汲みに行っての帰りに、 列車に接触されて、惜しくも殉職された、との報を読んだ。 誠にお気の毒な事であった。 御遺骨は、能田一男君が、中隊命令によって、 戦後シベリヤ抑留の際、捧持して入ソしたが、 ソ連収容所長の命令で、ソ連軍に於て保管する事になり、 泣く泣く引き渡した旨を、戦後の第1回戦友会の折に、 涙を浮かべ乍ら、能田君が皆に報告した。 能田君は、復員後、八方に手を尽くして御遺族を探しあてたが、 不明であるとして、非常に残念がっていた (その彼は 昭和49年末病没された)。
私は敢えてこの事を記すことによって、 M班長の暴虐性を亡き長谷川さんに代って告発し、 長谷川省三さんの霊、安かれと、 改めて御冥福を謹んでお祈り申し上げ度い。
私達が旭川の部隊で支給された、兵器、被服類、などの一切は、 全部新品ばかりであった。 琿春に到着して何日目頃であったろうか、定かでは無いが、 先ず、神様連中が自分に支給されている古い被服類を 私達新兵の着ている新品と交換して呉れと言い出した。 新兵が新品で、古兵それも神様と自認している連中が、 クタビレた服では、神様の沽券にかかるとでも思ったのであろう。 これは聯隊命令でも、中隊命令でも無く、所謂、私的命令である。 私にはK兵長が交換を強要した。 その他の神様連中も同年兵に強要した様である。 応じた様である。 私はK兵長の強要を拒絶した。 その場はそれで済んだ。 その日の夕食後、私は下士官室に来る様に、班長から呼び出しがあった。 そこで、M班長から昼間K兵長からの要求を拒絶した事に対する理由を訊ねられた。 以下はMと私の遣り取りである。
班長 | 〜 | 馬鹿モン。交換してやれ。 |
私 | 〜 | 旭川の部隊で支給を受けた際、庄司曹長殿から |
天皇陛下よりお預かりしている大切な物だ、 謹んで着用する様、命ぜられました。 | ||
班長 | 〜 | 俺は貴様等の班長だ。俺の言う事を聞け |
私 | 〜 | 中隊命令を頂きたくあります。 |
この時、傍に居た第2内務班長のK軍曹から声があった。 「M軍曹殿、こんな奴、可愛いがってやった方がいいですよ」。 これで決まった。 班長から往復ビンタの連発をもらった。 結局は、私の負けであった。 此れ以上の抵抗は諦めた。 新品の被服類は、強奪に似た方法によって、K兵長の古品と交換させられた。 要は品物の新古、程度の良し悪しは、どうでも良かった。 支給されてある員数に過不足、無ければ、それを以て、甲の上としたのである。 員数検査の主眼も、ここにあった様に思う。 私は暫くしてから、この事を高田軍曹に話をした事がある。 「それは正論であって、兵の身には通用せぬ事だ」と諭して呉れた。 私は、入隊して間も無い頃に不図した事から、 この高田軍曹を話の解る兄貴と思う様になっていた。
在る時、他の物と一緒に褌も洗濯して、物干場に干して置いた。 夕方、演習後、皆と一緒に、干物を取り込む為に物干場に行った。 どうした訳か、私の褌だけが見当たらない。 風に飛ばされた訳でも無いのにと思い、 同年兵の物に紛れたのかも知れぬと思って、 訊ねて見たが、紛れ込んではいなかった。
軍隊では兵器以外の自分の持ち物には、註記と云って、 中隊名、班名、氏名を必ず記してある。 他人の物と間違はない為と、持ち物に責任を持たせる為である。 私達の部隊では、褌の所有は2本と規定されていた。 余分に持つ事も、不足する事も許されないのである。
それにしても、姿を隠した褌が見付からないと、 現在使用中の褌を洗濯した際に、代わりが無くなるので困るのだ。 物品の紛失は、班長に報告することに定められている。 どうせ鉄拳の落ちに決まっている。 班長への報告を躊躇した。
止むを得ず、残る1本の褌の洗濯後、干し上るまではタオルを以て代用した。 しかし、タオルには温かみはあったが、紐が無いので、 袴下でズリ落ち無い様に調節すのに大分苦労した。 しかし、「窮すれば通ず」で、結構要領良く、使用出来る様になった。 余り立派では無い一物を保護したり、顔を拭いたり、 誠に重宝にして便利この上も無い布であった。 軍隊なればこその窮余の策であった。 その為か、何時でも緊褌一番の意気が挙らず、 軍務に精励する気の起こらなっかったのは、この故であったのかも知れない。
軍隊内務令 第179を記す
「物品ヲ遺失 紛失 マタハ 破損シタルトキハ直チニ 内務班長 若クハ 週番下士官ニ届出ツヘシ 之ヲ拾得シタルトキ 亦同シ」
私達の映えある入隊をてぐすねひいて待ち構えていたのは、 荒神様や神様の面々ばかりでは無かった。 入隊して暫くした頃、気のせいか体のあちこちが掻ゆくなった。 同年兵に尋ねて見たら、皆も同じであった。 戦友組の清水2年兵が下着類や毛布などに ライオン歯磨き粉を振り播いているのを見た。 何故だろうと思って訪ねて見たら、 「お前もう虱が付いたろう。この様にすれば、 少しは虱除けに効果がある」との事であった。 私は験して見たが全く効果無かった。
私は虱なる語と文字を知っていたが、実物を見るのも、 身体で経験するのも最初であった。 清水2年兵は、 「満洲クンダリの貧乏籤まで引いた挙げ句に虱にまで可愛がられるとは、 思っても見なかった。 だがなー 虱も生きものだ。少し位血を吸はせてもやれよ。 戦死した時は、虱の加護で地獄まで行くことは、勘弁してもらえるかも知れん」 と冗談を言って笑った。
この虱なる代物は、親を潰しても潰しても、 決して子孫の絶える様なものではなかった。 正に「万世一系の虱祖を践める虱様」であった。 当時私達は、若い青年であったので、 血は彼らにとって栄養豊富な格好の飼であったのであろう。 栄養の行き届いた奴は、丸々コロコロする位に肥えており光沢もあった。 最も原始的な駆除方法は、両親指の爪の間に挟んで押し潰すのであるが、 ブツブツと音がして潰れた。 大きいのは、仁丹粒位あった。
親虱の休憩場所は、縫目の折返えしの中であった。 産卵場所もその附近であった。 一番困ったのは、直立不動の姿勢で「気を付け」をしている時に、 首の回り、腋下、急所、附近で、彼らが吸血をする時であった。 手で掻く訳にも行かず、歯を食い縛って「忍」の一字の修行に 之れ励むのみであった。 終戦後、シベリヤ抑留中に虱の為に、発疹チブスにかかり、 一時、死の世界を彷徨する事になった。 恐ろしい生き物であった。
私の気付馬は、名を「春勇」と号し、栗毛であった。 文字通り名前だけは、立派な馬であった。 しかし、軍馬とは名ばかりで、員数を揃える為に、 騎兵隊に籍を置いた様な、哀れな馬であった。 軍隊の員数揃えと言えば、私と環境は似た様なものであった。 同病相憐む仲であった。
「春勇」にしては、甚だ迷惑な気付兵であったと思うが、 私にして見ても、また、迷惑な軍馬であった。 満洲の日本人開拓団から徴発された馬であった。 仔馬が正常に分娩され、正常な発育を経たとしても、 古来「栗毛に蹄無し」と称され、 例え馬格が優れていたとしても馬に直接関係する 職業人(有畜経営農家、獣医師、その他)は概して、栗毛を好まなかった。
多少の例外はあるにしても、また飼養管理に多少の差はあったにしても、 最大の欠点は、概して蹄の脆弱性のあることであった。 その脆弱性は、摩耗し易い事、裂蹄になり易い事、 従って、蟻道尖症(俗に砂上りと称した)に掛り易い事、等々であった。 摩耗を防止する事は、装蹄によって カバー出来る。 但し、裂蹄だけは、装蹄によって必ずしも予防することは、難儀である。 栗毛の裂蹄は、蹄油の塗布を以て予防を図る事は、一般的に至難であった。
憐れにも、「春勇」は傷因は何であったか判らぬが、 左前、後部、蹄冠部に外傷性の大きな痕跡が夫々あった。 初年兵入隊時から、この裂蹄には苦労した。 裂蹄部から最初から蹄が裂けて来るのは、如何とも致し方なかった。 班長からは「気付者」の管理不充分を理由として度々殴られた。 安定した歩様を保つ為に、充分な機能を発揮する、 大切な一部である蹄に関する限り、不幸にも「春勇」は欠陥馬であった。
軍馬は「活兵器」也として、軍隊に於ては定義し、 火砲、 銃器、刀剣と同等であり、生身の兵よりは、 遥かに上位にランクされていた。 にも拘らず、「春勇」を軍馬として格付けし、事もあろうに、 騎兵隊に在籍させて置いた事に大いに、義憤と疑問を抱いた。 削蹄、装蹄、馬体検査の際、その度毎に、 これ等を直接、監督指導の任にあった獣医師、将校の責任なのか、 その事を上級司令部に報告を怠った連隊長の責任にあったのが、 遺憾乍ら、その責任の那辺に存したのかは、 兵の身にあった私には不明であった。
「春勇」は、私達初年兵の第1検閲が終わり、 帰国と共に4392部隊が佳木斯に移駐する直前、 軍役不耐馬としての烙印の下に、琿春近在の日本人開拓団に払い下げられた。 ここに到るまでの間、唯の一度も休業、入厩、入廠などの措置をされなかった。 措置をしないのであれば、 早期に開拓団に払い下げすれば良かったろうにと思った。 別れの日には不憫さが残ったが、これで「春勇」も楽になれるなーと、安堵した。 引き取りに来た開拓団の人に可愛がって呉れる事を頼んだ時には、 知らず知らずに涙が流れ出た。
私達の入隊した満洲第4392部隊に、私達初年兵の外に 現役2、3年兵は勿論の事、予備役、後備役(少数)、補充兵などの 応召者が在隊していた。 予備、後備、補充などの人達は、支那事変、関特演、大東亜戦争の開始により、 その戦域の膨大な拡張による師団増設の為、 関東軍の兵力大抽出に伴なう、現役兵の不足を補充するため、 「赤紙」と称された召集令状の送達を受けて、応召した者達であった。 謂うなれば、軍の「助っ人」であった。 この「助っ人」の存在であった。
予備、後備、補充の人達に夫々の共通点は、年令は既に30才を過ぎていた事。 従って、遠く海山離れた祖国日本には、妻子、老親、弟妹などを残しての応召であった事。 従って、一家の大黒柱であり、一国一城の主であり、一家の扶養義務者であった。 故郷の家族の生計、その他を按ぜぬ日は、一日も無かったであろう。 現役兵や職業軍人のそれに比して非常に大であった事が充二分に理解出来た。 そして、年令の壁とも云うべき障碍もあった。 軍隊では職業軍人を除き、25才を越えた者は老兵の部類に属した。 現役、1、2、3年兵に比して、動作は概して緩慢であった。 無理からぬ事であった。
在郷中は、地域社会の共に中堅的な存在の人達であった。 そこには、当然、プライドを有した。 彼ら同士は、在郷中の諸々の名誉を考える時、 軍隊と言う狭い階級社会の中にあって、星の数と 金筋によってのみ人間を評価される場に於ては、 謂はば「同病相憐むべき仲間」であったのである。
ところが、彼らの間で大きく相違した点は、予備、後備に対し、 補充兵(未教育補充兵)と言う大きなハンデが存した。 予後備応召者は、かつて現役を勤め上げ、 再度(中には再三、再四の者もいた)の御奉公、誠に御苦労様であったが、 解釈の仕様によっては、一面で軍務に精通、反面で 所謂「一ツ軍人は要領を本分とすべし」を心得た、 軍隊の表裏を識り尽くした スレッカラシ でもあった。
一方、補充兵は、全員、未教育応召者であった。 従って、私達、初年兵、同様に入隊して初めて、軍隊生活をした訳である。 予後備役に対する、補充役のハンディキャップは、余りにも開き過ぎていた。 在郷中の環境が大概に於て似ていた。 補充兵に対し、予後備兵は、勤務中に於ては、掻い摘んでは懇切な指導を、 勤務外に於ては、むしろ同情的に寛大な対応があって然るべきであった。 一部の例外的人格者が居たが、極少数の者を除き、 総じて、予後備の連中は、寛容さに欠如していた。 罵言は勿論の事、ミスに対する揶揄などを平然と行ない、 殴打などの私的制裁は、日常の茶飯事であった。
この予後備にあった者(一部の例外者を除く)達は、 「能ある鷹は爪を隠す」どころか、 良く口に出していた事は、「現役を無事勤め上げて、再度の御奉公であること。 現役時代に支那事変に従軍した事」。 この辺りまでの言辞は、確かに御苦労様でしたと言える。
だが、次の言辞で、御苦労様でしたの言葉を帳消しにした。 「従軍の功によって 、 勲八等 白色桐葉章(旭八 〜私達はこれを白菜ッ葉と蔑称) 或いは、勲八等瑞宝章(瑞八 〜私達はこれも白金平糖と蔑称) 従軍記章、赤十字社員章、などの叙勲、受賞の過剰意識を 閃めかせていたことである。 軍人として従軍する事は、極当たり前の事ではないか。 ここまで来ると落語にも、漫談にもならない。 旭八は戦斗地従軍者、瑞八は警備地従軍者の 兵階級者(犯行者を除く)であれば、 従軍した事そのものを軍功として、戦功の如何に拘らず、 自動的、事務的に叙勲され、 赤十字社員章の如きは、早い話、金を寄付すれば自動的、事務的に 受章出来る性質のものであって、 殊更に大音声を発してまで、他人に誇るものでもあるまい。
以上記したまでも、和気藹々の裡に団結鞏固は望む可くも無い。 だが、次に記す事も、和気藹々の裡に鞏固なる団結を阻害する要素が存した。 特殊な部隊や陸軍観官衙を例外として、 軍隊は師団単位に、同一地方出身者を以て編成されるのが、 本来の主旨であった。
その為にも、本籍地主義を旨として、 各地に聯隊区(北海道に例をとれば、南から函館、札幌、旭川、 釧路、などの聯隊区を設け、そこには現役大佐を司令官として、司令部を 置いた)を設け、軍人の徴兵、召集 、観閲点呼の軍事行政事務を執行した。 初級将校以下、准士官、下士官、兵等の夫々が同一地方出身の者を 以て聯隊を、そして師団を編成した為に、親近感を抱き、連帯感を抱くものである。 出身地の友人、知人、先輩、後輩、親戚などが同じ師団の 歩・騎・砲・工・輜重などの聯隊に、大隊に、中隊に、小隊に、同班に、隣班に、 在隊すると云うこと丈に、例を挙げても、互に同一條件下に在って協力し、 激励し、牽制し、切磋琢磨し合い乍ら、和気藹々の裡に、 鞏固、確固な団結が可能な事は理の当然であり、 人情の然らしむる処である。 これがあればこそ、団結心は、更に一層不動のものとなる。
処が、私達の中隊(他の中隊も同様であったと思う)は、 名実共に他所者ばかりの寄せ集めであった。 中隊幹部以下兵に到るまでの出身地をその例に挙げる。
中隊長 | 〜 | 香川県 | 付選任将校 | 〜 | 熊本県 |
馬係准尉 | 〜 | 東京都 | 内務係曹長 | 〜 | 高知県 |
給与係曹長 | 〜 | 島根県 | 庶務係軍曹 | 〜 | 東京都 |
馬糧係伍長 | 〜 | 群馬県 | 第1内務班長 軍曹 | 〜 | 新潟県 |
予後備兵 | 〜 | 関東地方一円に及ぶ | |||
現役 2、3年兵 | 〜 | 関東地方一円 新潟県 静岡県 | |||
補充兵 初年兵 | 〜 | 北海道一円に及ぶ |
以上の様なもので、郷土の名誉の為にもと言う様な意識には大いに欠けていた。 特に、神様連中が関東地方、特に東京が最多であって見れば、 所謂「都会擦れ」した者の眼から見れば、北海道出身の補充兵、初年兵は田舎者臭く、 鈍重に写った事であろう。 事毎にドサンコ ドサンコと侮蔑されたものであった。 之では団結どころか、互に敵視し合う要因が、知らず知らずの裡に醸し出され、 第一戦の敵前に於て敵兵に銃先を向ける前に、 内なる敵に菊の紋章の付いた銃は向けられるであろう。
昭和14年初夏から初秋に到る間、満洲国の北西部、ノモンハンに於て、 後世その悪名を残すこととなった「ノモンハン事件」で、 ソ連軍、外蒙軍の連合軍に、関東軍隷下の第23師団は惨敗した。 この戦斗には、第7師団(旭川)の歩兵26聯隊、及び、 歩兵28聯隊の1部、その他の部隊が、一時、 第23師団長の指揮下に編入されて戦斗に参加した。
ハルハ河左岸地区の戦斗に、攻撃に参加した旭川師団の1部は、 左岸攻撃を断念した。 23師団の後退に当たり、当然、応援の友軍部隊である 第7師団の部隊を優先して後退させるのが、武士の不文律であったにも拘らず、 戦況上、止むを得ざる措置とは言い乍ら、 1番最後に多数の戦死傷を出させて後退させた。 これも他所者師団であって、 本来の隷下部隊では無かった故と解釈されても止むを得ない事例であった。
第23師団は、ノモンハン事件の起きた前年4月に編成に着手した、 新編の寄せ集め部隊でもあった。
敗因は、こればかりで無く、近代戦に於て必要欠く可からざる重装甲戦車、 長距離重砲、及び重砲弾などの絶対数の不足とそれ等の性能の劣低、 及び敵を識らず、己を識らざる傲慢な第23師団、第6軍、関東軍の 夫々の司令部の作戦の在り方も大きく作用した。
後の項に於て詳しく触れるが、 昭和19年10月初旬、私は関東憲兵隊教習隊(当時、新京市、現在、長春市) に分遣の命を受け、在隊中、教習の余暇に主に同一区隊の教習兵同士の間で、 当然の如く、出身原隊の事が話題の中心になった。 主として歩兵科出身の者が断然多かったので、それ等の部隊の事が対象になる。
以上の3條件が揃えば、 軍隊内務令に於て律せられた事は完全に、 近い状態で履行される事は、肯定するに充分である。 新兵の教育は、第1期検閲終了までは、 古兵とは別に内務班を設けて教育されていた事、を付記する
琿春到着早々の頃、中隊初年兵総員集合の場で、 中隊付先任将校教官、吉田 少尉(少尉候補者出身)の訓辞の中に、 「初年兵と整頓は叩けば叩く程 良くなる」の一下りがあった。 教官の言わんとする処は、大体に於て諒解出来たが、 第1班長M軍曹、第2班長K軍曹の2名は、必要以上の暴虐性を以て、 教官の訓辞を文字通り忠実に実行した。 この軍曹は佳木斯に移駐後、 日ならずして宇品にあった船舶工兵隊に転属した。 そこで、外出中に強姦を犯し、宇品憲兵隊員に逮捕された。 被害者の親権者の告訴により、軍法会議に送致された 〜 後は、憲兵転科後、この事実を戦訓資料によって承知。
それに反して、第3班〜第6班の各班長は、 その様な野蛮な教育はしなかった。 従って、それ等の内務班の空気は、正に和気に満ち満ちていた。 同一中隊、同一兵舎内に居住し乍らも、 上官殊に、内務班長の人間性如何がこの様に相違した。
戦闘兵科部隊内務班で、兵の階級にある者が、 四六時中直接言葉を交す上官は内務班長である。 戦地にあって、上級からの命令を兵に最終的に下すのは、 分隊長、若しくは班長である。 軍人、しかも兵たる者は、その命令の理不尽に対し、 反抗は絶対に許され無い(反抗すれば、陸軍刑法の抗命罪に該当)。 命ぜらる処、欣然死に赴くのである。 欣然、死地に飛び込むか否かは、常々、兵は接する内務班長なり、 分隊長の人間性如何による。 私達の部隊では、軍曹の階級にある者を以て内務班長に任命する方針であった。
1班〜2班の担任する戦闘火器は、前にも記した様に連射砲である。 部隊に於て、連射砲に経験ある軍曹は、M、Kの両軍曹の外に居なかったが、 私達にとっては致命的であった。
速射砲実戦の場合を想定すれば、次の如きものである。
縦横に展開して、激しく襲撃して来る、敵戦車群を至近の距離に迎撃し、戦闘を交える。 火器の内でも、特に、速射砲は、その構造上、敵に露見の度は極めて大である。 従って、敵の絶好な攻撃目標となる。 そこは、好むと否とに拘らず、戦死傷率は絶対的に大となる。 攻撃弾を数弾撃てば、早急に砲の移動である。 重量な砲の分解、駄載、などを迅速に行ない、新攻撃地点に推進し、 直ちに、卸下、結合などの激務が重なる。 そこには、生死の瞬間の連続であるから、当然の如くに、 精神状態は異常性を超越した昂奮に駆られるであろう事は、想像に難くは無い。
かくのごとき場合の罵言、制裁は、戦友間相互の死の危険回避と、 成功弾多射などの敏捷性要求の為である。 従って、容認するに吝では無い。 しかし乍ら 交戦終了後の上官上級者などの部下に対する対応如何である。 この事は実戦の場合、特に然りである。 若い純真な現役兵をして、不惜身命の境に知らず知らずの間に達せしめるか、 否かの鍵は、正にここに存すると明言しても過言では無かろう。
琿春の部隊に入隊して、2ヶ月位過ぎた頃と思う。 隷下部隊巡視の為に、 私達の部隊に山下奉文大将が 巡視に来隊する事になった。 営庭は勿論の事、兵舎厩舎、その他等々の内外の大掃除、 兵器、被服などの手入、補修、軍馬の検査等々、部隊を挙げて 大童の騒ぎになった。 私達の部隊は、同じ営庭の中に、輜重隊(輓駄馬専17)と兵舎は異にしていたが、 一緒に居たので更に大変であった。
いよいよ当日が来た。 私達、初年兵は未だ乗馬に不馴れと言う事であったので、ボロ隠しの為であろう、 部隊の最後列に位置して乗馬列を為して、大将の来着を待った。 その間、連隊長、中隊長、教官、班長に到るまで、 整列がどうの、軍装がどうの、服装がどうのと、 乗馬を駆走させ乍ら、あれこれ注意した。
遂に大将が到着した様である。 営兵所では、ラッパ手が歓迎を意味する吹鳴を行っている。 部隊長以下の幹部は、持てる勲章、記章などのすべてを佩用し、 投げ刀の敬礼を行なった。 部隊長は、大将に扈従して各中隊(4392部隊は3ヶ中隊編成)を巡視した。
私達の乗馬列には、来ないであろうと思っていたが、 第1列〜第3列目が終ると、初年兵の列にも巡って来た。 シンガポール陥落の際、敵将軍パーシバルをYes or No で降伏を迫った時の写真で、大将を見ていたが、 実物を見るのは、この時が最初であった。 電光をも刺すが如き、ギョロリとした眼、イカメシイ顔付、 チョコレート色の顔色、体は肥満大形の為か、 アラブ系の乗馬が非常に小形に感じられた。 緊張の余り、体は硬直した様になった。 入隊、早々の軍隊、最下級の二等兵と最上級の大将、 例えるならば、「オテントウさんとバントウさん」程の違いである。
大将に随行して来た参謀以下の将校連中の数の多かった事も印象に残る。 第1方面軍司令官の来隊ともなれば、聯隊長は、私達の様な初年兵、 二等兵が聯隊長の前に呼び出された時と同様に、 最大級の緊張をした事であろう。
あれ丈、大騒ぎをしたこの日の準備に対し、巡視に要した時間は、 30分も要しなかったろう。 余りにも、事大主義的な印象が強く残る。
当時の関東軍の戦闘序列を示す(昭和19年5月初旬)
関東軍総司令部 | ||||
第1方面軍(掖河) | ||||
第 3 軍(掖河) | 満洲国 | 東面防衛 | ||
第20軍(東寧) | 満洲国 | 東面防衛 | ||
第 5 軍(掖河) | 満洲国 | 東面防衛 | ||
第3方面軍(斉斉哈爾) | ||||
第 4 軍(斉斉哈爾) | 満洲国 | 北面防衛 | ||
第 6 軍(海拉爾) | 満洲国 | 北面防衛 | ||
関東防衛軍 ーー | 満洲国内面防衛 | |||
第2航空軍 ーー | 第2、第4飛行師団 | |||
理由は何であれ、この責はすべて私にあった事である。 兵舎から舎外に出る際には、必らず定められた自分の靴棚に、 上靴(軍隊ではジョウカと呼び、スリッパの事、革製)を置く事になっていた。 そこに、上靴を置いて演習に出た。 演習が終わって戻って見ると、私の上靴が見当たらないのである。 同年兵達が心配して探して呉れたが、見当たらなかった。 致し方無く、2年兵の初年兵教育係 助教の樺沢兵長(下士勤)に報告した 「必ずあるから落ち付いて探して見ろ」と云って、 兵長も一緒になって、探して呉れたが、見当らなかった。
行方不明になった事は勿論であったが、荒神様や神様連中の制裁を最も怖れた。 上靴の支給は1足丈である。 履いていなければ、直ぐ解る事である。 K兵長がこの事を耳にした。小声で 「サンクッテ来い。その位出来なければ1人前の兵隊になれんよ」 と言った(軍隊では隠語で窃盗する事を サンクル と言う)。 結果から考えれば、この事に就いて、 樺沢兵長に相談し、早急に班長に報告すべきであった。 しかし、それを考える余裕はその時の私には全然無かった。
夕食後、私は厠に行くと偽って、第2中隊の玄関に勇を鼓して (本当に勇を鼓した)入った。 靴棚の辺りには、幸なことに誰も居なかった。 靴棚を見廻すと、丁度、薄れた、文字の判読の困難な上靴を見付けた。 私は素早く、その上靴を掴み取って、韋駄天の如くに、一気に内務班に戻った。 日夕点呼は無事済んだ。 がこの後で、2中隊の週番下士官の兵長(下士勤)が 「2中隊で上靴の紛失があったので、間違って、3中隊の方に紛れ込んで いないか探しに来た」と言った。
私は良心に咎めていたので、 早速、下士官室に走り、窃盗の旨を班長に報告した。 そこえ、2班の内務班長、K軍曹が 2中隊の週番下士官を下士官室に案内した。 この時、私はどの様な制裁を受けても当たり前だ、 窃盗罪で軍法会議に送られても致し方無いと覚悟した。
2中隊の週番下士官は「有ればいいのです」と云って、 上靴を持ち帰えった。 班長からは、口を極めて罵言と共に往復鉄拳をもらった。 2班のK班長からも、連射砲の面汚しとして、数発の鉄拳を見舞った。 班に戻った処で、今度は班付先任のY兵長から殺されんばかりに、 殴る蹴るの制裁をもらった。 縦長の顔は横に拡がる程に変型し、片眼は腫れの為、見えなくなった。
私はこの夜は、マンジリともせずに、真剣になって、 脱走の事ばかりを考えて夜を徹した。 豆満江は直ぐ側を流れているし、渡り切って仕舞えば朝鮮だ。 東に走って北チグローワヤ山の麓に辿ればソ連領だ。 しかし、親、弟姉妹の事が頭に浮かんで終に思い留まった。
翌日、内務係、黒石曹長の出勤後、曹長に呼ばれて、中隊事務室に行った。 私は昨日の上靴窃盗の1件で憲兵隊に送られるものとばかり思って、 唯々、恐怖に戦いていた。
曹長は、「そこの椅子に腰を掛けろ」と言ったが、 ただ「ハイ」と云うのみで直立不動の姿勢でいた。 更に、軍曹が「腰を掛けろ」と言ったので、恐る恐る腰を掛けたら、 曹長は、私を見つめて、 「大分殴られたな 痛むか」と聞くので、痩せ我慢をして、 「何でもありません」と答えた。
「昨日の上靴の件は、今朝、班長から報告を受けた。 お前のやった事は、悪い事だ。 決して褒めるべきものでは無い。 お前は自分の行為をどの様に思うか」と曹長は訊ねた。 私は、「悪い事であります。後悔をしております。 どの様な制裁をもお受け致します」と答えた。
曹長は、「俺も初年兵当時、班長、古兵の無理難題に苦労した。 物品の紛失、事故などで懊悩した事、辛いだろうが、初年兵の間の辛抱だ。 今後、間違った考えなど起こしてはならん。 以後困った事があったら、直接、俺に話を持って来い。 今度の事は、内務係の俺止まりで処理し、中隊長殿には、内密にしておく」 などの事を諄々と訓戒された。
入隊以来、この時程、條理を尽くして説諭された事は無かった。 私は、曹長の前で声を出して泣いた。 止め度も無く涙が出た。 「もう良い。涙を拭け」と言って、ハンカチを出して呉れた。 また、涙が出た。 私は、申告をして事務室を去ろうとすると、 「一寸待て。以前よりは程度は落ちるだろうが、此れを履け」と言って、 代わりの靴を支給して呉れた。 有り難い事であった。
この黒石曹長は、 軍紀の弛み勝な、予備応召者には、鬼軍曹の様に思われていたが、 弱い立場の補充兵、初年兵には、正に味方の様な存在の人であった。 私的制裁は、軍隊内務令によって禁止はされていたが、 私達の部隊に関する限り、完全に守られていなかった。
軍隊内務令 第168 を引用する。
「犯罪ノ嫌疑者ヲ互選投票シ 又ハ私カニ懲戒 糾問 制裁等ノ行為アルヘカラス」
また、同令 第178を引用する。
「兵ニシテ事故アリタルトキハ何事タルヲ問ハス 速カニ内務班長ニ届ケ出スヘシ」
某日午前の演習を終り、班内に戻った処、 私の整頓棚に置いてある筈の予備の略帽 (正式名は略帽、一般的には戦闘帽と呼んだ)が見当たらない、のに気が付いた。 食後の後始末もあり、また午後も引き続いて演習があるので、 丹念に探すこともせずにいた。 毛布の中にでも謝って、畳み込んだ位に思い、 今日の演習後、探せば良い位に思い、気軽な気持でいた。
演習終了後、その訳を清水2年兵に話し、探すのを手伝ってもらったが、 寝床の附近には見当らなかった。 清水さんは、「一寸待てよ」と云って、 古兵の整頓棚をジーット見渡して居たが、 T上等兵(予備役、Y.K兵長と同年、洗濯嫌いで不潔感あり、 予備の為、班内では暇があるのか、唯、漫然と補充兵、初年兵のミス探しに懸命、 Y兵長に告げ口が、日課の一ツ、平素より彼の盗癖に2年兵以上の者、警戒あり) の整頓棚を見て「あの略帽は お前のだぞ」と言った。
見れば、確かに私のものである。 同じ様な形をしたものであっても、自分の支給されている物は、 直ぐに分るものである。 清水さんは、「俺に任して置け。他人の居ない、処で話を付けて遣る。 明朝厩作業の終るまで待て」と言った。 翌朝、清水さんの骨折りによって、私のものである事が確認された。
T上等兵に清水さんと私は交渉をした。 Tはここではマヅイ、別の場所で話をする」と言って、朝食後、 私達を洗面所に連れて行った。 そして、そこでTは 「俺の外出用の略帽の型が、 気に食はんのでかなわんから、止むを得ずの手段であった。 悪く思はんで呉れ。その代りに、日夕点呼までに、必らず員数を付けてやる。 それで良いだろう」と言った(軍隊隠語では数を揃えることを、 員数を付けると言った。 その為には、発見されなければ、盗品であると否とは一切不問)。
幾ら私が初年兵であるからとて馬鹿にするなと心中思った。 余りにも身勝手な言い分では無いか。 だが、このT上等兵は今までに私を含めて初年兵や補充兵に 1度も私的制裁を行なった事は無かった。 神様でも無ければ、かと言って、仏様の何れにも属さない男であった。 平素の気の小さい男でもあったので、憐憫の情も湧き我慢する事にした。
清水さんは、「お前それで良いのか」と尋ねたので、 私は、「良くあります。その代り上程度の物をお願いします」 と言う事で承知した。 Tは約束通り、何処でどの様にして、員数を付けて来たのか、 代りの物を持って来て呉れた。 程度は良く無かったが、我慢するより致し方無かった。 騒ぎを大きくする事によって罪人を出すのを怖れたし、 班長の制裁を最も怖れた。 初年兵と雖も、予備役応召の勲八等白色桐葉章に貸しが出来た事は、 大いなる優越感を味わった。 先ずは、1件落着であった。
軍隊では便所を厠(カワヤ)と呼ばせた。 私の満洲第4392部隊での生活中一番好き?な当番は、 この厠掃除当番(半週勤務)であった。 何も厠掃除を趣味と心得た訳では無かった。 大便器の雑布掛けは素手で行なう。 故に決して、愉快と言えるものでは無かった。 しかし、この当番に服し、掃除中は荒神様、神様連中の直接監視も無く、 また、その結果に就いても、唯の1度も文句を言われた経験が無かった。
掃除終了後、週番上等兵に報告をするのであるが、 滅多な事に点検にも来なかった。 おまけに、この当番に付くと石鹸の特配があった。 当時軍隊でも石鹸は配給制であり、 配給量丈では不足気味であった。 食事当番、中隊当番、班長当番などに比すれば、 異常なばかりの神経を消耗する事も無く、 苦痛からの大解放であり、この当番の好きな所以であった。
厠の事を記したついでに、 大便所の扉の内鍵を掛ければ、この臭い密室は、 初年兵にとっては、正に楽園であった。 理由は、配給の甘味品(軍隊では菓子類の事を カンミヒンと呼んだ) 主にカリントウであったが、この密室の中で喰べたし、 命がけで煙草も喫った。 また、家から友人から来た手紙も、この密室で何回も繰り返しては、 読んだものである。 軍隊生活をした者であれば、相当数の者がこの臭い密室で、 以上の様な少時の寛ぎを経験した事と思う。
満洲第4392部隊は、前にも記した様に乗馬騎兵であり、 3ヶ中隊だけの部隊であった。 歩兵科と異なり、少兵数であり、その上、勤務兵も多く、 病馬廠派遣勤務、官舎当番、他部隊教育分遣等々の者も多く、 為に不寝番は半夜交代であった。 初年兵同士や補充兵などとペアを組んでの不寝番勤務には、 何等の問題は無かったが、 神様連中と初年兵がペアを組んでの勤務が一番厭であった。
例えば、初年兵が前半夜勤務の場合、 深夜に交代時刻の約5分前に後半夜勤務の神様を起こす (この起こす時刻にも神経を使った。 10分も前に起こすと大目玉を喰うのである)と、 「ウン解った」とは云うが仲々起きないのである。 定刻を30分も過ぎた頃、再び起こすのであるが、 「ウルサイ判ってる」と言ったきり起きずに、 朝の起床ラッパ30分位になると起こしもしないのに、 起床して来て「直ぐ寝ろ。誰にも云うなよ」と言って、 後半夜異常無し」を報告するのである。 「寝ろ」と言われた、初年兵は、 襦袢袴下だけになり床には、一端入るが 起床ラッパが間も無く鳴るので、起床する演技も誠に辛いものであった。
一方、神様が前半夜勤務の際には、午後11時を過ぎた頃には、 必ずと言って良い位に、「腹が痛む」、 「頭が痛む」などの理由を告げては、初年兵に交代を強要するのである。
初年兵や補充兵は、文字通り不寝番であり、 対する神様は熟睡番であった。 但し、内務係、黒石曹長が週番士官の際は、 流石の神様も控えておった事である。
軍隊内務令 第165を引用する。
「上級者ノ取扱 縦ヒ不條理ト考フルモ 決シテ之ヲ争ヒ 論スルコトヲ許サス 但シ徐ロニ順序ヲ経テ其ノ意ヲ陳フルハ 妨ナシ 此ノ際兵ニ在リテハ 要スレバ直接 准尉ニ上申 スルコトヲ得 又 上申ハ二人以上共同若クハ勤務中ニ於テ 之ヲ為スコトヲ禁ス」
上記の前文は、確実に厳守を義務付けされて、実行されていた。 但し書にある様に、上申の途も開かれてはいたが、 この但し書は、兵に関する限りは、死文であり、空文であった。 中隊幹部は、この事実を識らなかったでは済まされぬと思う。 事実知っていたとするならば、 この不條理を確認する努力を怠っていたとしか思え無い。 この辺りにも、寄せ集め部隊の性格を垣間見る思いがした。
丁度その日は豪雨であったので、野外演習は中止になり、 砲廠(この部隊が建設される前には朝鮮人農民の耕作地であった。 その農地を強制買収して兵営を造った。 その際、土壁造りの家屋を取り壞はさずに、 そのまま、砲廠として使用していた。 粗末な扉に施錠はしてあったが、簡単に壞して入れる様なもので、 砲廠週番は勤務していなかった)で、 速射砲各部の名称の説明(学科演習と称した)が班長によって行われた。
軍特有の兵器用語であり、軍隊ボケしていた、頭脳では理解に苦労した。 文字を記し乍らの説明であれば、早く各部の名称も記憶し、 理解も出来たであろうが、「砲身」、「車輪」、「測距眼鏡」、「脚」位までならば、 実物を指し乍らの口頭説明でも理解出来たが、 「ヨウガ」、「キャクグ」、「チョウガ」(その他たくさんあったが、忘却) 等々になると、どの様な文字で書くのかな? などと考えるので、 仲々に骨が折れた。
その上に、砲に関する操典を取り出し、 弁慶がなー式の読み方で教育をするので、一層、理解に苦しんだ。 一応の教育も終はり、「質問があれば受ける」との事であったので、 上記片仮名の部品名に就いて、どの様な漢字を書くのかと、 私は質問した。 班長は、何を思ったのか「貴様。この野郎、ナメルナ。 ここを何処だと思っている。軍隊だぞ。学校では無いぞ」と言うが、 早いか鉄拳の往復を以て、質問に対する回答に代えた。
私は何の為の鉄拳なのか、この時は分からなかったが、 日を経るに従って判って来た。 この事があって以来、私は班長に質問する事を一切控えた。 班長に対する不信感は、一層募るばかりであった。
結果的には、私の無精に基くものであったが、 右手親指の爪が瘭疽 に罹った時の事である。 最初は多少、ウズク程度の痛みで、少しばかりの熱が患部にあった。 余り気にかける程のものでは無かった。 その日の消燈後から、本格的に痛む様になった。 熱も大分あった様であった。 就寝してから、左手で患部を強く握り絞めたり、 離したりを繰り返して居たが、痛みと熱は一向に解消しない所か、 増々痛みは激しくなり、体中が熱っぽくなった。 窮余の策で、私は飯盒に洗面所から水を汲んで来て、 その中に右手を入れて患部を冷やした。 気持ちが楽になった。 だが水が温まって来ると、その効果は薄れて来る、 その度に水を代えに洗面所に通った。
グッスリ寝て居た清水2年兵が気が付いて、 「お前は何をしているんだ」と訊ねたので、訳を話したら、 小声で 「お前、明朝の日朝点呼の際、班長に診断を申告しろ。 俺は明日、伝言使として北鮮の慶源行きだから、 休暇外出と同じ様なものだ。 寝なくても平気だ。 後は俺が水を汲んで来てあるからな」と云って呉れた時には、 「地獄に仏」の様な思いがした。 この時ばかりは、清水さんの親切に甘えた。 清水さんは起床ラッパの鳴るまで、何回も水を取り代えて呉れた。 有難たかった。 清水さんの寝ずの看護にも拘らず、痛みは更に激しくなった。 この為、一睡も出来なかった。
日朝点呼の時、清水さんは、 班長に診断を申告する様、再び奨めたが、 私は「日夕点呼まで我慢します」 とその忠告を素直に受け入れなかった。 班長や神様の制裁の方が痛みよりも、恐怖に思えたからであった。 日中の演習は、普段でも鈍な私は、指の痛みと熱の為、 一層、鈍になり、教官や班長から怒鳴られ通しであった。
その日の日夕点呼の際にも、診断を申告しなかった。 点呼後、伝書使勤務の清水さんが帰隊した。 清水さんの顔を見た途端、痛みに対する我慢の限界を越えて仕舞った。 清水さんは、「馬鹿だなあー。あれ程、俺が言ったのに」と言って、 初年兵教育助手の樺沢兵長(2年兵、下士勤)に伝えた。 樺沢兵長は、「お前もう手遅れだぞ」と言って、 中隊付衛生兵の緑川上等兵(2年兵)を呼んで来て見せた。
緑川衛生上等兵は、 「既に、軍医殿は退営された後だしなー。 しかし、明日まで放ってはおけん。 直ぐに、班長殿に報告した方が良い」と言っている処に、 Y兵長が来た。 Y兵長は、 「何ッ、瘭疽だと? それ見せろ。 何んだ大騒ぎする程のものぢゃねぇかよ。 北海道になんか石鹸などと言う文明品はないんだろう? 軍隊に来て初めて石鹸を見て使い方も知らんのだろう。 石鹸はなー、汚れを洗い落とすもんだ。 良く覚えて置け。 軍隊は医者料が、タダだと思いやがって、 このフザけた野郎、この位のものは俺様が治してやらあー」と云って、 往復ビンタをもらった。
そこえ、班長がやって来た。 「貴様、馬鹿野郎、班長を困らせる気か。 中隊長殿や黒石曹長殿に、ヤキを入れられるのは、この俺だぞ」と云って、 班長からも、数発の鉄拳をもらった。 班長と緑川衛生兵とで話をしていたが、医務室に行く事になった。 この週の週番士官は、名は忘れたが、確か、甲幹出身の見習士官であった。 第2班長のK軍曹も一緒に医務室に来た。
軍医官の診断による手術では無かったので、 麻酔薬の使用は許されなかった。 手術は飽くまでも軍医官の診断を要したが、 週番司令、週番士官、本部付衛生曹長、3者の暗黙の諒解の下に行なわれた。 班長は、私の体を後ろから羽交締めに押え込んだ。 緑川衛生上等兵が私の右親指を固く握り絞めた。 K軍曹が私の左手首を両手で握り絞めた。 本部付衛生曹長が一段高い台に登った。 緑川上等兵が眼を閉じろと言った。
私はすっかり諦めた。 覚悟した。 本部付衛生曹長が、 「この位、化膿していれば、手術に丁度手頃だ。 何、虱が噛み付いた程の痛さだから、安心しろ」と言うが早いか、 麻酔無しの幹部にメスを入れた。 私はこの世の地獄では無いかと思う程の痛みを全身に感じた。 耐え切れずに班長等3名にブラ下がった。 K軍曹に脇の方から蹴飛ばされたが、 直ぐには立ち上がれるものでは無かった。 軍医官の診断無しの手術であった為に、正式の練兵休は許可にならず。 従って、その後の治療はすべて軍医官退営後の主に日夕点呼後であった。
馬手入れの際、左手では蹄洗も思う様にならない為、 患部のある右手を使った。 治療中と雖も、化膿は4回繰り返した。 傷の完治には4ヶ月を要し、更に満足に近い状態に爪の形がなるのには、 憲兵教育隊に分遣されてからの事であった。
軍隊内務令 第233を引用する。
「劇毒薬ハ錠アル容器ニ収容シ 其ノ鍵ハ衛生部将校之ヲ 保管シ退営ノ際 内務衛兵司令ニ預ケ置クヘシ」
某日、私は厠(便所)に行く為に、班内に居た最上級者のY兵長 (班付先任)にその旨を告げるべく、 「中倉二等兵 只今より厠に行って参ります」と申告し、 班を出ようとしたら、その途端に、常に初年兵や補充兵のアラ探しに、 極めて精勤な彼は、 「中倉一寸待て。オイ、皆んな聞いたかよ。 中倉の奴、二等兵と言いやがった。 これでも、二等兵の心算で居るらしいぞ。 ロクな演習や内務も、シクサランで、 事務室ばかりにシケコミ やがって、フテエ奴だ。 テメエ見テエナ奴は、陸軍二等兵の下の陸軍劣等兵と言うんだ。 解ったか。解ったらあと1回やり直しだ」
私は止む無く、「中倉劣等兵は ・・・」 と心中、穏かならざるものを抱きつつ申告した。 Y兵長は更に、 「オイ、皆んな、聞いたかよ。 中倉の奴、自分から劣等兵と名乗って居りやー、世話ネエヤ。 軍隊は、これだから退屈、シネエヤ。アハハハハー」 私は、「忍」の1字で耐えた。 だが、天罰覿面、 その週の週番士官の内務係、 黒石曹長の耳に、どこからどの様にして、伝はったのか、 その日の日夕点呼後、Y兵長は事務室に呼ばれて、 曹長から鉄拳制裁を受ける結果となった。 私の不穏な感情は、心で「ザマ見ろ」と叫んだ事によって解消した。
私達の満洲第4392部隊が間島省琿春から、 北満、三江省、佳木斯に 移駐する直前の頃であった。 私が熱発で、医務室の休養室に入室していた時に、 日夕点呼後、私達の内務班長M軍曹が珍らしく、本当に珍らしく、 笑顔(荒神様の笑顔を入隊以来初めて、この時に見た)で、 私の入室している休養室に入って来た。
大分酔が廻っていてロレツがはっきりしない。 班長は、「俺は今度、東京城(牡丹江省寧安県 ー 日本人は トンキンジョウと読んだ。満人は ドンピンチェンと読む) の航空隊に転属の命令を受けた。 着任後、曹長昇任の内命までもらった。 今度は、営外居住になれる人だ。 今まで速射で苦労した甲斐があった」 と一気にシャベッテ、良い機嫌で帰って行った。
私は、班長が転属になり、この部隊に居なくなるのを非常に嬉んだ。 その意味で、「御芽出度うございます」と言って祝ってやった。 班長は、「東京城」をトンキンジョウと言わずに、 トウキョウジョウと言って戻った。 班長は、准士官、下士官、集会所で送別会を催してもらった帰りに、 私の処に立寄ったのであった。 班内随一の劣等兵である私の処まで、転属を知らせる為に、 立寄ったのであるから、余程嬉しかったのであろう。
班長が帰った後で、私の瘭疽の手術にメスを入れて呉れた、 本部付衛生曹長が私の入室している休養室に入って来て、 「M軍曹の奴、送別会の席上で頻りに、トウキョウジョウを連発して、 内地の東京に転属して、宮城警備専門の航空隊に行けるものとばかり、 1人合点して得意になっていたのを、その誤りを誰も指摘せずに、 御芽出度うを別の意味で言ってやり、景気付をしてやった」 と話していた。
私は、その話を聞いて、滑稽にも思ったが、 同時に憐れみの様なものも感じた。 班長の転属を義理にも惜しむ、初年兵や補充兵は、1人もいなかった。 全部隊の下士官連中も、M軍曹の転属を或る意味に 於て拍手して歓送した事であろう。
私は、憲兵転科後の任地は、 石頭(セキトウ、牡丹江省寧安県石頭村)であり、 東京城には石頭憲兵派遣隊と同じ、 寧安憲兵分隊指揮下の東京城憲兵分遣隊があり、 度々事務連絡に出張した事があった。 その折に、航空大隊に転属したM軍曹のその後の消息が知り度くて、 庶務主任、下士官に調べて呉れる様依頼した。 だが、その時には既に、その航空大隊そのものが、 他処に移駐した後であったので遂に分からず仕舞いであった。
一期検閲の直前の頃であった様に思う。 私は、班長に呼ばれて下士官室に赴いた。 そこで、班長から「蹄鉄工兵を志願する様」申し渡たされた。 私は、「希望しない」旨を答えた。 不思議な事に、その日は何事も無く班に戻った。 それから数日して、再び班長に呼ばれて、下士官室に行った。 この時も班長から、再度、「蹄鉄工兵志願する様」に申渡された。 この時も前回同様辞退した。
班長は、「お前の親は牧場を経営しているので、蹄鉄工兵になれば 除隊してから、大いに役に立つぞ」と言って、頻りに志願する事を迫った。 私は、再三、辞退した。 班長は、殴る事もせずに辞退の理由を訊ねた。 私は、「志願は飽くまでも個人の意志に基くもので、 他から強制されるべき性質のものでは無いと思います」と答えた。
私は、既にこの頃から、他部隊に転属の事ばかりを希望していた。 劣等兵は、劣等兵らしく、除隊まで、 満洲二等兵を覚悟と言うよりも進級は戦死するより他に無いと、 諦めておったし、班長を軽蔑し切っていたしで、 班長には不貞腐った態度をとる事にしていたので、 殴るなら殴れと思った。
按の定、班長は昂奮した、 「俺は中隊長殿の命令に従って、お前に志願をする様、話をしている。 貴様は、中隊長殿の命令を聞けんのか」と怒鳴った。 私は、「黒石曹長殿に相談します」と答えた。 「貴様、何を言うか。班長を馬鹿にするのか」と言って、 往復ビンタ数発を見舞はされた。 私は、不貞腐った態度で気の済むまで殴れと思って、 長を睨み返えした。 「貴様、この野郎、班長に反抗しとるな」と言って、再び殴ぐられた。 口の中が切れた。 鼻血も出た。 私はこの時、班長に対し、真剣になって殺意を覚えた。
軍馬の多数居る部隊(騎兵 野砲兵 輜重兵など)には、 落鉄予防、及び落鉄した際の蹄釘締めの要員として、 各中隊に数名の蹄鉄工兵を控置した。 「死よりも怖い テッチン工」、或いは 「死ぬ方が楽なテッチン工」と称し、その修業の激しく、 かつ 厳しい事の表現した。 「テッチン工」とは、蹄鉄工兵の軍隊隠語也。 この代役は、真面目な事では、中隊随一の同班同年兵の横木藤吉君 に白羽の矢が射られ、立派に修業を終え、後日「装蹄師」の免許状を 師団獣医部隊長、及び 農林大臣より下付された由である。
それにしても、横木藤吉君(増毛郡増毛町)には、 誠に申訳の無い事であった。 紙上から深くお詫び致します。
蹄鉄工兵志願強要のお粗末劇の数日後、 私は内務係、黒石曹長に事務室に呼び出された。 曹長に蹄鉄工兵志願を奨められたら、 どの様な理由を付けて辞退しようかと、 その事ばかりを考えて曹長の前に進み出た。
だが案に相違して、蹄鉄工兵の事は何も話は無く、 曹長は、「俺は高田軍曹から聞いたのだが、 お前は憲兵志願であると言う事だが、本当か」と訊ねられた。 私は、「ハイ」と答えた。 曹長は、「憲兵には下士官志願と兵志願の2通りあるが、 どちらを希望するか」と訊ねた (下士官志願の外に兵志願がある事をこの時初めて知った)。 曹長は、更に「下士官志願は、在営1ヶ年以上。 兵志願は、5ヶ月以上と決められている」と付け加えた。
私は、タコ部屋同然の内務班から、 1日も早く脱け出し度いと望んでおったので、 下士官志願であろうと兵志願であろうと、 その様な事は一向に頓着しなかった。 私は、本音を隠して、 「自分は長男であり、ますから兵志願をします」と建前論で答えた。 曹長は、「良し諒解。その様に、本部に上申の手続きを採る。 帰って宜敷い」。
私は、正直言って、天にも昇る思いがした。 これで、どうやら俺も、ウマク行けば、脱け出し可能だなー、 しかも、合法的に荒神様や神様連中と縁が切れるなー、 と思ったら、急に軍隊がバラ色に感じて来た。 私は、高田軍曹の使役に出た折々、 他部隊に合法的に転属する方法を訊ねた事があった。 高田さんは、「お前はそんなにM軍曹が嫌いか。 良く解る様な気がするよ。憲兵志願をする気は無いか」。 私は、即座に「あります」と答えた事があった。 その事が黒石曹長に伝えられたのであろう。
この事があって間も無く、班長から、 「お前は黒石曹長や高田軍曹には話は出来ても、 班長の俺には話は出来んのか。 班長を無視している証拠だ」として、 入隊以来最大級の鉄拳をもらった。 心中で「当たり前だ」と叫んだ。
憲兵志願の意を内務係に伝えて間も無く、 私は中隊命令によって、事務室使役を命ぜられた。 勤務の内容は、内務係管掌事務の助手である。 具体的には、中隊員の功績名簿、軍隊手配、勤務割出簿、などの精書、 命令回報簿の整綴、日報記入、その他の係の書類整綴、 その他等々であった。 事務室には既に、3年兵の兵長、関 豊さん(四制美校卒、 旧制中等学校教諭、現ー東京都、練馬区)が助手として勤務していた。
執務に就いての要領、その他などに就いて、直接懇切に指導して頂いた。 人格、識見、教養ともに尊敬すべき、立派な方であった。 中隊に掲示するすべての毛筆書は、すべて関さんの筆によった。 見事な書であった。 関さんの様な人がどうして、 幹部候補生を志願しなかったのか不思議に思っていたので、 2人丈の時に、事務を執り乍ら聞いた事があった。
関さんは、「落ち幹」だよと言ったのを、私は「乙幹」と聞き違えた。 それにしては、幹候を表示する徽章(俗に座金と称した)を付けて いないので、更に尋ねたら「落ち幹」と言って、 甲乙共に幹部候補生、不合格の事を自蔑する意味だよ、 と説明して呉れた。 「落ち」と「乙」の聞き違えであった。
黒石曹長からは、 「執務中識り得た件に関して、如何なる事も他言する事を禁」ぜられた。 個人の名誉に関する極秘な事もあった様に、記憶する。 この事務室使役に勤務する事によって、 神様連中からは以前よりも更に、初年兵のクセに、 生意気な奴だと言う事で冷遇される羽目になった。
遂に来た。 私は、この日の来るのを、一日千秋の思いで待っていた。 憲兵志願の希望を内務係 黒石曹長に伝えたのは、 部隊が未だ琿春に駐屯して居た時であった。 部隊は師団が三江省佳木斯に移駐したのに伴ない、 同様に移駐した為に、憲兵志願は取り消しになったのでは無いのか、 と危惧していた。
処が、内示は移駐後、程無くして、 正式発令の5日程前に、黒石曹長から伝えられた。 内示後は、黒石曹長から中隊事務室で 受験準備の勉強をする事を内々に許可された。 しかし、それを勉強するにしても、 どの様な問題が出るのか分らなかった。 それにも増して、参考になる様な書籍類も無かった。 仕方が無いので、軍人勅諭、戦陣訓、典令範など、 中隊事務室、備付けの本を手当たり次第読んだ。
高田軍曹や関さんから、 「幾何や代数なども出題されるかも知れんぞ」と言われたが、 軍隊ボケして、しまっているので不安になって来た。 高田さん、関さんに問題を作ってもらって、 解いて見たら案外簡単に解けた。 尤も、問題はそれ等の極く初歩的な程度のものであった。 それでも、自信の様なものが多少なりとも湧いて来た。
いよいよ、採用試験が明日に迫った前夜の回報の折に、 高田軍曹によって、命令が達せられた。 「中倉二等兵は、明日、午前8時30分、佳木斯憲兵隊本部に出頭すべし」。 各中隊から、受験者は各々1名であった。 1、2中隊の受験者は、2名とも2年兵であった。 初年兵は、私1人であったので心細かった。 当日は、軍用トラックに乗せられて、 本部付曹長の引率で佳木斯憲兵隊本部 (一般警察では、当時の道府県警察部に相当)に出頭した。
本部前庭には、既に多勢の受験者が各部隊より集合していた。 その内に続々と受験者が集合して来た。 その面々を見ても、優秀な者達に見えて、 私は試験場に入る前に既に不合格を覚悟してしまった。 受験者の中には、精勤章をこれも3本も付けた、 2年兵、3年兵と思われる上等兵の階級の者が相当数居た。 その証拠に、軍服も上等の部類のものを着て居たし、 私の軍服の様に三装以下のクタビレ果てたものを着ているものは、 居なかったのと、如何にも軍隊馴れした態度であった。
やがて定刻になり、呼名点呼により呼び出され、 受験番号票を渡され、試験場である大講堂兼武道場に入り、 指定の番号席に着席した。 1、2中隊の2年兵も神妙な顔をして着席した。 試験管は、憲兵中尉であった。 その他に准尉、曹長、などの補助官が数名居た。
試験官から受験に当たっての注意が達せられ、 本日の受験者総数150名、採用予定者約40名、 試験内容は、憲兵下士官志願者と全く同様である旨が述べられた。 3.75倍の競争率である。 全然気おくれしてしまった。 これでは完全に駄目である。 試験官は、「受験に自信の無い者は、 答案用紙配布前に退席して宜敷い。 その分だけ、採点の手間が省ける。 遠慮するな」と云った。 此れには度肝を抜かれた。 激しく自信が減退した。
だが、誰も退席する者は居なかった。 試験科目は、修身、国語、数学、歴史、公民、面接、などであった。 どの様な問題であったか、その殆を忘れたが、 未だに記憶に残るのは次の様なものであった。 「朝見の儀」(天皇の践祚の際に群臣を召して、勅語を賜う儀式)。 これは昔、学校で習った事はあったが、不勉強の為、思い出せずに (天皇が臣下に謁見を賜う儀式)なる迷答を書いた。 これは、面接試験の折に憲兵准尉から「勝手な解釈」として、 指摘された想い出が濃厚に、今に到るも残る。 あと一つは、「天尊降臨の詔勅」を誤字、当て字、脱字、無く記せ、であった。 この勅分は分ったが何としても、正解の漢字の思い出せない、 ものがあったので、その部分は片仮名で書いた。 これも面接の折に、勉強不充分なりと指摘されたのを今以て想い出す。
試験は、午前9時開始され、昼食の1時間を除いて、 午後5時まで一杯行なわれた。 帰途トラックの荷台上の3名は、全員不合格を決め込んで仕舞った。
翌日、黒石曹長、高田軍曹、関さん達から、 「試験はどうだった」と聞かれたが、 「駄目でした」と答えるより他は無かった。
前項までの記述の中で各所に、荒神様、神様連中の野蛮性を 真実のまま書き綴った。 この様に書いて来ると、 私達の中隊は悪鬼の棲家の様な印象を持たれる事を避ける為に、 人間性豊な人々の居た事も併せて記し度い。 在隊中の好印象が現在に到るも記憶にある方々は、
中隊付幹部 | |||
曹長 | 黒石義美氏 | (現役 高知県香美郡) | |
軍曹 | 高田國康氏 | (現役 東京都西多摩郡) | |
第1内務範 | |||
兵長 | 富田平吉氏 | (予備役 埼玉県秩父郡) | |
兵長 | 樺沢藤吉氏 | (現役2年兵 群馬県勢多郡) | |
上等兵 | 伊藤 由氏 | (現役2年兵 茨城県水戸市) | |
一等兵 | 清水 滋氏 | (現役2年兵 静岡県) | |
他班 | |||
兵長 | 関 豊氏 | (現役3年兵 東京都練馬区) |
同年兵、補充兵は言うまでも無く、同病相憐む仲であり、辛苦を共にした。 最も信頼のおける、そして遠慮無用の同郷出身の者達ばかりである。 その友情は、絶える事無く続いており、毎年開催の戦友会には、 会旗の下に顔を揃える仲間である。
半ば以上、憲兵に採用される事は諦めては居たが、 心の片隅には、若しやと言う淡い望みが無い訳では無かった。 採用試験から相当の日が経た頃、 関さんと共に事務室で執務していた時、 朝から本部に行っていた黒石曹長が戻って来た。 曹長は、思はせ振りな笑いをして、私の方を見ていたが、 「中倉来たぞ。良かったな」と言った。 私は咄嗟に、「憲兵の事でありますか」と尋ねた。 曹長は、「その通り。この部隊では、お前1人だけ合格だ。 詳しい事は後で話す」と言って、中隊長室に入って行った。 関さんは、「良かった。良かったなー。 俺は合格間違無しと思っていた」と言って、 我が事の様に嬉んで祝って呉れた。 やがて、中隊長が曹長と一緒に事務室に来て、 「中倉、おめでとう。だが俺は憲兵と言う兵科は気に入らんのでなー。 中倉が断はる気があるなら、今から断っても差支無いんだぞ。 黒石曹長にも話はしておいたが」と言って事務室を去った。 私は起立して聞いていたが不安になって来た。
中隊長は、口ではおめでとうと祝って呉れたが、 腹の中では採用をどの様に思って居るのであろう。 判断に迷った。 傍らの曹長は、 「中隊長殿は、あの様に云ってはおるが、お前の決心次第だ。 うちの中隊長殿は、憲兵嫌いで有名だからなー」。 そこえ、高田軍曹が入って来た。 曹長が軍曹に私の話をした。 高田さんも、 「良かったなー。お前の念願成就したなー。おめでとう」 と嬉んで呉れた。
私は、「有り難くあります。シッカリ頑張ります」 と大声で皆にお礼を言った。 曹長は、「正式に聯隊命令は未だ出ておらん。 本部の書類を見て来た丈だ。近く命令が出るが、 それまでは、口外をしてはならん」と申し渡された。 それでも、私は嬉さの余り、能田、佐藤、の両君(劣等兵仲間)には、 「口外しない様」に頼んで内密に知らせた。
両君とも、「お前、本当か。良かったなー。 うまくやったなー。ここを脱け出すのは、お前1人で、ズルイゾ」 と云って、祝って呉れたり、羨ましがられたりした。 今までの隠気が一度に晴れた。 神様連中など、怖くは無いぞと大声で叫びたかった。 出発3日前の日夕点呼時の回報の折に、 高田軍曹から命令が達せられた。 「陸軍二等兵、中倉鹿三、昭和19年10月○日付ヲ以テ 関東憲兵隊教習隊ニ分遣ヲ命ス」。 班内で祝って呉れたり、別れも惜しんで呉れたのは、 同年兵の諸君であった。
この発令後、急に態度の変ったのは、神様連中であった。 「中倉、憲兵になれば、 原隊駐屯地の憲兵分隊に勤務する様になるはずだ。 その時には、外出日の取締りには、手加減して呉れよ」 であった。 そして、Y兵長(下士勤)の如きは、 「被服係に話してやるから、被服類は一装用ばかりに交換してもらえよ」と、 お世辞を言った。 私は、最後の抵抗を試み、キッパリと「御心配無用」と断った。 Y兵長より先に内示、直後に高田軍曹と関さんの骨折りにより 既に、中隊事務室に、全部新品の被服類が用意されてあった。
新京(現、長春市)に出発する前は、 黒石曹長に呼ばれ、「明日は、出発が早いから、 これから本部に行き、部隊長殿に、分遣出発の申告を行ない。 帰りに経理室に寄って、旅費の支給を受ける様」 申渡された。 二等兵が中隊長に直接口をきく事の稀な軍隊なのに、 佐官、それも大佐部隊長に、唯の1人で申告する事の重大さに、 威圧感を覚えた。 私が「ハイ」の返事を躊躇していると、 曹長は「これから憲兵になるものが、その様な事でどうする。 1人で行って来い」と言われて、 曹長の前で、申告の予行演習を数度、繰り返えし、 完全武装をして、恐る恐る本部に行った。
本部週番、下士官に申告の来意を告げると、 「一寸待て」と言って、本部事務室に案内された。 間も無く、週番司令が来て、 「部隊長殿は、目下司令部、出張中に付き、代って本官が受ける」と言った。 私の緊張感は、少しは解けた。 申告も無事終はり、経理室に立寄って、 新京までの旅費その他を受領し、中隊に戻り、 中隊長以下の幹部に申告し、班に戻って、 班長(この頃は、M軍曹は他に転属し、軍曹に昇任した 遠田さんが班長になっていた)に申告し、古兵や同年兵に挨拶した。
この時、佐藤 昌徳君から初めて、 「実は、俺も憲兵志願を申し出てあったが、受理してもらえなかった」 事を聞かされた。 私は、「次の機会があるさ」と言って、詫びたり、慰めたりした。 その夜は、嬉しさの余り、熟睡出来ずに、厠に何回も往った。 翌日、佳木斯駅までは、乗馬で2年兵の伊藤 由、上等兵が 付添って送って呉れた。 伊藤さんからは、 「体に気を付けて原隊差し戻しになる様な事の無い様、シッカリ勉強しろよ」 と激励された。 私は今までの厚情を謝し、駅で別れた。 伊藤さんは、2頭併馬で何回も振り返えっては、手を振って帰隊して行った。 私はその度に手を振って、それに応えた。
佳木斯駅に集合した各部隊の合格者は、佳木斯憲兵隊 本部付 曹長の引率の下に、途中、牡丹江、哈爾浜、など経由で新京に向かった。 部隊経理部の主計将校から支給された旅費、 その他の全額は確か50円近かった様に思う。 処が、私達一行の旅費その他は、すべて佳木斯憲兵隊本部の 経理によって支出されている事が引率曹長の説明で分った。 どちらがどう言う手違いに依るものかは解らなかったが、 二重に支出されたのであった。 この二重支給は、一行の中で私1人だけであった。 曹長は、「後日返還命令があるかも知れんから、 教習隊到着後、所属内務班長にその旨を申告しろ」 と言われた。
しかし、この金の返還命令は終戦に及ぶまで無かった。 教習隊卒業の時には、班長から、 「預かって居た金を返す」と言って返金して呉れた。 同行の合格者の中に富錦の歩兵部隊から来た2年兵の上等兵が、 「返還命令などあるものか、その様な事をしたら主計将校のミスになるばかりだ。 お前皆んなにオゴれよ」と言ったので、私は遂にその気になって、 手持ちの小遣い銭の中から途中の駅で何を買ったか忘れたが、御馳走した。 同行の殆んどの者は、車中で既に友達になり切って、四方山話に打ち溶けた。 次の日の夕方、初めて見る新京に到着し、教習隊、第3中隊、第2区隊、 第4内務班に落ち着いた。
正しくは、「関東憲兵隊教習隊」と称した。 略して「関憲教」と呼んだ。 教習隊の教育内容を述べる前に、教育指導の在り方を述べる。 「憲兵を儀表兵科と定義し、監軍護法の精神に徹せよ」、 が教育の大きな柱であった。 従って、法律学科は勿論であったが、内務教育もまた、 法律学科と同程度に重点を置いた。 内務教育の厳しさは到底、 他部隊の追随を許さぬ程のものであった(歩兵科部隊出身者多数の言)。 内務の採点によっては、脱落する者さえあったのである。 教習中に、この事によって原隊差し戻し処分を受けた者が、 同一区隊に少数ではあったが居たのである。 「他を律する者は、先ず己を律せ」であった。
教習隊の個々を単なる消耗品としての兵の取扱で無く、 1人の立派な人格である有能な軍人としての待過であった (壱銭五厘視的、野蛮思想否定)。 幹部が教習兵を呼名する際は、絶対に呼び棄てにしなかった。 例えば、「○○候補者」と呼び、「○○二等兵」、「○○上等兵」 と呼ぶ事は皆無であった。 全員を同じ目的の下に、修学する同列同級の候補者としての処遇であった。 同列同級の候補者なるが故に、新年兵、二等兵も、 三年兵、上等兵も、同列同級としての取扱いである為に、 各種当番、日直取締り勤務などは輪番制であった。 教習兵同士が、相手を呼ぶ場合は「○○候補者」、または、 呼び棄てで良かった。 私の場合、初年兵、二等兵であったので、 相手が年次階級ともに私より上位者を呼ぶ場合、 呼び棄てにするのを少なからず躊躇したものであった。
幹部から教習兵を呼ぶ場合、 「お前」「こらっ」「貴様」などの罵言を発する事は絶対に無かったし、 私的制裁も、また絶無であった。 内務の厳しさは、他に類を見ない程のものであったが、 私的制裁、罵言も無く、人間的な扱いであり、 荒神様、神様も居ない環境下にあった為に、 それ等の者の私用雑用からの解放であった。 精神的には、原隊とは比較にならぬ位、余裕が出来た。
班長は、軍曹、または曹長であった。 軍曹以下は実科教官であり、 曹長以上、准士官、将校は、学科教官であった。
教習兵、全員が最も怖れたのは、陸軍志願兵令 (昭和17年11月17日、勅令、第802号にて改正)、 第87條であった。 即ち、
「憲兵 兵候補者ニシテ左ノ各号ノ一ニ該当スルモノハ憲兵候補者ヲ免ス」 として、
以上の條文中の何れに該当しても直ちに、憲兵候補者を免ぜられ、 原隊差し戻しの憂目に遇う事になるのであった。 前にも記したが、以上の條文の何れかに該当して (学科について行けぬ者が最も多し)、原隊差し戻しになった。 差し戻しになったら、不名誉と言う事で、互に良く頑張ったものであった。 候補者の身分は、夫々が原隊より教習隊に教育の為に、 分遣命令により来ている以上、籍は原隊に在り、 教習隊は教育の為の飽くまでも仮の宿であった。 私は憲兵兵を志願したのであるが、陸軍補充令 (昭和17年11月17日付、勅令第801号にて改正)により、 即ち、 「兵役法ノ定メル処ニ従カツテ 2年乃至 3年 現役服務ヲ終了シタル後 除隊セシメルモノニシテ 長期服務スルモノニ非ス」とされたものであった。
大東亜戦争により、戦域の拡張に伴ない師団の増設。 従って、憲兵の需要もつれて、大幅に要求された。 憲兵の補充は、予備、後備の在郷憲兵の召集のみにては、 在郷憲兵の絶対数の不足の為、その充足に大いに支障を及ぼしたのである。 しかし乍ら、それ迄の憲兵養成は、下士官を養成するのが建前であった。 下士官養成を従来通り続行していたのでは、 将来憲兵下士官の過剰を生起する事になり、 憲兵人事に差支る事を予防しての、兵候補採用の措置を採用したのである。 従って、憲兵、兵候補者は、卒業後、憲兵上等兵を命ぜられると、 拝命後の勤務成績によって、予備役編入除隊までに、 上等兵、または兵長特に成績優秀者は、 下士官勤務適任証授与される事になっていた。
憲兵兵制度が創設されて、私達は第2期目の候補者であった。 第1期の憲兵上等兵は、私達が教習中に既に、 憲兵隊に於て活躍中であったが、 実務勤務に当たって難点が相当に指摘されたとの反省の下に、 兵候補者と雖も、第2期目からは、下士官候補者と教育に際し、 全く差を付けぬとの方針が立てられた。 従って、私達は兵候補者ではあったが、教育内容は、 下士官候補者と全く同様であった訳である (第3中隊長 吉川大尉 卒業直前少佐昇任の入隊直後の訓示による)。
憲法(日満)、刑法(日満)、陸・海軍刑法(日満)、治安維持法(日満)、 刑事訴訟法(日満)、裁判所構成法、陸海軍軍法会議法、 満軍軍法会議審法、特別高等警察(思想対策)、 服務教程、陸軍懲罰令、兵役法、徴兵令、軍隊内務令、 作戦要務令(抜粋)、陸軍礼式令、軍律会議法、 外国語(満、鮮、露の内、1語任意選択、必須)、指紋法、その他
乗馬、拳銃操法、逮捕術、留置場監守、救急看護術、巡察、 停車場取締、高官護衛、護送、警務書類、司法書類作成、外来者応接、 剣術、分隊教練、指紋採取、足跡採取、その他
犯罪心理学、吟詠、空手術、その他
相当の覚悟はして、教習隊の門を勇躍して入ったのであったが、 多数の教科書を一度に支給された時は、驚いたものであった。 先ず、学科授業に耐え得るか否かであった。 同じ教習兵の中には、旧制高校、旧制専門学校は言うに及ばず、 旧制大学卒業者が多勢居た。 その連中と肩を並べての勉強であった。 平時ならば憲兵教習兵の教育は、満1ヶ年を要した、との事であったが、 戦況逼迫の最中、憲兵供給が急を要すると言う事で、 これを6ヶ月に圧縮教育すると言う事であった。 卒業時には、更に1ヶ月短縮され5ヶ月であった。 1日の授業は、10〜12時間に及んだ。 さればとて、内務の手加減は絶対に許される事は無かった。 夕食後、点呼時限まで授業は続けられ、 毎夜の様に復習の為の延燈の世話になった。 全員が原隊差し戻しの憂目に遇う事の汚名は、受け度く無かった。 正に真剣勝負そのものであった。
班長(千村軍曹)の話に依れば、数年前、原隊差し戻しになった兵が、 原隊に帰隊途中、列車の走行中、原隊差し戻しの汚名に耐えられず、 飛び降り自殺を図った者があった、との事であった。 この為に以後、原隊差し戻しの際は、原隊より差し戻し兵、 受領の為、付添、下士官の派遣方を要請しているとの事であった。
学科の中で、私が最も興味を魅かれたものは、 思想対策の特別高等警察、服務教程であり、次いで満語であった。 私は当初、班長から鮮語を選択してはどうかと言われたが、 取り付き難い気がしたので満語を選択したが、 思想対策に興味を感じてから、鮮語にすべきだったと思う様になった。
思想対策の中に、資本主義、社会主義、共産主義、自由主義、民主主義、 帝国主義、帝国主義の崩潰、共産党、八路軍、国民党軍、ロシア革命、 労働組合、地下秘密組織、アジト、オルグ、スパイ、武装蝶者、二重蝶者、 平時謀略、戦時謀略、その他、沢山の耳新しい用語、地名、人名、 (李承晩、金日成、毛沢東の名を記憶する)等々の講義に興味津々、 1時間の時限の短さに不満を覚えた。 その様な具合の為であろう、良く教官に質問した。 教官からは冗談に、「変な方に、思想転向するなよ」 と言われたものであった。
教官の氏名を忘却したが、満洲事変、当時、 新任の憲兵上等兵として従軍し、後、准尉の際、 予備役編入願を出して、満洲国警察に奉職中応召し、 少尉に特進して教習隊に勤務していた。 「現役中は特務専門に勤務の為、 軍事警察(警務)の経験は零に近く、憲兵としては片輪と同様だ」と、 講義の合間に話されておった。 私達の卒業直前、中尉昇任、鮮語、満語、などの 2等通訳免許状所持者であった。
満語の教官は満人であったが、青春時代、早稲田に学んだ丈あって、 日本語は日本人よりも品よく上手であった。 神田の古本屋、浅草の観音堂、銀座のカフェー、 などの想い出話などをしては、懐旧談をして呉れたり、 親しかった学友の1人に関西出身の者が居たとの事で、 関西弁を披露しては、私達を笑わせた。 また、満洲娘(歌謡曲)の歌詩、 「私シャ16満洲娘 春3月雪解けに・・・」を満訳しては、 小声で歌って、聞かせて呉れた。 歌った後で、「班長殿や区隊長殿には、内証にして下さいね。 分かると軍法会議に送られますから」と冗談を云っては、 笑わせたものであった。 「皆さん、お嫁さんをもろう時には、満洲娘をもらいなさい。 皆さん、満語が上手になりますよ」と言っては、更に笑わせた。 「教官殿」と呼ぶと、「教官殿はやめて下さい、 「李」さんと呼んで下さい。 教官殿と呼ばれると皆さんとの間に厚い壁が出来ます」 と度々言っていたが、私達にとっては、先生であるので 「教官殿」で押し通した。
李教官は、満洲国、国務総理、「張 景恵」に良く似た風貌で、 如何にも大陸的性格の落着いた人であった。 学校時代、英語が最も不得意であったに拘らず、 教習隊で満語の時間が楽しみになれて、授業に付いて行けたのは、 「李教官」の人柄と教え方の優れていた為では無かったかと思われるのである。
教習隊の教官では、思想対策と満語の両教官の好印象が今だに 強く記憶の中に快く残る。
教習隊の教育期は、満洲の厳寒期に当たる、10月〜3月初旬であった。 学科は広い大講堂で行なわれた。 そこには何基かのペチカが設置され、燃えさかっては居たが、 ガラス窓は終日厚い氷が凍て付いており、 室内で鉛筆を握る手は冷たく、足元は冷えた。 手を軽く摩擦し、足指を絶えず屈伸させても、尚、温みは来なかった。 連日の圧縮授業と内務の厳格さの為、寒さと疲れが加わって、 授業中、度々、睡魔に襲われた。 時間にすれば数瞬時であったと思うが、良く舟を漕いだ。 その様な時でも教官は怒る事無く、青年兵の興味を魅く様な 少しエッチな話題を持ち出し、皆が(舟漕ぎ兵を除く)ワッと笑った、 処で話を止め、本論に立戻った。 皆の笑声で舟漕ぎ兵が眼を覚ますのを見届けた上で、 「○○候補者は鈍いなー。教官の色話が解らんかね」、 と暗に居眠りに注意を与えたものであった。
実科で最も厳格に教育されたのは、拳銃操法、実弾射撃、 逮捕術(捕縄術)、救急看護法、軍刀操法、などであった。
拳銃は、誤発、暴発、軍刀は混雑中の抜刀、何れも万一誤れば、 他人、自己の殺傷に及ぶものである。 この術科には、中隊長、直々の監督の下に、 特に声を励ましての演習であった。 過去の過失の事例を挙げて、誤ちを警防した。 「憲兵武器、使用の限界」は、軍令憲兵である 関東憲兵隊司令部に於ては 「自己又ハ他人ノ緊迫不正ノ侵害ニ武器ヲ用ウルニ非サレハ 他ニ回避スルノ暇ナキ時」の條文の外に3ヶ條あった。 この武器使用の限界は、暗唱し置く事を命ぜられ、 刑法講義以外の授業中にも、突如指名されて暗唱させられた、 ものであった。 卒業試験には、当然の如く出題された。
逮捕術は、戦友同士が交互に模擬犯人になり、演習した。 時には、班長が模擬犯人になって、捕縄を掛けるのであるが、 逃走したり、抵抗して仲々思う様にならず、滑稽であった。 馴れるに従い、序々に上達した。 救急看護法は、止血法、人工呼吸法、三角布の応用法などであり、 教習隊付軍医官が教官となり、衛生下士官が助教であり、 大変有益な内容であった。
最も愉快であったのは、乗馬であった。 乗馬と云っても、定跡運動だけであった。 乗鞍は将用鞍であり、馬は将校用の良く調教されてあったアラブ系であった。 乗馬と云っても騎兵の如く鐙無しの演習で無く、 最初から鐙を踏んでの演習であり、飼付、手入、調教、装鞍脱鞍、 などすべて専門のベテラン軍属の軍馬手が行なって呉れたので、 正に将校並みであった。 教官は、輜重部隊から出張して来る予備役応召の オトナンイ中尉さんであった。 私の乗馬を見て、 「貴官(中尉さんは私達を貴官と呼んだ)の乗馬は、素人とは違う様だが、 出身部隊の兵科は何であるか」と訊ねたので、 私は「出身は捜索聯隊でありますが、騎馬専門の騎兵であります」 と答えた処、「良し貴官は列外に在って、助手を勤めて呉れ」で、 以後助手となった。 騎兵隊の劣等兵も教習隊に来たお陰で、大いに面目を回復する事が出来た。 私が総合点に於て、どうやら卒業認定限界ぎりぎりの点数を頂戴出来たのは、 乗馬の採点に預かる処が大であったものと思っている。
実務演習は学科、術科の圧縮授業で、疲労が蓄った頃を見計らっては、 新京の街中で行なわれた。 これは得る事が大であり、何よりの気分転換になるものであった。 例を挙げれば、巡察の目的は? 着眼点は? 巡察中挙動不審者に対する 不審訊問を行なう法的根據は? 不審訊問中相手が突然兇器を執り出して抵抗した場合の措置? 四囲の状況上、自己、または、他人に迫りつつある危険回避の方法は? 万一武器使用して、相手方を殺傷した場合、の救護措置は? 武器使用の法的限界は? 巡察中、人通りの繁しい路上に於て放尿をなしある制服姿の軍人、 または軍属を発見した場合の取締りの法的根據は? その後の措置は? 巡察中、橋上から将に跳び込み自殺せんとする者を発見したる 際の措置その法的根據は? 等々を班長から、次々と質問されるのであるが、 普段は、○○法第○○條○○項、該当などを記憶している、 心算でで居ても、いざ本番となり、その場、その場に遭遇すると、 俄には思い出せぬものであった。
是等の事は帰隊してから、教科書と六法全書と首ッ引きで調べては、 翌朝、班長出勤時に、提出し、チェックしてもらう事になっていた。 停車場取り締り演習は、主に南新京駅、及び寛城子駅で行なった。 この時に満服に扮装した班長が旅客になり済まして、 私達に「ミナカイデパートに行き度いが、路を教えて下さい」 「今何時ですか」 「今 駅前の店で日本の兵隊さんが喧嘩しています。 取締って下さい」 等々を早口の満語で話し掛けて来るのである。 何を言って居るのか判らずに大いに困ったものであった。 後で、「その様な事では満人に馬鹿にされるぞ」と班長に言われて、 自信が減退した気持ちになったものである。
昭和20年2月下旬に、約1週間に亘り、憲法を始めとする法律課目の 学科に関する綜合試験が実施された。 正に薄氷りを踏む思いの期間であり、殆の者は、食欲は大きく減退し、 残飯の量は多かった。 極度の緊張が漲った。 眼は落ち窪んだ。 結果は若干名の者が、原隊差し戻しになった。 憲兵拝命を目指して互に切磋琢磨し合った仲間であって見れば、 送る者、送られる者、唯、無言で握手して別れた。 非情と言えば、正に非情であった。 厳しさを一入銘肝した。
班長からは、合格した者に対し、次の様な注意があった。
「卒業までは、あと1週間足らずである。 合格の余り、緊張感の解放によって、内務その他で、 憲兵に不適と思われる様な行為があれば、 即日、原隊差し戻し処分になる事がある。 過去に於て、若干名の者が処分を受けた例がある。 各自一層の自重自戒を怠らぬ様にせよ」 と達せられた。
綜合試験終了後、教習隊恒例の兎狩りと新京市街見学が行なわれた。
第2区隊長(准尉、氏名忘却)引率の下に、 新京駅、寛城子駅、南新京駅、ヤマトホテル、満鉄綜合事務所、新京神社、 関東軍司令部、関東憲兵隊司令部、日本大使館(大使は関東軍司令官兼務)、 ミナカイデパート(店に入り、買い物を許可された)、忠霊塔、等々を見学した。
それにしても、市街地区画の整然とした街路幅も広く、 札幌市、帯広市、その他の市街地に於ても整然と区画されてはいるが、 新京の如く雄大な、大陸的規模のそれ等のものには、 到底比すべきものでは無い。 悠揚迫らざる、大陸的なスケールの超大的なものであった。 特に関東軍司令部、関東憲兵隊司令部、などの超豪壮とも形容すべき 建物には驚異以上のものを感じた。 その他の建物にしても、正に「大満洲国」の首都の偉容を表徴するに 充二分であった。
忠霊塔は、遠く日清戦争以来の満洲に於ける戦没、軍人、軍属の霊を 祀るものであり、塔の高さは格別で、高いと言うよりは、聳える程の高さ と表現すべき者であった。 相当の遠距離からも望む事が出来た。 ここでは、区隊長の指揮の下に、教習兵の全員が抜刀の上、 捧げ刀の礼を以て、先輩英霊に敬虔なる敬礼を行なった。
この見学の折に、多分、寛城子駅(貨物を主に取扱う)の近くであった 様に記憶するのであるが、満洲国皇帝の宮廷、建築現場を見学した。 四囲の景況を考えると如何にも、場末と言った感じで、宮廷造営に 相応しく無い場所である様に思われた。
その日は小雪が散ら付いていた。 雪が覆っていたので良く解らなかったが、墓地らしく無い、 人家から遠く離れた広い萱原に、幅5〜6米、長さ20〜30米、 深さ3〜4米、位の大きな溝が掘削されてあった。 これが不特定多数の無縁故の共同墓穴であった。 墓穴と言うよりは墓溝であった。 無縁故、かつ葬儀費用の遺産の無い仏は、衣服を剥ぎ取り、 丸裸にして、そのまま、この溝に放り込んで置く。 狼が夜間に、鳶や鳥や野犬などが昼間に、夫々この場所に来ては、 仏の肉を喰ろう。 早くそれ等の動物に始末してもらえると、それ丈、 早く成仏出来るのだと言う事を班長の通訳で満人の墓守りから聞いた。 その墓守りの更に曰くには、雪一色で分らないだろうが、 狼その他の鳥獣などが啣え出した人骨がそこ等辺りに、 散らばっているとの話で、私達は途端に急に寒気がした。 春になって、雪が解けた頃になってから、掘り上げてある土を埋め戻す のであるが、辺り一面に散乱している人骨までは、殊更に集めてまでは 埋葬をしない。 今世で得たすべてのものは、成仏の際、一切不要である。 それ等に未練の有る者は、「今世の別れ」が出来ないと言った。
祖先の霊を大事に祀る満洲で何故、この様な仏を冒涜する事を するのか質問したら、墓守りは昔からの習慣だから別に何んでも無い、 と説明した。 支那全土が生前恵まれなかった仏に、この様な取扱いをするとは、 到底思われなかったが驚いた。 それにも増して、帝都、新京の都心から幾計も離れていない郊外の、 地に於ての光景に納得の出来ないものが残った。 「地獄の沙汰も金次第」とは、 この様な事を指して言うのかと思って見たりした。
経済的に困らない、普通の生活をしている満人であっても、 死者が出ると立派な棺に仏を納め墓地に棺をそのまま放置し (日本人の眼から見れば放置としか映らない)、狼、鳶、鳥、野犬、狐、 などに死者の体を食させる。 数日を経た後に頃合いを見て、埋葬するのを牡丹江省、寧安県、 石頭村の満人墓地で見た事を思い出す。
琿春の川原で、斥候演習の折に、ドッヂボール大のボールが数個、 散らばってあるなと思っていたのを、昼の休憩時に近寄って見たら、 それは紛れも無く人の髑骸であった事などを思い出し、 習慣の違いを強く感じた。
新京市内見学の折に、どこの部隊であったかは忘却してしまったが、 (多分、貨物廠であったとは思うのであるが)、蹄鉄の古くなったものを 加熱赤熱して叩き伸ばし、槍の穂先ならぬ木銃 (銃剣術の際に使用する小銃に似せて作った木製のもの) の先に固定する銃剣代用の剣先を作っている工場を見学した。 鍛冶職人であった多くの人達が軍属として、徴用されて、それを作っていた。
ソ連軍と一戦を交える際に、第一線に於て実戦に用いるのだ、 と言う説明を技術指導中の兵技将校から聞いた。 これまでにしなければ、ならぬ程に関東軍の兵器は不足していたのであろうか、 私が後に石頭憲兵派遣隊に勤務中の昭和20年7月10日、 防衛召集された補充兵(未教育、在満在郷軍人)達が、 この木銃を以て演習しているのを石頭駐屯の歩兵科部隊に、 事務連絡に出張した折に見て、 「あの時、新京の工場で作っていたものと、同じ物」であると直感した。
これも前項の部隊見学の際であったが、携帯口糧を製造中の処を見学した。 餅を搗く時と同様に糯米を蒸篭で蒸し上げたものを厳冬季 (見学したのはこの季であった)、蓆に拡げ、寒気に曝し、冷凍乾燥させて、 携帯口糧にするものであった。 実際に之を食糧として用いる折には、そのまま食するか、 或いは熱湯を注いで加温したる後、用いれば更に美味であるとの 説明があった。
試食を奨められて、そのまま食べて見たが、結構いけると思った。 熱湯を注ぎ加温の上、これを試食したが、熱湯に塩を少量、 加味してあったので、非常に美味しかった。 どこの開拓団であったか忘却したが、 その開拓団の婦人会考案のものであるとの説明があった。
正式な固有名は、「関東憲兵隊特設憲兵隊」と呼び、 通称「86部隊」と称した。 場所は、新京特別市寛城子駅裏側の辺りにあった。
任務の内容は、無線探査(ソ連、中共、中華民国政府系、共産系、 鮮満人、その他の敵性蝶者などの発信する謀略電波の傍受、探査逮捕)、 指紋、法医、細菌、写真、思想対策、謀略対策、などであった。 ここの見学で特に印象に残ったのは、 謀略用の小型時限爆弾(煙草の空箱利用)、超小型特殊カメラであった。 詳しい説明を求めたが、機密に属するとの事で説明を避けた。 従って、この部隊の隅々までをも見学は許されず、物足りなさを感じた。 教習隊の教課の特別高等警察服務教程に載っていた、 謀略対策専門の部隊であると諒解した。
尚、この部隊の編成当初から終戦までの編成の変遷を次のページに記す。
特設憲兵隊 | ||||
隊長 | 中佐 | 山村義雄 | ||
副官 | 少尉 | 印南武雄 | ||
本部付 | 少佐 | 滝山三男 | ||
第1分隊長(無線探査) | 大尉 | 吉田文武 | ||
第2分隊長(無線探査) | 大尉 | 吉岡安直 | ||
第3分隊長(指紋) | 准尉 | 四宮祐二 | ||
第4分隊長(法医細菌) | 少尉 | 菅原三治郎 | ||
第5分隊長(写真 筆跡鑑定) | 少尉 | 菅原三治郎(兼任) | ||
第6分隊長(科学) | 大尉 | 亀井真清 | ||
第6分隊の科学とは、思想対策、謀略対策、及び事件、事象に対する 科学的(物理、化学、電気)究明である。以上の役職者はすべて 現役、憲兵将校、准士官である。 | ||||
昭和19年5月25日(関東憲兵隊の編成改正に依る) 関東憲兵隊無線探査隊(上記 第1〜2分隊を併合) 関東憲兵隊司令部科学偵諜班(上記第3〜6分隊を併合) |
上記の1隊1班に(事実上は2隊)改編した。
尚、更に次ページに続く。
関東軍総司令部に於ては、満洲国内の治安維持を更に一層強化すべく、 昭和20年8月1日付を以て、関東憲兵隊の警察力低下を覚悟し、 全満より多数の憲兵を抽出し、各地特務機関(正式には関東軍情報部各地支部)、 及び、独立守備大隊等、3者を合編して、関東軍特別警備隊(略して特警)、 (第1特警司令部〜奉天、第2特警司令部〜牡丹江、第3特警司令部〜斉斉哈爾) を新編した。 所謂、関東防衛軍(満内治安維持)の発展的、解消であった。 昭和20年7月末、新設の第30軍司令官の隷下に属した。
前頁記載の無線探査隊、科学偵諜班は、第1特警に編入された。 昭和20年8月1日、現在に於ける特設憲兵隊の編成は、
本部 (78名 第30軍司令部付) | ||||
隊長 | 中佐 | 松永光治 | ||
副官 | 少尉 | 林 幸男 | ||
戦務課長 | 中尉 | 雨宮初ニ郎 | ||
教育課長 | 少尉 | 西田晴夫 | ||
第1 中隊(113名 第1特警付) | ||||
中隊長 | 大尉 | 村井 博 | ||
哈爾浜派遣隊長 | 少尉 | 久保田捨己 | ||
大連 派遣隊長 | 准尉 | 坪内暲一 | ||
奉天 派遣隊長 | 少尉 | 神津幸久 | ||
東奉天分遣隊長 | 曹長 | 村松林平 | ||
安東 分遣隊長 | 曹長 | 柴崎慶三 | ||
第2 中隊(75名 第2特警付) | ||||
中隊長 | 大尉 | 宮崎末男 | ||
牡丹江派遣隊長 | 少尉 | 西原貞夫 | ||
佳木斯分遣隊長 | 軍曹 | 石田金一 | ||
延吉 分遣隊長 | 曹長 | 張替次郎 | ||
第3 中隊(72名 第3特警付) | ||||
中隊長 | 中尉 | 木村欣一 | ||
斉斉哈爾派遣隊長 | 少尉 | 鷹羽秀三 | ||
斉斉哈爾分遣隊長 | 曹長 | 山中一男 | ||
科学偵諜班 (100名 第1特警付) | ||||
班長 | 大尉 | 長島恒雄 | ||
指紋 | 准尉 | 矢口 正 | ||
法医 | 准尉 | 山田 弘 | ||
写真 | 少尉 | 村越 清 | ||
化学 | 少尉 | 鎌田光次 |
以上の役職者は、すべて現役憲兵、将校、准士官、下士官である。 以上の編成資料は、 「日本憲兵正史〜全国憲友会連合会編」 から引用したものである。
軍隊に於ては、封書、葉書を問わず、「書翰」と称した。 綜合試験終了したその日の夕方、私は班長に呼ばれて、班長室に赴いた。 そこで私に宛てた一通の封書を渡された。 封書の裏の差し出し人を見なくても直ぐに差し人は分った。 毛筆書きの見事な筆捌きの文字で分った。 多田幸子先生からのものであった。 だが、裏書きは小島幸子になっていたのが一寸気に懸ったが、 筆跡は先生のものである。
班長は、「この封書は綜合試験開始前に到着したものであるが、 女性からの郵便物であるので、試験に影響するのを避ける為、 態々渡さずに置いた。 その点を諒として呉れ」と云われた。 更に、班長は「この場で開封の上、黙読せよ」と云った。 私は黙読後、「内容に異常はありません」と答えた。 だが、班長は差出人との関係に拘泥した。
発信人は先生からであった。 私が入営前の一時期、小学校の代用教員をしていた時の先輩訓導で、 その当時は、牡丹江省、穆棱の 在満国民学校に奉職中であった。 私は代用教員奉職中の先輩である事を説明したが、 「本当にそれ丈か、学校の教員に相違無いか。 幸子とあるからには、若い女性か。年令は」等々を詮索した。
私は、少なからず、内心ムッとなったので、 「御不審に思われるならば、管轄、憲兵分隊に御照会を願います」と云い、 この手紙を検閲してもらい、疑念を解いてもろう為に、班長に手紙を差し出した。 班長は手紙の披見はしなかった。
「良し分った。貴官の将来を心配するからだ。 過去に於て女性問題で身を誤った憲兵があった。 飽くまでも班長の老婆心からだ。 悪く思はんで呉れ」と云って、帰班を促した。 多田から小島え姓が変ったのは、渡満後、結婚されたからであり、 その挨拶状であった。 私は復員後、この話を先生にした処、抱腹絶倒された事があった。 NHK札幌放送局アナウンサー小島崇好氏の母堂である。
綜合試験終了直後、中隊長から希望任地を申告する様、申渡され、 用紙を班長から各自支給された。 希望任地は第1希望から、第3希望まで申告を命ぜられた。 私は、思想対策に何よりも興味を抱いておったので、 ジックリと肌で体験した勤務をし、その途で 大いに満期除隊までの期間勉強をして見ようと言う、 今になって考えれば、身の程知らずの野心を抱いておったのである。
そして、初めて満洲の部隊に入隊した琿春をその管轄にする延吉に 本部のある関東憲兵分隊を第1希望地とした。 次に、綏芬河分隊を第2希望地とし、 最後に満洲里分隊を第3希望地として申告した。 3希望任地とも国境近辺であり、何れも、思想対策上の要地ばかりである。 何れも辺鄙な地の分隊ばかりであった。 青年時代の怖いもの知らずの冒険心からの発想が、 その様な任地を希望したのかも知れぬ。
かてて加えて、東海林太郎さんが一世を風靡した、 歌謡曲「国境の町」の歌詞とメロディーが、大いに私の身体の中にあった、 ロマンチシズムを少なからず刺激した事も事実であった。
教習隊卒業間近になってから、各人の任地が発表された。 発表は、分隊名は知らされずに、分隊上級機関である憲兵隊本部 (一般部隊の連隊本部に相当、警察にあっては道府県の警察本部に相当)、 名で発令された。 私は牡丹江憲兵隊本部に配属された。 希望任地を管轄する本部に発令された者、私と同様に希望任地外の 本部に発令された者、様々であった。 希望する任地を管轄する本部に発令された者が極く少数であった事が、 皆の何よりの慰めであった。
この時、班長、曰く 「任地の上申は、関東憲兵隊司令部人事担当官が行ない。 最後の決定は、憲兵司令官の専決行為、故、諦める事。 その代り、発令された任地には別嬪の姑娘が、 一日千秋の思いで諸官等の着任を鶴首しているから、 大いなる夢と希望に燃えて行け。 楽しい事が沢山待っている」と冗談を云って慰めた。 新京にも何名かが発令されたが、華の都に発令された者は、 慨して落胆していた。
東海林太郎さんは大学卒業後、満鉄調査部に奉職中、 彼の思想が当時の関東軍参謀の神経を逆撫でした結果となり、 満鉄図書館長の閑職に左遷され、後、歌手として、長期に亘り、 歌謡界を風靡した。 彼の死後、政府は生前の功に報ゆる為、勲三等旭日中綬章を贈った。
教習隊入隊以来、何よりも待ち望んでいた卒業式の日が遂に来た。 教習隊長(憲兵中佐、堀口政雄)の祝辞、及び訓辞があった。 その中で、昭憲皇太后の御歌、「金剛石」を引用し、諸官は金剛石である。 その素地は、この教習隊の教育期間を通して作り上げられた、 学科術科は勿論であるが、 厳格な内務教育によって作り上げられたのである。 珠の光を出すも、出さぬも、諸官の今後の熱勢な努力如何である。 任地着任の上は、捨て身になって己を試し、軍務に精励されん事を希う」 として、訓辞を終った事が強く印象として残っている。
卒業式は短時間に終了し、中隊に戻り、中隊長、区隊長、班長より、 夫々、祝辞、訓辞を戴いた。 午後からは、明日の拝命式に備えて全員に新品の95式軍刀、 14式拳銃、憲兵腕章、憲兵徽章、上等兵の階級章などが支給された。 夫々が既に憲兵を拝命した様な嬉さで、嬉々として階級章、徽章などの逢着、 腕章の取り着けなどを行ないつつ、教習中の苦労話や 未だ見ぬ任地等々の事を話し合った。
二等兵の階級者は、二階級上って上等兵に、 一等兵の階級者は、一階級上って上等兵に、 上等兵の階級者は、現級のまま。 私は二階級上っての上等兵組であった。 私の軍歴中に 一等兵の経験は無かった。 何の事は無い、憲兵の最下級は上等兵なのである。 憲兵の初年兵なのである。 それでも、二階級昇給は嬉しかった。 「二階級進級は、戦功殊勲甲と同格ぞ」と二等兵組が言えば、 上等兵組は「二階級進級と言えば、玉砕部隊と同じで、戦死扱いだぞ」 と半畳を入れた。 二等兵組は、その半畳に負けて居らずに、 「現級留置きでは戦功零とおなじぢゃ無いか」と愉快にやり合った。
夕食は、卒業を祝って特別料理の外に5名に1升の祝酒と各自に 天壇(支那高級煙草)3個宛の特別加給があった。 24時まで、延燈が許可され、鯨飲とまでは行かなかったが、 下戸の者も居たので、班長を中心として教習隊最後の夜を楽しく語り合った。
普段、謹厳を以て鳴る、中隊長(吉川少佐)、 区隊長(氏名忘却准尉)のお二方が余興に少しエッチな歌を披露したのは、 教習兵一同ビックリすると同時に、 人間性豊なるものを発見した、大きな収穫であった。
次の項に移る前に触れておき度い事がある。
支那事変の前半期頃までは、教習隊を卒業すると分遣を命じた原隊に帰隊し、 聯隊長以下の直属上官に卒業の旨を申告し、卒業の錦を飾るのが、 通例であった由である。 2〜3日は、原隊の中隊で演習勤務などは免ぜられ、精々、 中隊事務室の使役を希望によって与えられる客分扱を受け、 二等兵の階級の者は、一等兵に進級命令が出され、 2〜3日を経て、正式に憲兵転科、憲兵上等兵の発令が、 原隊の聯隊長より発せられたものであったとの由であった。 憲兵として必要兵器の軍刀、拳銃、被服類などは、 原隊から支給されたとの事である。 大半の者が原隊の駐屯地を管轄する憲兵分隊に配属されたものであった。
以上は中隊長の説明であった。
昭和20年3月10日、陸軍記念日、 この日は旭川の北部第5部隊に入営した日から数えて、 満1年月を迎えた日であった。 全員、上等兵の階級章、憲兵徽章、及び憲兵腕章を付けた軍服に、 新品の軍刀、拳銃、を佩用した軍装で寒気凛冽ではあったが、 雲一ッ無く晴れ上った、抜ける様な碧空の下、 営庭に各中隊(2ヶ中隊)毎に整列し、教習隊長、堀口 中佐から厳かに、 「○○候補者 他 ○○○名ノ諸官等ハ 本日付ヲ以テ陸軍憲兵上等兵ヲ 命セラレタ」と宣言された。 首席卒業者が全員を総代して、拝命の申告を行った。 この瞬間、正式に夢にまで見た、憲兵上等兵に任命されたのであった。 (文中の○○候補者 ○○○名と記したのは、 首席者氏名、総員などを忘却した為である)。
中隊長、区隊長、班長、などに拝命の申告と共に5ヶ月間、 お世話になった謝礼を述べ、親しかった、同区隊、同班の教習兵仲間に、 別れの挨拶をし、何時の日かの再会を誓い合った。
新任地の隊本部ごとに集合、赴任旅費などの支給を受け、引率下士官 (第4中隊の班長、軍曹、氏名忘却)に引率され、 隊伍を組んで、新京駅に向かった。 途中、忠霊塔、新京神社などにて、捧げ刀の礼を行なって、 拝命の報告を兼ねて、軍務精励を誓った。
新京駅では、軍隊生活で初めて、自分から乗車券を購入した。 教習隊で軍人割引証を渡されていたので、それを利用したので、 50%割り引きになったので、旅費の半分は車中の小遣銭になった。 引率下士官は、「車中節度を失する事なき、限度で飲酒を許可する」と達した。 満洲も物資は不足していたが、日本、本国のそれに比して、 緩やかなものであった。 新京駅で助役に交渉して、酒を購入した。
新京を発車したのは、夕刻を過ぎていた。 新京を発車して間も無く、私達の車輌は車内暖房のスチームが故障して、 暖房が効かなくなった。 春3月とは言え、中満地帯の夜間温度は氷点下である。 車内温度も相当低下した。 酒を飲んだが、さっぱり効き目が無い。 車掌に交渉して、途中の駅で車輌交換を迫ったが、 哈爾浜駅に着くまでは、対策無しとの事であった。
その代りに、途中、雙城駅で、白金懐炉を差し入れしますから、 辛抱して欲しいとの事であったので、我慢をしたが、 寒さの為、眠る事は出来なかった。 それでも、その車輌は私達赴任者専用であったので、 一般民間人が乗り合わせて居なかったのは幸な事であった。
翌早朝、列車は哈爾浜駅に着いた。 ここで、哈爾浜隊本部に赴任する連中と別れた。 互の健康・武運長久を祈り合った。 私達の車輌は、予め哈爾浜駅に用意されてあった別の車輌に交換され、 それに乗り換え、ホッと人心地が着いた。
列車は哈爾浜までは急行であったが、 哈爾浜からの浜綏線は準急であった。 昨夜来の睡眠不足の為か、殆んどの者が車中で良く寝た。 牡丹江までの車中からの景色の中で、 一面坡や横道河子が満洲のイメージとは異なった駅舎を物珍らしく眺めた、 記憶がある。 かつての、ロシア帝国東進の国策によって建設された、 東支鉄道時代の由緒ある名残りのロシア風建築の駅舎である。
夕方、牡丹江駅に着いた。 私達牡丹江隊本部に配属された者達は、ここで降りた。 佳木斯隊本部の配属組は、更に列車で北上したが、 ここでも互いの健康と武運長久を祈り合い、 何時の日かの再会を約して別れた。 その晩は、牡丹江本部、大講堂に用意された仮寝台に就いて寝た。
牡丹江本部では、管内の地理歴史の外に、軍事警察、特別高等警察の現況、 日本軍、満軍、満洲警察、その他の満洲国官庁など、日系、鮮系、など、開拓団、等々、 その他の配置状況に就いての説明が、夫々の担当の曹長、准尉、将校などによって、 詳細に行なわれた。 以上の説明の中で強く印象に残るものは、 特別高等警察の思想対策の講義を担当した曹長(氏名忘却)のものであった。 現在、朧気乍らも記憶に残るものを参考資料の助けを得て概記する。
「かつての韓国(日韓併合により朝鮮と改称)は、 相当の長期に亘り、政治の腐敗により、国民の貧富の差は著しく、 日本が鎖国政策を明治維新から開国政策に改革した後に於ても、 依然として鎖国政策を固持して居た為に、 韓国民が現代文明に大きく遅れ隣国(主に露清日)からは、 その主権をも侵害される程に、 独立国家としての権威をも失っていた時期が永く続いた。 そこには、当然の如く国の現状と将来に対して、 危惧感を抱く憂国の志士が輩出した。 この事は、徳川幕府末期の日本とさして変る処は無い。 その結果、革新思想に基く、国家再建を念願する 知識青年層に対する韓国官憲の弾圧の度は次第に熾烈を極めて行った。
韓・支両国は、白頭山(標高 2,744米白頭山節にて有名)に源を発する 豆満江(図們江)、及び同じく鴨緑江を以て、その国境線としている。 言わば、陸続きである山岳地帯の険峻な地域を除けば、 冬期河川の結氷期には老幼婦女子と雖も、徒歩で車馬で、橇で、 越境(密出国、密入国)は容易であった。 彼らは、祖国官憲の弾圧を避ける為に、手近な隣国、 支那(後の満洲国)に好むと否とに拘らず、亡命した。 主に、東辺道、延吉道、(鮮支国境に接する山岳辺鄙の地帯、 満洲建国後はそれまでの道制を省制に改変した)と呼ばれた地方である。 牡丹江省、吉林省、奉天省、などにも亡命した。 その他、露領南部ウスリー地方にまで足を伸ばして亡命したのである。
上記の東辺、延吉、などの地方は、支那の国土ではあったが、 当時の支那官憲の行政上の威令は及ばず、 所謂、支那の辺境の地であった。 為に、亡命した韓国人は、支那官憲の五月蠅い掣肘を受ける事も無く、 かつ、他国であって見れば、祖国官憲の威令の及ばぬ地であった。 さればこそ、安住の地であった訳である。 だが、裸一貫亡命して来た彼らの生活は苦しかった。 しかし乍ら、亡命する程にしてまで革新の思想に情熱を燃やしていた彼らは、 生活の苦に打ち拉がれる様な意志薄弱な持主ではなかった。
延吉道の人口の70%〜80%は、亡命韓国人で占められた。 韓国延吉道(間島省)とも云える様な、感さえしたものである。 祖国の腐敗し切った政治態形を改革し、国民一般の生活向上を図るには、 共産主義革命の断行以外に策は無い、との統一思想の下に、 革命思想運動を推進し続けた。
一方、日本は明治38年世界の最大強国、 ロシヤ帝国陸海軍を打ち破り、日露戦争の勝利を収めた。 ポーツマスの日露講和條約に於て、南樺太の割譲の他に、 露国が清国韓国等に於て所有する権利等をも、 日本はその手中に納めたが、 ポーツマス條約の第2條には、 「露西亜帝國政府ハ 日本国カ韓国ニ於テ 政事上 軍事上 及 経済上 ノ 卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ 日本帝国政府カ韓国ニ於テ 必要ト 認ムル指導保護 及 監理ノ措置ヲ執ルニ方リ之ヲ阻碍シ 又ハ 之ニ干渉 セサルコトヲ約ス」
以上の條約には、米英両国も承認の形を採った。 日本はこの條約により、その後、韓国の主権に大幅な掣肘を加え、 屬国的政策を採用したのであるが、明治43年8月、 終に日本は韓国を併合し、版図に収め日本の一地方とし、朝鮮と改称した。
当然の結果として、亡命者は勿論の事、国内居住の同胞も、 この併合に民族を挙げて反対した。 民族の独立に燃え旺った革新思想者も、 命の何たるかを解せざる無学文盲の者も、 挙って反対した。 この結果、併合に反対する多勢の同胞は、 今度は日本官憲の弾圧対象となった。 この弾圧を避ける者が先輩革命家の亡命居住地に後を追って、 東辺道、延吉道、その他に亡命した。 亡命した彼らの内、青年層を中心とする武力抗日革命思想が萌芽し、 武力に依る抗日戦が行われる様になった。 これを日本では、一概に馬賊と呼んだが、誤りであって、 共産匪であり、政治匪であり、革命匪であった。
大正6年(1917)第1次世界大戦が終局を告げようとしている時、 ロシア10月革命によって、帝政ロシアが倒れ、 革命政権によって「平和宣言」が発表され、民族独立、無賠償、 無併合の原則が闡明された。 引き続き、米国大統領ウイルソンは、 大正7年(1918)1月、平和原則14ヶ條を発表した。 2月のパリ講和会議で、被抑圧民族の独立が承認されるであろうと発表した。
大正7年(1918)11月、世界大戦が終了すると共に、 ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキヤ、エジプトなどの諸民族、 独立が宣言され、この民族自決主義独立の気運は、 世界の植民地従屬国の民衆に大なる勇気と行動力を与えずには置かなかった。 日本、支那、米国に在住する朝鮮人などは、韓国独立の好機到れりとして、 米国大統領に独立に援助する様、陳情、嘆願したが、 朝鮮の場合、該当せずとして、米英露に一蹴された。 民族独立の意識に燃え立った彼らが、この様な事によって、 易々と挫折する様な事は無かった。 民族意識に燃えた、祖国独立の革命思想は益々醸成されて行った。
日本憎しの念は、反日、侮日、抗日の旗印の下に、いやが上にも燃え旺った。 満洲事変作戦中、及び満洲国建国(昭和7年3月、1932)後と雖も、 執拗なまでに、日本軍の匪賊討伐作戦を妨害し、抵抗した匪賊の中に、 鮮系、共産、革命思想匪が多数存在したのである (朝鮮民主主義人民共和国、元首席、金日成も当時有力指導者の1員であった)。
当時の韓国内の政治が安定し、 かつ、韓国の存在が日本との平和友好関係に寄与する処が大であり、 相互の国家の共存共栄に資する処も、また大であったならば、 韓国を併合する必要性は毫も存しなかった。 日本は、北からの脅威、即ちロシア帝国の南進政策を最も危惧した。 そのロシア帝国は、清国の政治の貧困に付け入り、籠絡懐柔を計って、 満洲に進出し、満洲を足場として、更に韓国の内政の紊乱に乗じて、 その主権を侵害し始めた。 日本としては、枕を高くして眠る事は出来なかったのである。 韓国の次への野心を日本に指向していたからである。
日本は、ポーツマス條約第2條に従って、 韓国への指導保護を行なって来たのであるが、 その成果は余りにも遅々として意の如くに進展しなかった。 韓国が密かに露国と手を結ぶ素振りさえ行なう様になった。 日本の安寧を保持し、かつ韓国の領土の保全の為に、 韓国併合に踏み切ったのであった。
時は流れ、満洲事変は終了し、日満漢蒙鮮の5族共和による、 王道楽土 国家建設の雄大なる理想の下に、新国家、満洲国は建国された。 日満議定書の締結により、満洲国の防衛、及び治安の回復は、 関東軍の任務となった。 しかし乍ら、建国後の治安に関しては大なる悩として、重くのし掛かった。 日満両国政府は勿論の事、直接、その任に当たる関東軍の「獅子身中の虫」的 存在は、
以上、3の項において、 「満洲国軍内に紛れ込んだ、東北人民革命軍」、及び、 6の項では「通ソ謀略分子」の事を記した。 それ等の思想謀略が功を奏した。 満軍将兵の重大な背反事件の内、主なものを列挙すると、
以上の如く、満軍の反乱の危険性は常に孕んでいたのである。
日本農村の次、三男以下の者に、自作農経営の場を与え兼ねて、 建国早々の満洲国の僻地、及び満鉄沿線などの日本軍警備兵力の 不足をも補充させる、一石二鳥の策を採り、 日本から多数の開拓団を結成し、武装移民させた。 北満に入植した弥栄、千振、などの開拓団は、 成功した代表の部類に属するが、中には生命の危険を冒してまで、 軍人の代りを勤めさせられる矛盾性に反感を持って、帰国する者や、 満洲で他の職場に就職する者も現出した。 その後、終戦の年まで、逐次、開拓団を送り込んだ。 これ等の開拓団が入植した地は、全くの荒地に入植した訳では無かった。 既に、現に満人農民が耕作中の沃土の熟地を、満洲拓殖公社と称した、 満洲国、政府、関東軍などの御用会社が安値で強制買収し、 開拓団に払い下げた。
農地を一方的に収奪された満人農民は、怒り心頭に発し、 怒髪天を突く程の憤慨をしたが、日本絶対優位には抗する術も無く、 奥地僻地に耕地を求めるか、日本人開拓団に使傭されるか、 しての生活を余儀無くさせられた。 それ等の満人農民や同情する満人達は、日本人 開拓団員を 盗賊以上の掠奪者として怨嗟した。 やがては、無学文盲に等しく思想の何んたるかを解せざる、 それ等の満人に共産革命思想を普及する、 反満抗日、謀略分子に活躍させる場を与えて仕舞った。
彼らは結果として、日満両国政府官憲には面従腹背の術を以て、 対処する様になった。 開拓団員の中には、極く稀ではあったが、基礎も固まり一応、 財力も出来た頃に、満人の小作人に農地を貸し付け、高率の年貢を取り立て、 「糧財」(満語でリャンザン〜地主の意)風を吹かせて、 「今日は哈爾浜、明日は新京」と遊び廻る者さえ現われ、 元「糧財」であった満人の憤りに、一層の拍車を当てる事となった例もある。
開拓団の土地買収の他に、満洲事変以降、 続いて昭和16年7月、有名な「関特演」発動により、 全満各地に関東軍は師団を急増設した。 その結果、満人、鮮人、などの耕作していた農地を大面積に亘って、 強制買収し、軍用地と為した。 こに居住していた農民を強権を以て立退きさせて、 兵舎、その他の軍施設を構築したのである。 4392部隊が駐屯した琿春では鮮人、佳木斯では満人、 などの夫々の農地であった処である。 土こそ生活の基盤である農民にとって土地を奪われ、 先祖代々永年住み馴れた土地を去る事の無念。 以上の事によっても、日本乃至は日本人、怨嗟の無言の抵抗意識は、 更に強く萌芽した。 侮日、排日、反満、などの思想の目覚めに導く結果に大きく作用した。
一方、綏遠事件(昭和11年11月、関東軍の指導する内蒙古軍が、 中国綏遠省に進行、傅作義と交戦、百霊廟で敗北)、 張鼓峰事件(昭和13年)、ノモンハン事件(昭和14年)などに於て、 日本軍の惨敗に帰するや、東北人民革命軍、 韓国独立革命などは関東軍恐るるに足らずと、 祖国復帰に確信を抱く様になった。 剰へ満軍の士気に大いなる動揺を来たした。 日本人に好感を抱かざる一般満人の侮日感情は増大した。 満洲ゴロは、平素関東軍の虎の威を借りて、悪事を重ねていたに拘らず、 関東軍の無能を詰るなど、 治安の維持に危惧すべき兆候が現出した。 特に、通ソ分子の暗躍や東北人民革命軍、韓国独立革命軍の活溌は目立った。
昭和16年、関特演(関東軍特別演習)の発動によって、 兵員70万人、馬匹 15万頭、航空機600機等に 増強され、 全満に展開された。 関特演以降は、流石の革命軍団も表面立っての行動を控え、 盗賊連の少集団も鳴りを潜め、その作戦を隠密のものとし、 地下活動に切り代えた。
一方、朝鮮総督府に於ては、朝鮮人の皇民化政策の為。
以上の皇民化政策は今まで比較的、親日的な朝鮮人にまで、 侮日、排日の思想に馳せ立てる原因を作ってしまった。 満洲、朝鮮の防衛、及び治安の任に直接当る、関東軍、朝鮮軍などは、 直接、侵寇するであろうと怖れのある外敵(ソ連軍)に警戒の砲口を備えると共に、 背後には視えざる「虎の尾」を踏む危険性(思想謀略戦)にも、 警戒の銃先を備えざるを得無い結果となった。
特に、満ソ国境に接するか、または朝鮮人の多数在住する地帯の 分隊の勤務する憲兵は、特別高等警察服務上、 以上述べた様な事柄を承知し置くべき必要性を力説した。
更に、「朝鮮の独立を希求し、または満洲国の建国を否定するは、 彼らの思想である。 しかし乍ら、我々憲兵は日本国、及び関東軍の権威を侵し、 挑戦する者に対しては、法の定むる処に従って、 断固として之を取締する任務を有す。 仮初めにも、共産主義思想に共鳴し、 彼らの心情に同情するが如き事の無き様、自重自戒、 法の擁護者たる憲兵の自覚を失する事無き様、特に留意され度い。 また、常に自らも正確なる情報を得る事に努力され度い、 と訓示して説明を終った。
教習隊で教えを受けた、 特別高等警察服務教程にも無かった 生々しい内容の説明に、身の引き締る思いを銘肝した。
牡丹江隊本部、最終日には市内見学に当てられ、 関東軍関係では、陸軍病院、貨物廠などの軍事施設を、 満洲国政府関係では、地方裁判所、刑務所などを見学した。 所内に新築中の死刑執行棟は、 収容中の囚人などによって8分通、工事が進んでいた。 階段(20段位)を昇り詰めた突き当りの部屋が執行宣言室であり、 遺言があれば刑務所長に遺言し、ここで目隠しの為の黒頭巾を被せられ、 右隣の執行室に2人の刑務官に誘導され、 部屋中央部に執行時、絞首死の為の落し床が設けられてあり、 その部屋の下階に刑死人が落下し、縊死するのである。 そこには、刑務所長、医師2名、教誨師などが居て、死亡の確認をする、 との説明を刑務所長から直々に受けた。 背筋の硬直し、胃痛を覚えた記憶が未だに残る。
見学は終り、隊本部に帰隊した処で、 人事担当将校から各自赴任すべき分隊名が発表され、 庶務係から各自、憲兵手帖(警察手帖相当)、呼笛、捕縄、旅費、などを支給された。 三浦芳明君、戸口 繁春君に私の同期3名の他数名は、寧安分隊付を命ぜられた。 分隊からは私達を受領の為、池田曹長(終戦後 外蒙ウランバートル に於ける「暁に祈る」事件の吉村隊長)が出張して来て居た。 池田曹長に引率されて、図們急行列車に乗った。
その夜は、寧安分隊に1泊し、翌日、夕方まで、管内警察状況の説明があり、 終ってから、三浦、戸口の2君と私は、更に隊下の石頭憲兵派遣隊勤務を命ぜられ、 既に用意されてあった名刺(陸軍司法警察吏、陸軍憲兵上等兵、姓名、刷込み) 1箱宛を受領(4月分給料から差引き)。 派遣隊から出張して来た庶務主任、大隅正義 軍曹に引率され、 寧安駅発の最終貨物列車で石頭に着いた。 到着したのは、23時を過ぎて居たが、残務中の 下士官に日直下士官などが居て、私達3名を迎えて呉れた。
私達は取り敢えず、着任の申告をした。 下士官達は「君等が来て呉れたので助かった。 明日からは、大分楽になるなー。 これで官舎に帰って、寝る事も出来るし、 大いに期待しているから、頑張って呉れよ」と、 先ずは、3名の着任を喜び、激励して呉れた。 私達は、補助憲兵の谷口兵長に案内されて、上等兵室に行った。 既に、谷口さんによって3名の床は用意されてあった。
私達の着任当初の派遣隊の陣容は(私達3名を除く)
派遣隊長 | 准尉 | 高梨 三喜 | ||
班長 | 軍曹 | S | ||
警務主任 | 軍曹 | 広瀬 (名 忘却) | ||
戦勤主任 | 軍曹 | 班長兼務 | ||
特務主任 | 軍曹 | 守口 秀雄 | ||
庶務主任 | 軍曹 | 大隅 正義 |
以上の外に、補助憲兵、谷口兵長(名、忘却)、満語通訳 鮮語通訳、馬夫、厨夫、雑役夫、各1が居た。 派遣隊長、以下11名の少数であった。 この為に、日直は隊長まで加わり、3日に1度の激務振りであった。
翌朝、派遣隊長の出勤を待って、隊長室に於て着任の申告を行なった。 申告が終ると派遣隊長は、 「御苦労、君等の着任を永い事待って居た。 本隊の様子は昨夜の内に聞いて、承知の事とは思うが、 軍務は相当激務だ。 覚悟しておいてもらい度い。 だが、当隊は少人数ではあるが、全員気持ちの良い連中ばかりだから、 その点大いに安心してもらい度い。 兎に角、体に充分留意して、頑張って欲しい。 本来ならば官舎の割当が有る処だが、 空きが無いので当分隊内居住で辛抱してもらう。 本日は、休養、明日から勤務に就いてもろう」 との言葉を頂いたが、
私達は、 「休養は不要であります。 一刻も早く勤務に就かせて頂きます」と意見開陳し、採用された。 事務室で隊長から下士官たちに私など3名を紹介して頂き、 班長から管轄区域の諸々の説明があった。 昼食後、雇傭人などに紹介された。 午後からは、満軍関係の鐵路警護隊長、満警所長、駅長、満郵、満逓、 など、日本軍関係では、軍事郵便所、営外酒保、その他などに、 着任の挨拶廻りなどをした。
昭和16年の関特演、発動により、この石頭にも師団1ヶが置かれ、 憲兵分駐所が設置(後、派遣隊に昇格)された。 しかし乍ら、憲兵不足により、常勤出来る者は、極く限定された数に留まり、 分隊長、及び、隊本部下の他の分隊からの応援によって短期は1周間、 長期にても1ヶ月位の出向の形で隊務を行なっていたのが 現情であった由である。
名は派遣隊であったが、1ヶ師団の駐屯地であった為、 実際の勤務の内容は、分隊と何等変わるものでは無い事務量であった為に、 残務は極く当り前であり、日常の茶飯事化していた。 事件が輻輳すれば、連日連夜の連続勤務であり、 之を見兼ねた陸軍病院では、態々、 衛生部、将校を派遣し、健康診断を行ない疲労回復にと栄養注射、栄養剤投与、 などの便宜を計って呉れた由である。 従って、例え駆け出しの新米上等兵と雖も、 私達3名の着任は大いに期待され歓迎される処であった。
私達着任後、20日程して、今度は下士官候補者出身の兵長(下士勤)、 3名が教習隊を卒業し着任した。 それから、数日を経て、牡丹江分隊から清水 勇 曹長(広瀬軍曹と入れ替り)が着任し、 派遣隊の陣容は一気に整備された。
派遣隊長 | 准尉 | 高梨 三喜 | |||
班長 | 曹長 | 清水 勇 | |||
警務主任 | 班長兼務 | ||||
係 | 兵長(下士勤) | 金田 春実 | |||
係 | 上等兵 | 中倉 鹿三 | |||
戦務主任 | 軍曹 | S | |||
係 | 兵長(下士勤) | 小川 栄 | |||
特務主任 | 軍曹 | 守口 秀雄 | |||
係 | 兵長(下士勤) | 高橋 恒助 | |||
係 | 上等兵 | 三浦 芳明 | |||
庶務主任 | 軍曹 | 大隅 正義 | |||
係 | 上等兵 | 戸口 繁美 | |||
補助憲兵 | 兵長 | 谷口 | |||
満語通訳 | 憲補 (満人) | 李 | |||
鮮語通訳 | 憲兵補 (鮮人) | 木村 | |||
馬夫 | 傭人 (鮮人) | 長谷川 | |||
厨夫 | 傭人 (鮮人) | 孫 | |||
雑役夫 | 傭人 (北支) | 陳 |
憲兵 | 11名 | |
補助憲兵 | 1名 | |
雇傭人 | 5名 | |
総員 | 17名 |
所在地 | |
満洲国東満総省寧安県石頭村石頭屯 |
身元確実にして、思想上懸念無き、雇員にして満人には憲補、 鮮人には憲兵補なる職名を附与し、 通訳の他に情報蒐集の補助員として活用、警察権無し。
憲兵は、隷属指揮命令、指示などの系統が他兵科と異なるので、 その概略を記す。
指揮 | 命令 | 指示 | 系統 | ||
軍事警察 | 行政警察 | 司法警察 | 行政司法に係る事件 の指示 | ||
日本本国 | 陸海軍大臣 | 内務大臣 | 司法大臣 | 警視総監(東京) 北海道庁長官 府県知事 樺太庁長官 検事 |
|
朝鮮 | 陸海軍大臣 | 朝鮮総督 | 朝鮮総督 | 朝鮮総督府 道知事 右同検事 |
|
台湾 | 陸海軍大臣 | 台湾総督 | 台湾総督 | 台湾総督府州知事、 庁長、法院検察官 |
|
南洋群島 | 陸海軍大臣 | 大東亜大臣 | 大東亜大臣 | 南洋庁長官 検事 | |
満洲 (除 関東州) |
関東軍総司令官 | 満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
|
関東州 | 関東軍総司令官 | 満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
満洲国 特命駐箚大使 (関東軍総 司令官兼任) |
関東州長官 関東法院検察官 |
軍令憲兵の勤務の根據は、作戦要務令、第3部第7篇に在る事を p.136に於て記したが、それを明文すれば、
憲兵隊は、陸軍官衙としての性格、及び、戦闘部隊としての性格を、 併せ持っていた。 野戦に於て作戦軍に配属された憲兵長以下の、 憲兵が敵軍陣地、突入の一番乗り歩兵部隊と共に、 戦闘を支えつつ、諸情報の蒐集、良民の救護、第3国人の保護、 治安の回復に当るなどの例を挙げるならば、理解される事と思う。
勤務の内容を私が勤務した、石頭憲兵派遣隊に例を挙げるならば、
以上の様な担任する勤務ではあったが、極めて少ない兵員で分隊と同一、 の事務量であったので、或る主任担当の事務輻輳の際は、担当の事務に、 差支の無い限り、他の係、主任以下は、之に積極応援して、事務を完了させた。 お陰で担当任務以外の事務の内容を勉強出来る機会に恵まれた。 少数兵員隊のお陰であった。
教習隊でも同様であったが、石頭隊の上司、上官(Sを除く)は何れも、 軍人である前に、立派な人格者であった。 教養の高い人達ばかりであった。 出身原隊のM軍曹、Y兵長、K兵長の様な、劣等極まる、 軍人とは雲泥の相違であった。 憲兵隊の勤務の内容は、他の兵科とは大きく異なっては居たが、 勤務は相当の激務であったに拘らず、精神的な重圧感を覚える様な、 処では決して無かった。 上司、上官などの私用は絶対に無かった。 また、その様な所でなかったならば、憲兵と言う特殊な軍務は、果たせぬであろう。
憲兵隊の性格上、他部隊と異なり、気の毒であったのは、 派遣隊長以下の下士官に及ぶまで、 私用の為の当番兵の不在であった事である(隊長、 当番、班長当番、下士官当番、官舎当番、などの皆無 〜 陸軍官衙の性格上)
派遣隊長、高梨 三喜 准尉(昭和58年11月没、福島県)、 班長、清水 勇 曹長(昭和38年1月没、栃木県)の御両氏、 及び、上官(守口 秀雄、大隅 正義の2軍曹)の下級者に対する優れたる統率力は、 派遣隊、一致結束の源であった。 兵長(下士勤)3名、上等兵3名、計6名は、 教習隊卒業が前後20日程しか違はなかった為に、 全員同期とも言える仲であり、階級の相違は意識しつつも、 時に階級を超越しての親近感を抱いて居た事である。 上等兵であり乍ら、三浦君と私は、バンカラ的要素を多分に持ち合はせていたので、 下士官待遇の兵長(下士勤)3名には、随分と迷惑を掛けたものであった。 40年後の今に到り、代表して深くお詫びを致します。
班長の清水曹長は、 栃木県、佐野町(現、佐野市)、近郷の出身であり、 宇都宮市(第14師団司令部駐屯)にあった、輜重兵第14大隊が、 出身の原隊であった。 私の生れ育ったのは、その輜重大隊から西へ 2Km位しか 離れて居ない処であったので、話は良く合ったものであった。 公私ともに、随分とお世話様になったものであった (永年の念願であった。班長さんの墓参を 昨、昭和59年10月にさせて頂き、心の重荷が降りた)。
昼食は勤務上、外出中の者を除いて、派遣隊長以下の憲兵、 補助憲兵に到るまで、食堂で一緒に摂る事になっていた。 この時間は、誠に楽しいものであった。 先輩の豊な体験談は、資する処が大であった。 特に、派遣隊長、班長の御両名は、ともに支那派遣軍に従軍した、 野戦憲兵隊員であり、作戦軍に配属され、敵陣突入の歩兵部隊と 共に1番乗りを行ない敵兵と間近に於て交戦しつつ、敵産の封鎖、 中立国財産の保全、蝶者の検挙、諸情報蒐集、良民の保護、 治安の回復、中国側警察の統制、産業の再興等々、 戦闘部隊に勝るとも劣らぬ、神速果敢な対処談は有益なる参考資料であった。 その他新聞、記事に対する意見の交換、諸情報の交換、など有益なものであった。
勤務に関する意見開陳は、私達の様な憲兵最下級の上等兵の意見であっても、 派遣隊長、班長は、耳を傾けて呉れた。 そして、採用するに足るべきものは、之を採用して呉れた。 自から志願してなった憲兵ではあるが、一上等兵の意見でも、 採用されるとあっては、ヤル気は数段と湧き出るのは当然であった。 一般兵科部隊で兵の階級者の意見開陳の途は、 軍隊内務令第12に於て明文化されては居たが、これは建前であり、 死文化、空文化されていた事実は、殆の軍隊生活経験者の認める処であろう。
下士官以上は、全員官舎居住であった。 班長(妻帯)や他の下士官(独身)も度々、 私達と一緒に入浴しては、背中を流し合ったものである。 正に裸の付合いである。 同階級であっても、古参と新任の差の厳しい軍隊で、 上官が兵の背中を流すなどと言う事は、到底考えられぬ事であるが、 石頭ではそれが極く当り前の様に行なわれた。 決して、兵であった私達が甘えて居た訳では無い。 そして、夜遅くまで私達の兵室で一緒に盃杯を傾け合っては、 諸々の事を腹蔵すること無く話し合ったものであった。 そして、相床で寝た事も良くあった。 こうなっては、上下の階級を超越して、互の信頼感は、 弥増すのは理屈抜きであった。 上官の意とする処は、命令を待つまでも無く、諒解出来たし、 また、横の連絡にも毫も齟齬を来たす様な事は無かった。 「石頭一家」とも言える鞏固な団結は、この様にして急速に醸成されて 行ったのであった。 だが、S軍曹だけは、どうした訳か1人この派遣隊にあって、 遊離する態度を取り続けていた。
憲兵の勤務には、制規の軍装を整えて服する、軍服勤務と、 軍服以外の服装を着用して服する、所謂、私服勤務の方法が用いられた。 通常、「警察務に服する軍装」と言えば、陸軍制式の軍服、軍帽、 長靴を装し、軍刀、拳銃を佩装の外に、憲兵腕章着用、憲兵手帖、名刺、 筆記具、印鑑、捕縄、繃帯包、呼笛、巻尺、非常準備金(兵階級者は20円、 封印済の布製の袋に収納、自己負担)、小遣銭、ハンカチーフ、 チリ紙、などの携帯を義務付けられた。 帽子の顎紐使用も同様、義務化。
警察務の目的によっては、所謂、私服を以て、勤務に服した。
憲兵服務細則第12條には、次の様に定められていた。
「憲兵ハ上官ノ命令アルトキ 又ハ時機猶予スヘカラサルトキ 制規ノ 服装ヲナサスシテ勤務ニ服スルコトヲ得」
制服の場合と雖も、事務室に於ての執務には、 兵器類の装備は免ぜられていたが、 日直勤務者は、兵器装備であった。 尚、私用外出に際しては、拳銃、憲兵腕章は装しない事になっていた。
公私両面に亘って、「タダ(無料)の酒は飲むな」、「甘言に乗ずるな」、 「女に手を出すな」、「越権行為の厳禁」、「服装の正整、身体の清潔、 言葉遣いに注意」等々は殊の外、厳守実行を命ぜられておった。
尚、憲法、刑法、刑事訴訟法、陸海軍刑法、その他の法令などの、 自習、及び、満語会話の習熟は、勤務の多忙などの理由を認めず、 強制に近い程、五月蠅さかった。 特に、関係法令などの不勉強者は、憲兵、不適格者也と、 派遣隊長、班長などから常々言われていた。 法令などの実際摘用に就いては夜遅くまで、日直下士官に質問をしては、 勉強したものであった。
私達の直属である牡丹江憲兵隊(本部)隊長、(憲兵大佐、望月政吉) の情報教育方針として、隊下全憲兵(補助憲兵を除く)に毛筆に依る習字を課した。 そして、その教育の一環として、隊下の下士官以下の憲兵に対し、 軍人勅諭(我が国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある 〜 中略 〜 汝等、軍人能く朕が訓に遵いて、この道を守り行ひ、国に報ゆる の務めを尽くさば、日本国の蒼生挙がりて之を悦びなむ。朕一人の懌 のみならむや。明治十五年一月四日、御名) 〜 で終る、 彼の有名にして、超長文、難読にして、かつ、難解な、 処々に変体仮名を用い、その暗記、暗誦で兵を苦しめた 「陸海軍人に賜りたる勅諭」の浄書を命じた。
この勅諭発布が一月四日であるのに因み、 隊長の手元には毎月、四日に提出する事になっていた。 憲兵隊と言う特殊な部隊である為に、事件発生の予見は不可能である。 非常呼集は、日常茶飯事であり、勤務が終日連夜する事は、極く当り前であった。 だが、その事を理由として、軍人勅諭の浄書提出を免除される事は絶対になかった。 字の上手下手でその責を問われる事は無かったが、所謂、殴り書き、 走り書などは厳しく、叱責された。 誤字、当て字、脱字、変体仮名の平易書も、また、認められなかった。 それ等があれば、その半紙は没として、改めて書き直した。 勅諭全文の浄書には、優に5時間を要した。 為に、一夜漬で書き上げれば、その3分の2は字が、 クタビレルのは避けられなかったので、3〜4回に分けて書く事にした。
私は、石頭着任と同時に他の下士官の分まで、代書をさせられた。 代書は認められなかったが、敢えてそれをやらされた。 正直言って、甚だ迷惑至極な事であった。 兵長連中も同期の三浦、戸口の両君も、月末近くになると、 一向に冴えない顔をしていたのを想い出す。 代書をした事が、終に発覚しなかった処をみると、 本部に送り届けた浄書は、果たして全部を隊長が検閲したものか、 否か、極めて疑はしかった様に思う。
憲兵分隊以下の隊(分遣隊、派遣隊など)に在っては、 隊付先任の准士官、または、下士官をすべて班長と呼称した。 班長の職務の内容は、P. 139に於て記したので省略するが、 日常の勤務を具体的に記せば、 分隊から受領して来る、日々の命令、回報、手配情報、その他等々は、 列車の時刻の都合で午後9時を過ぎる事が、通例であった為に、 それ等の書類を派遣隊長、出勤前に班長は眼を通し、 措置すべき事項などを朱書(チェック)して、派遣隊長に提出するまでの 朝は出勤時限1時間以上も前に出勤、夕方は各係主任の提出する 報告文書、翌日、勤務割当表作製、点検、加除訂正などの為に、 官舎に帰宅は、普通でも午後8時を大分廻ってからであった。 だが、突発事件でもあれば(良く起きた)、 その分だけ加重されたのである(その度に、補助憲兵の谷口さんは官舎に走って、 奥さんに今夜は遅くなる、或いは、隊泊りを連絡した)。 日中は来隊者の応接(派遣隊長不在時、または、派遣隊長の判断を仰ぐ までも無い件など)、外部との折衝など、席の温たまる暇は無かった。
補助憲兵、雇傭人などへの直接、指導、監督、内務係、内務班長などの任が この外にあった。 実務隊に於て、最も多忙極はまる職掌であった。
我が石頭隊に於ては、曹長 清水 勇氏の担当する処であった。 清水さんは、仕事には極めて厳格そのものの人であった。 警務、司法などの書類、駐屯地部隊への通牒などの書類作製に当っては、 一字一画たりとも誤りは、厳しく指摘した。 部下の報告などにしても、微細に到るまで忽にしなかった。 だが、その反面、勤務外にあっては、清水の次郎長的な親分肌の人であり、 竹を割った様な性格の人であった。 部下の面倒を良く見る、人情豊かな人であった。 部下を良く信頼した。 だから、部下も良く班長を頼り甲斐のある班長として信頼した。 「班長の為とあらば」、「命とあらば」水火をも辞せず、 との感情が極く自然に萌芽した名班長であった。
私は、ある時、横着を極め込んで、取り替えた、褌、靴下 などを寝台の下に、 丸め込んで置いたのを、運悪く班長に発見されて、 大眼玉を頂戴した事があった。 この時は、上等兵室と兵長室が点検を受けたが、 上等兵室では私の他に同期の三浦君も同じ事を発見された。 兵長(下士勤)室では、流石にその様な横着を極め込む様な者は居なかった。 班長は、「貴公等は何時もこの様な不潔な事をしているのか? これから発見した時には、謹慎処分だぞ」と注意を受けた。
2人は直ちに洗濯場に急行して、洗濯をした。 洗濯を終って帰ったら、班長は「これも俺の役目の内だから、 悪く思わんで呉れ。洗濯位入浴の時に必ず行へ。 面倒な繕い者があったら、家内にさせるから、勤務後、官舎に持って来いよ」 と言って、兵室から去ろうとした。 その時、私達、不潔者、2名は、 「班長殿、お待ち願います。 謹慎処分を免除された、お礼の印にと思いますので、 一献差し上げ度いと思います」と言って、 立去る班長を引き止めた。 前々から、三浦君と2人の私物として、購入して置いたビール(普通、 兵室に酒類を保管しておく事は禁ぜられて居たので、食料庫に置いた) を食料庫から持って来て、班長、陳さん、私達上等兵達で酒盛りを始めた。 その内に、残務の終った下士官も私達の兵室に来て、仲間に加わった。 「この様に歓待されるのならば、毎日の様に貴公等のアラ探しをやるか」と言って、 班長は大笑した。 全く以て懐かしい、昔日の物語りの一駒であった。
李さんの待遇は、陸軍雇員であり、正式職名は憲補であった。 憲補とは、満人で身元確実、思想堅実にして、憲兵隊に忠勤を誓約し、 採用された者。 元より警察権は無く、各種情報蒐集に際し、派遣隊長監督下にあって、 憲兵の補助を為す。 平常は、満語通訳を勤務(同様な任務を行なう朝鮮人には、 憲兵補なる職名を与えていた。有事に際し、野戦憲兵隊に随伴する。 憲補、憲兵補は、下士官、兵と同様の軍装。 階級章、憲兵徽章、こそ着装しなかったが、憲兵腕章、軍刀、拳銃などは、 佩帯させて、憲補、憲兵補の誇りを持たせ士気を鼓舞させた。
李さん(24才)には、超美人の奥さん(27才)が居た。 夫婦揃って、好人物の大人しい人達であった。 李さんは、牡丹江市郊外の豪農の次男坊で、朝鮮、京城の日本人、 中学校に特待生として留学した人で、 勿論、日本語、堪能(日本語1等通訳免許状所有)、墨書に優れ、 素人の私が見ても惚れ惚れする程の美事な書であった。 私達営内居住者は、勤務終了後、李さんの帰宅を無理を言っては引き留めて、 満語会話の習得に励んだものであった。 難しい込み入った会話になると、私達は文法を無視して、 単語の羅列になってしまうのであった。 この様な時、李さんは、「満人で日本人を理解する人は、 それなりに何を言わんとしているか推察して呉れるが、 憲兵さんならば、もっと文法を誤まらない様に勉強して下さいよ」と屡々苦言を提された。
李夫人は、日本語は片言混じりではあったが、 私達との会話には、充分用を足した。 夫人も墨書は美事なもので、良家の育ちらしく、上品で鷹揚にして超美人であった。 その上料理は、上手であり、特に、棗入の支那菓子作りの味は、 今以て忘れる事は出来ない。 結婚して5年になるが、未だ子供が生れ内のが淋しいと言っていた。 私は、巡察の経路に李さんの家の前を通る様、計画案を作って、 班長に提出した。 巡察の折に良く立寄っては、支那菓子の接待に甘んじた (警務係の特権?でもあった)。 接待に甘んじた丈では決して無かった、時に得難い情報を耳打ちして呉れたのである。 李さんは、「第4夫人位までは、持ちたいが、 憲兵隊の給料では、第2夫人を持つ事も難しい」とボヤいて居た。 私は、満語会話教授のお礼に李さんに煙草ケース(入営の時に親父から 贈られた、金属製の一寸した者)を贈った。 義理堅い李さんは、返礼として、硯、墨、毛筆(硯は南支端渓産の美事なものであった) などを贈って呉れた。 私は、除隊記念品として有り難く頂戴して、保管していたが、 終戦間近に爆撃被害で失って仕舞い、申し訳無く残念でなら無い。
名は何と云ったか忘れて仕舞ったが、背が高く身長は2米近く、 ガッシリした体格の人であった。 背が高かったので、陳さんと呼ぶより「很高子」 (ヘンコーで、很=非常に、ひどく、大変などの意)なる和製愛称を呈上して、 その様に呼んでいた。 無学文盲であったが、誠実一徹の陰日向無く良く働く人であった。
中国北京の南約20〜30Km位距てた処に良郷と言う街があり、 郊外で貧しかったが、家族6名(陳さん、夫人、子供3名、老母)で、 農業を営なんで平和な生活をしていた。 昭和17年の春、買物の為、北京に夫人と一緒に出掛け買物を済ませて、 帰宅の為、北京駅に向かっていた処を、日本側の強制徴用に会い、 無理槍にトラックに乗せられ、泣いて哀願する夫人と別れさせられて、 東京城(牡丹江省 寧安県)の近くに在る鏡泊湖近くの軍事施設建設労務者として、 多勢の仲間と一緒に連れて来られたのであった。
昭和18年晩夏の頃、故郷の家族の事が心配で、故郷に逃げ帰える決心をして、 死を覚悟で、逃亡したのであった。 逃亡は間も無く判明し、沿線、沿道の要所には逮捕の為に、警察の網が張られた。 勿論、早速、日満相方の憲兵隊、満警、鉄警などに手配された。 逃亡5日後に、石頭憲兵が石頭屯の鮮系部落に潜入中を発見、 容疑者として、石頭隊に任意同行した。 取り調べの結果、以上の事実が判明したのであった。 派遣隊長は、勿論の事、隊付下士官連中も事の詳細を知り、私情に於て同情した。
しかし乍ら、一件書類を作製の上、 当然、軍律会議に送致すべき事件である。 派遣隊長は、暫し、沈思黙考の末、分隊に急行し、分隊長に、 次の事を意見開陳した。 「逃亡は届出人(軍施設建設請負業者の労務主任)の手続の手違い (労務者を軍関係の他施設に移籍手続き事務の連絡不充分)に起因、 と言う事にすれば、逃亡事件は成立せず。他の軍事施設とは、 石頭憲兵派遣隊とする事に書類を作れば、事は丸く納まる」 と思う旨を意見開陳した。
分隊長は、特進の憲兵将校であった。 従って、憲兵とは言っても、他兵科将校から憲兵に転科した将校とは訳が違う。 憲兵として、無駄に禄を食んで来た人では無い。 立身出世型のエリート意識過剰の将校とは程遠い考へ方の持主であり、 稀に見る肝ッ玉の据わった人であった (分隊長は恐らく 前川宗雄大尉では無かったかと思う)。 さればこそ、派遣隊長は、この分隊長ならば話の解る上官として、 勇を鼓して意見開陳に及んだのであった。 「結論は、明日まで待て」との事により、派遣隊長は、その日は帰隊した。 翌日、分隊長より「この責任は本職一身に在り。意見開陳を採用する。 直ちに実行せよ」との電話命令を受けた。
一方、留置場に留置されている陳さんは、有罪を覚悟して「没法子」 (メイファズ=諦観の意)を決め込んで居た。 留置場から出されて通訳を介して、派遣隊長から 「石頭隊付に移籍されたので、もう心配無用」と申渡たされたが、 何の事か、チンプンカンプン、さっぱり分らず、唯、 夢の中に居る様な気持ちであった由である。
その後、班長から「分隊長や派遣隊長の特別な計らいに依る放免であり、 暫くの間、石頭隊で働く事、真面目に働けば、 故郷に帰える事が出来る」 旨を達せられたが、 それでも騙されているものとばかり思ったそうである。 更に、李通訳が派遣隊長の意を詳しく話して聞かせた結果、 ようやく諒解したとの事であった。 だが飽くまでも、定員外の傭人として雑役夫に使うことにした。 官衙であれば致し方の無い事であった。 給料は分隊長の機密費、及び、 派遣隊員の據出金(補助憲兵を除く)で補充した。
以上の事は、私達が着任してから先輩の下士官や補助憲兵から 聞かされて承知した事であった。 私達も4月分給料から、兵の階級者は金50銭を據出した。 下士官以上は、階級に応じて応分の據出をしたのである。
陳さんは、派遣隊長、班長の食器洗いは厨夫には絶対にさせずに、 必らず自から行ない。 熱湯消毒を確実に実行した。 また、派遣隊長、班長の靴の手入は、常にピカピカに磨き上げていた。 陳さんの仕事は、舎外全般の掃除と舎内では廊下、留置場、洗面所、 厠の掃除が受持ちであった。 当時、若僧であった私達が見ても良く働く人であったので、 私達は據出金の他に金を出し合っては、煙草、甘味品などを購入しては進呈した。
彼の最も得意とする特技?は、食料庫、馬糧庫に出没する鼠を 庭箒で 100% 捕える名人であり、その上、 その獲物を素早くペチカの火中に放り込み、 2〜3秒して、逸早く之を執り出しては醤油に付けては、丸飲み同様に食べ、 「好吃很好吃(ハオチー ヘン ハオチ=大変に美味しいの意)を連発した。 それを唖然として、見て居る私達に、「吃罷」(チーバ=食べなさいの意)と奨められたが、 下手物食い揃いが多い憲兵もこれ丈には遠慮した。
三浦君と私が未洗濯物を寝台下に丸め込んで置いたのを、 班長に発見されてからは、良く私達の部屋に来ては、 満語と日本語をチャンポンにしては、 「有 センタク 洗々没有」 (ヨウ センタク シーシーメイヨウ=洗濯物はありませんかの意) と言っては、気を遣って呉れた。
眞に愛すべき人であった。
新任の上等兵、兵長(下士勤)達は、憲兵実務の初年兵であったので、 最初の頃は、先輩下士官直々の指導によって、 ペア(下士官、及び、兵2名1組)になって、巡察勤務の見習いを命ぜられた。 巡察中に遭遇する諸々の事件、取締対象現象等々を摘要根據法令などに就き、 指導され、また、質問され乍ら、実務について現場教育を受けた。 この勤務は、5月早々、清水曹長 着任するまで、毎日の様に行なわれた。
清水曹長 着任早々に、各担当係の選考をする際、 私は、「特務係を命ぜられ度い」旨を班長に意見具申した。 曹長は、「貴公の具申は希望として聞き置くが、派遣隊長の最終判断により、 決定される事である。俺は前任地(牡丹江分隊)勤務中、 石頭隊転勤の内示のあった折に、隊本部に於て教習隊から送付されていた 個人別、学科評定表を見せられて来た。 貴公の特別高等警察服務教程、採点は「特に優秀」と記入されてあった。 若い貴公は純真だ。 青年憲兵は、そうあらねばならぬ。 その反面、思想対策警察務に熱中するの余り、思想上、 間違を起す様な事があっては、一大事だ。 前途有為の評価をされたに拘らず、思想上に於て要注意となり、 憲兵不適格者となった者を支那事変以来今まで見て来た。 貴公が憲兵勤務に馴れた上で、その時には、 ジックリと相談に乗ろう」と言われた。
そして、その日の夕刻、新任兵の担当係職が発表された。 金田兵長(下士勤)と私は、警務係を命ぜられた。 勤務の内容は P. 140に記した通りである。 警務主任は、班長兼務であったので、班長、清水 曹長の直接、 指導の下に軍事警察服務のイロハから懇切、かつ、厳格に叩き込まれた。 警務書類、司法書類の作製は、殊に厳しく指導され、聴取書の精書は 特に厳格であった。
軍法会議、または、軍律会議に送致する被疑者、 または、現行犯人などの刑罰によっては、 人命にも係る裁判資料の基礎となる書類である。 誤字、脱字、当て字、その他、1点1画にも誤り無き様、厳しく指導された。 聴取書の最終に、「取調官、陸軍司法警察官の意見」として、 記入する1項があった。 その1項に記す文を朧な記憶を辿って記す。
強盗現行犯の実例 「被疑者(または現行犯人)何某は、幼時に於て父の早逝に会い、 母は日傭労務者として一家の生計を支え、 経済的には貧困した生活を余儀無くされた。 被疑者(または原稿犯人)は、小学校義務教育も充分に受けず、 弟妹の面倒を見る傍ら、少年時代より家計を助け、母を助けた。 長じて徴兵適令となり、甲種合格し、満洲第○○○部隊に入隊せり。 軍隊に於ける、勤務態度は優秀(中隊長証言書の通り)、 軍隊にて受領する俸給は之を全額家郷の母に送金(中隊長証言書の通り)。 為に、小遣銭に窮し居たのである。
偶々 ○月○日 外出を許可され、○○屯附近見物中の処、 ○○商店店頭(満人経営)前を通行中、該店舗前に販売の為、 陳列せられありし饅頭を一瞥するや俄に食欲を催せり。 然るに、被疑者何某は当時、懐中に無一文なりし為、 購入し得ざりしが、一度催したる食欲を抑止する、あたはず。 遂に、饅頭1ヶを不知知らずの内に出来心により窃盗し、 逸早く店前を去りたる処、この様子に気付きたる該店主何某は、 被疑者何某に走り寄り、問詰せる処、被疑者何某は該店主を 殴打せるものにして、偶々附近路上を通行中の、 満軍憲兵上等兵何某により事情を聴取され、 強盗犯、惹起を自白し、准現行犯として、その場に於て逮捕され、 後刻、石頭憲兵派遣隊に、移牒されしものなり。
本事件発生を考察するに、 疑者何某の栄誉ある帝国陸軍軍人としての自覚欠如による処、 大なるは論を俟たざる処なるも、 前記の如き理由に基く懐中無一文なりしが、 抑々の原因の一に該当すと思料せらる。 被疑者何某は、長男にして家郷に在る母を想い、弟妹などを想ふ、 家郷へ全額送金は、孝養心、及び、弟妹愛から発せられたる事は 明々白々なりと思料せらる。
一方、軍務にありては、 所属中隊長、証言書の如く、服命する事忠実にして、率先躬行し、 他の模範とするに足る優秀なる精勤兵なり。 出来心なりとは言え、強盗罪を犯したるは、厳正なる軍紀を犯したる 事犯なるも、初犯なり、身柄受領後の被疑者何某は精神状態の冷静化と 共に己の犯行の重大性を強く認識し、深く反省し、改悛の情、極めて顕著なり。
被疑者何某の直属上官は、本件発生後速かに、被疑者何某に対し、 弁償、治療、慰謝その他等々の適切なる措置を実施せり。 剰え被疑者何某は、任意に貴職に減刑嘆願書を提出しあり(別添の通り)。
以上、縷々記したる條々及び、 罪は憎むも人は憎まずの刑法立法の精神などを併せ御高配賜り、 御温情ある、御判決を賜はらん事を判士長殿、 並びに、判士各位に謹んで意見具申す」
以上の事件は、単なる窃盗事件であったならば (被疑者の改悛の情顕著なる場合にのみ限る)、 憲兵隊が仲に入り、被害者に充分なる弁償、慰謝、その他などの措置を、 所属部隊に実行する事を要請し、直属上官の 罰権(陸軍懲罰令へ行政処分に該当)に基く処分(P.166参照)に、 一任したかったが、 強盗罪に該当した上、加えて友邦国、満洲国軍憲兵に発見逮捕された、 とあっては、厳正なる軍紀維持を一枚看板として標榜する、 関東軍としては真に止むを得ざる、軍法会議送致であった、 とは送致後、派遣隊長、班長などの述懐談であった。
「憲兵初年兵は、先ず巡察勤務に始まる」の原則に従って、 兵長(下士勤)、上等兵、各1名、計2名がペアになっての勤務が開始された。 前夜、兵長と2名で案を練り乍ら作った、巡察勤務計画書を当日、 班長出勤(班長は定刻1時間以上も前に出勤が常であった)と同時に提出。 種々の注意すべき事項を朱書にて記入された上で、 認可を受ける慣わしであった。 朝礼後、正式に派遣隊長より本日の勤務を命ぜられ、 日直下士官より拳銃弾(14発)の交付を受けて、 定刻、派遣隊長に申告、事務室に於て、班長に勤務を報告し、勤務開始である。 とに角、馴れるまでは、緊張の連続であった。
憲兵と雖も、勤務に差支の無い限りは、陸軍礼式令の定むる処に従って、 路上で他兵科、各部の上官、上級者など、及び軍属の相当階級以上には、敬礼を送る。 憲兵は横柄だと難詰された節があるが、 大方は憲兵の勤務に就いての誤解である。 例えば、停車場取締勤務中、乗降する軍人、軍属 (外部軍人、軍属を含む)の自己以上の階級者に対し、 一々敬礼を送って居たのでは、不審者、非違者などの発見、 または、指名手配者などの逮捕、その他等々に差支える。 その為に、「勤務に支障のある場合、上官、上級者等に敬礼を省く事を得」 とされていた。
憲兵の将校、准士官、下士官は、陸(海)軍司法警察官であり、 兵の階級にある兵長、上等兵は陸(海)軍司法警察吏であった。 憲兵も軍人である以上、他の兵科、各部と同様、 階級章は付けていても勤務中は、夫々が陸(海)軍司法警察官、 または吏としての職権、執行中であって、 何れも関係法令などに於て定められていた。 また、憲兵の勤務の都合によっては、所謂、「私服勤務」も認められていた。 即ち、憲兵服務細則第12條には、
とされて居り、軍令憲兵も当然、之を準用されたのである。
軍人、軍属などの現(准)行犯人、被疑者、非違者などに対する取調べに際しては、 それ等の軍人、軍属が己の階級以上の際は、下級者たる憲兵が、 上級者、上官などを取調べる事になり、相手方の人権を尊重する意味で、 軍服を脱ぎ、私服を着用したのである。
恐縮する事、極わまり無かったのは、憲兵は軍刀を吊り、 長靴を履き、襟に付した憲兵徽章が見習士官の襟章と誤認されて、 路上に於て他兵科、各部の准士官、下士官などから、 先に敬礼された事であった。 その様な時に、私の方から急いで敬礼を送り乍ら近寄って、 「自分は上等兵ですから、敬礼しないで下さい」と頼み込んだものであった。
外国軍人(満洲に於ては、主として満軍将兵、及び鉄路警護団員) 及び礼式令に定められては居ないが、同職である満洲警察官などの 自己相当以上の制服着用者に敬礼を送る。 国際法上、事実に於ては消滅済ではあるが、 白系ロシア人(ロシア帝国崩壞に際し、革命政権に反対し、 多くのそれ等のロシア人が満洲に亡命していた)にして、 ロシア帝国時代の元士官などは「腐っても鯛は鯛」、 「破れたりと雖も名誉あるロシア帝国軍人」としての名誉を矜持し、 「天の時到らば祖国再建の大志を抱き」との確信の下に、 何かの記念すべき日には、かつての日、栄光に輝いたであろう ロシア陸軍の軍服を着て、街路を闊歩する老士官に会う事があった。 その様な場面に会った際に、敬礼を送ると、 「スパシーボ(露語 〜 感謝の意)」と言って、近寄り、 相手方から握手を求められたものであった。 内戦に破れたとは言え、敗軍の将である事に変りは無いが、 それにしても、ロシア帝国軍隊元士官である事に臆する事無く、 反って誇りを矜持して、居た態度は、 終戦後卑劣な行動に走った一部日本軍将校と比較し、 立派であると明言して差支ないものと断ずる。
一般的に鮮人は、警戒心が強い様に感じられた。 尤も、私達が鮮語に全く暗く会話の出来なかった為もあるが、 相手が私達に近寄るのを敬遠して居た様であった。 一方、満人の方は相手側が親近感を寄せて来た。 私達の方も下手な満語ではあったが、 積極的に話し掛けたのが功を奏したのか、急速に顔馴染みが増えて来た。
石頭駅取締りに就くと、時々、牡丹江に嫁に行った娘の家に遊びに行く、 石頭屯の屯長夫人(満人)に出会った。 何時の間にかこの夫人とも顔馴染みになった。 この夫人は、決まった様に大きな包を背負い、 内孫の手を引いては列車に乗るのであるが、 支那夫人の例の纏足(幼児の時に足に布を、 固く巻き付けて発育を止める習慣、美人の條件の一ツに数える説と 夫の留守に情夫の元に走るのを予防する説の2説あるも詳で無い)の為に、 本人は差程に苦痛を感じてはいないのであろうが、 その様な習慣の無い日本人の眼には、 何ともそのヨチヨチ歩きが不安定に写るものであった。 私は、彼女の大きな包を列車の網棚に乗せるのを度々手伝った。 その様な時、彼女は、 「大謝您的好意」(ターシェ ニンデ ハオイ 〜 貴男様の 御親切に感謝しますの意味)を繰り返しては、礼を言うのであった。
私は、「不要謝説話 請半路上 小心孫女 再会」(プヤオ シェソワホワ チンバンルーシャン ソンスーサイホイ 〜 いいえ何をおっしゃいます。 どうか途中、お孫さんに気を付けて、またお会い致しましょう意)と、 下手な私の満語の発音をそれなりに解釈してくれる彼女に感謝した。 満洲国の面積は日本より遥かに広い。 日本は当時、北は樺太から、南は台湾まであった。 同じ日本でも夫々の地方で方言あり、訛ある如くに、満洲でも同様であった。 満洲の帝都新京で教った満語の発音は、満洲の標準発音であったが、 東満の石頭地方では、発音は全く、或いは多少の相違あり、 馴れるのに大分苦労した。 満洲国面積、1,303,143 Km2。 兎に角、臆する事なく大胆に話し掛ける事によって満語も上達し、 人との触れ合いも深まった。
鉄路警護団(日本の現在の国鉄の鉄道保安官に似た組織であるが、 それよりも大幅に職務権限があり、場合によっては、 戦斗行動もする満洲国軍事警察の一種 〜 満洲事変まで満鉄の守備に 就いていた関東軍の独立守備大隊の肩替はり)、 石頭派出所長(日系)も開拓団医師も、 「間違っても良いから臆する事なく話をすることです。 例へ下手な満語であっても、こちらに誠意があれば向う様の方で、 それなりに解釈して呉れますよ」と忠告し、激励して呉れた。
巡察計画の道順に従って先ず、石頭駅に到り、発着列車の乗降客の内、 軍人軍属の軍紀風紀の状況、手配犯人、容疑者などの有無、 軍用貨物列車の異情点検、満運倉庫(軍需品の仮保監に使用し、 陸軍代用倉庫に借り上げ)の異情点検(駅長、鉄警所長、満運、 支配人の立会を要請)後、 駅長室に於て駅長(日系)、助役(鮮系)に挨拶、暫時用談。 次に、鉄警派出所長と情報交換。 次いで、満系所長(満系、日本語達者)に同様、挨拶、情報交換。 次に、満郵に立寄り、20〜30通の郵便検閲。 主に封書 〜 満洲国憲法違反ではあったが、反軍、反戦、反満、 侮日などの思想動向把握には欠かせぬ、便法であり、 公然の秘密行為であった。
次に、特殊慰安所に於て、駐屯地、司令官命令 (主として、衛生関係〜室内外の清潔、寝具類の消毒励行、 慰安婦の疾病の有無、健康状況、衛生具の備付状況)、 遵守の程度、点検。 次いで、開拓団、医院(院長、日系、開拓団員の診療のみでは、 経営が成り立たないので、一般住民(日、満、鮮)などの診療を併せ行なっていた)、 院長、または、夫人から、その日その日の出来事(多民族の患者通院に就き、 時に、有力情報に接す)などを雑談を交えて聴取を終って、 李通訳宅に赴き、超美人と若干時満語会話の練習を行なった (巡察勤務者の特権?)。
そこを辞去後、午前の最後の巡察目標の陸軍官舎群、及び、 陸軍病院、看護婦官舎の巡回(外出する軍人が好奇心から良くこの 看護婦官舎附近を徘徊することがあり、女性下着の洗濯後の曝乾中に 窃盗する事件あり、(私の着任前、及び着任後に各1件あり)。 以上で、午前の巡回が終了。 帰隊して巡察簿に、見聞事項記入、異情の有無を派遣隊長、班長に申告。 昼食後、午後の巡察勤務に出るのである。
石頭隊の奥、10Km位離れた辺りに多数の部隊が駐屯していた。 そこまで行くのであるが、途中1軒の家も無く、一面の草原であり、 緩い波状地であった。 在ると言えば、道路に沿って各部隊、官舎、営外酒保、兵士ホーム、 駐屯地給水所、開拓団、慰安所などへの電線、電話線にそれ等の電柱丈であった。 途中の草原は、駐屯部隊の実戦さながらの大演習場であった (日本軍最大面積の演習場であったと記憶する)。 一般人の通行は、禁止されているので、不審者に出会うことも無いのである。 連れの兵長と互に、陸軍刑法、刑法、刑事訴訟法などを図裏から取り出した 法令集を参考に設問し合い乍ら、勉強したものであった。
漸くにして部隊群に到着し、各部隊周囲を巡回。 次に、陸軍官舎群、その近くに兵士ホームと称する軍人軍属、及び その家族を対象とする娯楽施設(映画館、演芸場、食堂、喫茶店などを併設)があり、 外出日で無い時には、そこに立寄り、主任軍属と用談。 特に、火元取締り、食品衛生などを喚起。 次いで、営外酒保に到り、同様の喚起などを行なった。 物品販売所と言えば、この営外酒保、1軒丈であり、 官舎の夫人連中にとっては、物足りなさを感じられた事であったろうと 察せられた(石頭屯でも同様であった)。 最後に、特殊慰安所、給水所に立寄って、帰隊の途に就いた。 私は乗馬巡察を希望したが、相方が乗馬部隊出身で無かったので、 単独勤務になるまでは、徒歩巡察で勤務した。
南方、または、支那戦線などに転属した軍人の留守官舎にあっては、 別にその官舎に入居を要する軍人の居ない限り、 出征家族援護の目的を以て、 家族の入居を駐屯地司令官の裁量によって許していた。 その家族の為に、此れまた出征軍人家族の援護の目的で、 部隊では官舎当番兵を便宜勤務させていた。 主人の出征した留守を守るべき夫人の中には、孤閨の淋しさから、 その当番兵との間に不真面目なる噂を云々されている、 者も稀にあったので、その事を意識し乍ら、官舎群を巡察した。 この様な噂が例え事実であったとしても、 当の主人から告訴が無ければ、憲兵としては、 親告罪である以上、事件として処置する事は出来無い。
噂の濃度(軍隊に於ける情報用語では確度、甲、乙、丙の3種に分別) の高いものは、関係部隊長、及び駐屯地司令官などに対して、 軍紀風紀上の見地から、当番兵差し出し中止、または夫人の帰国、 官舎立退き、その他の措置を採る事が適当と思料する旨を通牒した。 この様な事故を起こした当番兵は、直属上官の罰権、 陸軍懲罰令(行政処分)を摘用された。 因みに、当時の刑法第183條を引用する。
陸軍懲罰令とは、軍隊生活中に起きた、所謂「事故」の事であり、 一般官庁などで言う「行政処分」の事である。 陸軍懲罰令第21條、及び 第24條には、
例示すれば、
等々である。
憲兵初年兵も巡察勤務に馴れた頃になると、 派遣隊長から単独勤務を命ぜられる事になった。 之は私が単独巡察中に遭遇した事件である。
駐屯地司令官(同一警備地区に駐屯する部隊、陸軍病院、陸軍官衙、 及び、その他の陸軍施設の長を以て構成し、それ等の長(各部を除く) の上級先任者を司令官と為すものにして、駐屯地、部隊間の軍紀 風紀の維持向上を図り、かつ、各部隊間の統制に資する司令官)、及び、 犯行者所属部隊長命令により、石頭屯の西方を流れる牡丹江 (川の名)を越える外出は、営内居住下士官、兵は禁止されていた(p.145参照)。 対岸の鮮、満人部落との往来は、 石頭駅の直ぐ下に在る渡舟を利用していた。 この日の巡察経路には計画外であったが、 その渡舟場にも足を延ばすことにした。 丁度その時、渡舟から鮮満人に混じって1名の見習士官の軍服姿の軍人が下舟した。 その見習士官は、飯盒2ヶを手に提げて居た。 不審に思い、その見習士官に、相当の礼を尽くして訊ねた。 以下は、見習士官と私の言葉の遣り取りの概略を記す。
私「貴官にお訊ね致します。 貴官は今しかた渡舟から降りられた様でありますが、 公用中なるや、否やをお伺い致します」
見習士官「今日は外出日であるので、私用だ」
私「では、士官職勤務中で無いと解して、宜敷いですか」
見習士官「その通りだ」
私「貴官所属部隊長、及び、駐屯地司令官命令によって、 営内居住下士官、兵の外出禁止区域立入りの事実は、 如何したのでありますか」
見習士官「本官は、苟も将校待遇の見習士官だ。 憲兵とは言え、上等兵如きに、兎や角言われる筋では無い」
因みに、陸軍刑法第11條には、
「陸軍士官ノ候補者ニシテ下士官ノ階級ニ在リ 士官ノ 勤務ニ服セサル者ハ 陸軍下士官ニ準ス」
と定められており、尚、見習士官は軍隊内務令により営内 居住を義務付けられて居た。
私達の囲りには、何事ならんと、多くの鮮満人が取り囲んで来た。 私は、その鮮満人に直ぐ退く様、促した。 一時は立退いたが、また、集まって来た。 見習士官との遣り取りは未だ続く。
私「陸軍司法警察吏として、お訊ねしております。 誤解無き様、お含み願います」
見習士官「本官の名誉を考えろ。上等兵では話にならん」
私「職権に基いて、お訊ねしております。 貴官の提げておられる、飯盒も検査して良くありますか」
見習士官「憲兵風を吹かせるな。検査には応じられん」
と言って、私を無視して歩き出した。 そこで、私は語気を強めた。
私「お待ち願います。重ねて申し上げます。 陸軍司法警察吏としての職権を行使中であります。 貴官が不審訊問に応じなければ、最後の手段を採ります。 宜敷いか」
見習士官「そんなに見たけりゃ。見ればいいじゃ無いか」
と言って、飯盒を地面に降ろした。 任意提出と見て、中を見ると、高粱飴が一杯詰まっていた。 あと1ヶの飯盒も同じであった。
そこへ、次の渡舟が着いた。 朝鮮人3名が急いで降りて、急ぎ足で、私の傍らに来て、 片言混じりの日本語で、「この兵隊さんが飴を売って呉れと言うので、 2ヶの入物に飴を入れてやりましたが、代金を払はずに帰えろうとしたので、 代金を請求したら、いきなりこの兵隊さんに殴られました。 初めから呉れと言うのであれば、無料でも上げたのに、 代金を払はずに、その上殴られたのでは、やり切れ無い。 朝鮮人だと思って、馬鹿にされたのが惜しいのです。 憲兵隊に知らせに行く処でした。 良く調べて下さい」と憤慨遣る方無い口調で訴えた。 私は鮮人に、「貴男の申し立ては、間違い無いか」と念を押した。 鮮人は、「絶対に間違いありません。この兵隊さんです」と答えた。 他の2名の鮮人も同様の旨申し立てた。 私は、見習士官に向って再び訊ねた。
私「見習士官殿、この朝鮮人の申し立てに相違ないか。事実を述べよ」
見習士官「金は払う。値を言え」
私は激怒した。
私「見習士官、本職の訊問に答えよ」
見習士官は開き直った態度で返答無し、私は更に語気を強めた。
私「この告訴人の告訴の真否に就いて明言せよ」
見習士官「その通りだ。 金は幾らでも払うから、見逃して呉れ。 第1線ならば、こんな事、当り前と言うぢゃ無いか」
私は終に怒り心頭に発し、 「フザケルナ」バンーと、一発突嗟に喰らはせて仕舞った (私の体重はこの時分、70Kgを越していた)。 小柄な見習士官は大きくよろめいて倒れかかった。 犯罪の事実は明白だ。 之れ以上の訊問は不要だ。 強盗準現行犯である。 直ちに逮捕であるが、周囲を多勢の鮮満人達が群がって取り囲んで居る前で、 捕縄を掛けるのは、見習士官の体面を考慮して、 「武士の情」で思い止まった。 それにしても、準現行犯人であれば、そのまま連行する訳にも行かず、 軍刀の提出を求めた。 素直に軍刀を吊り革より脱して差し出したので、 隊到着まで預かる事にした。 告訴人3名には、憲兵隊まで出頭を促した。
この事件に関しては、所属部隊副官、所属中隊長などが、 代金払い、慰謝料払い、被害者の治療費(殴打された際の口中の裂傷)支払いなど に就いて被害者の満足する額と、部隊に於て、責任を以て誠意ある姿勢を執るので、 穏便に処理して欲しい旨の嘆願が派遣隊長に出されたが、 派遣隊長は「初犯とは云い乍ら、刑事事件である強盗罪である事、 近い将来軍隊の楨幹たるべき将校の候補生が軍隊の命脈である軍紀を紊り、 剰え、友邦満洲国建国の五族(日満漢蒙鮮)協和の大理想を 一片の反故と化すが如き行為者は、法の定むる処によって、 軍法会議の法廷に於て公正なる裁判を受ける事が、 本人に更生を促す絶好の機会也」として拒否した。
この事件は、陸軍刑法の抗命罪(所属部隊長、及び、 駐屯地司令官、命令に違反)、及び、 一般刑法の強盗罪を以て軍法会議送致の為、 分隊に護送したが1ヶ月余で終戦になったので、 その後の事は不明である。 この見習士官は、旧制工業学校卒業の甲幹出身であった。 当時満洲は、「戦地、または占領地」でなかったので、 陸軍刑法第86條に抵触しなかったのは不幸中の幸であった。
因みに、陸刑86條には、
尚、同第88條には、
犯行の直接原因は、見習士官を命ぜられた隊付勤務になったが、 平素からの統率力に欠けて居るのを自認し、 従って中隊の2年兵以上からは常に馬鹿にされて居ると思い込んでいた、 何かの機会に部下に点数を稼ぐ可く内々思っていた処、 中隊の甘味品配給が停滞していたので、外出の際、 飴でも購入して兵に与える事を計画した。 処が、見習士官の給料は安かったので小遣銭に窮し、 遂に強盗に及んで仕舞ったとの供述であった。
陸刑第57條には、
当時の満洲は陸軍刑法上、軍中に指定されて居た。
一般刑法第236條には、
一般刑法の場合、この上更に、 戦時刑事特別加重刑が重科される事になっていた。
この事件には、次の様な思はぬ付録が付いて仕舞った。
この見習士官を送致書類と共に分隊まで護送したのは、 警務主任兼任の清水班長と私の2名であった。 私は、逮捕連行の経緯を派遣隊長、班長の2名には詳細に報告済であったが、 分隊に於て分隊長(憲兵大尉 前川宗雄)にも同様報告した。 分隊長は、次の2点に強い難色を言明した。
以上の2点を強く指摘し、陸軍刑法、刑事訴訟法、 陸軍礼式令などの不勉強を窘められ、最後に越権行為、 初回に就き情状を酌量して、 「譴責」(陸軍懲罰令 〜 一番軽い罰目)処分に付された。 そして、その余波は、派遣隊長、班長にまで及び、 「部下の監督、指導」に欠くる処ありとして「譴責」処分された。
私は、己の非に対する処分には、当然の事として甘受したが、 恩あるべき派遣隊長、班長にまで類を及ぼした事の重大さに責任を強く感じ、 愕然とした。 私は、2名の上官に誠心詫びた。 2名の上官は、怒る処か、返えって、激励される結果となり、 唯々、恐縮の語あるのみであった。 即ち、「貴公の良識に少々欠ける点があるとは言え、 正義心に逸る青年憲兵にあり勝ちな事である。 これを一ツの試金石と心得て、今後とも警察務に励む様、 この度の処分で挫折するが如き事の無き様、特に留意せよ」 との有り難い言葉であった。
私は後に、牡丹江特務機関(関東軍情報部牡丹江支部の通称名)に転属の折、 分隊から受領した軍隊手牒の賞罰欄には、この処分の一件の記入は無かった。 分隊長の温情ある措置であったと深謝の他無い。 この分隊長は、シベリヤ抑留中、戦犯氏名を余儀なくされた上、不帰の人となり、 未だに凍土に眠っておられる。 謹んで御冥福をお祈りいたします。
昭和18年3月、兵役法を改正(朝鮮人徴兵適令者にも適用、 それまでは志願者のみを徴兵)し、昭和19年より実施。 次いで、昭和19年10月、兵役法施行規則改正(17才以上を兵役編入)実施された。 その結果として、朝鮮人青年が満洲の各部隊に入営した。 石頭駐屯の各部隊にも入営した。 部隊によりその数は一定して居なかったが、3% 未満の充足であった様に記憶する。 内地人兵に混入した部隊もあった様ではあるが、多くの部隊にあっては 言語、習慣、思想などの配慮から、彼らのみを以て1ヶ内務班を編成し、 食事などにあっては、大蒜(ニンニク)、唐辛子、雞肉、朝鮮漬などにまで細かい、 気配りを示した、部隊もあった様に記憶する。 また、私的制裁は固く禁じられいた。
内務班長、班付先任、教育助手などの人選には、特に最新の配慮をし、 高学歴者などを当てる等をした様である。 彼らの士気は、日本人的な主観より観察すれば、 内地人兵に比して、遥かに劣等であった。 だが、彼らは表向きこそ、日本人的な教育を受けては居たが (日本語に依る義務教育)、 両親、親類などは朝鮮語を用い、朝鮮独特のハングル文字の使用など。 また、家にあっては有言無言の排日、抗日、侮日、反戦、 反軍などの思想等も扶植されて生長をして来たものである。 剰え、日本敗戦必至の情報は、日本が君臨して居た外地先住民の間に広く、 流布され、「知らぬは日本人ばかり也」が真の姿であった。 鮮満人にしても、無学文盲者がその様にして、その情報をキャッチするのかは、 特務に携わる者の驚異であり、恐威でもあった。
その様にしても、生長した朝鮮人兵の逃亡事件は相次いだ。 石頭駐屯の各部隊からは、1週に2〜3件、1件当り1〜5名の 逃亡兵捜索願があった。 また、他管内の逃亡兵、捜索手配などもあり、相当数の朝鮮兵が逃亡したのである。 石頭憲兵派遣隊の極く限られた兵員のみにては、自ずと、 当該事件に投入する兵員に限界があった。 この為に、分隊の応援、満軍憲兵隊、鉄路警護団、満洲警察などにも捜査 協力を要請するの他、密偵などにも情報提供を要請した。 稀ではあったが、内地人兵(日系)の逃亡もあった。 彼らの逃亡は単に軍隊生活の厳しさからの逃避でもなければ、 家郷懐しさの念 等のものでは無かった。 反日、侮日などの思想的なものの他に、日本の敗戦必至の確信に基くものであった。
逮捕し、取調べの段階で 聴取書作製の為、陳述する事を記録するのであるが、 逃走の理由を訊問すると、彼らの大半を超す者が共通して供述する事柄は、
関東軍の武力の強さを日本人自身が自認して居た譬え言葉に、 「泣く子も黙る関東軍」と称した。 その「泣く子も黙る関東軍」に在って、関東憲兵隊は、 「熟睡する大人も憲兵と聞いた丈で跳び起きる」と譬へられていたのである。 その様な威厳があると称された、憲兵隊の取調室で、 憲兵直々の取調べに、豪も臆する処無く、堂々と己の信念を供述する彼ら の態度は見事であった。 日本の指導階級にあった者が、終戦を境として、 昨日まで天皇至上主義、神州不滅、打ちてし止まん、 その他の荘言などを誰に憚る事なく弄して居たに拘らず、 米占領軍の進駐を見るや、今までの主義主張をあっさりと翻えして、 平和主義、民主主義、などの仮面を素早く被って、 アメリカ様々と尾を振った 風見鶏的醜態を曝らして、 平然とした連中と比すべくも無い崇高な信念であったと断言する。
革新思想を貫き、民族運動の鞏固なる信條に敬服する。 教習隊で習った思想対策の講義を追憶し、彼らの態度に感服し、 同情したものであった。 しかし乍ら、監軍護法は、憲兵の最大任務である。 一度、捜索願を受理した以上は、非違者の捜索、発見逮捕に当然の事乍ら、 全力を傾注して是れに当面した。 だが、逮捕した途端に、憲兵に逮捕されずに、上手に隠遁する方法は、 他になかったのであろうかと思ったものであった。
留置場監守は、僅少兵員の石頭隊であったので、 逃亡兵所属中隊長に要請して、その要員(下士官を長とする若干名) の分遣を求めた。 勤務の要領は、営倉入者の監守に準じて勤務してもらった。 その折に夜中に、日直下士官の 暗黙の諒解 (S軍曹だけは承知して呉れなかった)の下に、 表向きは密かに、砂糖湯を作って与えたり、配給の羊羹を御馳走してやった。 勿論、監守の為、所属隊より分遣された長である下士官以下の者達には、 口外する事をせぬ様に厳に要請した。
この様な時には、彼らも人の子、涙を流して礼を言って呉れた。 いよいよ、一件書類と共に身柄を分隊に護送(金田 下士勤兵長と一緒) するのであるが、この護送勤務は、如何に任務とは言え、 気の滅入るものは無かった、と悔まれる事も一再では無かった。 派遣隊長や班帳の特別の思い遣りで、衆人の眼を避ける為に、 分隊までの護送には貨物列車の車掌室を利用した。
因みに、陸軍刑法第75條を記す。
以上は、単独犯行の場合であるが、 復数人員で共同した場合は、更に重罪となり、 特に首魁には峻厳な刑に処せられる定めであった。
序に、陸軍刑法第77條(奔敵罪)を記す。
当時満洲は、陸軍刑法上、軍中に指定されていたので、 逃亡が明確(明確ならざる時は所属隊長の推定した時刻) に認識された時刻から、起算して72時間(正3日時)以内に、 自首(所属隊長を含み、他部隊、憲兵隊を含む、 全満の警務機関(満軍憲兵、鉄路警護団、満警など))するか。 或いは、発見逮捕されれば、逃亡罪は成立せずに、 直属上官の罰権に基く陸軍懲罰令のみの摘用(P.166下欄参照)で処分され、 軍法会議に送致されずに済むのである。
石頭隊に於ては、派遣隊長、班帳、両者の方針として、 72時間を6時間程度、超過しても司法書類、作製の段階で調制して、 逃亡罪、不成立とした。 罪人を強いて作らぬ事も、憲兵の温情ある措置として実行した。 肝っ玉の据はった者で無ければ出来ぬ、離れ業であったと断言する。 この事実が発覚すれば、派遣隊長、班長等は軽くても、礼遇停止、免官など。 重ければ、軍法会議送致事件となる。
当日の日直下士官は、庶務主任の大隅軍曹、 日直上等兵は、同期の戸口上等兵であった。 前半夜勤務の大隅軍曹が、日直室で勤務中(23時頃)、 石頭駅前の食堂(開拓団経営)の女将(主人応召中)が 血相を変えて寝間着に羽織りを羽織って、 男物のゴム長靴を履いたまま、約1Kmの途を走って、 派遣隊の玄関に飛び込んで来た。
何事ならんと、大隅軍曹が訊ねると、息を弾ませ乍ら、女将の曰には、 「どこの部隊の将校さんか分らぬが、泥酔状態で錠前を破り、店内に侵入した。 その物音に驚いて跳び起きて、電灯を点けた処、 私の寝室まで押し入り一緒に寝せろ、と言って狭い部屋中を追い廻された。 危険を感じたので、咄嗟に衣桁を投げ付けた処、 将校さんに当り、将校さんはその場に倒れたので、急いで、憲兵隊に知らせに来た」 との事であった。 既に、就寝中であった私達は、非常呼集され、 ちに警察務に服する軍装を整え、日直室に集合した。
大隅軍曹から手短に事件の内容を前述の如く知らされた。 「相手は泥酔状態とあらば、警務係の金田兵長(下士勤)と 中倉上等兵の2名が行けば良い。 刀、略帽などは、その場で領置。 場合によっては、靴、図嚢、なども領置して差支無し。 制止しても効なく、暴れる様であれば、負傷をさせぬ限り、 少々手荒に取扱って宜敷い。 但し、相手は上官に就き、礼を失する事なき様、充分配慮せよ。 直ちに出発」と大隅軍曹から命ぜられ、 拳銃弾(予備弾倉分を含む、14発宛)受領装填して、 女将同道の上、食堂に急行した。
着いて女将の案内で、室内に入ると女将の寝室で、 鼾をかいて、刀を吊ったまま、倒れた衣桁を下にして、 大の字になって寝て居た。 女将は、途中で屡々当り処が悪くて、死んで居るのでは無いかと、 そればかりを気にして、心配して居たが、 私達は正当防衛行為だから、心配無用ですと言って女将を勇気付けしたが、 鼾をかいで寝て居る姿を見て、女将は安心した、様子であった。 私達は、早速図嚢から用紙と巻尺を取り出して、現場図を記録。 壞された錠前を女将の同意を得て、証拠品として領置した。
一応の措置を終ったので、少尉を起こした。 仲々、眼を覚まさぬので、大声を発して再三起こした。 それでも起きぬので、尻を強く蹴って、起こした。 漸く眼を覚ました少尉は、朦朧とした眼を擦り乍ら、 「ここはどこだ」と連呼した。 見れば、衣桁を投げ付けられた際の擦過傷と思われる傷跡が顔に認められ、 僅かに血が滲んでいた。 「何だ貴様等。憲兵が何んで俺をこんな処に寝かした」と言って、 起ち上ろうとしたが、まだ、よろよろとして居た。
金田兵長が、「貴官を強姦未遂、現住家屋不法侵入、 器物損壞の現行犯で逮捕します」と告げた。 相当の抵抗はあったが酔って居たので、先ず、軍刀を否応無しに取り上げた。 略帽は、部屋の隅に転がって居たのも図嚢に納めた。 それ丈領置すれば、捕縄の必要も無いとは思ったが、 酔って居たので、転倒した際の怪我予防の為に、 両手の自由は拘束する事無く腰縄だけにして、 私が介添する格好で、彼の右腕を私の肩に廻して支えた。 少尉は水を要求したので、女将の差し出したコップの水を 一気に飲み乾した処で、僅かばかり興奮が覚めた様であった。 「俺は何をしたのだ。ここはどこだ。 誰が連れて来たのだ」などと再び騒ぎ出した。
金田兵長が再び前述の罪名に依る現行犯逮捕に依る連行を告げた。 締りの無いこの若い少尉は、将校の体面も威厳をもかなぐり捨てて、 いきなり泣き出した。 「言う事があれば、憲兵隊に到着の上、聞きましょう」と告げて、 ダマシ、ダマシ、派遣隊に連行した。
取り敢えず、酔の覚めるまで検束処分と言う事で、 留置場に藁布団、毛布などを搬入し、留置場入りを願った。 最初、何彼言って、留置場入りを拒んだが、 大隅軍曹が説得の上で、漸く応じた。
補助憲兵の谷口さん、他1名が監視に当る事になったが、 日直以外の営内居住憲兵も之に加はって、 30分交代勤務を大隅軍曹に意見開陳した処、 採用されて皆で交代して監視に当った。 急報によって夜分出勤した清水班帳からは、次の様な注意をされた。 「将校を検束、または留置した場合、特に注意すべきは、酔の覚めて来るに従って、 将校としての名誉を自から汚した事を強く自覚し、舌を噛み切るか、 首を吊るかして、自殺の危険性があるから、監視を厳重に行う様にせよ」 と指導された。
少尉は事の重大性を自覚したのか、胡座もかかずに正座し、 ジーット瞑目していた。 この様な馴れぬ座り方をしていたのでは、足が痺れ、 起つ事も出来ぬであろうと思い、 私は少尉に声を掛けた。 「少尉殿、横になって、お休み下さい」と言ったが、 「諒解」の一語あるのみで座を崩さなかった。 気を落ち付かせ様と思って、「水はいりませんか」と訊ねた処、 「頼む」と言うので、日直の戸口君に頼んで水を汲んで来てもらい、与えた。 コップの水を一気に飲んだ。 未だ、飲むか否かを訊ねたあら、「結構」と言って断った。 幾分、気持ちに余裕が出たのか、胡座をかいた。 疲れたのか「壁に背を凭れても良いか」と聞くので、 「どうぞ お楽にして下さい」と告げた。
班長は、夜明け早々少尉の酔が覚めた頃、取調室で、取調べを開始した。 金田兵長と私は、陳述書作製の見習助手として、 清水曹長の横に椅子を設けて座った(相手が私達より、上級者であるので、 3名とも 私服着用)。 先ず、私達は班長以下私服であったので、陸軍司法警察官、 及び同吏を少尉に告げる為、憲兵手帖を示した。 少尉の所属官等級氏名は、少尉携帯の名刺と一致した。
取調べ過程で判明した事は、牡丹江に私用外出し、 料亭でシタタカ飲酒の上、更に帰途の列車中でも、 また相当量を飲酒し、前後不覚の状態になったが、 石頭駅で下車する事を車掌が判明して居たので下車したが、 その後、開拓団経営食堂に立寄った事は、全然記憶の無いとの供述であった。 派遣隊長も早々に出勤して、班長の報告を受けた。 所属隊週番司令に電話通報し、責任者の来隊を求めた。
所属隊からは、週番司令からの報告を受けた副官、直属の中隊長の2名が、 官舎より貨物自動車に乗って到着した。 早速、派遣隊長室に於て、それ等の責任者に事の顛末を派遣隊長から説明した。 漸くして、班長から領置した軍刀、略帽などを持参する様命ぜられた。 この事件は、「飲酒過多に基く、心神喪失下の一連の行為であり、 刑事事件送致は断念した」旨が派遣隊長より説明された。
因みに、当時の刑法第39條には、
とあり、同條、前段適用であった。 後は、少尉の直属聯隊長名を以て陸軍懲罰令に基く処分を行ない。 他に転属発令、及び女将に充分なる慰謝料支払い、損壞物件に対する現物弁償なども、 円満解決した旨の通報が寄せられた。 この少尉は、甲幹出身の予備役少尉であり、 近い将来特別志願将校を志て勉強中であり、 現役復帰を夢見て居たとの事であった。 皇軍の質の低下振りを如実に曝露した1件であった。 それにしても、制服着用中の、然も将校たる者が、 泥酔状態で市中、車中を横行するとあっては、論外中の論外な事であった。
制式には「関東軍予備士官学校」と称し、 通称号は「関東軍甲種幹部候補生教育隊」であり、 普通には標題の呼名で通用していた。
昭和20年頭初から関東軍の兵力の他管内もの抽出や満内の移動などが 大幅に行なわれた。 之れに伴なって今まで、関東省延吉にあった標記の教育隊が、 石頭の元戦車第1師団隷下の機動歩兵第1聯隊(本土決戦に備え、 関東地方に抽出)の空兵営に移駐して来た。 この時の移駐組は、昭和20年6月移駐後、間も無く卒業し、 同年7月第13期甲幹候補生、3,600名が入校して来た。 校長は、小松大佐であった。 尚、この教育隊には、元陸軍大臣や元文部大臣を歴任した、 荒木貞夫大将の子息(陸大卒)が隊付少佐として勤務務していた。
幹部候補生制度は、旧1年志願兵制度(在営費、全額自己負担にして1ヶ年 在営で済み、除隊後、予備役教育招集し、召集解除の際予備役少尉、 または同伍長に任官させる制度、金持ち子弟の優遇制度として悪評あり) を改正(昭和8年、及び、同13年)し、 旧制中等学校(正科目として現役将校も派して、軍事教育を5ヶ年間に亘り教育) 以上の卒業者が徴兵、または現役志願(満18才に達すると志願可能)で入営すると、 幹部候補生志願の受験資格が与えられ、合格すれば、 家庭の貧富の差無く無償で教育され、後に到り甲幹となり、 士官適任者に認定され、予備役少尉に任官の際に、 軍装費全額を支給され、正八位に除されるなどの恩典があった。
幹部候補生に合格すれば、俗称「座金」と称された徽章を付け、 一般の兵や下士官と区別することにした。 所謂、軍人のエリート意識を自他共に認めさせたのである。 後日、この幹候を甲種乙種に区別する聯隊の選考会議が行われ、 そのエリートの中から極く少数の更にエリートを選び拔くのである。 これに選び拔かれた者が、甲種幹部候補生となるのである。 此れは建前論であって、甲乙の区別の付け方は、 多分に政策的配慮に依る区別であった。
その一例を揚げる。 大江 志乃夫氏の著書、「徴兵制」(岩波書店)によれば、 その文中に、「甲種、乙種は試験の結果によって選考されたが、 在郷将校として農村部の地域社会の在郷軍人会に指導性を発揮する、 農業学校卒業生は、優先的に甲種に採用され、 都市サラリーマンとなる商業学校卒業生は、乙種に廻されることが多かった」 と記されている件りがある。
甲種幹部候補生(甲幹と略称、予備役少尉養成を目的)、及び、 乙種幹部候補生(乙幹と略称、予備役伍長養成を目的)養成の大きな目的は、
以上の必要性等々であった。
乙幹出身の下士官には、極く一握り程の例外はあったにしても、 問題となる様な事は起こらなかった。 義務教育のみを受けて入営し、下士官を志願した連中から比すれば、 高学歴者が占める割合は多く、一般教養学科に於て特に優れていた。 入隊したばかりの新兵教育には、欠かせぬ存在であった。 また、軍隊と雖も一般官庁などに異なる処無く、 机上事務は整然適格、かつ、迅速に処理されねばならず、 戦時野戦に従軍の際は陣中日誌の戦闘詳報などの記録もあり、 乙幹出身者の存在は貴重であった。 部隊の指揮に於ても、軍曹、伍長等は、 普通分隊長(混戦下の破断界の際は臨時に、 小隊、中隊等の指揮を執る場合、応々にしてあり)としての職分であり、 部下掌握に差支あるべきものでは無かった。
だが問題は、甲幹出身予備役将校にあったのである(中には指揮、 統率力優れ、人格識見に於て幹部としての素養充分あり、 軍隊が楨幹たるに相応しい者も居たので、之らの者を除く)。 一般的に言って、指揮統率力に欠如していた事である。
現役少尉(陸軍士官学校卒業者、少尉候補者出身、及び、特進者)は、 職業意識に徹して居た。 陸士出身者は、入校以前から職業軍人を志願し、 陸士に於て武人としての徹底的な教育を受けた。 少尉候補者出身、及び、特進組出身等は、 入営後、軍隊最下級の二等兵の下積み時代より、長い軍隊生活に耐え、 骨の髄に到るまで、軍人精神を叩き込まれて来た猛者であった。
一方、甲幹出身予備役少尉は、士官学校卒業とは云え、 飽くまでも予備士官学校卒業者であり、幹候志願の頭初より、 帝国陸軍将校としての強い自覚に不足し、認識に欠けて居た、 事実は否定出来ぬ事であった。 将校養成とは云え、それは速成であり、「付け焼刃」的教育であった。
支那事変(昭和17年7月7日〜同16年12月7日、以降は大東亜戦争に包含) 初期の頃までは、さしたる問題(無かった訳ではないが極く少例)は、 慨して少なかった様であるが、戦線が中支、南支に及ぶに従って、 また、大東亜戦争(昭和16年12月8日〜同20年8月15日)の宣戦に及ぶや、 南溟、北漠の域に急激に拡大された戦線に大多数の軍隊を送って戦争を行なった。 これに伴なって、下級士官の不足を来たし その充足には予備士官の大量補充の為、 選考規準の低下を来たしたのである。 所謂、粗製乱造は元より、覚悟の上で行なわれたのが、現実の姿であった。 結果は、指揮統率力に欠ける、下級将校の多数誕生を招来したのである。
石頭の教育隊に学ぶ甲幹(軍曹の階級章付着)も、決してその例外では 無かった(全員を対象とするもので無く、飽くまでも対象となる非道者に 焦点を絞る)。 教育隊に甲幹は、見習士官(曹長の階級章を付け尉官用帯刀に将校刀佩刀) に採用される、一歩手前にあって、将来の予備士官を夢見て演練中の軍人であった。 厳しい教育に耐え、互に切磋琢磨して居る事は理解された。
彼らとて人の子、緊張の連続の教育隊の疲れ、ストレスの解消を休日の外出に求めた。 別に不思議は無い。 その解消法が法令に違反し、典令範などに犯則しない限りに於て、 憲兵は一切之れに介入するものでは無かった。 だが、中には、外出中に稀に、非違の行為に走る者があった。
何時の世、如何なる社会にも、多少の無軌道者は付き者として、 片付けて仕舞えば論外ではあるが、 甲幹は将来の予備将校とは言い乍ら、 帝国軍隊に職を奉じて居る間は、軍隊の楨幹である。 将校それも最下級の少尉は、高等官八等待遇である。 一般社会を見るが良い。 文官の高等官八等になる為には、学歴は不問とは言い乍ら、 無学歴者がその地位に就けぬ訳は無かったが、 各種の資格試験を経て後、任用される事は、極めて稀中の稀であった。
一般的な常道としては、帝国大学法科卒業者の希望者の中から、 高等文官試験に最終的に合格した者の中から、更に選拔された者のみが、 その任に就けるのである。 軍隊なるが故に、中等学校卒業者でも、文官のそれに比すれば、 割合簡単な試験によってなれたのである。 将校ともなれば、判任官待遇の下士官とは訳は大きく違う。 陸軍懲罰令第24條(P.166参照)を参照され度い。 重複の煩瑣を敢えて行ない、再び記せば、
と定められ部下たる、准士官以下に罰権を有するからこそ、 下級将校、及び将校候補者の見習士官、 甲幹の公私に亘る一挙手一投足に到るまで、微細にに到るまで問題とするのである。
石頭憲兵派遣隊で取扱った、事例を挙げる。
以上は、敢て罪人を作らずの憲兵の温情ある措置であった。
関東軍予備士官学校の名誉の為に次を記す。
昭和20年8月9日未明、不法にも満ソ国境を越境し、侵寇したソ連軍戦車隊を 磨刀石 (牡丹江〜穆棱の略々中間)附近に於て果敢に邀撃し、 為に友軍の転進を有利ならしめた事である。
この教育隊に、大阪外国語専門学校(現大阪外大)露語科に在学中、 学徒動員されて入隊した、某、候補生が居た。 終戦後、私は抑留されてシベリヤの収容所に送られ、半年経た頃に、 他収容所に居たその某、候補生は、私達の収容所に露語通訳として転属して来た。 私はその某候補生には見覚えは無かったが、彼は私を姓と共に見覚えて居た。 私の巡査勤務中、或いは、他の勤務中に姓と顔をと見覚えたのであろう。
私は抑留された直後から憲兵であった事を秘匿し、元の兵科の騎兵とし、 姓は山本と変名して、抑留者名簿に記載して居たのである。 彼によって、私は石頭憲兵隊の憲兵上等兵、中倉である事を見破られて仕舞ったが、 私は頑として否定し続けて居たのであるが、終に彼によって、 ソ連政治将校に密告されて仕舞った。
政治将校の執拗、かつ、脅迫(虚偽申告は死刑と通訳(某候補生)された)には遂に、 抗すべき述も無く、虚偽の申告をした旨を自白した。 ソ連に刑事訴訟法が有るのか無いのか、私は欠席裁判でどの様な、 ソ連刑法上の罪名に抵触したのか知らされる事なく1回目は、懲役20年に処せられた。
私は再三抗議した。 理由は、虚偽の申告は認めた憲兵とは云え、 最下級の者がソ連に対し、それ程の軍事恐威を影響させる作用をしたかを述べた。 それに対し、またも欠席裁判により10年に減刑されたが、 またも執拗に 様な事を抗議した。 これに対し、懲役5年に再び減刑された。 私は之れ以上は抗議を諦めた。
不審なのは、欠席裁判である。 政治部将校と某候補生、通訳の馴れ合いに依る密略謀議に依る、威嚇であって、 裁判など、開廷しなかったのでは無いかとも思われる。 だが、虜囚の身の哀れで、之以上不利になる事を避ける為、 以後は沈黙を守ることにした。
私にとって生ある限り、忘れ得ぬ厭な想い出の H候補生である。
支那事変勃発以降終戦に到るまで外征軍、及び、本土守備の大量派遣によって、 現役兵のみにては到底間に合はずに、予備役は勿論の事、 後備役、補充役などの召集によって、その不足を充足した (支那事変初期には、40才を越えた後備兵が召集された 〜 村田 知志郎氏 著 「日中戦争日記(四)〜 鵬和出版 〜 による)。 その結果、必然的に我が国の伝統を誇った、精強無比の大日本国陸軍の姿は、 完全に消え失せた。
何れの国の軍隊に在っても、「眞に精強」な軍隊と称されて居たのは、 平時に於て現役兵のみを以て編成されて居る軍隊の事を指すのである。 日本軍はさて置き、卑近な外国軍隊の令を挙げる。
以上の行為は何れも、血生臭い、戦場の第1線従軍将兵の人間としての 情緒感覚麻痺、若くは喪失現象の結果である。
我が国の軍隊と雖も決してその例外では無かった。 軍隊が平時にあって、しかも現役兵のみを以て編成された軍隊が精強である事は、 頭書の部分に於て触れた。 その精強である理由は 軍紀風紀が厳正に維持されたからである。 厳正に維持された大きな理由を記す。
以上の理由の結果、軍紀厳正、風紀正整が維持された。 「軍紀ハ軍隊ノ命脈ナリ」とは、軍隊内務令、綱領五の頭書に訓える処である。 軍紀厳正なれば、服従の精神に徹し、命令ある処、 断固欣然として死地に挺身出来るのである。 之が真の軍隊であり、上大将より 下一兵に到るまで、 軍人の神聖なる任務である。
以上は、大日本帝国軍隊の特有のものでは無い。 何れの国の軍隊に在っても、共通して居た事項であった。
外征軍最高司令官以下、各級指揮官の戦陣に臨んで最も憂慮した事は、
以上の事例が、大日本帝国の軍隊が外征した際、現実に発生したのである。
古来、「軍紀を紊り、身命を惜む」軍隊、軍人の軍勢は、 確実に「戦場の敗者」となったのである。
野戦の生活が長期に及べば、そこには厭戦、反軍などの思想が、 渾然一体となって、自然的に萌芽擡頭、かつ戦線が広範囲に拡大されれば、 一人の高潔は外征軍最高級司令官の意図する処が、 末端の一兵にまで周知徹底される事は容易の事では無かった。 忠誠な軍人であり、精強な軍隊の姿は文字だけに終った、 と言っても決して過言では無かった。 昭和16年1月8日、 「戦陣訓」なる戒めの訓が、時の陸軍大臣、東條英機大将から陸軍軍人、 全般に示達されねばならぬ程、特に外征軍の軍紀風紀は紊乱していた。
かつて、大本営参謀勤務中の三笠宮が北支八路軍(中共軍)地域を 戦線視察した際、同行の参謀連に、 「一体どちらの軍隊が聖戦を行って居るのか分らんね。 八路軍の方が驚く程厳正な軍紀を保持して居る」と、 慨嘆した事実を見ても明らかである。
次に、現実にあった事件を記す。
ノモンハン事件(昭和14年5月11日〜同年9月4日、 満洲北西部、外蒙国境と接する附近)に従軍し赫々たる武功を立てた、 第7師団通信隊は、第7師団が旭川に凱旋した後、 北部第8部隊の通称号で呼称された。 その部隊には、九州出身の福田少尉が居た。
昭和16年秋、旭川市春光町の陸軍官舎街に、頻々として盗難事件が発生した。 憲兵隊で捜査の結果、福田少尉の容疑が濃厚になった。 少尉の官舎を家宅捜索の結果、押し入れから盗品が発見された。
10月28日、憲兵准尉と直属上官である山下(幸)大尉が憲兵隊に連行の途中、 突然隠し持って居た拳銃で2名を射殺。 更に、山下大尉の官舎に走って、電話機を手に取ろうとして居た夫人を射殺した。 この後、路上で擦れ違った他部隊の准尉を射殺して、春光台の山中に遁走した。
この報に接した第7師団司令部は、事の重大性から極秘扱とし、 憲兵隊は、各報道機関に報道禁止の措置を採った。 師団司令部では急々に、極秘裡中に実弾演習の名の下に、 実包を込めた1ヶ連隊を動員、山狩りを行なった処、 拳銃自殺体の福田少尉を発見した。
少尉はこの他に、看護婦1名にも妊娠させて居た事も判明したが、 山下大尉宅では乳児1名が遺された。 一連の窃盗事件の他に連続4名の殺人事件を犯す、軍紀紊乱事件であった。 この責を負い、師団長国崎中将は、任半にして予備役編入、 後任は鯉登中将が着任した。
(以上は「ノモンハンの死闘」、 三田 真弘編、北海タイムス社、より抜粋)昭和17年12月27日、 北支にあった第59師団(衣部隊)隷下の第53旅団、 隷属独立歩兵第42大隊、第5中隊長、福田中尉は、 部下の金子兵長以下5名に対し、翌28日、 臨清に駐屯中の大隊本部に転属を命じた。 転属要員は計10名で、部隊新編成の為であった。 当時旅団は、「と号」作戦決行中であった。 夕刻、転属者は、中隊幹部との会食に招かれた。 金子兵長等はこの移動に不満であった。 そこで中隊内務係(人事担当)浅野准尉に対して、 この人事移動に激しい不満が憎悪に変わった。
会食は中隊長の心尽しの送別会であったが、席上、小隊長の 配慮によって日本酒は無く、僅量のブドー酒だけが用意された。 酒好きの金子兵長は之を憤慨し、席を蹴って、内務班に戻り、 残留者20名と日本酒8本を集め、派手な酒宴をした為に、 転属への不満は、酒の助勢でエスカレートした。
午後7時30分頃一先ず解散したが、向里上等兵、 他8名の転属者は、 更に外出して飲酒を望み、中隊事務室に居た、 浅野准尉を捉えて営外近くの富士食堂に連行した。 この際、向里上等兵等は、浅野准尉との間に止めに入った 週番下士官、日下曹長を殴打し、暴行を加えた。 更に、中隊長の胸倉をつかんで、暴言を浴びせた。 だが、中隊長は事の拡大を怖れて、慰撫に勤めただけで、 他に何等の対策を講じなかった。
さて、富士食堂に連行された浅野准尉を心配して、追って来た箕輪曹長は、 一緒に飲酒を付き合って、向里上等兵を慰撫していた。 之を良い事に、更に増長した向里上等兵は、転属の怨念の余り、 浅野准尉を再度、侮辱殴打した。 浅野准尉は席を離れたが、後難を恐れて、翌朝まで帰隊しなかった。 向里上等兵は、そのまま酔い潰れて、その夜は富士食堂で1泊した。 一方、向里上等兵等とは別行動で、 街で遊興した金子兵長等は、午後11時頃帰隊した。
翌28日朝、富士食堂から帰隊した向里上等兵等は、 尚、転属の不満が覚めず、午前8時30分頃、金子兵長等3名を誘って、 無断外出し、再度、富士食堂で飲酒泥酔し、 転属者の出発前の軍装検査時刻の午前10時に到るも帰隊しなかった。
ここに於て、福田中隊長は、午前11時、 鈴木少尉以下4名の曹長を富士食堂に遣わし、金子、向里等に帰隊を命じた。 処が、金子、向里の2名は、命令伝達に来た鈴木少尉等を侮辱し、暴行を加えた。 この報告を一旦帰隊した鈴木少尉から受けた中隊長は、懐柔策で、 金子兵長等を飲み潰した上で、出発させようとした。 そこで、再び、鈴木少尉等が富士食堂で酒を飲み始めた。
午後12時過ぎた頃に、 舘陶〜臨清の自動車警乗警備勤務から帰隊した塙上等兵に、 草柿一等兵も転属組であったので、金子兵長等の話を聞くと、 直ぐに富士食堂へ押し掛けて痛飲し乍ら、浅野准尉への復讐的暴行を計画した。
午後1時20分頃、鈴木少尉は乱酔した塙上等兵等を同行帰隊させて、 中隊事務室へ連行すると、居合はせた中隊長以下幹部の前で、 塙上等兵は、帰隊して居た浅野准尉を殴打し、中隊長に侮辱的暴言を吐いた。 側に居た菊谷軍曹が竹刀で彼らを押えようとすると、中隊長が之を止めた。 塙上等兵は増々、増長して、菊谷軍曹を殴打、銃剣を拔いて暴れ出した。
折から帰隊した向里上等兵が之に加勢した為、 中隊長以下の幹部は隊外に避難して仕舞った。 向里上等兵は中隊幹部を見失ったので、再度、富士食堂に行った。
これを見た塙上等兵も後を追って、衛兵所の前まで来たが、 ここで衛兵所のガラス窓を破り、銃架、ストーブなどを転倒させた。 衛兵司令がおだやかに抑止しようとすると、更に激昂して、 銃を執り、備付弾薬を不法に使用して、処構はず発砲し、 手榴弾までを投げて爆発させた。 だが、衛兵司令は塙上等兵の戦友であった為、 断固たる措置を取らず、 哨兵守地を離れて避難した。 これは重大な軍法違反である。
一方、富士食堂で飲酒中の向里上等兵、草柿一等兵の2名は、 銃声を聞くや直ちに帰隊して、塙上等兵に加勢して、 銃を乱射、手榴弾を投げ、中隊幹部を探し求めた。
ここに於て、福田中隊130名は、全員隊外に出て避難した。 すると、塙、向里の2名は、この後隊外に出て、 県公署、飲食店などに立寄り、乱暴狼藉の限りを尽くし、中隊に帰へった。 彼らは更に、将校室、下士官室を荒し、電話機を破壞し、 またもや富士食堂に到り、飲酒を始めた。
この後、残留兵等に慰められた塙、向里、両名は、酒を略奪して、 午後4時30分頃、漸く帰隊した。 転属者達は、逐次帰隊した兵達と別離の盃を交わし、記念撮影を行ない、 午後5時30分頃に、全員トラックに乗車して臨清に向って勝手に出発した。
これより先、午後2時頃、中隊から逃避した福田中隊長は、 県城内望楼から状況を偵察して居たが、 他部隊からの応援依頼で鎮圧を決意し、 県警察官を舘陶、東北の張官寨に到着、 同地の県警から邱県警備隊を通じて、 電報で大隊本部に暴行鎮圧の為の兵力派遣を要請した。 大隊本部がこの電報を受領したのは、午後11時であった。 次いで、張官寨、舘陶間の電話が復旧し、転属者出発の報告を受けた。
福田中隊長は、午後11時頃 舘陶の中隊に帰隊した。 また、富士食堂で金子兵長等の説得に当って居た鈴木少尉は、 銃声を聞くと食堂を出て、南門望楼に退避した。 だが、転属者が中隊出発後、電話回復を待って、 大隊本部副官に事件の状況を報告した。 この間、中隊の下士官、兵等、残留者は、 塙上等兵の乱暴狼藉を鎮めようとはせずに、 大部分は兵営外に逃避していたのである。
12月28日、午後7時頃、 臨清の大隊本部で第5中隊の軍法軍紀違反事件発生を、 鈴木少尉の電話報告で承知した。 大隊副官、松島中尉は、午後8時に到着した転属者の内、 暴行者6名を隊内の営倉に留置した。 続いて、午後9時過ぎに、邱県経由で、 福田中隊長の兵力派遣要請を受けた。 そこで、午後10時に池本少尉以下22名と臨清憲兵派遣班から、 松本 明 憲兵軍曹、以下憲兵5名を舘陶に派遣した。 更に、翌29日、清南に帰還した大隊長 五十君 直彦 大佐に報告。 同時に、旅団副官にも連絡した。
12月30日、五十君大隊長は報告の為、 副官を旅団司令部に派遣し、自ら現地舘陶へ赴き、事情を聴取した。 旅団長 大熊 貞雄 少将は、折角、清南、東北の 章邱整備隊の師団随時検閲に随行中であったが、 直ちに、清南に帰還して、大隊副官の報告を午後4時過ぎに受けた。 大熊旅団長は、事件が一般住民にも関係が生じた事から、 師団司令部に報告すると共に、 清南憲兵隊長、村上 直枝 憲兵中佐に捜索を依頼した。 ここに於て、命を受けた清南憲兵分隊長、笠原 三郎 憲兵少佐が 捜査主任となり、部下憲兵に調査させたが、 事件そのものは単純であった (単純とは、革新思想に起因しない事を指す)。
昭和18年1月6日、夕刻、第59師団、椋川 悌 中将は、 笠原憲兵少佐から事件報告を受けると、 捜査の徹底と急速な事件解決の為、同日、軍司令部に連絡して、 軍命令による軍参謀、軍法務部長などを現地に派遣した。 また、舘陶警備、交替の為、軍予備、1ヶ小隊を派遣し、 事件関係者を清南に集結させた。 笠原憲兵少佐は、前日、夕刻に暴行容疑者、及び 福田 中尉、衛兵などを連行して、清南憲兵分隊、留置場に留置していた。
1月7日朝、椋川師団長は、事件の全貌が明白となるや、 その内容が極めて悪質、重大な軍紀犯に留まらず、 その関連する処が舘陶部隊全部に及ぶ事を知って、愕然となった。 直ちに、舘陶の警備を予備隊の第44大隊に交代させ、 第5中隊を臨清に集結させて、徹底的に調査する事を大熊旅団長に命じた。 翌1月8日夕刻、師団長は、福田中隊の鈴木少尉以下41名を、 清南に集結させて捜査処分に付した。 この数時間前、中隊長、福田中尉は、 清南到着後に事件の重大性を自覚し、拳銃で自決して居た。
翌日、第12軍、軍法会議が清南で開かれ、 向里、塙の両上等兵は銃殺刑、 草柿一等兵は無期懲役、金子兵長は懲役6年、2名が禁錮。 更に、鈴木少尉、日下曹長と衛兵司令、衛兵4名も禁固刑となった。 更に、旅団長は、1月17日に 五十君大隊長を重謹慎30日。 椋川師団長は、翌日、大熊旅団長を重謹慎30日に附した。 また、第12軍司令官、土橋 一次中将、 第59師団長、椋川 悌 中将、第53旅団長、大熊 貞雄 少将、 第42大隊長、五十君 直彦 大佐は、3月1日付で転任となり、 4月15日付で、待命、予備役編入になった。
以上を「舘陶事件」と称す。 この項は、 「日本憲兵外史」 〜全国憲友会連合会編纂委員会〜全国憲友会連合会本部 発行、より抜粋。 1、2項ともに文中の字句一部変更、及び文中省略の部分あり、 乞御容赦。
大東亜戦争下にあった同じ、日本軍の軍隊にあっても、 支那派遣軍、南方派遣軍、その他の如く占領地域、戦闘地域などの如く、 所謂、作戦区域下にあった軍隊に比べ、 満洲防衛の任にあった関東軍は、ソ連外蒙と国境を挟んで互に対峙する状態に在り、 全体的に見れば表面上は安穏なものであった。
処が、昭和17年、ミッドウェーの海戦の敗戦以来、 攻めの日本軍が守りの作戦に方向転換してからは、 昭和18年以降、関東軍から本土南方などの防衛の為に、 櫛の歯を拔くが如くに、現役兵を主体とする精鋭部隊の抽出転用が超大量、 急速に行なわれた。 その結果、その穴埋めとして、在満在郷軍人 (予後予備役、補充兵役(未教育者))を召集して補完した。
予後備、補充兵と言えば、当り前であれば、後方地域に在って、治安を担当する。 言わば、予防警察的に任務を帯びるべき、兵役の者であったにも拘らず、 兵員の不足した当時にあっては、作戦常識云々を論じて居る、 余裕は全然無かった。 之らの兵を国境に接壌する、第1線の「戦死か金鵄か」と兵の最も嫌った。 全軍の弾除け的性格の玉砕部隊に守地命じたのである。
東満国境に構築した綏芬河、東寧、虎頭、などのトーチカ陣地に配置した事実が、 その最たる例であろう、重砲などの操作の全く出来ぬ、 砲兵以外の出身者である予後兵や、執銃教練さえ出来ぬ、 未教育補充兵などの心境は如何計りであったろうと推察する。 抽出した精鋭兵員に見合った補充を、前述した老令兵を以て数だけを補充しても、 兵力の補完にならぬ事は、当然の理であった。
私の勤務した石頭村の隣村に蘭崗村があった。 そこには陸軍、飛行隊の練習機(当時、赤トンボと俗称)の練習専用の飛行場跡 (当時、使用中断)があった。 その広い飛行場跡の一隅に全木製の戦闘機、 実物大の模造と言うより偽造機が幌に覆われて数機置いてあった。 関係者(極く限られた者)以外立入り、近寄る事は禁止され、 禁を無視した者は、射殺(後備少尉を長とする一ヶ小隊が実弾装填にて警備)された。 また、この飛行場跡には、ノモンハン事件、マレー戦、比島戦などで、 露英米軍から鹵獲した故障戦車や日本軍の現役を後退した、 旧式戦車など数台偽造、飛行機同様幌を覆せてあり、 幌を脱する事は無いとの事であった。
以上の事は、整備小隊長の陸軍刑法講義要請を受け、 清水班長が講師として出張した際に助手として随行した際、 憲兵さんは例外扱との事で少尉さん直々の案内で、 側に近寄り手を触れて体験した事である。
また、大型兵器の例に漏れず、小型兵器も同様であった。 例を小銃、帯剣にとって見ても、 石頭駐屯の歩兵科部隊に事務連絡に度々出張した際、 副官から直接、耳にした事は、小銃は10名に1挺、帯剣も同様。 致し方無く、木銃を使用との事であった。 小銃の内何割かは、旧制中学学校以上の学校に 教練用として払下げられてあった旧式銃までも引き上げて使用して居た。 命中度の低下した38式、及び日露戦争当時使用の村田式もあり、 菊の紋章は打消済のもの。
最早や以上の如き、兵力、兵備であっては、 忠誠心に燃え立った帝国軍人と雖も、かくの如き実態を眼で肌で、 直接体験しては、士気の低下言々を叫んで見たとて、 如何とする術も無かったであろう。 関東軍は藁人形であり、張子の虎の軍隊に低落した。
「士気の低下」の序にあと一ツ例を挙げる。 下級将校大量不足の為に、それ等の補充は甲幹の大量採用の事は前に記した。 一方、現役少尉の補足は、陸士卒業者、及び少尉候補者を以て充てた。 その少尉候補者、選考の不條理性に的を絞ることにする。 何時の世にあっても、一般社会にあっては、学歴最優先主義を採用する。 軍隊と雖も、その例外では決して無かった。
私は、甲幹出身、予備将校、不用論を力説する程、野暮天では無い。 現役であれ、予備役であれ、一度び、軍務に就いたからには、 少尉は少尉、中尉は中尉としての身分の保証と共に、 職分に就く事に豪も異なるものは無いのである。 さらば、予備将校、候補者の選考規準は、 現役将校候補者のそれと同一に、すべきであると言い度いのである。
二等兵として現役入営し、下士官志願をし、以後、累進して、 曹長、准尉となり、士官職(週番士官、週番副官、小隊長、などの職) を執る様になれるのには、二等兵時より起算して、平時にあっては、 優に10年を超す(戦時には多少の短縮あり)。 士官職を執る曹長、准尉クラスは、人格識見、教養、実務に於て、 甲種出身将校に比して、何等、遜色無く、返って優れた、 指揮統率力を有して居たのである。 少尉候補者(現役の曹長、准尉の内から適任者が現役少尉昇任、 但し、航空機操縦者は現役の曹長から)採用の制度の門は、 誠に狭く規制されて居たのである。 無学歴者が高等文官採用される事の稀と同様であった。
甲幹大量粗製乱造の結果、やがては、見習士官(曹長の階級章付着)になる。 軍隊の階級制度は、同一階級章であっても、伍長、軍曹の階級者では、 年功序列を無視して、幹部候補生は、その階級の最右翼に位し、 見習士官ともなると、准尉、曹長などの最右翼に位置付けられて居た。
階級が上ると言う事は、以前よりも数段、 指揮統率能力があると認定される故である。 この事には寸毫と雖も異論の余地は無い。 だが、現実には、力量の如何を問はず、トコロテンの押し出しと変ら無かったが、 特に、甲幹から見習士官、やがては、予備将校へと2ヶ年間の短期の 在営中に出来上るスピード出世である。
文官の世界では、一案件を作り上げるのに、 その審議に長いものは数ヶ年を要すると言う。 文武の違いはあるにしても、武官は有事に際し、突発する、 または、千変万化の戦の状勢に迅速に、かつ、適格に指揮官は決心し、 逸早く部下に下令、小なる損失で、大なる戦果を収める、之が要求される所以である。
正面切って、平常は口にこそ出さねど、准尉、曹長クラスの内心には、不満があった。 無かったと言えば、建前論である。 飲酒の席の無礼講で、この不満が爆発し、 准尉、曹長などが、見習士官、予備少中尉などに暴力を加えた事例は決して、 稀では無かったのである。
その辺の事情を心得た陸士出身の若い中隊長は、私的酒宴の席を設け、 その上座に、准尉、曹長を据えて、盃を傾けたと言う。 また、第一線の敵情判断に当って、准尉、曹長などの意見開陳を尊重したとも言う。
職業軍人を志望せざる者に、 門戸を広く解放する必要は無かった様に思われてならない。
石頭憲兵派遣隊管内には、特殊慰安所が4軒あり、 1軒は日本人経営、後の3軒は朝鮮人経営であった。 そこには、計約45名位の慰安婦が従業して居た。 特殊慰安所、または、特殊慰安婦と言えば、かつて外征軍に従軍した者であれば、 そこで遊興の有無に拘らず、どの様な施設であり、どの様な接客婦であったのかは、 既に承知の事であり、敢て詳記しない。
この施設の経営者、従業者、及び、施設などへの命令権者は、 石頭駐屯地司令であったが、直接の監督は、石頭憲兵派遣隊長の任ずる 処であった。 慰安所の経営上の開店許可、その取消、指導は、勿論の事、 経営者、従業婦などの身元調査に到るまで、憲兵隊に於て厳重に行なわれた。
経営者が、従業婦に契約書に締結した返済額、その方法に就いて、 苛酷なる條件で返済を強要し非ざるや、必要以上の物品の購入を強要し非ざるや、 等の刑事犯に抵触し非ざるや、駐屯地司令官命令に違反し非ざるや、 陸軍病院長の衛生指導に違反し非ざるや、等々に及ぶまで監督した。
衛生面に於ては、特に駐屯地司令官の意を注いだ点であり、 施設内外の清潔、寝具類の消毒、曝乾、従業婦の健康、 特に性病などに就いては陸軍病院長に診断、指導、検診を命ぜられ、 病院付軍医官の直接、診断、指導、検診などが行なわれた。 その時には、憲兵が之に立会する事になっており、その任は清水班長であった。
在る時の立会に、班長も金田兵長も他の緊急事件の操作の為、行けぬ事になった。 警務係上等兵の私に、その代役は命ぜられた事があった。 清潔、消毒などの検査時の立会ならば、別に躊躇する処は無かったが、 全裸になった慰安婦の検診立会には大いに困惑した。 私は、他の係主任軍曹に班長の代理出張を意見具申したが、 「警務係の当然の任務」として採用されなかった。 全裸の若い婦人を想像した丈でも、異状なある種の艶めかしい、 興奮を俄かに覚えざるを得ない程の、若僧、現役、上等兵(22才) の私にとっては余りにも酷な、そして刺激的な大役であった。
私はその時の、検診に当った軍医官(予備役応召中尉〜産婦人科専門)に、 「素人の私には、何も分りませんので すべて軍医殿にお願い致します。 私は店の帳場で、遊客名簿の点検を致しております。 検診の終るのをお待ち致します」と告げた処、 軍医さんは「若い憲兵さんには、無理だよネー」と言って、承諾して呉れた。 私は、ホーッと安心して帳場に戻った。 助手として同行して来た病院付の従軍看護婦 (外科婦長、巡察で顔見知りになったが、氏名忘却)が 何か意味あり気な笑をしたのが、気に懸った。
暫くしてから、看護婦長が 「軍医殿がお呼びです」と言って私に知らせに来た。 もう検診は終ったものと思い、検診室に行って見ると、未だ検診中であった。 検診台上に1人の慰安婦が仰向けになって、寝かされ腹部位に低い天井から、 白布が垂らされ(顔は見えず)、両膝を立て両腿を開いて、恥部を露見させていた。 正直言って息が詰まる程の大きな衝激を受け、眼の遣り場に窮した。 軍医さんは、「憲兵さん後学の為だから、一寸診なさい。 之が見本的な膣カタールです」と言って、子宮鏡を秘部に挿入した。 私はそれ以上、見るに耐えず、「解りました」と言って (何も解りはしなかった)急いで部屋を立去った。 検診が終ってから、軍医さんは診断書の外に、報告書3通(複写)を作り、 立会憲兵の署名捺印を求めた。 私の職名、官等級、氏名 を記入捺印し、1通を受領した。
軍医さんは、「この種の施設で遊ば無い方が賢明です」と忠告して呉れた。 従業婦の出身地は、日本(長崎県、天草地方、和歌山県、南部海岸地方)、 朝鮮(主に北鮮地方)が石頭に関する限り多かった。 日本人の殆どは、渡満以前、醜業経験者で占めた。 朝鮮人周旋業者の口車に乗せられて来た者が多かった。 その他は、大部分が生家の経済上の理由、 親の巨額の借金の身代わり供御になった、気の毒な身の上であった。 前借金の最高額は4,000円、最低額でも800円位、 平均して 1,500円の負債を背負って居た。 女性の身でこの大金、 (現在の時価にして、どの位になるであろう。当時としては大金であった)をどの様にして、 返済して行くのかを思い、憐憫以上のものを当時感じたものである。
彼女等は終戦後、無事に夫々の家郷に帰り着く事が、 出来たであろうかと思う事頻りである。 血生臭い戦場に在って、妻子ある応召兵の強姦婦女、 暴行を予防する措置として支那事変以降採用された。 この制度は、外征軍は欠く事の出来ぬ必要悪であったのである。 彼女等は、陰の従軍功労者であったが、 国家からは労に報われる事は全然無かった。
慰安所登楼には遊興規則があったが、 忘却したので、 次の資料を参考に記す (「従軍慰安婦」〜千田 夏光著〜講談社 文庫本より 抜粋)。
以下は、支那事変初期(支那戦線)のものである。
第1條 親任官 同待遇者ニシテ婚姻ニ関シ 勅許ヲ仰カムト スル者ハ婚姻願書三通ヲ陸軍大臣ニ差出スモノトスル
第2條 前條以外ノ陸軍現役軍人(在郷兵卒ヲ除ク)ニシテ婚姻ヲ 為サントスルトキハ左ノ区分ニ據リ許可ヲ受クベシ
第3條 士官候補生 主計候補生 現役見習士官 現役見習 医官 現役見習薬剤師 現役見習獣医官 及ヒ 諸生徒ハ婚姻ヲ許可セス
以上の手続きを経た者は、陸軍大臣、関係部隊長などを経て憲兵隊に 結婚の相手方(女性)の身元調査が移牒された。
個人の自由が規制されて居た旧憲法下にあっても、 男満 30才、女満 25才を過ぎれば、 親の許可を要せずとの自由に結婚が当時の民法によって認められて居たが、 現役軍人に限っては、以上の規則によって厳しく規制されて居たのである (資料は昭和12年版、六法全書〜札幌市 中央図書館所属により抜粋)。
この事件は、石頭憲兵派遣隊閉鎖直前の事であったので、 昭和20年7月中旬近くであった様に記憶する。 以下は、事件解決後帰隊した清水班長から説明された事を記憶のままに、 私の説明と併せて記す。
満洲の物資、殊に食料品の内、砂糖、塩などは、 その需求のアンバランスは日本本土と同程度であった様である。 全満の事はイザ知らず、石頭村の食糧配給の在り方に、 一部満人間に於て不平不満の有る事は、特務情報として、 派遣隊では承知して居た。 之は憲兵の所管外の事であり、 飽くまで満洲国政府管下の当該行政機関の管轄事項であった。 主要生活物資の配給の方法に就いて不公平があり、 その悪習慣は、相当以前から公然と行なわれて居た様であった。
在満日本人(軍人軍属、及びその家族、開拓団関係を除く)、 有力鮮満人等は、前記の砂糖、塩などの外に、衣料品などを当然の如く、 有利な配給を受け、貧しい階層にあった鮮満人等は、 次等に置かれ不利な配給を強要されて、居たのが実情の様であった。 それ等の物資を有利に配給を受けた何人かの者は、 不利な配給しか受けられなかった階層に高値で、 売り付けて居たのである。 特に食塩は、日常の生活に欠く事の出来ぬ物である。 然も前記の如く、相当長期間に及んで、この悪習は続けられて居た。 その間、何回か改善方を村公署(村役場)に陳情して居たが、 言を左右して受理される事は無く、当然の如くに続けられて居た。
終に、配給の不公平に対する忍耐の限度を越える日が来て仕舞った。 当日は、配給日であった。 例によって、不公平極まる配給が行なわれた。 配給上の差別待遇を受けて居た貧民階層は、 その場で公平な配給を要請したが、ニベも無く、一蹴された。 彼らは大挙して、村公署に押し掛けて、 村長(満人)、助役(日本人)などに交渉したが、 同様軽く一蹴されて仕舞った。 この仕打ちに激昂した彼らは、村長、助役を村公署の一室に監禁して、 解決を迫った。 驚いた村公署では直ちに、石頭駐在の満警派出所に通報した。
直ちに、警官(鮮人)が急行して解散を命じたが、 激昂した彼らは警官の命を無視した。 警官は再三に及んで解散を命じたが、彼らは遂に、その命に従わなかった。 止むを得ず、上空に向けて携帯の拳銃に依る、威嚇射撃にも応じなかった。 事は急を要するので、警官は石頭駐在の鉄路警護団派出所に 急報して応援を求めたが、折悪しく不在であった。 次いで、寧安警察署に応援を要請した。 警察署長は応援を約したが、距離の関係で時間的に到着に時を要するので、 石頭憲兵の応援を決心し、寧安憲兵分隊長に石頭憲兵の協力要請を発し、 要請を受理した。 分隊長から派遣隊長に満警応援出動の命が下った。
派遣隊長は、清水班長1人を私服で、応援に急行を命じたのである。 この際班長は、憲兵所管外の事件介入の誤解を招く事を憂いて、 私服の上、更に拳銃携帯をせず、憲兵手帖のみ携帯したのであった。 人を法的手続きに依らず、拘束する事そのものが、 満洲国刑法の不法監禁罪に抵触する事であり、 事の成り行きによっては、人の身体、または、 生命に懸念されるものがあったので、分隊長の出動下令となったものであった。
満警警官と共に私服で、村公署に到着した清水班長を彼らは、 逸早く認めるや(憲兵隊と言う特殊部隊であり、 少数兵員であった為、全員の顔は満人によって覚えられて居た)、 「日本憲兵来了 (リーベン シェンビン ライラ 〜 日本憲兵が来たの意)を叫び、 彼らは直ちに全員庁舎外に出て監禁を解いた。
庁舎内に入った清水班長、満警警官などは、直ちに、 村長、助役などに面会を求め、 不平鮮満人2名(満鮮系各1名)の代表を交え、 計6名の会談を持ち、 次の事を村理事者、及び住民の相方に確約させた。
以上、相方の確約し、庁舎外の村民にその旨を告げた。 これを知った村民(不満組)は、大歓声を挙げて拍手した。 そして、「大謝 日本憲兵」 (ダーシェ リーベン シェンビン 〜 日本憲兵さん大きに有り難うの意味) を叫んで、感謝した。 この事件で一番感謝されたのは憲兵であり、 その反面不心得な日鮮満人などからは憎まれる事になった。
この際、満警署長の応援要請に協力した。 法的根據は、不勉強の為に詳で無いが、 日本軍人、軍属などの犯人、容疑者などの捜査逮捕、協力要請を 満洲国官憲に対して行なって居た。 反対給付では無いかと思われる。
因みに、陸軍刑法第44條を引用する。
司令官の定義は、陸軍刑法第17條約に、
と定められてあり、一隊の命令権者を総称したものである。
日満融和、五族協和は満洲国建国の一大理念ではあったが、 それは名目上に過ぎず。 実態は、占領下、或いは植民地に於ける統治と少しも変らざるものであった事は、 在満経験者であれば否定する事は出来ぬ事であろう。 即ち、常に優先順位は、日本人、朝鮮人、満人の序列主義であった。
石頭駅前の開拓団経営食堂(開拓団員、軍人軍属の家族を対象にした食堂、 主人応召中、夫人が留守を預かり経営)があった。 その食堂には巡察の途次、立寄った事が屡々であり、 P.177の「泥酔少尉の家屋侵入事件」の現場でもあった。 その食堂の内壁は壁土塗りの満洲特有の建築を模しており、 壁土の痛んだ部分は、新聞紙、広告紙などを貼り付けた。 決して一流と言える様な、食堂の体裁では無かった。 その食堂の内壁には装飾の意味で、何点かの安価なものと 素人眼にも解る額入りの絵が掲げられてあった。
食堂とは言っても、大都会の一流店ならばいざ知らず、 この辺鄙な石頭の文字通り片田舎の店には、 全く不釣合な額が1点だけ懸けてあった。 それは多色刷りの見事な版画であった。 どこかで、確かに見た事のある版画である。 大きさは、美濃版紙位はあった様に思う。 良く見ると「澄生」の刻印があるでは無いか。 そして版画は、日光東照宮の「陽明門」であった。 正に、川上 澄生 先生力作の「陽明門」であった。
私はどうして先生の本物の版画が、この片田舎の食堂に有るのか、 不思議に思えてならなかった。 早速、店の主人に尋ねて見ると、夫人の説明は、
「昭和18年の夏の頃、この石頭の或る部隊がどこかに移動しました。 それまで良く店に来て呉れ、私の下手なギョウザを美味しい美味しいと言っては、 何人前もお代りをした、現役の一等兵の兵隊(名前と聞いたが忘却)さんが居りました。 その兵隊さんは、私を見て「故郷の姉さんそっくりで、 この店に来ると、家に帰えった様な気持ちになる」と申されておりました。 その様な事があってからは、その兵隊さんからは、 お代は頂きませんで、私の身内のつもりで 客扱はせずにして居りました。 兵隊さんも「姉さん、姉さん」と言って慕って呉れ、 姉弟の様な気持ちで居りました。 その兵隊さんが他に移動さえる際に、 「今まで、色々と親身になって、お世話して下さった。 厚意に報い度いが、兵隊の身では何もして上げる事は出来無いのが残念です。 今、私が持って居る最高の財産は、恩師から贈られたこの版画丈です。 この版画を受取って下さい。 どうか、私のせめてもの志として、是非とも収めて下さい」と申されました。 私は、「その様な大切な物を頂く訳には参りませんが、 貴男様が御無事で、 お帰えりになるまで、お預かり致しましょう」と言う事で、 箪笥に入れて置いたのですが、店に飾って置けば、お客様にも見て頂けるし、 また、私も毎日眺める事も出来ると思い、 あの兵隊さんの武運長久をお祈りしている様な次第です」、 との事であった。
私は直ぐに、その兵隊の出身地を夫人に尋ねて見た処、 「栃木県」である旨を答えた。 私はそこで夫人に、 「実は、この版画の刻名の人は、栃木県立宇都宮中学校の英語の先生であり、 本業の英語教諭と言うよりは、版画界で有名な先生です。 私もその中学に学びましたが、先生からは英語は教はりませんでした (先生は、3、4組担当であり、私は1組であった関係で)。 工作の時間に、3時間程版画の講議を受け、その折に、 この「陽明門」の版画を見せて頂いた記憶があります。 川上先生の版画を持って居るだけでも、大変名誉な事です。 宇都宮では、先生の名を知らぬ者は、モグリとさえ言われておるのです。 大事に保存なさい」と説明した。
川上先生の版画を何の記念であれ、贈られる者と言えば、 そんなに沢山居る訳が無い。 先生の「お眼鏡」に余程適った者であり、宇都宮中学卒業生であると思った。 それにしても、この日本よりも遥かに広い満洲のそれも片田舎で、 不思議な出会いをしたものであった。
略して「武諜」と称した。 この武諜たる者は、何たるかを簡単に記す。 武装(モーゼル拳銃、手榴弾、など)をし、 満ソ、または鮮満などの国境を暗夜を利用し密かに越境し、 満領、または鮮領(鮮領から満領へ、その反対もあり)に潜入。 以後は、可能な限り携帯武器を使用する事無く、隠密裡に行動し、 武諜その者丈が承知の場所に武器、弾薬、諜報用、 極小型超短波無線機、暗号書、潜入時の被服類などを防水性の布、 または紙に厳重に梱包して隠匿(殆は土中に埋める)し、 以後は満領、鮮領に潜入の際、携行した別の被服に着代え、 同じく潜入時に携行した、満鮮等々の紙幣、磁針計、 特殊地帯旅行許可証(偽造物)などのみを携帯して、 良民になり済まして、 ソ連側の必要とする軍事情報(日本軍の配備、兵備兵力などの如何)や 民心(主に鮮満人等の思想動向)を探知し、蒐集に勤める者である。
武諜の多くは、鮮人、満人、稀に日本人(逃亡し、ソ連領に越境した日本兵)である。 ソ連側の必要とする情報は前記の通りであるが、 兵要地誌作制上の資料などを探知が目的であった。 ソ連軍が満洲、または朝鮮に侵寇の際は、 その最先頭に起って道案内、及び通訳を勤める他に、 ソ連軍、作戦展開に当って、有効意見開陳の役も果たすものである (教習隊での特別、高等警察服務教程の講議による)。
武諜は、ソ連に忠誠を誓って、その特殊任務に就く命知らずの猛者である。 その多くは日本の朝鮮統治に抵抗し、 または、満洲国建国に反対する、反日、反満、抗日などの革新思想を有し、 ソ連領(主に南部ウスリー地方)に亡命した、革新思想に徹っした者達である。 ソ連側と予て定めた時刻に暗号を使い極く短時間に打電 (基地はハバロフスク、チタ、ウラジオストックなど)、 打ち返えしはしないものであった。 目的達成後は、速やかに隠匿物などを収納して、 潜入時と違った間道を抜けて脱出入ソするのである。 有効情報を探知した者には、ソ連軍より手厚く待遇されるのである。
ソ連より潜入した有力蝶者を発見逮捕した場合は、 「金鵄勲章」叙功との事であった。 私が憲兵拝命以来、その発見逮捕に出勤を命ぜられたのは、 計2回であった(憲兵拝命より終戦に到る期間は、 僅かに5ヶ月5日であったが、2回の出勤下命は短期服務に比して、 多い部類に属すとの事であった 〜 詳しくは後述)。 第1回目、出勤下命の際を記す。
第1回目は、石頭憲兵派遣隊勤務中の昭和20年6月頃であった様に記憶する。 その日は珍らしく残務も19時少しばかり過ぎた頃に終り、 日直以外の営外者は帰宅し、夕飯前に入浴して居た。 そこえ、武諜出現の緊急電話が、石頭奥地の開拓団長から入電した (開拓団長先には、軍用電話線を架設しあり 〜 開拓団幹部には平素より武諜に対する 予備知識を与えて居た。その他不審な事象、見聞の際の通報も依頼済)。 私達は、日直下士官S軍曹の「非常呼集」命令に接し、直ちに入浴を中止。 予ての打合せ通り戦務に服する軍装(各自が隊備付の満服、 苦力服、満鉄社員制服、などを思い思いの服装へ軍用と外見して解る 服装の禁止)をし、地下足袋を履いた。 38式騎銃には黒布を巻付け、拳銃は嚢より出して裸身のまま、 満服ズボンのバンドに差し挟み、実弾を携帯した。 夕飯もそこそこにして派遣隊長、以下の出勤を待った。 玄関前には、入電と同時に協力を要請した貨物廠の軍用トラックが、 私達、出動憲兵の乗車を待機して居た。 やがて、派遣隊長以下の下士官が走って出勤。 直ちに、幹部に依る捜査会議が開かれた。 会議が終ってから派遣隊長は、要旨、次の様な命令を下した。
「大隅軍曹は捜索班長となり、金田、福田の2兵長、及び、三浦、中倉、 の2上等兵、などを指揮し、武諜捜索に出勤を命ず」。 併せて、「大隅軍曹の指揮に従い、濫りに発砲、爆発などを厳禁する。 相手も銃器などを携帯に就き、充分警戒の事。 万一は覚悟の事と思うが、早まった功名心に駆らるる事無き様、特に注意する」 と指示された。 谷口兵長(補助憲兵)が用意した携帯口糧を各自背負袋に詰め、 トラックに乗り込んだ派遣隊長以下に見送られて、一路開拓団へと急行。 開拓団にあと2Km位、の地点で下車し、あとは徒歩で夫々が変装した姿で、 暗い夜路を相当の距離を保ちつつ、一列縦隊になって、開拓団長宅に向った。 夜道とは言え、巡察の足を伸ばして幾度か来た事のある道であった。 勝手知った路であるとは言へ、武諜出現して私達の命を狙っている かも知れぬ危険性もあり、周囲を厳重に警戒しつつ進んだ。 石頭隊で実戦の経験者は、派遣隊長、班長(共に支那事変従軍の野戦憲兵隊員) 丈であり、武諜捜索体験者は皆無であり、 要領に就いても馴れていなかった。 開拓団長宅に到着したのは24時近かった様である。 大隅軍曹は直ちに、開拓団長に事情を尋ねた処、大要、次の様な説明であった。
「今日は午前中は雨降りであったので、畑作業は出来なかったので、 牧場(団の共同放牧場 〜 牛、馬、緬羊など)見廻りに行き、 休憩小屋(草葺の粗末な雨を避ける程度の拝み小屋)で一休みした処、 この4、5日 誰もこの小屋には来た者が居ないのに、 気の勢か比較的新しい足跡があるのに気付いた。 良く見ると新聞紙か、雑誌の小片が落ちているのに注目して、 何やら1部が焦げているのに不審に思い手に取って臭を嗅いで見ると、 煙草の様な臭がした。 その紙を見ると、英語の様な文字が印刷してあったので、いよいよ不審に思った。 団に持ち帰えり、団員に訊ねた処、昨日までの好天で、 誰も牧場の見廻りには行って居ない事、従って小屋に於て、 休憩した者の居ない事が判明した。 して見れば、部外者が休憩した事は明白である。 団員の中に昔、現役当時、シベリヤ出兵に従軍した者が居て、 小紙片を見て、露文字に良く似て居る様な気がする、との事であった。 これがその紙片です」と言って机の引出しから、取り出して示した。 三浦上等兵が見た処、「意味は解からぬが、之は露文字に相違ありません」 (三浦君は教習隊で露語専攻)と言った。 その時、大隅軍曹は、 「露助は刻煙草を新聞紙の小片に巻き付け、 唾液を以て貼り合はせて喫煙する習慣があるとの事だ」と説明したが、 私は半信半疑であった(終戦後 、ソ領に抑留された時に露兵の喫煙を見て、 それを確認した)。 私達は外に出て辺りを警戒して居たが、団長と話し合って居た、 大隅軍曹に呼ばれて、再び団長先に入った。 軍曹は、次の判断を下した。
更に、次を決断した。
報告は団長宅から電話に依る方法もあったが、万一の盗聴を憂いて、 単に報告の為、2名を帰隊させる旨を通電した。
翌日、S軍曹は師団に要請した補助憲兵、2ヶ分隊を指揮して、 間道を捜索したが、隠匿物品の発見、及び不審者の発見に至らず、 捜索を断念した。 しかし、武諜が開拓団に出現した事は、開拓団長提出の小紙片を隊本部を経て、 86部隊(P.107参照)に鑑定を求めた処、露文字新聞紙であり、 ニコチン反応ありとの通報があったので、ソ連領より潜入せる者 (武諜より他に考えられぬ)の使用した事、確実と断定したのである。
後日、武諜捜査に対する反省会が開かれ、私の如く最下級の上等兵に到る迄、 参加を命ぜられたのであるが、結論めいたものは出されなかったが、 一般論に落ち付いた。
初陣の武諜捜査は、何としても物足りなさと、不甲斐なさが入り混った、 ものに終って仕舞った。 第2回目の出勤は、後述の項に譲る。
私達、兵候補出身の上等兵3名が石頭憲兵派遣隊赴任した時には、 派遣隊着先任下士官は、班長兼戦務主任のS軍曹であった。 そして、清水曹長が牡丹江分隊から転任して来る直前の頃に、 牡丹江隊、隊本部隊長(憲兵大佐 望月政吉 〜 戦後ソ連抑留中死亡)の隊下 分派遣隊に対する随時検閲が実施された。 勿論、石頭派遣隊にも実施され、寧安分隊長 (憲兵大尉、前川宗雄 〜 ソ連抑留中死亡)も之に随行した。 その折の事である。
私達上等兵が赴任して幾日も経たない頃、 隊門前を特有の朝鮮服を着た鮮人が通行した (隊門前の道路、その他 P.145〜P.146参照)。 その道路は、軍人、軍属、その家族、開拓団員、制服の満軍軍人、軍属、 満洲国政府機関職員などを除く、以外の者は、 許可なく通行を禁ぜられて居た。 事務室の窓からその通行している鮮人を認めたS軍曹は、 私達3名の上等兵に直ちに隊まで同行する様、命じた (この時、派遣隊長は留守中であった)。
新品上等兵3名は、班長から命ぜられるまま、 その鮮人の処へ走り寄って、 同行を求めた処、素直に応じた。 玄関まで同行した処、S軍曹は玄関の上り口廊下で待ち構えており、 鮮人に通行許可書携帯の有無を訊ねたが、無許可通行の為、 所持していなかった。 S軍曹は、その事を理由としたのであろう、二三言怒鳴り付けると、 殴打した揚句、「留置場に放り込め」と私達に命じた。
命令されれば、服行しなければ無らない。 直ちに、身体検査の上、兇器その他を検べた。 その上で、留置場に留置したのである。 そして、小1時間経た頃に留置場から出して放免した。 その際、他の軍曹以下に、留置の件を派遣隊長に知らせる事の無い様、命じた。 守口、大隅の2軍曹は、この留置は明らかに越権なる旨を、 S軍曹に意見開陳した。 しかし、派遣隊長に報告するものは無かった。 当日の日直下士官は従って、この事を当直日誌に記録しなかった。 従って、派遣隊内でこの事実を知らぬ者は、責任者である派遣隊長だけであった。 だが、私は私物の日記にはその顛末を可成り詳しく記し、 最後に「之を称して 検束と言うのか」と反問めいた字句で、 その日を締めくくったのである。
扨て、話は随時検閲当日に戻す。 諸種の保監状況や現在処理中の事件などの検閲も終り、 次に隊舎裏の広場で、本部隊長の設定する、敵軍との戦闘演習、 軍馬(2頭)などの検閲も無事終了し、最後に営内居住者(補助憲兵を除く)、 兵長(下士勤)3名、上等兵3名、計6名の私物日記を提出する様、 本部隊長の予定外の命令に接した。
私達6名は、狭い派遣隊長室に整列し、 隊長の他に分隊長、派遣隊長も起立して隊長の横側に列んだ。 営内者の序列順に、金田、福田、小川の3兵長、 及び三浦上等兵までの日記の検閲は型の如く、 パラパラとめくる程度で簡単に済み、 済んだ順に日記を受領して、派遣隊長室を去った。 後は私の他に戸口上等兵の2名のみになった。 私の日記帖もパラパラとめくって居たが、更にめくり直して、 前述の「鮮人検束云々」を記した箇所を発見し、一読後、 派遣隊長、分隊長に、この欄を読む様命じた。 それが済むとS軍曹に来室を命じた。 派遣隊長室に入ったS軍曹に、隊本部の大佐隊長は、同様、 私の日記の該当欄を読む事を命じ、読み終った処で、 この鮮人に対する検束調書の写しを持参する様、命じた。 私は蒼白になって緊張したが、分隊長、派遣隊長は元より、 不法検束の張本人である、S軍曹は緊張と精神的動揺の余り、 隊長の命令に唯、「ハイ」「ハイ」を答えるのみであった。 戸口上等兵は、退室を命ぜられた。 結局、派遣隊長室には、隊長、分隊長、派遣隊長、S軍曹、 私の計5名であった。
隊長は、私に対し、「この記述の内容に相違ないか」を訊ねたが、 正直の処、何を答えるべきか、大きく躊躇した。 その様子を見た隊長は、更に「速答」を命じた。 その時の私は将に、「清水の舞台」から飛び降りる気持ちで、 「相違ありません」と答えた。 隊長は、今度はS軍曹に「検束の法的根據」を質問したが、 シドロモドロの答しか発しなかった。 そこで、ようやく 私は退室を命ぜられ、冷汗三斗の思いで退室した。
以後、派遣隊長室で、どの様な事があったか関知しない。
「検束」の法的根據は、行政執行法によるが、 詳しい当時の法令集が無い為、法文の記述は不能であるが、 記憶を辿れば、
等々を記憶し、令状執行に依らず、 分隊長(警察署長)権限で身体の拘束が可能。 但し、検束の翌日の日没時限以降に、及ぶ事は法により許されなかった様に思う。
従って、この鮮人に対する不法な検束は、越権行為であった。 この件は、単なる反則行為であり、 「厳重注意」の上「始末書」提出で済む事であった。 その上、直属上官である派遣隊長に報告せず、 更に報告書作製を意識的に怠ったとあっては、何をか言わんやである。
S軍曹が陸軍懲罰令に依る処分を受けた事は、勿論であったが、 直属上官もまた、同令の処分対象になった。 原因はS軍曹の不法行為であったが、私の日記記述もまた原因になった。 派遣隊長は、その事によって、私を責める事は無かったが、 私自身の気持ちは、暫くの間釈然としなかった。 S軍曹に好意を普段から寄せて居なかった、 守口、大隅の両軍曹からは、 「派遣隊長には申し訳なかったが、新任上等兵良くやった」と激励された。
この様な事があってからは、S軍曹は、私に対しては事毎に 「新任の癖に」のイヤガラセをした。 そして、そのトバッチリは、三浦君にまで及んだ。 尤も2人は、バンカラ気分過多症プラス、ちゃらんぽらん性過多症も、 彼の性格に合致せざる処であったろう。
また、S軍曹は戦務主任であったが、
その密偵に対する報償物品に関し、兎角の風評が、
石頭居住者の鮮人の間にあったが、確たる事は関知しない。
その後、清水曹長が着任した。
今までのS軍曹がその任にあった、班長の座は清水曹長の任ずる処となった。
当然の事である。
特に、階級序列の確然とした軍隊であれば、尚の事である。
清水曹長の定期移動外の転勤は、S軍曹の検束に関する不法行為
(厳密に言えば、刑法上の瀆職
石頭派遣隊では、事件突発の無い限り、毎週土曜日、 夕食は少数隊員間の融和を図る目的で、懇親夕食が恒例として開かれていた。 派遣隊長以下全憲兵(補助憲兵を含む)12名の席には、 日本酒、ビールなども出され、無礼講の席であった。 酒盃を重ねる内に、裃を脱いだ雰囲気が漂い、 石頭の様な片田舎であればこそ、尚更の事、楽しい行事であった。
石頭隊閉鎖前の或る土曜日の会食の折の事である。 例によって、酒も出て無礼講であった。 営内居住の兵長、上等兵は、派遣隊長以下の下士官に表敬の意味で酌をして廻った。 いい加減、酔の廻った頃、S軍曹は、 三浦上等兵と私(この2名は酒量に於ては派遣隊内で酒豪の部類に属した)に、 「酒の勉強よりも法令の勉強に精を出せ」とカランデ来た。 それも平素から好感を抱かざるS軍曹の言であった。 酒の助勢もあった私達2名は、 「承知、御忠告に従います。 S軍曹殿も検束の法的根據と運用法の勉強を願います」とやりかえしてしまった。
幾ら無礼講の席とは言え、憲兵最下位の上等兵が、 上官に向っての言葉であった。 S軍曹は、「上官侮辱」で軍法会議に送致するぞ、覚悟しろ」と来た。 「送致出来るものなら、送致して見ろ」、 更に酒の加勢で私達2名は興奮して、やりかえした。 以下、エスカレートしたが班長によって仲裁され、 私達2名はS軍曹にその場で詫びた。 会食も終り兵室に帰えった処で、清水班長からは、 「無礼講の席とは言え、以後言葉に気を付けよ」と説諭された。
後の項でも触れるのであるが、石頭憲兵派遣隊は、
昭和20年7月中旬、閉鎖命令に基いて、
寧安
私は、牡丹江特務機関へ転属が内示されて居たが、 命令が出るまでの間、寧安駅取締勤務を命ぜられ、 寧安駅に詰めて居た。 勿論、勤務中であるので、私用を達する事は御法度ではあったが、 旧石頭隊当時の上官であったS軍曹の見送りをプラットフォームで行なった。
その時の事である。 どの様な理由であったか分らぬが、S軍曹は転勤に際して、私物の刀を帯びずに、 91式の軍刀(サーベル型の護拳付)を帯びて居た。 牡丹江行の列車がプラットフォームに到着寸前、 S軍曹は見送りに来た守口軍曹(Sよりも教習隊卒業は後期) の95式の軍刀(日本刀型)と無理槍に交換を迫った。 守口軍曹は、当然、之を拒否した。 しかるに、同階級ではあっても古参のSは、 更に威圧的態度で守口軍曹の刀を奪わんとした。
守口軍曹の側で、その事を最初から見て居た私は、憤然となり、 S軍曹に「余りの事です。多勢の一般客の居るプラットフォームで、 その様な無様な真似は止めて下さい」と、 駅取締の職務上、中止方を促した。 S軍曹は、私に「下級者の癖に上官に向って何を言うか」と威圧的態度を取り、 更に守口軍曹に迫って、守口軍曹の刀に手を掛けた。 私は昂奮の余り、嚢より拳銃(実弾7発入り、安全装置は外さず)を取り出し、 Sに向け「貴官を強盗現行犯で逮捕する」と告げた。 その時、守口軍曹が、私に「止めて置け」と制した。
この様子を一般客も見て居たのと、 何時の間にか横に満軍憲兵が1名来て居たので、止むを得ず、 拳銃を嚢に収めた。 守口軍曹は、自ら刀を脱して、S軍曹の旧式刀と交換し、 「S軍曹殿、掖河分隊着任の上は、行動を慎んで下さい。 この様な馬鹿げた事は許されませんぞ」と言った。 丁度、その時、列車が侵入し、停車すると何の挨拶もせずに、 車中に逃げる様にしてSは去った。 私は、当時、体重 90Kgの重量であったので、腕力には自信があった。 S軍曹位、逮捕連行には差支無かったが、 守口軍曹の制止があったので、中止せざるを得なかった。
兎角、奇怪な行為のあるS軍曹であった。
昭和15年9月27日、日本はドイツ、及びイタリヤなどと相携えて、 所謂、「日独伊 国同盟」に調印した。 次いで、同16年4月13日、日本はソ連と「日ソ中立條約」に調印した。 北の脅威(ソ連)に備えて、大本営陸軍部は、 「日ソ中立條約」調印後 、か3ヶ月足らずの同年7月2日有名な、 「関東軍特別演習」略称「関、特、演」を発動した。 之によって、関東軍の兵力は一挙に40万から70万、馬匹約14万、 航空機600機になった。 この為の召集は、7月から9月にかけて行なわれ、鉄道、船舶、港湾など、 最大限に動員して、満洲、朝鮮、樺太などに輸送した。
最盛事(航空部隊にあっては、昭和15年)の関東軍の特に、
東満国境、東寧
兵力、計7万、将に1ヶ軍に相当する兵備を擁して居たのであった。 以上に、先立ち、ドイツ、ソ連は1938年(昭和14年)8月23日、 「独ソ不可侵條約」を調印して居たが、1941年(昭和16年) 6月22日、 ドイツは一方的に條約に違反して、ソ連に侵攻(第2時世界大戦の開始)した。 この事により、日本は先に、日独伊三国同盟を調印して居た関係上、 日独間の国際信義上(日ソ間の国際信義を無視)の見地から、 関特演を発動し、ソ連軍を牽制したのであった。
ソ連領を侵攻したドイツ軍は、全世界をして瞠目させた。 電撃作戦を以て、ソ連領の首都、 「スターリングラード」(モスクワ)まで迫ったのであるが、 1942年(昭和17年)11月19日、ソ連軍は「スターリングラード」の線に於て、 冬将軍、到来を好機として俄然、大反抗を開始した。 対する独軍は、厳冬期作戦の最必需品である防寒被服、 糧食は勿論の事ながら、兵器、弾薬などの補給に全く無準備の状態であった。 これが為、後退するの余儀なきに到った。
ソ連の極東軍の兵力は、独ソ開戦時、30ヶ師団、戦車約2300輌、 航空機、1,700機と推定されて居たが、 大本営、及び関東軍が最も強く希望して居た、 極東軍の欧州転用は僅少に止まった模様であったのが実状であった。
大東亜戦争、開戦(昭和16年12月8日)、
略々
日独伊、枢軸国の内、伊太利は、1943年(昭和18年)9月8日に、
連合国軍に無條件降伏に。
昭和20年4月1日、米軍は我が沖縄本島に上陸。
次いで、4日後の4月5日、ソ連は「日ソ中立條約」の不延長を日本に通告
(この時点に於てもこの條約は生きて居た、かつ、
昭和21年4月12日まで有効なのであった)。
同年5月7日、ドイツはイタリヤに次いで連合国に無條件降伏した。
私は、石頭隊恒例の土曜日の会食の折に、派遣隊長に今後の日本は、
イタリヤ、ドイツ などの敗戦によって果たして戦勝可能かを質問した。
その時の高梨派遣隊長の怒りは大であった。
「口を慎め、日本軍人として監軍護法の憲兵として口外する事の善悪を
判断出来ぬか」と強く窘
この頃を境として、ソ連軍は満ソ国境線に欧州からの兵力を
昼夜兼行で東送したのである。
日々、寧安分隊から受領して来るそれ等の特務、戦務に関する情報は、
確度甲のものが圧倒的であった。
それに反して大本営は、この間、外征派遣軍中、
最強を誇った北の守り専用の関東軍からは、
昭和17年〜20年初頭に到るまで、本土決戦に備え、
或いは南方戦線増援の為に、櫛の歯を拔くが如くに、精鋭師団、
その他精鋭部隊などを大量急速に抽出転用した。
これが為、関東軍は文字通り「張子の虎」、
「藁
日本の凡有
一方、満内の治安状況は表面上は、一見さしたる動揺はなかったかに見えたが、 日本の敗戦必至の思想は、 満人、鮮人等の無学文盲の人達の心にまで深く滲透して居たのである。 古来より常に乱世の国に生き続けた祖先の血を濃厚に受け継ぎ、 その時、その時の統治者に対応する変り身の早さとも言うべき、 動物的本能のなせる業としか言い様の無い、 情報分析の驚異的敏速性は正に脱帽に値するものがあった。
関東軍が在満日本人の生命財産を守って呉れるものと信じ込んで居た、
日本人だけが、日本の不利な当時の戦況を漠然とは知っては居たが、
音も無く犇々
既に、ソ連に対して、及び腰になって居た 大本営は、関東軍に対して、
等に対しては、兵力使用に依る防衛は之を行なわざる事を得、 と大きく防衛上の思想転換を行った。 そして、国境線より後退した適当の地に警備線を設定し、 警備線より前方には、一切の監視哨を配置せず、 兵器の使用は自衛上止むを得ざる場合に厳しく規制し、 兵力に依る友軍救援は原則として危急の際に到るも行なわず (見殺し玉砕)としたのである。 所謂、後世悪名高い、「北辺静謐保持作戦」であった。
かくの如き状況下に於て、
以上は、それ以上に事件発展せずに済んだのであるが、 昭和20年8月9日、未明の全国境線突破、不法侵寇開始の為の、 日本軍に対する侵寇直前の小手調べであった。 この際、日本軍は先に達せられてあった、 大本営命令に基き「北辺静謐保持」の為、無抵抗であった。
昭和20年6月末頃から7月早々の頃、この石頭内で、各種情報綜合判断の結果、 石頭隊は廃止になり、分隊に復帰するのでは無いか、さもなくば、 最近国境方面に頻繁に武装蝶者出現などの情報急増に付、その捜査、 逮捕の為、野戦憲兵隊の如く完全武装の上、 移動憲兵隊要員になるのではないかとの憶測がなされる様になり、 派遣隊内部に対し、防衛召集の名の下に臨時動員された。
この為に、日本人開拓団は老幼婦女ばかりが取り残された。 殊に、国境に近く、または交通に不便、在いは遠隔の地にして、 日本軍の不駐屯の地に居た開拓団員の不安は極度に昂まり、 治安維持の面に大きく影響した。 その結果、不良鮮満人等の婦女暴行、強、窃盗などの刑事事件が憲兵隊、 満警などに訴えられた。 この防衛召集された者達は、その殆が、未教育補充兵であり、 年令も40才を越した老兵(軍隊では、25才以上の応召兵を老兵と呼んだ) ばかりで、あった。 この時の召集令状は、活版印刷が間に合はずに、ガリ版謄写印刷であった。 その摘要欄には、軍服代用品、巻脚絆、水筒、飯盒、などの外、 日本刀、槍、などの武具に到るまで所持する者は、携行する事を指示してあった。
これと相前後して帯刀を本分とする憲兵の内、 下士官にして私物日本刀を有する者は、私物日本刀を佩刀する事も許した。 清水曹長以下4名の下士官は、それを実行した。 軍曹以下に支給されて居た33式騎銃の遊底覆、及び、 14年式拳銃の吊紐(木綿製)に到るまで供出を命ぜられた。 これ程までに、兵器類は不足していたのであった。
昭和20年7月15日、寧安分隊長の命令により、 急遽分隊にに出張した派遣隊長は、分隊長命令を受領、直ちに折り返えし、 午後帰隊した。 帰隊した派遣隊長は、班長を派遣隊長室に招じ、協議して居たが、 やがて事務室に現われて、大要次の如き、分隊長命令を下達した。
漠然とした憶測ではあったが、その憶測が現実のものとなり、 急々の閉鎖とあらば、動揺の色はかくせなかった。 即日、解雇される雇傭人等は驚くと思いきや、満語通訳の李憲補、 員外傭人の陳さんの2名を除けば、全く平然たるものがあった。 矢張り彼らは鮮人であり、日本敗戦間近かを信じていた様でもあった。 もっとも、7月に入り、木村通訳(鮮語、鮮人)は、 営内居住にも拘らず、度々外泊する事が多くなった。 また、孫厨夫(鮮人)は、石頭屯の鮮人部落に家庭を持ち通勤であったが、 無断欠勤、再三の為、懲戒解雇処分にして居た。 李憲補は、日本敗戦を信じて居た様であった。 その証拠は、解雇通告と同時に、 「かつて留学した事のある朝鮮、京城に妻と一緒に行行き度いから、 国境通化許可書を作って欲しい」旨を派遣隊長に申し出た事である。 李さんは朝鮮語通訳の免許は無かったが、鮮語会話は達者なものであった。
派遣隊長は、躊躇する事無く、直ちに証明書を作って渡した。
雇傭人全員(陳さんを除く)には、夫々待遇身分に応じて退職金が支給された。
雇傭人達は立去った。
義理固い李さんは、翌日、夫人と2名で
「今までお世話になった。お礼の印です。」と言って、
大量のギョウザに奥さん手造りの棗入りの「粽
谷口兵長(補助憲兵)は、 「せめて17日の閉鎖時まで、残留させて下さい。 分隊へ発送の荷物梱包を手伝はせて下さい」と、 派遣隊長に意見具申したが、 「貴公の具申の気持ちは痛い程、諒解出来るが、命令 故、 採用する訳には行かん。止むを得ん。 貴公の誠意は分隊復帰時に、分隊長に報告する。 長い間御苦労であった。 原隊復帰後も健康に留意し、軍務に精励せよ」と慰労した。
石頭駅発の列車の時刻は迫りつつあったので、 別れの会食をする時間的余裕は無かった。 谷口兵長は、涙を拭き拭き軍装を整え、 「捧げ銃」の敬礼を派遣隊長に送り、申告して隊門を去った。 私達は、手持ちの煙草を全員から寄せ集めて、餞別の代りに贈った。 谷口兵長は、銃を何回も高く掲げては、後を振りかえりつつ駅路へ向った。 戦中下の軍隊とは言え、余りにも淋しい急々の別離であった。
後は、清水班長の指示により、分隊に輸送する品目別に、 毛布や携帯天幕などに梱包する作業が開始された。 規模の小型の軍隊とは云え、可成りの量になった。 作業は深更に及んだ。 隊の性格上、何と言っても、書類、事務用品などがその大半を占めた。 翌日、これらの梱包品は、貨物廠から借用した軍用トラックで、 清水曹長が直接運転し、大隅軍曹、戸口上等兵の2名は警戒の為、 騎銃(実弾装填)携帯で同行した。
馬夫は、昨日解雇済みであったので、 軍馬2頭は私が軍属傭員を示す胸章の付いた軍属服、 昨日まで長谷川馬夫(鮮人)の着用して居たものに、 拳銃は裸身のまま、軍袴に差し込んで秘匿し、 2頭併馬で陸路寧安分隊に送還した。 途中、巡察の途次に顔見知りになった輜重隊の自動車隊長の石川中尉に会った。 少尉候補者出身 〜 昭和11年2月26日、未明、蜂起された、 所謂、2.26事件の際、歩兵第3聯隊(第14師団隷下)の下士官志願の 2年兵、彼の所属する中隊は事件には出勤しなかったが、他中隊では参加。 事件後、この師団は北満警備の任に就いた。 第1師団隷下の聯隊が事件蜂起に参加した為に、 下士官志願者は退役後も一生を贖罪の意味に於て満洲で暮らせ、 と上官から言われたとの事をこの中尉さんから聞かされた事があった。 中尉さんは歩兵科出身であったが、少尉任官後、 輜重兵に転科を命ぜられたとの事であった。
乗用車には尉官旗を掲げていたので、私は馬上から敬礼をした処、 車を停めて、不思議そうに、私を眺めて居たが、 「君は憲兵隊の中倉 上等兵ではないのかな」と問い掛けて来た。 私は中尉さんと会えるのもこれが最後と思ったので、 下馬して改めて敬礼の上、 「中尉殿、中倉 上等兵であります」と答えた処、 「今日は何かあったのですか。今朝は出勤の途中で、 清水さんが車の運転をして居るのを見た。 今、また、君が軍属に変装して乗馬している。変だなあー」。 私は、憲兵隊と雖も軍隊ですから、清水班長殿は輸送演習中であります。 中倉は、今日は馬夫が病休しておりますので代って、馬の運動中であります」。 それでも、石川中尉さんは、鞍に、旅嚢、鞍嚢、水嚢 までも付けての運動には、 合点の行かぬ顔をして居たが、「ぢや失礼するよ」と言って、 再び車を走らせて去った。
石頭隊の閉鎖実施は、石頭駐屯の師団長、及び参謀のみに、 牡丹江憲兵隊本部長から極秘に通報され、その他の部隊や陸軍官衙、 満洲国関係機関その他などには、関東軍総司令官命令により 厳重に秘匿すべき事を達せられてあった。 分隊復帰時に於て、其等には分隊長名を以て、 通報される事になって居たのである。 私は中尉さんに敬礼を送り乍ら、 幾ら関東軍総司令官の極秘閉鎖命令とは言え、 中尉さんに虚偽の答をした事に、後めたさを覚え、心で詫びた。
夕方近くなって分隊に到着、 早速分隊長に無事軍馬2頭の送還完了を申告し、 事務室で勤務中の隊付先任の池田曹長に挨拶した処、 「先刻、清水曹長以下3名は駅に向った処だ。 疲れては居るだろうが、この様な時だ、直ぐに、食事でもして、 石頭に帰って呉れ給え」と言われたが、 直ぐに駅まで分隊の自転車で走れば、 清水曹長以下に合流出来ると思ったので、 その旨、池田曹長に具申した処、「宜敷い」と言われ、 駅に急いだが、数秒の違いで列車は発車した後であった。
仕方無く、駅事務所で雑談をして居ると、
「東京城
帰隊して申告を済ませ、事務室に入ると、 隊舎内外は僅かな残りの者達によって綺麗に片付けられていた。 派遣隊長、以下の官舎居住者は交代で荷物梱包を行った。 その夜(16日)から明午前にかけて、数次に亘って、 閉鎖に伴ふ撤退を秘匿する為の分隊復帰が行なわれた。 金田兵長(下士勤)と私は、石頭隊に於ける警務係最後の勤務と言う事で、 留置中の2名の容疑者の分隊までの護送を命ぜられ、 守口軍曹、指揮で異情なく護送勤務を果たした。
関東軍総司令官の命令とは言い乍ら、 余りにも淋しい派遣隊閉鎖に伴なふ撤退であった。 教習隊卒業後、大いなる夢と限り無い希望に燃えて赴任した、 初任地の石頭憲兵派遣隊であった。 S軍曹1人を除けば、他は皆、懇切に新米上等兵を指導し、 教育して呉れた。 そして、親身になって悩み事の相談にも応じて呉れた。
初年兵入隊時の4329部隊では、 同内務班の荒神様、神様、連中からは、 劣等兵と評価され、決め付けられて居たのに、 教習隊以来、石頭隊では、人格ある有用な兵としての待遇を受け、 短かい軍歴ではあったが、一生忘れる事の出来ぬ懐しい想い出の石頭であった。 それにしては、余りにも情緒を幻滅させる事象であった。 関東軍の将来を暗示するに足る、不吉な前兆でもあったが、 憲兵最下級者の私には、その暗示を読み取る千里眼は持ち合はせていなかった。
このような閉鎖命令に接した隊は、石頭ばかりで無く、 他にも同様な命令を受けた分隊、分派遣隊があったのであった。 この為に、後日何等の事情を知らぬ、一般部隊の者達から、 「憲兵は、ソ連軍の侵寇を事前に承知していて、夜逃げした。 卑怯な奴等」と誤解され、非難されたのであった。
私は、昭和20年6月末頃、派遣隊長に伴われて、
寧安
私は何の事か、全然分らずに狐に摘ままれた思いであった。 しかし、仮令、内示(内示は命令発令以前の事なので断はる事は可能) ではあるにせよ、分隊長命令の出た以上、牡丹江隊本部に出頭し、 副官の話を聞く為、列車で牡丹江に行き隊本部に着いた。 副官に到着の申告を行なった。
副官(氏名忘却)は、普段余り使用して居ない様な部屋に案内し、 「分隊からの電話で、中倉上等兵の到着を待って居た。 そんなに固くならずに、俺の話を聞け。 実は86部隊で若干の欠員が生じた模様だ。 我が隊本部には、上等兵2名を差出す様、司令部から命ぜられた。 そこで、その内の1名は、中倉だ。 教育期間は、概ね3〜4ヶ月だ。 教育終了後は、兵長(下士勤)に進級する。 名誉と思い謹んで受ける様。 形式は内示であるが命令と解釈してもらい度い」と申し渡された。
直ぐに返事も出来んだろうから、帰隊の上、明日派遣隊長に申告せよ、 と付け加えた。 私はこの事だけは是非とも質問して置かねばならぬ、 と咄嗟に思った。 それは、下士勤兵長と言えば、 下士官志願者と同様な取扱いになるか否かであった。 副官は、「その様に解釈して良いだろう」と言った。 私は、「それでは困ります。私は長男であります。 現役状態の上は家業を継がねばならぬ事。 父は老令の上、弟も入隊中である事」を告げた。 副官は、「命令と解釈せよと言った筈だ。 帰隊の上軍隊内務令の服従の章を復習せよ。 直ちに帰隊」と言って部屋を去った。
帰隊したのは遅かったが、班長は私の帰えるのを待って居て呉れた。 申告の上、分隊長、副官からの内示の話をした。 班長は、その事の内容は既に承知して居た。 班長は、「貴公が強く希望して居た特務に専念出来る絶好の機会だ。 この大戦下、他の兵科部隊では現役満期除隊、即日、 予備役召集で引き続き在隊中の者の居る事も、 また「関特演」に応召した者が未だに在隊して居る事も承知であろう。 憲兵科とてその例外では無い。 兵候補者出身の貴公であっても、現役満期除隊後、 そのまま帰郷出来るなどの甘い考え方で居ては、大間違いだ。 長期に御奉公と言う事になれば兵で居るよりは、 下士官になった方が良いでは無いか。 志願もせぬのに下士官になれる事は、貴公個人にしても、 また、石頭隊にしても、ともに名誉な事だ。覚悟を決めろ」と諭された。
下士官志願は好まぬが特務専念の魅力は大きかった。 受けるべきか否か、私は大いに迷った。 その晩は、熟睡出来なかった。 86部隊(P.107参照)に於て、 どの様な部門専攻を命ぜられるのか、 一抹の不安はあったが、特務専念と言う協力な磁石の如き、 引力には勝てなかった。 内示を謹んで受ける事に決心して、翌日、派遣隊長にその事を申告した。
軍隊内務令 第11には、
寧安
分隊からは、20日早々、池田曹長(暁に祈る事件の吉村隊長)〜
東寧
翌日、終に、寧安分隊を発つ日が来た。 転属出発申告の私達3名は、分隊長代理になった 元石頭憲兵派遣班長 高梨准尉に、お世話になった謝礼と数々の非礼を詫び、 申告を行なった。 准尉は、「健康に充分注意し、軍務に精励する様。 特に、三浦、中倉の2名は血の気が多過ぎて、気懸りである。 特に、自重自戒し、憲兵の名誉を汚すことなき様、強く望む」との言葉を戴いた。
次に、分隊警務班長に就任した清水曹長に挨拶した。 曹長は、「貴公等を手離す事は、非常に残念であり、気懸りだ。 しかし、この際、他処の飯を喰う事も大きな収穫になる事だ。 縁があれば、この満洲の何処かで、再会する機会は必ずある。 その時まで、お互に健康に留意し、頑張ろう」と言って、 曹長から握手を求められた。 私達は、固い握手を交しつつも、無性に涙が出た。 曹長の眼にも光るものが見えた。
いよいよ班長室を出る時、曹長は、 「貴公等、此れを持って行け。何かの足しにせ」と言って、 紙包み(餞別)を事務机の引出しから取り出して渡そうとした。 私達は、強く辞退した。 曹長は、「何を言うか。 貴公等の軍事郵便貯金残高位知っているぞ」と言って、 涙の私達を笑わせた。 私達は、有り難く頂戴した。 曹長の言う様に新品憲兵は、私物の法令集、辞書、ノート、 満語習得の為の参考書、その他などの購入、 外勤が多かった為の小遣銭出費等々の為、出費が嵩んで、 貯金の余裕はなかった。
それから、分隊の者達に挨拶した。 高梨准尉は、特に、同期の戸口君に、駅まで見送る事を命じて呉れた。 石頭時代の上官は、隊門まで見送って呉れた。 軍人とは言え、今の今まで辛苦を共にした上官、 戦友などとの別れは感傷的になるものであった。
清水曹長、高橋(旧姓、福田)兵長(下士勤)の2名を除き、 この時以来、石頭時代の面々とは、未だに再会する機会を持て無いで居る。 同期の三浦、戸口の2君は、その消息さえ、不明である。 健在して居る事を切に祈るばかりである。
高梨(復員後、石川姓となる)准尉は昭和58年11月12日、 清水曹長は昭和38年1月6日、夫々不帰の旅に発たれて仕舞った。 共に良い上官であった丈に、惜しまれてならない。 謹んで御冥福をお祈りする次第であります。
私は、元石頭隊の面々に別れる事は、非常に残念であった。
命令は絶対であり、致し方の無い事であった。
P.239に記した様に、
86部隊教育分遣の内示を承諾して居たので、
何れは短期間の分遣ではあっても、別れる事は覚悟していたのである。
そして、教育終了後は、
また寧安
私はここで、前以て特にお断りして置く事がある。 特務機関に転属後、旬日にして、 関東軍第2特別警備隊新編成に伴なう再転属(8月1日付)。 ソ連軍の不法侵寇開始(8月9日未明)、 後退に次ぐ、後退の混戦から終戦(8月15日)、武装解除、抑留等々の為、 そこで接した人々との時間的交際は何れも短かく、従って、 親交を結べる様な状況下ではなかった。 従って、上官、同僚などになった人達の氏名は、極く僅かな人を除いて、 忘却してしまった事であるその点を諒とせられ度い。
「牡丹江特務機関」なる名称は通称号であって、正式の名称は、 「関東軍情報部牡丹江支部」である。
特務機関に到着した3名は、直ちに荒木(明確ならず)少佐に、 着任を申告した。 そして直ちに、藤田中尉(予備応召憲兵、7月10日応召)の指揮する、 藤田班に所属する事を命ぜられた。 この時点では、藤田班の人達は約15名位であった(全員予備応召、 7月10日付の憲兵下士官ばかりであった)。
藤田中尉以下全員は、長髪で協和服、満服など思い思いの服装であった。 同じ憲兵と言う事で歓迎された。 藤田中尉以下は、特に任務らしいものは命ぜられておらず、 唯、毎日、ブラブラして居るとの事であり、強いて仕事と言えば、 短波ラジオを聴いたり、新聞を見たり、各新聞社、牡丹江支局、 放送局を廻って、情報入手などの任務丈であり、 各自が適当な時間になると官舎に帰えっては、麻雀、碁、将棋などを楽しんで居た。
おかしな処だと思った。 この人達の中に広瀬(特機から特警を通じてこの人が最も強く、印象に残る) 軍曹が居た。 将に、悠揚迫らず、ヌーボー とした如何にも大陸的な相貌のこの人に、 初対面の時から好感を抱いた。 鮮、満、露の各語を流暢に話す人であった。 その他の人達も皆、鮮、満露の全部、または2語、或いは1語に堪能な人ばかりであった。 私達は、この事だけですっかり度肝を拔かれて仕舞い、 俄に劣等感に襲われて仕舞った。 これから、どの様な勤務を割り当てられるにしても、勤まるかどうか、 大変に不安であった。 ゆっくり満語の勉強どころの事では無かった。
そこで、藤田中尉から内命された事は、 「86部隊教育分遣は、都合により中止」になった事と、 「8月1日付で新編の第30軍の戦斗序列隷下の関東軍特別警備隊に、 特務機関は編入される事、従って特機の我々はその要員」である事を承知した。 寧安分隊出発の際には、以上の事は何一ツ、知らされて居なかったのである。 特別警備隊は、
等があり、当該地の関東軍情報部支部、憲兵、兵站警備隊などを以て、 臨時編成した治安部隊であり、その内憲兵は、 共産系鮮人等の多住して居た寧安地区に進出する予定であった。
その晩は、3名ともに独立守備隊に用意されてあった兵舎の1室に泊った。 私達3名は、特警要員として、特機に転属した組としては早い方であり、 同室した者は数名であった。
翌日、特機に行った処、 藤田班を正式に編成して、その要員は中尉以下7名とする、 これから呼名する者は、藤田班員になる事を告げられた。 呼名された中に広瀬軍曹を入ったが、私もその中の1名に加えられた。 私は正直驚いた。 金田兵長、三浦君は呼名されなかった。 口の悪い三浦君は、 「将校、下士官ばかりの中に上等兵1名を入れたのは、お茶汲み要員の為だ」 と言って、冗談を言った。
藤田班の任務は、8月1日付で、 関東軍第二特別警備隊、編成下令に備えての編成事務であり、 編成下令後は、憲兵大隊本部事務の執務であるとの由であった。 私はその様な勤務ならば、補助憲兵を充てれば良いのにとガッカリした。 そして、不満であった。 特機付の憲兵として、特務に専念したかった。 私はその事の不満を初対面の時から好感を抱いた広瀬軍曹に話をした。
軍曹は笑い乍ら、
「今からそんなに、ブーブー言うな。
俺も現役時代、編成準備事務など経験した事など無い。
命令のまま勤務すれば、それで良いのだ。
現役の若い君が特務勤務に就き度い、気持ちは良く理解出来るが、
君が考えている様な、生優しいものでは決して無い。
増してや、言語、風俗、習慣などの異なる満洲で特務に服する條件は、
満人、鮮人になり切る事だ。
その為には、満語、鮮語の日常会話に差支無いだけの勉強が必要だ。
若い君がその気になって努力すれば、満鮮語の会話に習熟するのに、
2年あれば充分だ。
特務勤務はそれからだよ」
と言って、逸
言われて見れば成る程と頷けたが、出鼻をクジカレタ思いで口惜しかった。 だが、藤田班の人達は夫々が現地人と接するのに必要な満語、鮮語、 或いは露語に堪能な事実を知っては、当分と言うより、 2年間は我慢せざるを得ぬと思った。 それにしても2年と言えば、86部隊分遣、中止の現在、 現役中は駄目なのかと無念に思った。 悄然としていた私を見た軍曹は、 「そんなにシヨゲルなよ。いい事もあるさ」と言って呉れた。
編成準備事務執務の関係上、私は他の藤田班の者達と同様に、 官舎居住を命ぜられた。 官舎と言っても、特機から余り離れて居ない処にあった、 借上げの代用官舎であった。 相部屋で寝るのかと思っていたら、私1人の専用で使える官舎であった。 今で言う処の、2LDKとも云う様な間取りで、 1人住いには全く以て贅沢なものであり、金田兵長や三浦君には申し訳なかった。
編成準備事務らしいものは、どこで誰がやって居るのか、 私達の藤田班には、その為の執務は8月に入っても遂になかった。 あったのは、管内各地から入電する不穏な情報の整理事務であった。
扨
等々であった。 この様な不穏な情報入電の最中に、 全満各地の憲兵隊の大幅な縮小が続けられ (特別警備隊編成要員充当の為)、 警察力の希薄は一段と倍加されたのであった。
この頃になると既に、関東軍の参謀連中、及び、 満鮮人等の極左思想の信奉者の間には、ソ連侵寇必至と覚悟し、 予期して居たのではなかろうか。 表面こそ平穏な満洲も、内面では騒然とした空気が眼には見え無い、 乱気流となって荒れ廻って居たのであろう。
特務機関の性格なるものを私が全然分らなかったので、 その様に思うのであろうが、特に奇異に感じた事は、 諸々の職業を持った人達が良く出入して居た事である。 例えば、理髪店主(日本人)、食堂経営者(満人)、 関東軍軍楽隊将校、下士官(勿論 日本人)、職業不詳(白系露人)、 職業不詳の日本人(多分大陸浪人と言われた満洲ゴロ)等々が、 自国語の時もあれば、他国語の時もあり、 見事と言う程に使い分けて居るのを、廊下、或いは食堂で見掛けた事である。 藤田班の人達も良く食堂で、それ等の人達と自国、他国の言葉を使い分けて、 話をして居た事であった。
服装にしても、この特機で軍服着用者は、荒木少佐、 軍楽部の将校、下士官に私の4名だけで、あとは全部私服であり、長髪で、 短髪は私1人だけであった。 私1人が何か部外からの闖入者の様な錯覚を感じたものであった。 藤田班付になってから、私は藤田中尉から長髪にする事、及び、 別命無き限り、軍服着用を禁止され、藤田中尉は、 私に自分の私服2着(背広と満服)を贈って呉れた。 有難く頂戴した。 翌日からその満服を着用して、勤務したので、疎外感を抱かずに済んだ。
同期の三浦君は、石頭当時、親から送金してもらって、 上等(絹製)の満服を購入済みであった。 私は藤田中尉から贈られた満服を持って居たので、 藤田中尉の許可をもらって、牡丹江市街の鮮人経営の写真館に行き、 満服姿(帽子は写真館主より一時借用、三浦君は中折帽、 私はハンチング帽)で記念撮影をした。 仕上り日に勤務の都合で、段取りに行けずに居る内に、ソ連侵寇となり、 前金を払っただけで、遂に入手する事は出来なかった。 三浦君の満服は、冬用のものであった。 満洲の7月は盛夏である。 「暑い」、「暑い」を連発しての我慢の記念撮影であった。
昭和20年8月1日、関東軍第二特別警備隊が編成され、
併せて特警要員として先に、
関東軍情報部牡丹江
それにしても、満内治安維持を目的として編成された、
特警の配属憲兵の転属発令は、一斉に発せられず、
区々
この日付を持って、藤田班7名中から、 班長藤田中尉は大尉に、班付先任、広瀬軍曹は曹長に昇任した。 この2名は予備役ではあったが、中尉、軍曹の服務停年に達して居たので、 1階級昇任は当然であった。 それに、私までが兵長に進級した。 上等兵拝命以来僅かに満4ヶ月20日であり、「殊勲甲」の如く、 金鵄勲章叙功の対象になる様な功績は全然無かった。 加えて、石頭隊勤務中、準現行犯逮捕の際の越権行為に依る 「謹慎処分」を受けて居るのであった。 私は何かの間違であると思い、その事を広瀬さんに告げた。 同室内に居た藤田大尉は、 「間違無し、特務機関長に申告に行くから、直ちに軍装を整えよ」と言われた。 申告後、私服に着代えて居ると、藤田大尉に 「86部隊教育分遣中止の代償だ。お芽出度う」と言われた。 広瀬さんは、「これでは召集解除、延期の予告と同じだ。 現役時代の昇任ならば別だが、予備の身には迷惑千万だ。 だが君は現役なのだから、もっと嬉さうな顔をしろよ」と言って笑った。
正式に特警転属にはなったが、藤田班だけは特機に残って、 依然として、昨日までの情報整理を命ぜられた。 独立守備隊に行った金田兵長や三浦君の事が気懸りであったが、 どうする事も出来なかった。 各地から入電する情報は、P.249下欄に記したものの他に、 東部満ソ国境に於ける「ソ連軍の散発的な少部隊の越境事件」、 「落下傘蝶者の増加」、「開拓団員に 青酸加里の配分」、 「無線蝶者の発信するものと思われる怪電波の急増」 等々を告げるものばかりであった。
特警転属のその夜から、 藤田班7名は全員、特機泊り込み勤務を命ぜられた。 理由は、上記情報の内「ソ連軍の越境事件」、 及び「無線蝶者の怪電波増加」、「落下傘蝶者急増」などは、 特に最悪事態発生を予想してであった。 藤田班の他にも情報蒐集班はあったのであるが、 転属して間も無い頃であったので、特機の詳しい事は分らず仕舞いであった。 将に、ソ連軍侵寇の紛れも無い前兆であったのである。 国境第1線で、ソ連軍と対峙する、将兵の緊張の最中を思い、 また、落下傘降下蝶者の捜索に生死を懸けて勤務する、 戦友等の身を思い、幾ら任務とは言い乍ら、青年兵であった私には、 この事務室での勤務に、明け暮れする事に、忸怩感を持つ様になった。 私は、石頭当時から戦友の金田兵長、三浦君の勤務する、 兵站守備隊に配置替えをしてもらうべく、広瀬さんに意見具申した。 具申と言うよりは訴えたのである。
広瀬さんは、「第一線ばかりで戦は出来るものでは無い。
兵站基地がその任務を円滑に機能してこそ、軍の目的は達せられる。
我々の任務は、決して「殊勲甲」になる様な華々しいものでは無い。
しかし、縁の下の力持ち的存在の任務を遂行するのも必要だ。
解るだろう。それだよ」と言って宥
或る日、三浦君が彼の現在の上官である、
軍曹(憲兵〜氏名忘却)と2名で、
私服で情報蒐集の勤務中の余暇を割いて、特機に尋ねて来た事があった。
その際に、2名が交々
等々の不穏極まる、情報入手の話をして、早々に帰えった。 その確度の程度は不詳であったが、私は早速、 広瀬さんにその事を報告した。
特機に入電、または特機嘱託情報員の齎
しかし乍ら、後備、補充兵(未教育)を以て編成した部隊(この種の編成 部隊は飽くまでも一応治安の回復されて居る後方占領地の治安警備が 最たる任務であって、第1線に在って直接戦斗を交える部隊で無い)を、 国境、第一線に配置しなければならなかった、 関東軍としては、打つ手は既に無かったと思われる。 また、満洲国の防衛、及び邦人保護を任務とした関東軍に、 その任務を半ば放棄した現在、打つ手どころか、 唯、第3者的に「拱手傍観」するより他に術は無かったのであろう。
1日夜からの全員泊り込みは、5日夜より半数泊り込みに緩和された。 だが、6日午後、満洲通信社、牡丹江支局より、 「広島市に新型爆弾投下せらる」の報は、詳細が不明であった丈に、 不気味さを感じさせた。 「原子爆弾」の語さえ、その時は知らなかった。 増して1発の投下弾によって、1市が瞬時にして消滅するが如き事は、 予想だに出来なかった。 全満はイザ知らず、ここ、牡丹江の夏の風景そのものも、 街行く若い姑娘(クーニヤン 娘の意)の夏用支那服(袖の無い、 ワンピース型、両裾の腰の辺りまで割けた服)の 刺激的な艶姿を見せ付けられては、入電する情報とは裏腹な、 表面上は平和時を想わせるに足る、桃源郷そのものであった。
昭和20年8月8日は、大東亜戦争宣戦布告された昭和16年12月8日、
即ち、8日に因んで宣戦に対する大詔(詔勅〜天佑ヲ保有シ 万世一系ノ
皇祚ヲ践メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス 朕茲ニ
米国 及 英国ニ対シテ 戦ヲ宣ス 朕カ陸海将兵ハ 〜 以下省略)
奉戴日
そこへ日直の軍属が戸をドンドン叩き乍ら、 「非常呼集」、「非常呼集」を連呼して告げた。 「ハッ」として、直ちに電灯を点け、時計を見ると0時20分位であったと思う。 私は急いで、褌を付けて外に出て見ると、今来た軍属が、 次から次えと「非常呼集」を叫び乍ら、官舎を廻って居たが、 どこの官舎も灯を点けた様な気配も無い。 眠った様に、静かであった。 誰も起き出した様子は無い。 そこへ隣の軍曹(氏名忘却)が寝間着姿で外に出て、 「未だ防空演習の続きだろう。何んでこんな時間に非常の呼集など、 馬鹿なことをするんだ。日直将校は誰だ」とブツブツ言い乍ら、 官舎に引き込んだ。
私は私なりに解釈して、
「皆が出て行く時に行けば良いわい」とゆっくり構えて、部屋に戻り、
寝付かれぬウサ晴らしに、コップ1杯の冷酒を一気に飲み乾し、
煙草を一服付けていたが、どうも落着が無い。
そこへ、玄関の扉をドンドン叩き、再び「非常呼集」と告げて来た。
「承知、御苦労」と叫ぶと同時に、急いで表に出て見ると、
木銃を提げた日直の軍属(判任官待遇〜氏名忘却)が居て、
「火急に付き、この非常呼箋
私は何かありましたかと訊ねると、「ソ連侵寇」を告げ、次の官舎に急いだ。
私は「真逆
その他、数々あった様であるが記憶に定かで無い。
既に、軍用有線電話は回線満線、または中断、 無線電信は輻輳混信し、正確な情報の送受は困難を極めた。 また、満洲通信社、各新聞社などの牡丹江支局、牡丹江駅鉄道、満洲通運、 満警、市公署、総省などの電話回線も1部または全部が故障、破壞などをし、 正確な情報入手に重大な影響を及ぼした。 夕刻に到り、満洲通信社、牡丹江支局より、 「長崎市に広島と同型と思われる新型爆弾が投下され、 被害甚大の模様なるも詳細不明」との電話連絡が入電した。 夜になり、出所不明の怪情報が特機嘱託情報員によって齎らされた。
頭初、大本営発表と思っていたが、その出所不明との事であったので、 藤田大尉は、満洲通信社牡丹江支局に照会したが、 その情報には接して居なかった。 唯、街中に、1部、その噂ある程度と言うのみであった。 そこで、掖河の第5軍司令部に照会したが、 「その報に接し居らず」との事であった。 牡丹江憲兵隊に於ても同様であった。 その後、この情報に就いては、自然消滅した。 全く不思議な事であった。
また、ソ軍侵寇と同時に、関東軍総司令官の指揮下に統合された、
牡丹江駐屯の満軍(第6軍管区)野砲隊は、
第5軍司令官(中将 清水規矩〜掖河)の区処を受け、
磨刀石
8月10日(ソ連軍侵寇2日目)、この日初めて牡丹江市街は空襲を受け、
数ヶ所が破壞炎上した。
牡丹江は交通の要衝である。
鉄道に例を挙げれば、
浜綏線
昨日正午頃から、特機警備の為、 独立守備隊から見習士官を長とする約2ヶ分隊が派遣されて来たが、 その連中(未教育補充兵)が軍紀上好ましからざる流言飛語を流すので、 長である見習士官に注意を促したが、改まぬので、藤田大尉は怒って、 原隊復帰を命じて仕舞った。
8月10日正午頃であったと思う。 丁度、握り飯を噛っている処へ、広瀬曹長が来て、 「直ぐに警察務に服する軍装で大尉の部屋まで来い」と命じた。 私は直ぐに官舎に戻って、軍装を整え藤田大尉の部屋に行った。 程なくして、藤田大尉から次の命令を受けた。
「広瀬曹長は、中倉兵長を指揮し、牡丹江憲兵分隊に急行せよ。 到着の上は、分隊長の指示に従え」であった。 大尉の説明に依ると、戦火の急迫しつつある現在、 分隊では管内の軍事警察、治安維持などに兵員の 不足(ソ軍侵寇の為、転勤赴任者の遅滞続出)の為、 応援憲兵の派遣を要請して来たとの事であった。 早速、分隊から出迎えのトラックに乗り、分隊に到着して、 申告をしようと思ったら、分隊長は特別警備隊に出張中との事にて、 先任准尉に申告した。 准尉は、「やー御苦労です。事情は既にご承知の事と思います。 早速ですが、広瀬曹長を班長として、牡丹江駅取締りをお願いします。 補助憲兵(一等兵)4名を増加します。 停車場司令、駅長には電話で通報済みです。 詰切り勤務を願いますので、報告は電話で結構です」との事であった。 再び、駅まで運んでもらった。
着いて見ると駅は大混乱であった。 駅構内は、清掃どころではなかったのであろう、 到る処足の踏み場も無い様な、紙屑、トランク、風呂敷包み、 布団袋、その他等まで放置散乱されてあった。 多分、避難民が持ち切れずに放棄して仕舞ったものと思われた。 それ等を持ち去ろうとする満人も群れていた。 これ以上為す術を失った様な疲労困憊その極に達した、 避難民達の空虚な眼な差し、これと引き代えに血走った 様相の必死を覚悟した様な人達、罵声、怒声のざわめき等々の 何れを見ても、天災、地変、直後の如き、混乱であった。 構内に放置されて居る品々を持ち去らんとする、窃盗現行犯人を見付けて、 「不行小偸児(ブシン シャオトゥル 駄目だ泥棒の意)」と怒鳴り付けると、 直ぐ逃げるが、私達の去るのを認めると、 再び様子を窺っては持ち去ろうとする。 現行犯ではあるが、この事に長く拘はって居る余裕は無い。 駅は刻々、混乱の度を増すばかりである。 牡丹江、牡丹江まで行けばとの思いで、避難して来る邦人、 南下、北上、西から東から不定時に到着する避難民を寿司詰めにした列車。 その殆が有蓋無蓋の貨物列車である。 私が駅取締り勤務中、現認した最も悲惨な邦人避難民の例を3例挙げて記す。
東部国境地域から命からがら、 一段の邦人避難民を乗せた貨物列車が駅に到着した。 見れば、何れの貨車もソ連機の機上掃射を受けたと思われる 弾痕がはっきりと認められ、側板が破壞されて居た。 車中で死亡したと認められる死者は、無蓋貨車に移し代えられ、 アンペラを被せてあった。 アンペラを上げて、検べて見ると遺体は5体であったと思う。 それ等の遺体の眼、鼻、口などには、既に蛆が涌いて居た。 避難行の最中に空襲を受けて、緊急退避の為に非常停車した際に、 採取したのであろうか、一見詰まらない雑草に類する草花が数本づつ、 遺体の枕元に供えられてあった。 あの混乱時に於ても、未だ温かい人情の血が、 生存避難邦人にあるのを見て心慰さめられるものを感じた。
避難邦人の引率者から、 「既に空襲により死亡した人の遺児を、 ここまで連れて来たので憲兵に引取ってもらい、保護をして欲しい」 との申出があった。 親を亡くした遺児達は、泣く元気も失せて貨車の片隅で寝て居た。 彼らの申出はもっともであった。 あの最たる窮状下にあって己が身と家族の心配で精一杯である。 他人の子まで面倒を見る事は、不可能な状況であった。 私はこの申出に数瞬戸惑った。 憲兵は最下級の一上等兵に到るまで職務遂行上、 単独勤務が多い関係上、一々上司、上官の指揮を仰ぐ暇が無い場合が多い。 その為に独断専攻を教育された。 そして、その結果生ずる責を負う事になって居た。 だが他の事とは違って、遺児の引取り申出にどう対処すべきか迷った。 随伴の補助憲兵を憲兵詰所に居る広瀬曹長に急報し、 併せて満警詰所の警官に通報させる為に走らせた。 広瀬曹長が走って来た。 広瀬曹長も彼らの申出をもっともなりとして、 満警詰所の警官に移牒せんとしたが、 満警詰所には警官不在(ソ軍侵寇と同時に鮮満系警官などの無断欠勤、 逃亡など相つぎ、警官不足に依る)の為、満警に電話通報し、 死体の処置、遺児の保護方を申し入れた。 1時間も経た頃に、日系警官が来着し、それ等を移牒した。
また、この貨物列車の別の貨車では、避難行中、 ソ連機の襲撃を受けた際の衝撃で、身重の婦人3名が貨車の中で、 分娩予定日以前にも拘らず、早産して居た。 その内、1児は分娩後間も無く死亡。 あとの2児は生はあったが、母親が襲撃の恐怖の余り母乳が止まり、 他の婦人の乳で何とか生命を保って居たが、炎暑、母乳不足、 非衛生などの環境下に在って何れも死亡。 そして、3名の産婦は、死児を抱いて居た。 群がる蝿を追い払って居た。 前には、無蓋貨車に放り出され、3様にして仏になって居た遺体を現認し、 今、またこの悲惨な3婦人、仏になった嬰児を眼の当りに見ては、 勤務中は如何なる場合に在っても、 喜怒哀楽の感情を抑制すべき事を厳しく教育されては居たのであるが、 哀感を抑える術も無く涙があふれ出た。
再度、広瀬曹長の指揮を仰ぐべく補助憲兵を走らせた。
やがて、この被災者達も満警によって保護された。
聞けば之らの人々は、梨樹鎮
広瀬曹長は、単身分隊に急行し、
その救恤
私は交代で詰所で食事中、駅員が走り込んで来た。 告げる処は、 「駅待合所で避難列車を待ち合はせて居た邦人中の1婦人が、 自分の子供を小刀で喉を刺して殺して仕舞った。 直ぐに来て下さい」との事であった。 私は直ちに「満警詰所に知らせろ」と告げたが、 駅員は「昨日から誰も来て居ないし、 鉄路警護団は憲兵さんに知らせろと言うので」 と言って立ち去った。 鉄路警護団も手足となって勤務する下士官、兵の階級に在る、 鮮満系は、満警同様にソ連軍侵寇と共に無断欠勤、 または職場放棄により、著しい警察力の低下を来たして居た。 私は、直ちに勤務中の広瀬曹長の指揮を仰ぐべく、補助憲兵を走らせた。 私は、待合所に急行した。 間も無く、広瀬曹長も馳せ着けた。
待合所に居た人達は、殆どが兇行を見て立去って居た。 見れば、現場の床と母親の衣服、顔、手などは、鮮血に塗れて染まって居た。 凄惨極まる状景であった。 その若い母親の挙措から見て、完全に精神錯乱の昂じて、発狂して居ると見た。 万一に備えて、携帯したであろう護身用の20cm足らずの白鞘入りの短刀を 左手に握り、殺した我が子を両膝に抱いて、床に座ったまま、放心状態であった。 この様な時には、相手を興奮させる事は禁物だ。
広瀬曹長が静かに若い母親に近寄って、撫める様にして、
短刀を捥
補助憲兵2名が、母親を両脇から制止した。
母親は補助憲兵2名を付けて、憲兵詰所を緊急措置として、
代用留置所として留置した。
死児は、駅の仮眠室と覚しき部屋に仮安置した。
駅長(日系)の配慮によって、ローソクが灯され、
線香をも薫
仮令
私は、この駅取締勤務中、
穆棱
この日の牡丹江駅には、
引込線までにも何本もの避難邦人を乗せた貨車で埋まって居た。
その内の1本の列車が、これから駅を発ち、
哈爾浜
命からがら国境方面から避難して来たその邦人達は、 関東軍の保護、救援、救出などの策は何等為されなかったと同然であった。 軍に対する怨嗟の声は、駅取締中の我々憲兵に、公然と投げ付けられた。 憲兵は心で詫びて、唯々、聞き流すより他に為す術は無かった。
その様な時に、避難民の引率者と思われる数名の人達が、 私の処え走り寄って来た。 彼らは、「折角、避難列車に乗って一安心した処に、 多勢の兵隊さん達によって、我々は無理槍に下車させられて、 その兵隊さん達が乗って仕舞った。 老幼婦女子の多い、我々は困っています。何とかして下さい」との訴えであった。 私は早速、その人達に案内させて、 その列車に馳せ着いて見ると、珍しくも客車を連結した列車である。 成る程、少数の避難邦人も乗ってはいたが、多数の現役兵と思われる、 若い兵達が席に腰を下ろして(他の車輌、 には立錐の余地も無い程にギュウギュウ詰であった)居た。
その兵隊達は、帯剣こそ吊っては居たが、兵器と名の付くものはそれ丈であり、 全員一装用と思われる新品の軍服、その他の被服を身に付けていた。 網棚には雑嚢、背負袋、毛布などのどれを見ても新品ばかりであり、 嚢や袋などの内容は、不明であるが、一杯に脹らんで居た。 この一群の兵達は、上官の指揮を放れ、完全に遊兵化した、 敵前逃亡犯達であると直感した。
私は通路の扉を開らこうとしたが、内鍵が掛けられてあって開かなかった。 強くノックすると、扉の直ぐ側に居た兵が鍵を外した。 私は車内に入り、「指揮者は誰か」を訊ねた。 直ぐに見習士官が「俺だ」と名乗り上げた。 先ず、見習士官の官等級、氏名、所属などを訊ねた。 それには答えた。 憲兵手牒に記録した。
次に、これからの行先、任務、任務があるからには、 命令発令者の所属官等級、氏名を訊ねたが、答えは一向に要領を得なかった。 私は、当時の情況からして、異常なばかりに昂奮して居たと思う。 いきなり、「貴様等は遊兵化した離隊兵だな。 敵前逃亡兵と断定する。直ちに全員下車」を促した。 見習士官は、反抗的で容易に下車しようとしない。 私は更に、「敵前逃亡は軍法会議で死刑だぞ。 直ちに下車の上、最寄り部隊に出頭。最上級指揮官に申告しろ」と強行に促した。 それでも、躊躇したので、違法は承知の上で情況上止むを得ず、 見習士官に拳銃を突き着け、下車を強制した。 続いて車窓より上空に向けて拳銃の威嚇発射をした。 兵達は見習士官よりも早く下車を開始した。 見習士官は仕方なさそうに下車したが、 私に向って最寄りの部隊は、どこに在るかを尋ねたので、 牡丹江駅駐在の停車場司令部を指定した。 件の見習士官によって下車させられた避難民は、礼を述べ乍ら乗車を開始した。 この様子を見て居た、駅助役は、 「今の様にして、割り込む兵隊さんが居て、困って居ます。 これからも宜敷くお願いします」と言っていた。 乗車が終ると間も無く、気の勢か悲しげな汽笛を鳴らして、列車は発車した。 威嚇射撃は、避難邦人に対する、せめてもの保護、救済の役に立った ものとして自己満足した。
憲兵は、対敵行動以外の警察勤務中の兵器使用(拳銃発射、抜刀) には厳しい制限が加えられており、万一使用した場合は、 使用せざるを得なかった現場の情況を詳細に記録して、 所属帳を経て、最高級司令官(満洲では、関東軍総司令官)へ都度、 報告を義務付けされて居た。 私は、早速詰所に走り、広瀬曹長にその旨を報告した。 曹長は、「この様な情況下だ。少々の行き過ぎは止むを得ん。 但し、これからもある事だ。過剰行為に陥る事無き様、自重自戒せよ」 として注意を受けた。
この日の夕刻に到って、分隊から交替要員が到着し、 広瀬曹長以下の私達は分隊に帰隊した。 帰隊申告が終ると、先任准尉から特務機関復帰を告げられ、特機に戻った。 僅かに、27.8時間位の分隊への応援勤務ではあったが、 迫り来る戦火を避難する邦人を目の当りに現認し、惨状の異常さを知った。 私の記憶は、今だに、年に数回、夢に見る事である。
特務機関復帰以来、終戦に到る間の朧気なる記憶を辿って、 以下記すよりは、私が復員後、ラジオ「尋ね人」によって、 消息の判明した人の内、 清水 勇(元、石頭憲兵派遣隊、班長〜曹長)氏に宛てた、 書翰(清水勇氏〜昭和38年1月6日病没〜昭和59年10月初旬、 故人の墓参をした際、それまで大事に保存をして居てくださった 未亡人より拝借したもの)を、 一部省略して記した方が良しと判断し記す事にしたい。
「前文省略 ・・・・ 、
先ず、終戦前後の模様をお知らせし度いと存じます。
特警要員として牡丹江特機に転属(この内には、親交深し、三浦芳明、
金田春実等の2君がおりました)、編成完結寸前にソ軍侵寇となり、
集まった者だけで行動開始を致しました。
私達は、戦務班員として、
元勃利
「その内、牡丹江空襲も頻繁となり、
拉古
いよいよ死ぬ時が来たと言うので、憲兵連中全員、軍郵跡に寄り合って、
飲めや喰えや唱えやの大騒ぎを一晩演じてしまい、
特に海林隊付だった山本軍曹?は、種々工作をめぐらせ、
物資(主に酒と支那料理)をかき集め、ずい分乱暴な真似をしたので、
他部隊よりにらまれてしまいました。
その内、海林もあやうくなって来たので、
横道河子
私達は、この時ばかり喜んで先発したのです。 今思えば、この時が三浦君や金田さんに最後の別れとなってしまったのです。
出発した日に山中で爆撃を受け、相当数の戦死傷者、 それに自動車などの被弾、焼失など、被害甚大で、ここでも死の寸前でした。 それでも、その晩は被弾を免かれた特機の自動車に乗り、 間道(横道河子トンネルの側)手前の山中で一泊いたしました。 この山中では戦死者の通夜を各部隊とも致し、 何んだか気味悪く、まんじりとも出来ませんでした。 その上、しとしとと雨さえ降っていました」
話〜P.272で記した落下傘蝶者に就いて触れる。
海林滞在中の武装蝶者降下の報は、 海林駐在の満警より報ぜられたものであり、 藤田大尉から次の命令を受けた。
「今までの情報に依れば、 寧安県地方の開拓団や鮮満人部落に落下傘降下蝶者頻繁であり、 海南村に降下の蝶者も之らと連繋したものと判断される。 ソ連が1時期に多数の蝶者を大胆にも空挺せしめた事は、 重大時機近迫の前徴である。 満警からの報告に依れば、降下に際し、墜死または墜傷との事であるが、 万全を期する為、近在の部隊に要請し、補助憲兵1ヶ分隊の分遣協力を得た。
この際、この附近の地理に明るい軍曹(氏名忘却)を捜索班長として、
中倉兵長、及び補助憲兵1ヶ分隊を指揮して、現場に急行せよ。
現地までの案内は、満警が之に当たる。
この際、捜索班長は、
「満警警察官を1時区処
直ぐ近くの高粱畑を見ると、開傘した落下傘が高粱の先端部に掛かって、 一部の高粱が半分程、薙ぎ倒された様になって居た。 そして、その中に武諜が重傷なのか、或いは絶命したのかは分らぬが、 居るとのことを警戒に当って居た警官から知らされた。 満人屯長(部落長)の話に依れば、 (満警の通訳に依る)今朝早く犬が頻りに鳴くので表に出て見ると、 高粱畑に白い大きな布が掛って、高粱が折れたり、倒れたりして居たので、 部落の者達に急いで知らせた処、部落の者の話では、 日本軍の落下傘だと言う事になり、日本兵が居るらしい、 負傷して居るらしいとの事で、早速、救助する事にして近寄った処、 急に銃砲で撃たれ、2名の者が軽傷したので、治療の為、牡丹江まで下げた。 そして、警察に知らせた、との事であった。
知らせを受けた満警は、落下傘蝶者と断定したが、 この件は、日本憲兵隊の所管なりとして、丁度附近に憲兵が居たので、 私達の特警に急報したとの事であった。
捜索班長は、「明らかに落下傘蝶者」と判断した。
班長は、現場で警戒中の満警をも併せて指揮を執る事を
満警に承諾してもらった。
そして、全員を以て、武諜の居る場所附近一円に匍匐散開を命じた。
そして、命令無く発砲を一切厳禁する事を併せて命じた。
班長は、通信紙を丸めた急拵
捜索班長は、私を手招きして呼び寄せた。 「補助憲兵の分隊長に威嚇射撃を命ずる様伝えて呉れ」との事であった。 私は分隊長の側に匍匐して近寄り、 兵3名に同時に上空に向けて威嚇射撃をする様、班長の命を伝えた。 分隊長(下士勤兵長、氏名忘却)は、近くに居た部下3名を指名して、 上空に向けての射撃姿勢を命じた。 私は分隊長の傍に居て、班長の射撃命令を待った。 程なく班長の射撃を命ずる、引鉄を引く合図があった。 私は分隊長にその事を知らせた。 途端分隊長の「撃て」の声があり、一斉に発射された。 それでも、一向に武諜の応答は無かった。
班長は私を呼び寄せた。 班長は、 「武諜は例え重傷の身であっても逮捕連行を希望して居るが、 それには、一斉突撃進入が効果的ではあるが、 応援の補助憲兵や警官等に例え軽傷と雖も、被害があってはならない。 この際、班長1名が武諜逮捕に向かう。 中倉は直接援護の指揮を執れ。 私は補助憲兵分隊長は下士勤であり、 満警上級者は之も階級上、私よりも上級職と思われるので、 私が指揮を執る事の是非を意見具申した。 だが班長は、「この際の主導は憲兵が執る」と言って、 以後の指揮は私が執る事を大音声を以て、全員に伝えた。
その時、高粱畑の中から拳銃の発射音と共にウメキ声が挙った。 自決であると直感した。 班長は「全員突撃、突込め」を命じた。 一斉に高粱をかき分けて、現場に突込んだ。 武諜は喉に拳銃を当て、脳天めがけて発射。 見事な最後を遂げて居た。 敵乍らも天晴れであった。 班長と警官上級者(日系)が検死(瞳孔、脈拍、睾丸)したが、 完全に事切れていた。 「生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケス」の訓は、彼らにも徹底していたのである。 班長はその場で各自携帯の小銃、拳銃などの「弾丸抜け」を命じた。 そして「ソ連殉国勇士へ捧げ銃」の礼を贈った。 帯刀者は、「捧げ刀」の礼を贈った。 終ってから遺体、遺留物を畑から運び出し、改めてそれ等を検証した。
当時の詳しい記憶は忘却したが、次の事だけは鮮明である。
等々である。
武諜を眼前にして、逮捕(生け捕り)出来なかった事は、 かえすがえすも遺憾千万な事であった。 生け捕り不能であった為に得る処は皆無と同一であった。
「明けて次の日、自動車で行くのは危険との事で、 鉄道レールを徒歩で葦河を指して行きました。 この日、珍らしく敵機朝から姿見せず、 皆でスターリンの定休日だなどと言っておりましたが、 今思えばこの日が終戦の日だったのです。 敵機の来ないのも当り前です。 でもその時は、誰も終戦を知りませんでした。 途中で、満鉄社員の避難民から停戦らしいとの事を耳にしたので、 「貴様等はすっかりデマに掛かって仕舞った。ケシカラン奴だ。」 としてずい分に気合を掛けてやりました。
段々に葦河近くなって、山の上から今来た方を見ると、 見馴れぬトラックが何台も大砲の様なものを牽して走るのが見えたので、 不審に思ひ、双眼鏡で偵察すると、増々不審になって来ました。 誰かが新鋭皇軍部隊だと言い出したので、皆、ああ、そうかと言って、 安心してしまいました。でも何だか不安です。
葦河近くになって、他部隊の兵の1人が、
「昨夜俺は、露兵と握手したとか、莨
葦河に着く前、ヤブロニで1泊、悠々と無人(避難して留守)の宿に泊りました。
そして、満警(鮮系警官)に命じて、情報を提出させたり、夕飯を出させたりしました。
良くもあんな大胆な事をしたものと後で、我乍らびっくりしました。
葦河を出発後は、降雨続きに出合い、ビショ濡れとなって、
一面坡
電々(満洲電信電話株式会社〜特殊法人)に行って見ますと、 既に横道河子より自動車で直行した連中が来て居りました。 ここで武装解除の用意をする様にと言われました。 持って居た兵器と言っても、拳銃と95式軍刀、 それに途中で拾った鞘無しの日本刀だけでした。
ここに着くや直ちに、憲兵関係名簿と兵器明細簿の作製をやらせられました。 着いた次の夜、就寝して間も無く電々は、露兵10名程の 掠奪を受け殺された者、2名を出しました。 憲兵は直ちに集合して、命令あり次第、駅に集合する様、命令されたので、 愈々、殺されるのだと感じてしまいました。 しかし、その後、何の命令も無かったので事無く済みました。
次の日、一面坡、独立歩兵大隊兵舎に移り、
後に輜重隊、厩舎に入り、内務班を作りました。
ここでは、憲兵だけで1ヶ中隊を作りました。
そして、面部隊といたしました。
ここで或る日、高橋曹長?
(綏芬河
以上の犯行をソ連憲兵に訴えたが、遺憾乍ら誠意ある回答に接せず、 遺体は電々の庭の一隅に埋葬して、冥福を祈ったのである。
ソ連掠奪兵とのやりとりの内容は、他に同室した露語に明るい憲兵の談であった。 敗軍の一下士官と雖も、「貴様等は軍人か、強盗か、どちらだ」と勝軍の兵に、 詰寄った、その毅然たる行動が最悪の事態を招く、結果になったとは言え、 真に勇気ある態度であったと、私は今以て銘肝している。 それにしても、敗兵とは情無いものであった。
高橋曹長(氏名の記憶、朧なり)が、日直下士官に就き、 私が日直上等兵に就いた時の事である。 曹長は、朝から部屋で飲酒し、泥酔の状態であった。 日直の件、何を相談に行っても明解な回答を得られず、 止む無く私なりに独断で事を処理した。 その事に難題を付けて来たので、 私は「勤務中の飲酒は慎んでもらい度い。 監軍護法は憲兵の信條だ。 敗戦とは言え、日本軍人の誇りは失なわ無いで欲しい」 と生意気な、忠告を発した事から、 更に、故 広瀬曹長の御遺骨を高橋曹長の手違いから 電々に置いたままにして来た事を追求した。 『広瀬曹長の御遺骨は私が日本に捧持して、 御遺族にお届けする 〜 (この時点では未だ、 シベリヤ抑留の事は予想もしていなかった)事にしていたのであるが、 他の戦死者の御遺骨と一括して、 別に宰領官を指名して日本に送還するとの事であったので、 止む無く、それに従った。 ソ連軍との交渉で、高橋曹長の多忙なのは諒解出来たが、 戦死者の御遺骨を高橋曹長のミスから電々に放置したままにした 事の責任は大であった。 早速、ソ連軍にその事を交渉したが、全然相手にして呉れず仕舞ひであった。
先々は、荒木少佐の心証を害し、今また高橋曹長の怒りをかって、 懲罰の意味で憲兵の中で私1人が軍属班に追放された。 自棄を起こした私は、数名の軍属を扇動しては、作業拒否を行ない。 毎日の様に陸軍倉庫に突撃しては、 日本酒、ビール(一面坡には、サッポロビールの 子会社のハルピンビールの工場があった)ので ビールも多量に勝手に持ち出して、飲みまくった。 不思議な事に、倉庫監守の露助歩哨は、日本酒、ビールの持ち出しは黙認した。 それ以外の物にはうるさかった。
憲兵拝命以来、特務情報を綜合するに、日本に不利な情報に間々接しては来たが、 よもや敗戦と言う事は予想だにしていなかった。 それが現実のものとなり、帯刀本分者「武士の魂」とまで言われて居た、 腰の軍刀を含むすべての兵器の武装解除の汚名を浴びるなど、 到底、耐え難いものであった。 「この俺は何の為に歓呼の声に送られて、故郷の駅を勇躍出発したのか。 軍人とは、憲兵とは何であったのか。 日本男児と生れ来て、一度は軍人となって、国家に御奉公することこそ、 男児の名誉であり、本懐也と教えられその様に信じていたのであるが、 等々、想いを巡らせては自問して見たが、 愚鈍な私の頭脳からは明解な自答は引き出せなかった。 その途端、俄かに説明し難い虚脱感に襲われ、何をする気も一度に失せた。 そして、時が経つに従って、自暴自棄にも似た感情に支配される様になった。 否々と否定して見ても、抑制する気持ちは、一向に湧かなかった。 馬糞臭い厩舎に収容されて居乍らも、夜寝床代りの寝藁の上に寝て想い出すのは、 両親、姉、弟妹、恩師 黒崎先生、学友等や4392部隊の同年兵、 教習隊、石頭時代の官、戦友等々の事などが、次から次へと 現れては消え、消えては更に現れたのであった。 その様な回想が、乱れ切った私の心を僅か乍らも、 序々に平静化するのに役立った事は確かな様であった。
停戦ならばまだしも、日本軍が敗戦の上、 更に武装解除される事には、何としてもやり切れぬものがあった。 私は武装解除に先立ち、自分の軍刀を抜き、 独歩営庭の置石に何回も刀を叩き付けては、刃をボロボロにした。 そして、鞘の中に携帯口塩を細かく潰して入れ、再び軍刀としての使用を不能にした。 また、拳銃は分解の上、同様、塩をまぶして発錆を誘い、 銃腔に褌の前垂れの布を引き削いて、此れにも食塩をまぶして固く詰め込んだ。 その上で武装解除の為に、営庭の定められた場所に差出した。 拳銃弾と憲兵徽章、認識票などは、独歩裏を流れて居た、 小川の中程の流れの深みに投げ棄てた。 憲兵腕章、憲兵手牒、私物、日誌などは、独歩炊事場で焼却処分した。 それが私になし得た、武装解除に対する精一杯の悲しい、抵抗であった。
昭和19年3月10日、旭川北部第5部隊(捜索第7聯隊)入隊以来、
満1年5ヶ月15日、帝国軍人としての余りにも短い栄光は、
将に「槿花一朝
追記〜 私の生年月日は、大正11年12月8日であり、 大東亜戦争開戦日は、昭和16年12月8日である。
そして、現役兵として旭川北部第5部隊入営日は、昭和19年3月10日であり、
関東憲兵隊教習隊卒業は、昭和20年3月10日であり、
共に陸軍記念日(明治38年3月10日、日露戦争に際し、
満洲奉天大会戦に於て、
大捷
12月8日、及び、3月10日は、ともに日本にとって、 大きな出来事のあった日であるとともに、 私にとっては、余りにも勇し過ぎた因縁に付き纏われて居た様な、 錯覚がし無い訳では無い。
従軍期間、及び、不名誉極まる虜囚の期間などを通じて、
私が泌々
戦争とは、豊かな人間性を喪失させ、獰猛な野獣性を扶植させる丈である。
他国の内政に干渉したり、進んで他国に武力集団を推し進めたり、
好んで挑戦するが如き、
悪夢の過去の轍
日本は独立国家である。 日本の主権は、日本人自身が断固として守り抜かねばならない。 その為には、自衛力は絶対に必要欠くべからざるものである。 その為の自衛隊である。 この思想は、前記の旧時代、当時の軍隊とは全く異質のものである。 自衛隊をしてかつての軍隊の如き働きをさせてはならない。
因みに、私の日記(昭和56年12月8日付)を引用する。
「春告げば 咲いて給もれよ シベリヤ桜
戦友トモ の御墓ミハカ に 植えしその草」
過労と栄養失調に発疹チブスを併発して、 病の床(丸太を並べその上に、枯草を敷き詰めたもの)に伏した、 戦友が息を引きとる寸前に、 「日本の土を踏んでから死にたい。 頼むから一緒に連れて帰えって呉れ。 シベリヤの白樺の肥料に丈はなり度く無い」、 と蚊の鳴く様な、かすかに聞きとれる、悲しい言葉を残して亡くなりました。 その戦友を葬ってはみたものの、 墓前に供えてやる物は何も有りませんでした。 せめてもの慰めに、 ソ連兵の煙草の吸い殻を拾い集めたものを燻らせて焼香の代りとし、 シベリヤ桜(オオサクラソウ〜一名ミヤマサクラソウ〜高山植物〜 サクラソウ科〜花の容姿がエゾ山桜に相似して可憐〜 私達は勝手にシベリヤ桜と命名していた)を沢山掘り取って、 墓の回りに植え、供花の代りとしたのです。 「今日は戦友の身。明日は我が身」を深く己が胸中に秘めて、 未だその時の命の有った私達は、泣き乍ら瞑目合掌したのです。 来年も春が訪ずれれば忘れずに咲いて、 凍土に眠る戦友の霊を私達に代って慰めて呉れる事でしょう。 敗戦とは、虜囚とはこの様なものでした。 これが天皇の名の下に従軍し、敗軍の兵となり虜囚となって落命した、 者に対する唯一無二の代償であったのです」
以上が日記の全文です。
昭和60年4月29日
中倉 鹿三
記
本書を纏めるに当たり、前記した諸兄姉の御援助があったればこそであるが、 尚、下記の文献を参考とさせて頂いた事も併せて記し、感謝の意を表し度い。
以上